何日君再来 10


「校長先生…」
 呆然とつぶやいた初音の声は、佐田校長の耳には届かなかったようであった。
「私も…迂闊でした。古い昔の制服姿の幽霊だというから、てっきり在学中に病か不慮の事故で亡くなられた方だとばかり思い込んで。まさか、頼豪寺の万里子様とは…あの方も確かに若くして亡くなられましたが、それはこの学校を卒業してからずっと後のこと。…ああ、でも…あの方の御霊ならば今ここに現れても何の不思議もない…いえむしろ、あの方の居場所はもうここにしかないはず…。どうして私はそれに気づかなかったのでしょう。あの方のことを露ほども思い出さなかったなんて…何て恩知らずな…冷たい教師だったのでしょう…」
 代々の校長が使ってきた、大きくて豪華ではあるがかなり古びて傷だらけになってしまった机に両肘をつき、きちんと結い上げた白髪頭を両手で抱え込んでぶつぶつとつぶやくその姿は、わずかな時間に一回りも二回りも小さくなってしまったように見えた。だが、初音もこのまま引き下がるわけには行かない。
「校長先生!」
 先よりはややきつくなった口調に、ようやく佐田校長が視線を上げてくれた。
「…あ、ああ…。申し訳ありません、安部先生。…こちらから無理にお願いしておきながら今になってお断りするなど、到底許される筋合いではないことも、貴女や聖さんに対してどんなに無礼なことであるかも重々承知しております。お鎮さん…いえ、お母様にも即刻お詫びに伺いますから、どうか…どうかお許しあそばして。お願いですから、これ以上聖さんを、万里子様には近づけないで…」
「そんなことおっしゃらないで下さい! 私は…私は決して、先生に謝っていただきたいわけではございません!」
 気がつけば、さらにきつく―激しくなってしまった声。いかに生徒指導部長とはいえ、一介の教師が学校の主、校長に対して許される物言いではない。だが初音はそれでもあえて言いつのる。
「私ども藤蔭一族がこれまで数知れぬ霊を鎮め、理不尽な祟りや障りに苦しむ方々のために全力を尽くして参りましたのは、決して地位や名誉が目的だったからではございません。生者も死者も、人であるなしすらも関係なく、山川草木鳥獣虫魚、全てが心安らかに過ごせるようにと、その一心でここまでやってきたのです。あらゆる魂が穏やかに鎮まりまし、私どもなど不要な世がくること―それこそが、藤蔭一族代々の悲願でございます! ですから今回のことも、こちらが何か手を打つ以前に校内の騒ぎが治まり、幽霊―その、万里子様という方が静かな眠りを取り戻せたのなら私どもにとっても何よりのこと、先生が筋違いだの無礼だのとお心を痛められる必要などどこにもございません!」
 そこで大きく息を吸い込んだ初音。その唇が、かすかに震えている。だが一方の佐田校長は何も言わず―ただひたすら頭を下げて、初音の言葉を聞いているばかりであった。
「ですが先生、この幽霊騒ぎはまだ、ちっとも治まってはいないではありませんか! 登校拒否になっている中学生たちの数も増える一方…昨日、新たに二人の生徒が『学校に行くのが怖い』と欠席したという報告も受けております。なのに…なのに何故先生は、聖に手を引けとおっしゃるんですか? …恥ずかしながら、私も妹の御法も藤蔭の能力などかけらも持っておりません。今回の事件を治めるには、あの子―聖に頼るしかないのです! なのに…なのに、どうして…」
「初音さん…」
 いつしか半分泣き顔になった初音に佐田校長が呼びかけた言葉は、はるか昔の―まだ二人が教師と生徒だった頃のもの。この学校を卒業し、同じ教師となってからは一度も聞けなかった懐かしい呼びかけに、初音が大きく目を見開く。
「峰子…先生…」
 返した言葉はやはりあの頃のもの。…そう。かつて制服を着ていた頃の初音が、そしてクラスメイトたちが、親しみと愛情を込めて恩師に呼びかけていた、懐かしい呼び名。
 佐田校長が、そんな初音にゆっくりとうなづきかけた。
「そう…ですわね。何も事情をお話しないでただ手を引けなどと―そちらの方がずっと無礼だということを、私は失念しておりました。…ごめんなさいね。私、今でも貴女のことを、可愛らしい大切な生徒としてしか思っていなかったのかもしれません。でも、それは間違いだったのですね。貴女は今や立派なこの学校の生徒指導部長なのですもの。貴女にだけは、全てお話ししておかなくてはいけないことでした」
 そう言って席を立ち、ぐるりと机を回って初音の正面に姿勢を正した佐田校長は。
「…少し、長い話になります。さ、どうぞそちらへおかけあそばして」
 皺深い、しかしそれでもぽっちゃりと美しい白い手で、静かに傍らの応接セットを指し示したのであった。

「頼豪寺万里子様は、私がこの秀桜学園に奉職して初めて受け持った生徒さんのうちのお一人でした…」
 応接セットのソファに向かい合って腰を下ろし、真正面から初音を見据えた佐田校長がゆっくりと口を開く。
「ご存知かもしれませんが、私は決して初めから教師を目指していたわけではございません。あの当時の娘たちのほとんどがそうだったように、女学校を卒業したらすぐさま親の決めた方のもとに嫁ぎ、子供を生んで―よき妻、賢き母として穏やかに暮らすのが当たり前と信じ―事実、その通りの道を歩んだのです。ですが…」
 小さなため息。
「私の道は途中で行き止まりになっておりました。嫁いでわずか一年足らずで夫は病に倒れ…その後三年間の看病も空しく、そのまま逝ってしまいました。子供もいないまま、実家に戻されて鬱々と垂れ込めていたとき、先の校長先生からお声をかけて頂いたのです。『書道教師として学校に戻ってきませんか』と。ふふ…確かに私の取り柄といえば書道しかございませんでしたからねぇ…。そしていつしかまた懐かしい母校に帰り、おこがましくも教壇に立ち―そのうちこの仕事に心からのやり甲斐を感じて師範学校にも入りなおし、書道だけではない、正式な国語教師のお免状も頂いて―」
 遠い思い出をなぞっていた佐田校長の瞳が、ふと現実に帰る。
「あ…あ、すみません。私の話ではないのでしたね。ですがとにかくそういう事情でしたので、私が教師の道を歩みだしたのは当時の他の先生方に比べてかなり遅くなってからだったのです。実家でただぼんやりと過ごしていた日々とはまるで違う、楽しくてはりのある毎日でございました。…ですがその反面、あの頃としてはすでにいい年、そのくせ経験などまるでない私にとって、偉そうに生徒さんにものを教えるなど、大層不安で心細いことでもあったのです。なのに皆様はそんな私でも「先生、先生」と素直に慕ってくれて…。特にその、万里子様は…慣れない私をいつでも気遣い、優しくして下さって、『先生のお授業、私は大好きです』とことあるごとに言って下さいました。私はあの方のお言葉にどれだけ救われたかわかりません。親が子供に育てられるのと同様、教師もまた生徒によって育ててもらうのだということを、私はあの方に教えていただいたのです」
 一瞬、老校長の声が詰まる。
「ですが私は知らなかった! どうしてあの方があんなにも…あの時代の娘とはいえ…あんなにも細やかに他人を気遣い、ひたすら優しくおおらかにその全てを受け止めることができたのかという、その理由を! そして、それを知った時にはもうあの方は卒業してしまわれたあとで…残された私はただ、手を合わせ―あの方に感謝するしかございませんでした」
 いつしか佐田校長の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「…あの方は、孤独を知っていたひと。たった一人、誰にも頼れぬ心細さをどんな人間よりも痛切に感じ、だからこそ自分以外の人間にはそんな思いをさせまいと必死になっていたひと。その原因は全てあの方の生い立ちにあるのです。初音さん…聞いて、下さいますか?」
 初音がそこで、大きくうなづいたことは言うまでもない。

「頼豪寺家は当時の華族―伯爵家でございました。ですが万里子様は、そこの本当のお子様ではございません。まだ物心つかぬ乳飲み子の頃に、伯爵ご夫妻の養女に入られた方だったのです…」
 いささか衝撃的な事実に始まった佐田校長の昔語り。一瞬息を呑んだものの、初音はすぐさま気を取り直し、好奇に目を輝かせながら一心に耳を傾ける。
 だが―。
 話が進むにつれて、瞳の中の好奇の光は暗鬱な翳に変わり―痛ましげに眉を寄せたその顔さえも、ゆっくりとうつむいていく。
 佐田校長にとっても、最後までその話を語り続けるにはかなりの精神力を要したに違いない。上品な老教師の静かな声は、時として涙にかすれ、嗚咽に途切れ、懸命に耳を澄ましても聞き取れぬほどか細くなり―。
 それでも、とにかく佐田校長は全てを語り終えた。だが、それに返す言葉を初音は見つけられない。そう、こんな話を―おそらくは一生、誰にも語りたくなかったであろう話をあえて話してくれたかつての恩師、そして現在の上司に対する感謝の言葉すら、何も―。
 そんな初音に、佐田校長はいたわるような視線を向けて。
「万里子様の一生はね…身体の中に流れる産みの親の血と、自分を慈しみ、大切に守ってくれた育ての親への思いとの板ばさみになり続けた、哀しい日々でございました。もちろんそれは、決して万里子様ご自身の所為ではありません。ですが、私が聖さんと万里子様をこれ以上近づけたくない理由は、まさにそこにあるのです」
 老教師の小さな手が、そっと初音の髪をなでる。
「…私は貴女のお母様の同級生…ですから貴女や御法さん、そして聖さんが私の教え子になる前、いえ、生まれる前からずっと、貴女のおうちとは親しくおつき合いさせていただきました。当然、藤蔭家の歴史やその除霊作法、そして聖さんの生い立ちについてもかなり詳しく存じているつもりでおります。藤蔭の『能力者』にとって、除霊の基本はあくまでも共感と同調―さ迷える霊と自分の心を重ね、ともに泣き、ともに悲しみつつその浄化を願う供養の心でございましたね。ですが聖さん…あの子もまた、産みの親と育ての親の間で長い間苦しんできたお嬢様なのではありませんか? そんな聖さんが、万里子様の霊を鎮めようとすれば、当然その生涯を、そしてその悲しみや悩みをあの方と共有することになる…」
 途切れた言葉。きつく、噛みしめられた唇。
「確かに聖さんは年齢以上にしっかりしたお嬢様です。ですが何といってもまだ、十七歳の高校生なのですよ! 私ども大人が忘れてしまった心の柔らかさ、有り余るほど豊かな感受性を充分に残している小さな花のつぼみです。そんな方がもし、万里子様の思いの全てを知り、その魂に自分のそれを重ねようとしたら―」
 たまりかねたように佐田校長は激しく首を振った。
「自分自身と万里子様、二人分の心の重荷をたった一人で背負い込むことになってしまいます。そんなこと、思春期の繊細な感性を持つ少女に耐えられるはずがございません! 壊れてしまう…。そうなったらきっと、聖さんは壊れてしまう。…もちろん、万里子様も聖さん同様私にとっては大切な教え子の一人です。できることなら、今すぐにでも抱きしめて差し上げたい…あの方の魂を慰め、静かに、安らかに眠らせて差し上げるためなら、私はたとえこの命さえ、惜しむものではございません! …ですが、このことだけは別です。かつての教え子の魂を救うため、現在の教え子の心が壊れてしまうのを黙って見過ごすことだけはできません! 絶対に…できません!」
 身を切るような絶叫にもまだ、初音は応えない。黙り込んだまま、ただひたすらうつむいているばかりである。佐田校長が、先ほどと同じ目でもう一度、初音を見た。
「でも、これでわかっていただけたでしょう? 安部先生。できるだけ早く聖さんを説き伏せて、この件からは一切の手を引かせて下さい。お願い致します」
 そのまま立ち上がり、くるりと背中を向けた佐田校長。
 だが。
 濃紺の紬に包まれたその小さな背中に、きっぱりとした声が飛んだ。
「校長先生。…その件は、お引き受け致しかねます!」





 すでに、夜もかなり更けてきた。鎮女もせいるも、とうに床についている。
 御法と貞輝は藤蔭家の茶の間でたった二人、他愛ない世間話などしながら夫婦水入らずの時間を過ごしていた。
 ふと、御法の目が柱時計を見上げる。
「あら、もうこんな時間…。ねぇ貴方、私どももそろそろ休みませんこと? いくら明日がお休みとはいえ、あまり夜更かしをしていると朝が辛うございますわ」
「ふ…ん。そうだね、奥さん。僕も少し眠くなってきたし、それじゃぁ…」
 いつもの穏やかな微笑で貞輝がそう言いかけたとき、電話が鳴った。
「…まぁ、誰かしら今頃」
 怪訝な顔で御法が受話器を取り上げる。と、その口から驚きの声がもれた。
「姉さん! 一体どうしたの、こんな時間に…やだ、お酒…飲んでるの?」
 電話の向こうから聞こえてきたのは、何故だか妙に舞い上がった初音の声だった。
(おー、さすがわが妹、カンが鋭いねー。そーなの。あたし今、飲んでるのー)
「ちょっと姉さん、いくら何でもこんな時間まで? 忠志義兄さんはどうしたのよ。まさか、放ったらかし…?」
(ウチの旦那サマはただ今四国にご出張中でーす。帰ってくるのは明日の昼過ぎよ。…そんなこたともかくさ、あんたこれから出てこられない? 今、『つぼ屋』にいるの。そっちの家から駅に行く途中の、ほら、銀行の向かいにある居酒屋。貞輝さんには悪いけどさぁ、あのヒト優しいからたまには許してくれるでしょ?)
「待ってよ姉さん。いくら何でもそんないきなり、それもこんな時間に私一人で飲みに出るなんて…。ね、『つぼ屋』にいるんならそのままこっちにいらっしゃいな。何なら泊まっていってもいいし、お酒も…少しなら用意できるから」
(やーよ。だってそっちにゃお母さんがいるじゃない。あたし、今夜はあんたと飲みたいの。お母さんも貞輝さんもせいるも抜きで、あんたと二人だけで飲みたいのよ! ぐだぐだ言ってないでさっさと答えんか、妹! 来てくれんの? くれないの? どっち!?)
 途方にくれた御法が、背後の夫を振り返る。貞輝もまた御法の台詞からある程度の事情を察したのであろう。かすかに眉をひそめ、それでも心配そうに小声で妻にささやいた。
「もし君さえよければ、すぐに行ってあげた方がいいんじゃないのかい、奥さん。…どうやら今夜の義姉さん、尋常じゃないみたいだ」
 そこで御法もようやくうなづき、受話器に向かって慌しく話しかける。
「…わかったわ。それじゃ今からすぐに行くから。ええ、詳しくはそちらへ着いてからね。…じゃ」
 受話器を置いたと同時に御法は小さくため息をつき、再度夫と顔を見合わせた。
「おかしい…いつもの姉さんじゃないわ、あんなの…」
「だったら余計、すぐに行ってあげなさい。あの初音義姉さんがこんな突拍子もない無理を言い出すなんて、絶対何かあったに違いないよ。…もし何だったら僕がその店まで送っていこうか?」
「いえ、いくら深夜とはいえあちらは大通り沿いですし、明るくて人通りも多いですから私一人でも大丈夫でしょう…。それじゃ貴方、本当に申し訳ありませんが、ちょっと行って参りますね」
「念のため、義姉さんの分の布団を客間に敷いておくよ」
 静かにそう言い添えてくれた夫に深々と頭を下げ、とりあえず財布だけを懐に押し込んだ御法は、箪笥から適当に引っ張り出したショールを手に家を飛び出し、教えられた店に向かってそのまま小走りに駆け出した。

 息せき切って目的の店にたどり着き、縄のれんをくぐってみれば、店の片隅、奥まった席で手を振っている姉の姿。
「おー、さすが元陸上部の主将! 早かったねー」
「…もう、姉さんったら! 一体何があったかと思うじゃないの。一体…どうしたのよ!」
 ついつい荒くなってしまった声に、慌てて口元を押さえる御法。…そうだ。自分がここへやってきたのは、決して姉と喧嘩をするためじゃない。
 しかし初音の方はすっかりできあがった体の上機嫌、気持ちよさそうに色づいた桜色の頬に満面の笑みを浮かべている。
「ふっふーん。何で呼び出したかってぇ? そりゃもちろん、恨み言を言うためさ。ね、御法、あんたでしょ。聖に告げ口したの。…ほら、例の『直立ミイラ』の件」
「あ…あ、あのこと」
 少々拍子抜けしつつ、ちらりとテーブルの上に目をやれば、すでに何本かの空徳利が転がっていた。なのに初音は通りかかった店主らしい男を呼び止め、さらに新しい熱燗を追加している。その様子にため息をついた御法が頼んだのはビール。こんな酔っ払いを素面で相手したくはないし、彼女とて決して酒に弱い方ではないが、この状況で自分まで飲みすぎてしまったりしたらあとが怖い。
「だって聖ちゃん、あのときは本当に困っていたみたいなんですもの。姉さんも意地悪しないですぐに資料を見せてあげればよかったのに。…あんまり可哀想だったから、つい、ね…」
「へーん。そんなの大きなお世話。こっちはそのおかげであの性悪に脅されて大変だったんだから。第一あのあだ名、『直立即身仏』に改名したのはあんたでしょーがっ! あたしだって、知ってんのよっ」
 何だか、昔に戻ったみたいだ―運ばれてきたビールをグラスに注ぎ、慎重に口をつける御法の口元に苦笑が浮かぶ。―そうだ。制服を着ていたあの頃はいつも、こんなふうに他愛のない言い争いやら議論やらに時間を忘れて没頭していたっけ―。
「…別にあだ名に限ったことじゃないけど、姉さんの物言いはどれもこれも率直すぎるのよ。ちょっとした『ひねり』の一つも加えなきゃ、面白くも何ともありゃしない。…ま、ミイラが即身仏になったからって、どれだけ面白くなったかって言われれば私も自信ないけど」
「それでも今の生徒たちに伝わってるのは即身仏の方だからねー。センスの面ではあんたの方が一枚上手だったってことかなぁ。…ま、でもね。そっちの方はどーでもいいのよ。紆余曲折はともかくとして、とりあえずそのおかげで例の幽霊の正体がわかったんだから」
「え…っ!?」
 聞き返した声が無意識のうちに高くなる。御法とて、あの幽霊事件に関しては人知れずかなり心を痛めていたのだ。
「たださぁ…。そのおかげで余計頭の痛いことになっちゃってねぇ…」
 運ばれてきた徳利に手をのばし、自分の猪口に注ぐ初音の声がふと、真面目になった。
「ね、御法。あたしは…もしかして、最低の人間かもしれない。叔母としても教師としても、聖のことなどまるで考えてない、血も涙もない人でなしなのかもしれない。…何か、自分で自分のことがわかんなくなっちゃったのよぉ。だからね…あんたの意見を聞きたいと思ったの」
 心なしか潤んだ姉の目にひたと見つめられた瞬間、御法は悟った。この人は…姉は決して酔ってなんかいない。全ては自分をここに呼び出し、二人っきりになるための方便だったのだと。
 時計の針はそろそろ午前零時に近くなっている。なのに店内の喧騒はちっとも収まる気配を見せない。週末の深夜のこととていつも以上に羽目を外し、周囲にはお構いなしにひたすら酔って騒ぐことに夢中になっている、働く人々の群れ。…こんな中でならきっと、自分たちがどんなに深刻な話をしていても、誰にも気づかれないだろう。
 姉の真意を全て読み取った御法は、覚悟を決めた。
「うん、わかった。姉さん…。話してみて。私、何でも聞くから。どんなことでも―たじろいだり、逃げ出したり、しないから―」

 力強い妹の言葉にうなづいた初音が、つい先ほど佐田校長から聞いたばかりの話を御法に語る。その間、御法は眉一つ動かさず、静かに姉の言葉に聞き入っていた。だが、気がつけばいつのまにか彼女が頼んだビールの瓶はすっかり空になり、店員に持ってきてもらった新しい猪口に、手酌で熱い日本酒を注いでいる。
「…ま、そんなわけでね。峰子先生は、もうこれ以上聖に深入りさせるなって言うの。だけどあたし、断ったのよ。…でもって、この件はあくまでも聖にカタつけさせる、ってタンカ切っちゃったわけ」
 そこでちらりと御法に目をやった初音。一方の御法は目を伏せたまま、そっと自分の猪口を取り上げて、中の酒をゆっくりと飲み干したのみ。
「間違ったことをしたとは思わない。ここで聖を甘やかすのは決してあの子のためにはならないはずだし、何よりここまで首を突っ込んでおきながら今さら手を引けだなんて、あのバカ娘自身が承知しないだろうしね。…でも…峰子先生のいうことももっともなのよ。幽霊―頼豪寺万里子を成仏させるためにその精神に同調したりしたひにゃ、十中八九、あの子は壊れる。事実あの子、口には出さないものの自分の出自をかなり気にしてるみたいだもの。だけど、それでもあたし、この件は聖にやらせなくちゃいけないと思うのよ。…ね、御法。だけどそれって、あたしの我儘だろうか。もしかしたらあたし、自分があの学校の生徒指導部長だからって、自分の保身や学校の平穏の方が実の姪っ子より大事だなんて考えてる、ただの偽善者なんだろうか。…ねぇ、御法! 何とか言ってよ!」
 だが、それでもなお御法は黙ったままで。さらにもう一杯、猪口になみなみと注いだ酒を今度は一気に飲み干したのち―。
「…うん、姉さん。いいんじゃない? 壊れたら壊れたで」
 


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