第三章


 少年の名は、セイといった。初めて会ったときにはあんなに冷たく見えたのに、そして今でもどこかよそよそしい、警戒している様子は変わってないのに―チンピラどもに襲われ、傷ついたところを助けられたことによほど感謝しているのか、セレインと交わした約束をあくまでも守ろうとしているのか―一緒に組んで仕事をしてみると、セイは驚くほど素直にセレインの言葉に従った。セレインが見つけてきた仕事に文句を言ったことは一度もない。どんなに怪しげな店であろうと、客という客が何かしら後ろ暗い秘密を持っていそうな奴らであっても、セイは黙ってセレインについてきた。
 もっともセレインとて、セイが嫌がりそうなところはなるべく避けていたのだが。…例えば、『アモール』のような。普通なら誰でも喜んで出演する、この惑星としては超一流の店やホールを避けたがるというのは不思議といえば不思議であったが、セレインは彼女なりに納得できる理由を見つけ出していたので、あまり深く考えることはしなかった。
 『アモール』その他、ある程度の「格」のある場所にはそれにふさわしい客が集まってくる。ラヴォールでも屈指の大富豪―かつての動乱期に抜け目なく立ちまわり、自己の財産をほとんど損なうことなく今日の日を迎えられたほんの一握りの人々―あるいは、地球連邦統治体に対する何らかの功績のおかげで何かしらの地位を与えられた者、そして、ときには統治体の軍人自身が訪れることもある。…この間、セレインが立った舞台のように。
 そんな、いわゆる「上流階級」の人間の目に触れるのが「危ない」というのは、彼自身に何か後ろ暗い秘密があるということだったが、それならセレインとて同じだった。彼女に言わせれば、現在そういった繁栄を思いのままにしている奴らこそ、ラヴォールをここまで荒廃せしめた張本人なのだ。そいつらに敵対する人間なら誰だって自分の仲間。そのことでセレインがセイを疎んじる気持ちはこれっぽっちもありはしなかった。
 しかしその一方で、この少年の美しさやどことなく感じられる品の良さから、まるで正反対のことを考えないでもなかったが。もしかしたら彼は「あちら側」の人間なのかもしれない。何らかの理由で家を飛び出して、下手にもとの知り合いにでも会って、連れ戻されることを恐れているのか、と。
 だが、もうどちらでもよかった。彼女は既にセイと組むことを決めてしまっていたし、いざそうしてみると彼はことのほか頼りになる相棒であった。ピアニストとしては言うに及ばず、あの巨漢揃いのチンピラどもに一歩も引けを取らなかったことでも明らかなように、華奢な外見に似合わない腕っぷしの強さは確かなものだ。あの夜セイに言った通り、今のセレインはかなりの額の金を必要としていたので仕事は報酬の金額を第一に選んだし、そうなるといつかあの店のマスターに咎められたように、胡散臭い、「ろくでもない」店を多く回るようになる。『アモール』のような高級クラブや劇場の報酬というのは案外と大した額ではなかった。自然、かなりの危険がつきまとうが、セイのおかげで以前よりずっと安全に仕事をすることができるようになった。セレインにとって、セイはまさに願ってもない相棒だったのである。

 夕暮れ近く、二人はいつものようにコンパートメントを出た。そろそろ、人通りも多くなっていく頃。がやがやとざわめきながら行き交う人々の間をすり抜けるようにして、街の中心部へと向かう途中、ふと、セイが独り言のようにつぶやいた。
「結構、軍人が多いな…この街で歓迎されてないってこと、知ってるんだろうか」
 小さな声を聞き逃すことなく、セレインが振り向いて、笑う。
「知っていようがいまいが、そんなこと関係ないわ。どんな奴らだって、金を持ってる限りあたし達には大切な『お客様』だもの。それに、『首都』にはこんな盛り場なんてないからね。ちょっと羽根を伸ばそうと思えば、ここに来るしかないのよ。アモールなんか、客の八割がそんな連中だわ。…結局、あいつらがいなければ、あたしたちは生きていけないってことなのよ」
「他に、客になってくれそうな人間はいないの?」
「…街の人間が自分の店以外で飲んだり遊んだりすることはよくあるわ。でもそれは結局、仲間内で金がぐるぐる回っているだけ。本当の利益をもたらしてくれるのはやっぱり…あいつらだけ、ってことになっちゃうのかな」
 セレインはそこで、小さく肩をすくめた。
「もっとも、どっちにも関係ない『堅気』の住んでるところもないわけじゃないわよ。この街のもっとずっと西、『首都』とは反対側にね。スラムがあるの」
「え…」
「いつか、話したでしょ。『首都』には統治体から派遣されたお役人だけじゃなくて、他惑星の企業から来た駐在員とか、統治体に尻尾を振って金儲けに精を出しているラヴォール人が一杯住んでるわ。会社を創ったり、この惑星の資源を売り買いしたりしながらね。そして、スラムにいるのは昔からラヴォールで暮らしてきた頑固者よ。他所者や裏切者のもとで働くのも、同じ場所に住むのも嫌だって、ほとんど自給自足の食うや食わずの生活をしている人たち」
 そう言うセレインの顔は、心なしか切なげで、暗かった。
「彼等は皆、覚えているの。そして、許せないのよ。統治体のやり方を。本当に助けを求めていたときには何もしてくれなかったくせに、一度やってくればもう、ああだこうだと理屈をつけて居座って、とうとうラヴォールをこんなにしてしまった。いろいろな惑星から自分たちの子分を呼び寄せて好き放題やらせているって思ってるわ。旧イルファンク市民―昔はそう呼ばれていた、ラヴォールの本当の首都に住んでいた者の誇りを失っていない、最後の人々はね」
「なら…ここは?」
「ここはちょうど真ん中。どちらの町にも住めない半端者が寄り集まっているところなのよ」
「それって…どういう…」
 セイが言いかけたと同時に、セレインの足が止まった。
「着いたわ。ここが今夜のあたしたちの仕事場。悪いけど、ちょっとの間、黙っててね。仕事が終わるまで」
 そう言われてはセイも黙るしかない。セレインが先に立って幾分乱暴にドアを開けると、ロビーに散らばっていた者たちの目がいっせいに二人に注がれた。
 今夜の仕事はチャリティーコンサートだと聞いていたが、本当かどうかはわかったもんじゃない。街のほぼ中心に位置するこの小さなホールが何という名前だったか、セイは忘れてしまっていた。セレインが教えてくれたような気もするが、どうしても思い出せない。彼女と組んでからいくつも回った店やホールの中でも、ここは小さいながらなかなかこざっぱりと洗練された作りであった。飾りつけ次第で豪華な社交場にもクールな都会のサロンにも早変わりしそうな空間。今夜の雰囲気は、さしずめ「品」と「粋」をねらったとでもいうのだろうか。一歩間違えれば殺風景に見えるほどに抑えた装飾でありながら、飾り棚に活けられた花の一つ、窓を飾るカーテンの一つを取ってみても中々洒落た工夫がしてあって、あれこれごてごてと飾り立てるよりもずっと居心地のいい様子にしつらえられていた。だが、やってくる人間はどうもそれにふさわしいとは思えない。誰もが腹に一物ありそうで、上目遣いに人を見る。
「ここはね、売人たちのたまり場なのよ」
 艶やかな衣装に身を包んだセレインが、舞台に出る直前の沈黙の中でセイにささやいた。
「売人…?」
「何、きょとんとしてんのよ。薬よ、薬。麻薬に決まってんじゃない。…とにかく、お互い気をつけようね。何があるか、わかんないとこだから」
 はっと見上げたときには、セレインはもう舞台中央に向かって早足に歩き出していた。幕が上がり、まばらな拍手が二人を迎える。『アモール』のときと同じように、セイはピアノを舞台の下手の袖ぎりぎりに寄せていたので、客席からはその姿はほとんど見えなかったに違いない。が、彼のほうからは客席の様子が手に取るようにわかった。お上品な聴衆を装いつつ、音楽が始まって照明が暗くなるやいなや、客達はその本性を現し始めている。隣に座った相手と何やらひそひそ話している初老の男。その少し後ろでは美しく着飾った若い女に、誰かがさりげなく小さな包みを渡している。女はお返しに、ハンカチで手元を隠しながら別の何かを差し出した。前に座った二人の話もまずまずの結果に終わったらしく、白髪まじりの男が満面に笑みをたたえて大きくうなづいている。似たような光景があちこちに見えた。確かに、頭のいいやり方。普通の店なら誰でも入れるから、客に混じって警察や統治体の治安維持部隊が紛れ込んでいても見分けるのは難しい。その点、ホールを丸ごと借りきって行うこんなコンサートなら、あらかじめ決まった客だけを招待することができるのだから遥かに安全だ。裏を返せば、今夜の主催者はそれだけ悪賢いとも言える。
 そんなことを、知ってか知らずか。静かな、落ち着いた旋律のバラードを弾きながら、少年は心持ち目を伏せ、しなやかな自分の指が鍵盤を走るのを見つめている。
 そして、セレインは。
 流れ出る音に彼女の声はしっかりと抱きとめられて、時には悩ましく絡み合い、あるいは全く別の音符をなぞりながらつかず離れず寄り添うその安心感に心地よく酔い、セイと初めて会った夜と同じように、音と音との織り成す蜘蛛の糸にも似たはかない綾模様にうっとりと身をゆだねていた。その音が、ふと途切れる。曲の終わり。始まったときとは段違いの大きな拍手が、波のように広がっていく。よこしまな目的で集まってきた聴衆にも、二人の音楽は何らかの感銘を与えたようだった。その拍手が彼女を現実に引き戻した。
「さ、早く帰りましょ」
 幕が下りるのももどかしく、セレインはセイに駆け寄った。セイももう、心得ている。この手の場所では、舞台が終わった後の長居は無用だ。下手に居座っていたら、どんな揉め事に巻き込まれるかわからない。どうせ、ヤバい取引のカム・フラージュに雇われただけ。仕事さえ済めば、さっさと消えてしまうに限る。二人は急いで楽屋に駆け込み、できる限りの速さで着替えに入った。その途中、セレインはつと、化粧鏡の前に置かれた幅三、四センチほどのリストバンド―一見、スポーツ選手が手首に巻くサポーターによく似ている―を取り上げる。赤い唇からもれるいくつかの短い言葉。小さな声。
 二十世紀末に登場したパソコン、そして携帯電話は爆発的な勢いで全世界に普及し、その後も絶え間なく進化し続けた。両者の機能を合体させた新型端末の開発までには五十年とかからず、誕生から五世紀以上を経て、さらなる小型化及び軽量化が極限まで進められた現在の主流は、もっぱらこういったリストバンド型かペンダント型。もちろん、ここまで小さくなるとかつてのキーボードやボタンによる入力方式は使えない。音声によるコマンド入力も、ごく当然のこととなってすでに久しかった。いささか早口の命令を機械は全て正確に聞き取り、セレインが求めた情報を一瞬のうちにその、腕時計の文字盤程度の大きさしかないディスプレイにくっきりと映し出す。
「よし、OK」
今夜のギャラが契約通り自分の口座に振り込まれていることを確認した彼女は、かすかに口元をほころばせ、少年にうなづきかけた。口座の入出金記録の照会など、この端末にとっては児戯にも等しいルーティン・ワーク。
全てを終えた二人は音もなく楽屋を抜け出し、舞台裏の路地からそっと表に出た。最後に残った最も厄介な仕事は、このままおかしな揉め事に巻き込まれたりせず、少しでも早く家に帰ること。息を詰めて、暗い路地に一歩足を踏み出したセレインの肩が、とん、と何かに突き当たった。
 はっと見上げた目が、大きく見開かれた。後ろをかばうようについてきた少年の身体がかすかに硬くなったのも、気配でわかる。
「大丈夫よ。何もしないで」
 声を落としてささやきながら、そのいかつい顔に見覚えがあるのを思い出した。ついさっきまで、あのホールの特等席でふんぞり返っていた男。前にも見たことがある。この街の、結構な顔役。それから…
(気をつけなよ。あいつ、お前さんを狙ってるぜ。モノにする為なら手段は選ばねえとよ。酔っ払って、喚いていたってさ)
 そんなことを聞いたのは誰からだったか。あのときは、軽く聞き流していたのに。
「舞台が終わってすぐトンズラたあ、つれないぜ」
 下卑た笑いを満面に浮かべ、かすれた声でそいつは言った。
「あいにく、ちょっと用事があるので失礼するわ」
 すり抜けようとした腕がぐっとつかまれ、引き戻される。妙にふやけて生暖かい不気味な感触に、セレインは小さな悲鳴を上げた。
「ずっと、待ってたんだぜ。この寒い路地裏でな。…すっかり冷えきっちまった。あんたの身体で、あっためて欲しくてよ…」
 よだれのたれそうな含み声をもらしながら、男はぐい、とセレインを引き寄せた。分厚い唇が頬に触れんばかりに近づいてきて、セレインは激しく身をよじった。
「放せよ」
 白い、細い指がふわりと男を遮った。
「何だあ?」
 セイが静かに、二人の間に割って入っていた。
「言っただろ。僕達はこれからちょっと用事があってね。つきあってはあげられないんだ、悪いけど」
「僕だと?」
 怒りよりもむしろ、妙に気の抜けた素頓狂な調子で男は言い返した。
「お前、男かよ。おりゃまた、えらく綺麗なねえちゃんだと思ってたんだがな。…はー、こりゃ驚いた」
 セイは答えず、かすかに笑った。その手がそっと男の指にかかったかと思うや、鮮やかに逆手を取ってねじり上げる。
「ぎゃっ!」
 今度は男が悲鳴をあげる番だった。セレインの腕が自由になる。セイは素早く彼女を後ろにかばい、男の手を放すと、身構えた。
 いつのまにか、幾つかの黒い影が彼らを取り巻いていた。細い道の出口にも何人かいるのが遠い街灯の明りにぼんやりと見える。
「ゲデルの兄い、どうかしやしたかい」
 言いながら、ひょろりと背の高い影が一つ、近寄ってきた。
「おう、ゴド。どうやらこの別嬪が俺にケチをつける気らしいぜ」
 しかめっ面で腕をさすりながら男は唸った。
「ちょいと、ひねってやれや。俺の目当てはこっちの姐さんだ。小娘にしろ坊やにしろ、こんなガキじゃしょうがねえ。お前らの好きにしてかまわん」
「そりゃまた、ありがたいお言葉で」
 ゴドと呼ばれた男が舌なめずりをしながら近寄ってきた。肉がほとんどついていない身体が、淡い光の中、幽鬼のように揺れている。薄い、色の悪い唇を舌の先がペロリと舐めた。
「こいつは確か、俺とこのチンピラがモノにしようとしてこっぴどくやられた奴だ。…確かに、あいつにゃもったいねえ。ひとつこの俺様が、たっぷりと可愛がってやろうかい」
 もごもごと独り言のようにつぶやく声も、地獄の亡者の呻きに似ていた。
「…ゆっくりと。壁にそって。少しずつあっちの方へ移動して」
 低いささやきとともに、セイが表通りの方へ向かってわずかに顎をしゃくってみせた途端!
 シャッ!と空間を切り裂くような音がして、黒く長い何かが繰り出されてきた。セイはぱっと飛びすさり、そのままセレインを抱えて横に転がる。
「ムチか!」
 転がった勢いを利用してセイは素早く身を起こしたが、片膝はまだ地につけたままだ。
 もう一方の足は真っ直ぐに横にのび、片方の腕もセレインをかばって一杯にのばされている。やや遅れて起き上がったセレインの手がそれに触れると、そのままじりじりと立ちあがっていく。その腕を頼りに、セレインも同じように体勢を立て直そうとする。二度目のムチが、今度は足元に襲いかかってきた。
「走れ!」
 路地の出口までの短い距離。しかし、走りきるまでの時間はあまりにも長い。ビュッと風を切る音が追ってきた…と思うや、先を走るセイの足が瞬時に止まり、追い越したセレインを抱き止めて二人の位置を入れ替える。
 鈍い音。セイの身体が弓なりに反り返った。
「痛かったかい?」
 陰気な笑いを浮かべ、ゴドがゆっくりと近づいてきた。その後ろから、ゲデルののっそりとした巨体が続く。彼らに向き直ったセイの背中が、ジーンズのジャンパーとその下のシャツごと斜めに裂け、血が滲んでいるのをセレインは見た。
「こいつは美少年が好きでなあ。おまけにサディストだ。最後の血の一滴まで絞り出されるぜ。…そのムチでな」
 もう、出口はすぐそこだ。が、奴らの手下がしっかりと固めている。悔しげにその唇を噛んだセイの、少女のような横顔がわずかに届く遠い街の灯に蒼白く浮かび上がった。
「そら!」
 ムチが唸り、一本の棒のようにセイの腹を直撃した。が、かすかな呻きをもらしながら、少年はセレインをかばったまま動かない。ゴドの、ひきつったような笑い声。骨ばった腕が振り回される度に、ムチが少年の華奢な身体を打ちのめす。
(ああ!)
 セレインは、目を覆った。もし、ここに銃があれば…せめて、ナイフの一本が。そうすれば、彼女とて決してこんな奴らに引けは取らない。だが、全くの丸腰の今、彼女はただの足手まといに過ぎなかった。
 ゆら、とセイの足がよろめいた。慌てて抱きかかえるセレインの前で、二人の男がにんまりと目を見交わす。
(だめだ…もう!)
 絶望のあまり顔を背けた一瞬、セレインの目に映ったのは。
(え…?)
 少年の、不敵な笑み。
 思わず視線を戻し、まじまじと見つめたその顔は確かに笑っている。そして、苦しげにセレインにしがみつくかに見せて密かに取り出した何か。それを見極める間もなく、ゴドの手がセイの肩をつかみ、ぐい、とセレインから引き離した。
「ギャアアアアアッ…」
 凄まじい悲鳴がそこにいた者全ての鼓膜をつん裂いた。勝ち誇り、残忍な悦びに口元を歪ませていたはずの男が両の手で顔を覆い、転げ回っている。その指の隙間から突き出ている、銀の光。
セレインまでもがあっけにとられて動くことを忘れていた隙に、セイは猫のような敏捷さで立ち上がっていた。
「走り抜けるぞ!」
 強く手首を引っ張られて、セレインは我に返った。そのときにはもう、行く手にたちふさがっていた何人かがボスと同じように転げ回っている。
「早く! ナイフの数はぎりぎりなんだ!」
 叫びながらも少年の手から何本かの銀の刃が飛ぶ。セレインは、全てを悟った。
「あたしにも、一本貸して!」
 ちら、と怪訝そうな紫の目が振り返る。が、次にはもう細いナイフの柄がセレインの手にすべりこんでいた。それをさっと逆手に持ち変え、自分の側にいた敵の何人かを鮮やかに切り裂く。既に、残っているのは数人に過ぎなかった。そいつらはあっという間に仲間のほとんどを倒されたことに呆然と立ちすくみ、進んで向かってこようともしない。セイの体当たりがそれを突き飛ばし、二人はあと、ただ走り続けた。
 街の灯りが遠くなり、道路にも人影が消える。そのときになって二人は転がるようにその場にへたりこんだ。そのまましばらくは声も出せず、咳きこみながら肩で息をしているのが精一杯。
「助かった…」
 ようやくセレインがつぶやいた。
「ありがとう…あんたのおかげだわ」
 ふらつきながらも立ち上がった少年が傍らの廃ビルの壁にもたれているのを見上げ、セレインは言った。
「…こっちこそ。あんたがあんなにナイフを使えるんなら、最初から渡しておくんだった」
「傷…大丈夫?」
「何とかね」
 セイの服はあちこちが大きく破れ、滲んだ血がしみを作っていた。肌そのものにも赤黒いみみず腫れが縦横に走っているのがちらりとのぞく。
「あいつらがばかにしていてくれたおかげで助かった。…もうちょっとやられてたら、もたなかったかもしれない」
「何で、最初からナイフを使わなかったの」
 問いかけながらセイの腕を肩に回して支えてやる。そっと、気をつけてはいても、少年はときおり、痛みに眉をひそめていた。
「…言ったろ。数が、足りなかった。できるだけ逃げる距離を少なくしてあいつらが油断するまで待たなきゃ、途中で使いきっちまってたさ。…出口の方にもかなりいたからね」
 セレインは、黙ってうなづく。
「…歩ける? ここはどうやらあたしの知ってる店の近くだわ。少し休んで、手当てしていきましょう」

「…また、随分とやられたもんだな」
 服を脱いで、並べた椅子の上に横たわったセイの身体を調べるマスターの鋭い舌打ちの音が響いた。傍らではセレインが、薬箱を手に心配そうに座っている。
「骨をやられてないのが不幸中の幸いってもんだ。…ちょっとしみるぞ」
 棚から取り出した酒をガーゼに浸し、マスターの指が傷口を丹念に拭いていく。
「ここが一番酷いな。肉まで裂けちまってら」
 左の鎖骨から胸にかけてはただ拭き取るだけでなく、口に含んだ酒をぷっと吹きつける。そのときだけ、セイは身体をぴくりと震わせ、微かに喘いだ。
「よし、こんなもんだろ。一日二日は動くんじゃねえぞ」
 そしてセレインに小さな薬包を渡し、マスターは立ち上がった。
「今夜あたり熱が出るかも知れん。そしたら、これ飲ませとけ。化膿止めもありゃいいんだが…あいにく切れてる。大丈夫とは、思うがな」
 薬箱をカウンターの横の物入れにしまい、マスターはウオツカの瓶を持って戻ってきた。
「気つけだよ。飲みな」
 上体を起こしてやり、一口含ませる。蒼白い顔にほんのりと紅みがさしてきたのを見てマスターは軽くうなづき、セイの服と自分の上着をかけてやった。
「さて、と。…坊やはこれでいい。帰るまで、そっとしといてやるんだな」
 マスターに背を軽く叩かれ、セレインはカウンターに移った。ウオツカの水割りが、今度は彼女の前に置かれる。
「欲しくないわ」
「薬だと思って飲んどけ。お前さんも、大分参っているようだぜ」
 セレインは無言でグラスを取り、一気にのどまで流し込んだ。大きなため息と同時に、空になったグラスが戻される。
「あたしの所為だわ」
「そんなこたないさ」
「あんなところで、歌わなければよかったのよ。そうすれば、あんな奴に待ち伏せされることもなかった…」
「奴がお前にご執心だったのはあのあたりじゃ有名だぜ。あそこに行かなくても、いつか何かはやらかしたはずだ」
「でも、それならあの子を巻き込むことはなかったかもしれないじゃない。莫迦だわ、あたし…」
 頭を抱え、黙り込んでしまったセレインの向こう、マスターがグラスを洗う音だけが響いている。やがて仕事も終わったと見え、マスターはカウンターを出てセレインの隣に腰を下ろした。
「今日のところは何も考えない方がいい。帰って、ぐっすり寝ちまいな。坊やだって明日になりゃ大分よくなるだろう。そしたらお前の気分もずっと、楽になる」
「ん…」
「なあ、セレイン」
「何?」
「今夜、お前が俺を頼ってきてくれたの、嬉しかったぜ」

 帰り道、マスターはセイを背負い、セレインのコンパートメントまで送ってきてくれた。セイが使っているソファーベッドにその身体を下ろし、最後にもう一度その包帯を確かめる。
「ありがとう」
 セイの声は小さかったが、言葉ははっきりしていた。
「いいってことよ。…お前も、大したガキだぜ」
 そのまま帰りかけようとして、ふと振り返る。
「セレイン。これから仕事の方どうすんだ? ゲデルとやりあったんなら、当分あの界隈じゃ歌えねえぜ」
「『アモール』の支配人に当たってみるわ、あたしはね。でも、そのときは一人ね。この子、あそこじゃ演りたがらないから」
「ま、しばらくはピアノも弾けないか。…ただ、もし坊やがまた弾きたいって言ったら『メトセラ』へ行かせな。あそこを仕切っているのはランヴィルだ。筋の通った男だし、ゲデルのやり方を嫌ってる。そのかわり…」
「わかってるわ。行くとしたらあの子だけ。あたしは顔を出さないし、あんたから聞いたってことも黙ってるように言っとく」
「それがいい」
 小さく手を振り、帰っていくマスターを見送りに出たセレインが部屋へ戻ってみると、セイは眠っていた。規則正しい寝息にセレインの気も少し楽になり、彼女もまたすぐに自分のベッドにもぐりこんだ。

 アラームの音にセレインは目を覚ました。眠ってからまだ二時間と経っていなかったが、セイが熱を出すかもしれないというマスターの言葉が気になって、夜中様子を見てやろうと仕掛けておいたのだ。夜中といってももう明け方近い。が、まだ空は暗かった。ラヴォールでは一年を通して日の出が遅い。セレインはガウンをはおると、足音をしのばせてリビングルームに入っていった。
 暗がりにすかしてみた限りでは、特に変わったことはないようだった。セレインはちょっと迷ったが、やがてテーブル脇の小さなシェードランプを点けてみる。ぼんやりと、褐色がかった灯りが室内を照らし出す。セイの眠っているソファーベッドに目を向けた瞬間、セレインの顔色が変わった。
 さっきかけてやった毛布はそのまま、寝乱れた跡もない。そして今も、寝返り一つせず少年は横たわっている。しかし―
 蒼白になった顔が、苦しげに歪んでいた。汗の粒が額に浮き出し、唇が何かを言いたそうに力なく開かれる。首すじには汗に濡れた髪が、まるで少年を絞め殺そうとするかのように絡みついていた。
「セイ! セイッ!」
 慌てて駆け寄り、揺さぶった。蒼いまぶたがうっすらと開く。
「セレ…イン?」
「よかった…目を覚ましてくれて」
 ベッドの傍らに膝をつき、セイの額に手を当ててみると、ひんやりと冷たい。
「熱が出たわけじゃなさそうね…でも、すごく苦しそうだったのよ、あんた…傷が、痛むの?」
「いや、そんなわけじゃないんだけど…ちょっと、夢を見たもんだから」
「夢?」
「昔のね」
 そう言って、少年はまぶたを閉じた。そのまま、呼吸を整えながら毛布から片手を出して、額の汗を拭う。その手を、セレインの手がそっと包みこんだ。
「あんまり、いい夢じゃなかったみたいね。…いいわ。あんたが寝つくまで、こうして手を握っててあげる」
 驚いたように、セイの目が開く。
「何、びっくりしてるのよ。…さ、もう一度おやすみなさい。今度はきっと、悪い夢なんか見ないから」
 微笑んだセレインに、はにかんだような笑みが返ってきた。初めて見る、年頃そのままの素直な表情。やがて少年は静かに目を閉じ、いくらもたたないうちに穏やかな寝息をたてはじめた。
(…そういえばこの子、あたしより一回り近く、年下なんだ)
 セレインは微笑んだまま、セイを起こさないよう気をつけながら、握っていた手を毛布の中に入れてやった。
「眠ったこの子は愛しい、愛しい…起きているときゃ、小憎らしい」
 昔、そんな子守唄を聞いたような気がする。今度こそ、セレインも安心して眠れそうだった。




前頁へ   次頁へ   オリジナルトップに戻る   玉櫛笥に戻る