何日君再来 1


 朝の教室は、どこの学校でもうるさいものである。ましてそれが女子校ともなれば、そのやかましさは立派な騒音公害といえよう。
 ここ、私立秀桜学園高等部二年A組もまた、箸が転んでもおかしい年頃の少女たちのお喋りや歓声、そして笑い声で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
 そんな中。
「…ねぇ、今何時?」
「八時十四分七秒。…そろそろだろ」
 教室の窓側後方に机を並べる二人の少女がささやきかわし、どちらからともなく窓の方に目をやった途端。
 ひょいと窓の外に現れた紺色の塊。彼女たちと同じ、ジャンパースカートにブレザーという制服に身を包んだもう一人の少女が、必死の形相で窓ガラスを叩く。
「瞳子! 煕子! 早く窓開けてっ! 予鈴、鳴っちゃうよおおおっ!」
 やれやれ、と肩をすくめて立ち上がった片方が窓を開けてやるやいなや、おそらく彼女たちの腰あたりの高さであろう窓枠をひらりと飛び越え、教室に飛び込んできたのは艶やかな黒髪を肩のあたりで切りそろえた、日本人形を思わせる中々の美少女であった。そして彼女がとん、と床に降り立ったと同時に鳴り渡った予鈴の音。
「…八時十五分ジャスト。いつもながら時間には正確だね、聖。ただ、それがあと五分早かったら言うことないんだけど」
「何よ瞳子。それ嫌味? ま、でもいーや、間に合ったんだから。いつもながらのご協力、感謝!」
 わざとしかめっ面を作った松宮瞳子(まつみや とうこ)を片手で拝みつつ、ぺろりと舌を出したのは藤蔭聖(ふじかげ ひじり)。そして―。
「わお! 聖、おはよっ! 待ってましたぁっ」
「ひえっ!」
 いきなり背後から聖に飛びつき、ブラウスの後ろ衿元に両手を突っ込んだのは後三条煕子(ごさんじょう ひろこ)。高等部一年からの仲良し三人組である。
「ちょっと煕子っ! いきなりそんな冷たい手突っ込んだりしないでよっ。心臓麻痺で死んだらどうしてくれんの!」
「聖はいーのよ、頑丈だから。それよりこっちの方が重症。も、寒くて寒くて指がちりちり痛いんだもん。冷え性には辛い季節なんよ、これからは。…ああ、天国」
 うっとりと自分に抱きついて暖を取る煕子を、聖が乱暴に突き放す。
「いくら冷え性だからってね、何であんた、そう毎日毎日あたしに抱きついてあったまろうとするんだよ!? 寒けりゃ使い捨てカイロでも何でも使えばいーだろがっ」
「使い捨てカイロなんか温度調節できないじゃん。最初はやたらと熱くなるばっかりでさ。あんなもんいつまでも握りしめてたら低温火傷しちゃうわよ」
「だったらくるめよ! ハンカチででもタオルででもっ!」
「やだ。めんどくさい」
 しれっとして言い放たれ、聖がぐっと言葉に詰まったとき。
「ほーれ、いつまで騒いでるんだぁ? ホームルーム始めるぞ。みんな、席につけいっ」
 クラスの担任、中村公治(なかむら きみはる)教諭が出席簿片手にのっそりと教室に入ってきた。年の頃は四十二、三、もういい加減「オジサン」な上にもそもそとぶっきらぼうな先生ではあるが、何故かクラスの少女たちには絶大なる人気を誇っている。
 もっとも、特別なことがない限りホームルームの時間などほんのわずかなひとときで。ぐるりと教室を見回し、欠席者がないことを確認した中村教諭は一人うなづいて出席簿を閉じる。
「あー、生徒会やクラス委員からの連絡事項はあるか? …ふむ、なければこれで終わり!」
「起立! 礼!」
 この学校の挨拶は、「おはようございます」でも「さようなら」でもない。登校時から下校時まで、いつでも「ごきげんよう」だ。それが、伝統なのである。
 クラス委員の号令の下、一斉に礼をする生徒たちに自分もぼそりと「ごきげんよう」とつぶやきながら、中村教諭は教壇を降りた。
 しかし、最後に。
「おい藤蔭! 毎度のことながら、一時間目が始まるまでにその革靴、上履きに履き替えておけよ!」
 しっかりとこう注意するのを忘れないのはさすが担任。もちろん、残された生徒たちは大爆笑である。
「あーあ。毎朝毎朝、キミちゃんよく見てやんの。それもあんなあからさまに言うなってんだよ、全く」
 口を尖らせてぼやく聖の背中を、瞳子がぽん、と叩く。
「それでも遅刻にならないだけマシだと思いな。…ったくあんた、一年のときはどうやって…いや、三年になったらどうする気なんだよ。とにかく、早く履き替えといで。一時間目は英語の川井クンじゃん。あのセンセ、いつも来るの早いんだから」
「へーい」
 瞳子に軽く手を振り、聖は教室の外へ出た。
 秀桜学園は創立百十余年の伝統を誇る中高一貫教育の私立女子校である。俗に言う「お嬢様学校」、「名門校」として世間の評価も高いが、ただ一つ困るのはその長い歴史の中で何度も増改築を繰り返してきた所為か、校舎の構造がかなり複雑だということ。一応中等部校舎と高等部校舎には分かれているものの、何故か高等部一年の教室は中等部校舎の最上階、四階にあり(おかげで去年は聖も瞳子も煕子も毎日の階段の昇り降りにえらい苦労をしたものだ)、高等部二年はAからFまでの六クラスのうちABCが高等部校舎の一階、DEFが二階に教室を持っている。おまけに高等部三年は同じく三クラスずつ二階と三階に分かれているとくれば、もう何が何だかわからない。
(こりゃ絶対建築時の設計ミスだよなー…)
 ぼやいたものの、聖自身はそのおかげでかなり助かっているはず。というのもこの学校、正門も裏門もみんな中等部校舎寄りに位置しているので、校内に入ってから高等部校舎までの距離がかなり長いのだ。ただあともう二箇所、中・高等部それぞれに設けられているささやかな通用口を使えばまだ早いが、それでも昇降口にたどり着くには高等部校舎をぐるりと回りこまなくてはならない。その途中、瞳子や煕子に窓を開けてもらって直接教室に滑り込むというズルができるのもひとえに教室が一階にあるおかげ。もしこれがDEFの「二階組」だったりしたら、聖は一学期終了のはるか以前に、秀桜学園の連続遅刻記録を更新する羽目になっていただろう。
 さっき瞳子にも言われたが、これが三年になったらどうなることやら。普通ならそうなる前になるべく遅刻をしないよう努力の一つもするのが「お嬢様」たる者の正しい姿なのだろうけれども。
(三年になってからのことなんて、そん時考えりゃいーもんね)
 こんなふうにこっそりうそぶくところを見ると、この藤蔭聖という少女、「お嬢様」からははるかにかけ離れた性格をしているようである。
 下駄箱は各クラス五十音順の出席番号ごとに割り当てられており、聖のそれは下から二段目の一番右の端になっていた。よいしょ、と屈みこんで上履きを取り出し、履き替えた革靴をしまおうとした聖だったが…。
「うわっ!」
 突然の衝撃とともに背中がずしりと重くなる。はっとして振り返れば、またしても煕子。先ほど抱きついただけでは飽き足りず、今度はいきなり、聖の背中に飛び乗ってきたのだ。
「さっきあったまりそびれちゃったからねぇ。あー、やっぱ聖が一番いいや。温度調節の必要なくて、いつも人肌、人間カイロ」
「生きてんだから人肌じゃなかったら困るだろっ! 大体、何であんたいつもあたしばっか人間カイロ扱いするわけ? 抱きつくんなら瞳子だっているでしょーがっ」
「だって瞳子は背が高すぎるんだもん。あたしみたいなチビには衿元にだって手が届かない」
 それはちょっと大袈裟だが、一理ある。身長172センチの瞳子に対して煕子は153センチと小柄、確かに飛びつくのは大変そうだが…。
「聖くらいの大きさが一番いいのよ。衿元に手ぇ突っ込むのも背中に飛び乗るのも」
 ちなみに聖の身長は160センチちょうどだったりする。だが、身長一つで毎日人間カイロ扱いされる方はたまったものではない。
「だったら他に飛びつく相手探せっつーの! あんたなら、喜んで飛びつかせてくれる下級生だって掃いて捨てるほどいるじゃんよ!」
「あたし、聖ほどの女タラシじゃない」
「あたしだって、瞳子にゃ負けるよっ…じゃなかった、誰が女タラシだって?」
「瞳子と聖」
「てめこの…っ! 自分のこと棚に上げてっ」
 男女共学校では思いもよらないことだが、女子校というのはそのものずばりの「女の園」。格好いい、あるいは美しい上級生に下級生が憧れることなど日常茶飯事、時には女同士の三角関係や深刻な痴話喧嘩なども起こりうる、ある意味面妖な異次元空間なのである。どうやら、聖も煕子も瞳子もかなりの崇拝者を持っているらしい。が―。
 話題がいささか妙な方向に転んだとも気づかず、ぎゃあぎゃあやかましく言い争う二人の脇を、白衣をはおった別のクラスの生徒たちが、物理実験室に向かってぞろぞろと通り過ぎて行った。
 そして―。
「あら、朝早くから『外法使い』が随分と下品に喚きたててるのね」
 そのうちの一人がつと立ち止まり、いかにも莫迦にしたような台詞とともにふん、と鼻を鳴らした。聖と煕子の目が点になり、さすがの言い争いもぴたりと止まる。
「しかも、後三条の姫君ともあろうお方までご一緒なんて。…こんな得体の知れない『外法使い』と一緒になって騒いだりしたら、お家の名誉に傷がつきますよ。お気をつけあそばせ」
 言うだけ言って、声の主はさっさと実験室の方に行ってしまった。あとに残された聖と煕子は今だ目を点にしたまま、その後姿を見送るばかりである。
「…ねぇ。『後三条の姫君』って、もしかしてあたしのことかな?」
 ぽかんと口を開けていた煕子が、我に返ったようにつぶやく。
「文脈からいえば…そーだろーねぇ…。それにあたし、うちの学年で『後三条』って苗字の子、あんた以外に知らないんですけど」
「じゃ、『得体の知れない外法使い』ってのは聖のことー!? それって随分な言い草じゃん! 何気取ってんだよ、偉そーにっ!」
 たちまち顔を真っ赤にしてまくしたてる煕子に、聖の冷めた声が飛ぶ。
「いや、それはちょいと置いといてさ…ねぇ、あんたいつまであたしの背中に乗っかってるつもり?」
 


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