天皇の○○○歌

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち
この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ
われこそは 告らめ 家をも名をも

(こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち
このおかに なつますこ いえきかな なのらさね
そらみつ やまとのくには
おしなべて われこそおれ しきなべて われこそませ
われこそは のらめ いえをもなをも)

『万葉集』巻一の一 雄略天皇御製
(読み方は現代仮名遣いにて表記)

 ど~も~♪ 例によってまたまた余計なことを思いつき、新コンテンツなど作ってしまった管理人でございます。まぁ、TOPで案内人も言っておりますように「所詮大学で日本文学を専攻していただけのフツーのオバサン」がどこまでやれるか、はっきし言って完全五里夢中、一寸先は闇状態なのですが、とりあえず最初は昔卒論のテーマにもした『万葉集』からいってみよーかなー、と。
 何てったって『万葉集』といえば日本最古の歌集ですからして、その巻一の一、すなわち冒頭に収められてる歌つーたらまさしく日本の和歌のトップバッターとも言うべきシロモノ(もっとも、厳密に言えば『万葉集』にはさらに古い時代の歌も入ってたりするけんどもさ)、巻頭・冒頭・トップバッターつながりという点から言っても妥当なセンじゃないかいな~って気もするしぃvv(<いーかげん<笑)
 もちろん、ただ古いだけの歌じゃぁエッセイのネタになんぞなりゃしません。しかしこの歌、上記に述べたような古典中の古典、加えて天皇の御製であるにもかかわらず、結構ツッコミどころも満載でございますのよ、おほほほほっ♪ なので今回はそんなツッコミどころを思う存分つっつきまくり、少しでも皆様にお楽しみいただけるよう頑張りますのでどうぞよろしくお願い致しま~す。

 …なんて言っても、やはり内容がわからんことにはツッコミもへったくれもないというもの、ここはまず簡単に語句の説明なんぞからまいりましょう。どうぞ皆様、原文二行目前半の「菜摘ます児」にご注目下さいませ。言うまでもなく「菜」は菜っ葉の菜、そして「摘ます児」は昔の言葉で「摘んでいるお嬢さん」とか何とかいう意味ですので、早い話がコレ、菜っ葉摘みしてるねいちゃんへ呼びかけてる歌なんですね。で、一行目の「籠」「掘串」は摘んだ菜っ葉を入れると、菜っ葉を掘り起こすためのへら(<現代風に考えりゃスコップだ)、二行目「菜摘ます児」のちょい前にある「岳」は読み方どおりに「おか」のことですから、現代の「山菜採り」みたいなノリでしょうか。
 ただし、当時の人々がこの菜っ葉摘みにかける情熱ときたら、とても現代人のおよぶところではございません。何しろ雄略天皇の御世つーたら5世紀後半、当然のことながら八百屋やスーパーやコンビニどころか冷蔵庫すらない時代だったりしますので、冬ともなれば菜っ葉なんてほとんど食べられなくなっちゃうわけです。それでなくても当時栽培されていた菜っ葉系野菜といえば大根(<葉っぱ)、ニラ、シソ、ワケギその他くらいで、あとはみんな山菜(フキとかセリとかウドとかヨモギとか)だったみたいだし、保存法だってせいぜい漬物にするとか干し菜にするしかなかっただろうしね。
 そんな古代人の皆様方が春を迎えたときの喜びときたらそりゃもう、現代人の数十倍、数百倍規模だったと思われます。野にも山にも草木が芽吹いてきてさぁ、冬の間ずっと食べられなかった野菜があっちゃこっちゃにてんこ盛り状態になるんですもの、そりゃもう目ェ吊り上げて摘みまくりますわな。現代の山菜採り、もしくはイチゴ狩りブドウ狩りキノコ狩りなんかで「せめて交通費と入場料くらいの元は取らなきゃ…!!」なんて必死こいて採りまくるご家族連れの執念もさぞかしとは存じますが、おそらくはそれすら足元にも及ばないんじゃないかと思われ(やめんかコラ>自分)。

 特に新春の若菜摘みは当時においては重大な農耕儀礼でもあったそうです。若菜を摘む若いお嬢さん方を神に仕える巫女とみなし、地霊を慰撫して(もしくはその様子を秋の収穫に重ねて)豊作を祈ったとか、さらには摘まれた菜っ葉を食うことによって邪気を祓ったり春の息吹(=生命力)を身につけたとか言われていますが、中にはそのあと歌垣(若い男女の集団が一緒に野や山に出て互いに歌を詠み合い、想いを伝え合う風習。早い話が古代の合コン<笑)が催されたという説もあったりします。でもってコレは元々そんな歌垣に参加したにーちゃんたちがねいちゃんたちに求愛する歌だったのが、いつしか天皇の御製として伝えられるようになり、そんときついでに原文3・4行目、「そらみつ…」から「われこそ座せ」までが追加されたとかゆー考え方も結構有力。

 しかしながら、今さら1500年以上前の歌の作者が誰なのかなんてこたぁ、正直管理人にとっちゃどーでもいーんですけんどもね。何とゆーても今と比べりゃはるかに大雑把、いえいえ大らかだった万葉時代のこと、菜っ葉摘みのあとの歌垣には天皇だって参加してたかもしんないし、だからこそ「そらみつ…われこそ座せ」なんて、一般庶民のにーちゃんにはとても口にできない高ビーな文句を挿入して「天皇の御製」ってことにしたのかもしんないしさ。
 ただ、どっちにせよこれが求愛=プロポーズの歌であることは確かです。というのも、原文二行目後半で「家聞かな 名告らさね」と、相手の名前を尋ねてるざんしょ? 実はこの頃ってば「名前にはその人の霊魂が宿る」と信じられてましたので、その大事な名前を教えるちゅーのはすなわち自分の魂を相手に預ける=求愛に答える意思表示そのものだったんですね。当然、尋ねる方だってそれ相応の覚悟を決めていたわけで…。現代のにーちゃんたちが遊び相手探してそのへんのねいちゃんたちに手当たり次第声をかけるのとはワケが違うんざますのよ、ワケが。
 さらに下世話…いえいえ現実的な問題として、当時は結婚しても別居が当たり前、男が夜な夜な女の家に通ってきて朝帰るという「通い婚」の時代、よって家と名前さえわかってりゃ、にーちゃんはいつでも好きな夜にねいちゃんを訪ねることができちゃうんですね。

 あとこれは完全に管理人の私見ですが、冒頭に二回ずつ出てくる「籠」「掘串」のどちらも、二度目に出てくるときは頭に「み」がくっついて「み籠」「み掘串」となってるっしょー? 実はこの「み」ってのは美称の一種でして、これがくっついた途端ただの籠や掘串が「ちょーおしゃれな籠」「めちゃカッコイイ掘串」に変身しちゃうんですのよ。そりゃま確かに、大事な農耕儀礼で栄えある巫女さん役やるともなれば、ねいちゃんたちだって張り切って道具選んだだろうし、実際おされでかっちょいい籠だの掘串を持ってたのもまた事実だったんでしょーけど。
 その上日本には昔から「ブタもおだてりゃ木に登る」的発想があったらしく、道具でも土地でも褒めてやればそれだけパワーアップするとこれまた信じられておりましたゆえ、にーちゃんたちも精一杯巫女さんのお道具を褒めて儀礼の成功を祈ったのかもしれませんが。
 女引っかけるときにまずその持ち物褒めるのは、今も昔も男の常套手段だからねぇ…。

 …以上、興味のない方にはまるでどーでもいーことをぐちゃぐちゃだらだら書きたれてまいりましたが、この元ネタは全て学生時代、昼休みの学食で日替わり定食食いながらクラスのみんなと交わした雑談だったり致します。何せ当時管理人がつるんでた連中のほとんどは古代から平安にかけての古典文学を専攻してましたモンで、傍から見ればさぞマニアックで「変なヤツ」の集団だったことでしょう。しかし本人どもは「そんなの関係ねぇ!」とばかりに盛り上がる盛り上がる。でもって、この男女混合専攻雑多万年貧乏傍若無人の悪ガキ集団(<このトシになりゃ大学生なんざまだまだガキよ<笑)が最終的にこの歌へ奉ったニックネームはそのものずばり「天皇のナンパ歌」(大笑)。以来この呼称はどんどん広まり、万葉古事記日本書紀、源氏に古今に枕草子、今昔平家仮名草子のどれを専攻している仲間であってもすぐわかる、ウチのクラス一番の有名歌になってしまったのでした。
 では最後に、そんな青春の思い出にしみじみひたりつつちょっくら意訳などしてみましょう…。

 ヘーイか~のじょっvv
 ほら、そのちょーおしゃれな籠持って、めちゃカッコイイスコップ持って、そこの丘の上で菜っ葉摘んでる君だよ、き・み♪
 ね、どこに住んでんの? 名前は何ていうのかな~。
 いや、自慢するわけじゃないケドこの大和の国は全部俺様が従えちゃってたりするしぃ~、
 全部俺様が支配しちゃってたりするしぃ~。
 え? 俺? うん、言っちゃうよ。
 家だって名前だって何でも君に教えちゃうもんね~vvv

 …わはは♪ ちょっとくだけすぎちゃったかな~。でもね、ナンパ男のノリなんて、今も昔もこんなモンよ、こんなモン。
 ちなみにこの雄略天皇と言うお方については他にも「引田部の赤猪子」という美人の娘さんをナンパして「結婚しないで待っててね、きっと迎えに来るからさ」なんてヌカしたくせに、以後八十年間そのことをケロリンパッパとお忘れあそばしやがって、すっかり老いさらばえた赤猪子が訪ねてきたときやっと思い出してひたすら謝り、お詫びに山のようなプレゼントを贈った…なんて逸話(『古事記 下巻』雄略天皇 引田部の赤猪子の章)も残ってたり致しますので、もしかしたら生来のナンパ師、日本史上稀に見るタラシだったのかもしれません…。