何日君再来 8


 だが、絶叫したくてたまらない気分に陥ったのは聖だけではない。
「…で? あんたは一体どうしてほしいわけ?」
 思いっきり不機嫌に、しかし抑えた声でつぶやけばすぐ目の前、同じく極限までふてくされた表情の姪っ子が腕を組んで睨み返してくる。昼休みの体育倉庫、ぎゅう詰めの運動用具の隙間で密談を交わすのもすでに四、五回を数えていた。かすかな頭痛を覚えた初音はそっとこめかみを押さえる。
「…資料室の特別文献、見せてほしい。あの幽霊についての手がかりは『はいからさんスタイル』と『キヨコサマ』って名前しかないんだ。そっからたどっていかなきゃ、あたしもう手も足も出ないよ、叔母ちゃん」
 ううう、と唸り声を上げて頭を抱えた初音。確かに今回の話を藤蔭家―鎮女に相談し、聖に依頼したのは自分だが―。そのとき母に「お前もできる限り聖の力になってやっとくれね」と言われたこともいまだしっかり覚えているし、それにはっきりうなづいた気持ちにはこれっぽっちの嘘偽りもなかったが―。

(よりにもよって、まさかこんなことになるとは―)

 例の幽霊騒ぎが教師たちの間でもかなりの問題になっているのは事実。しかし、だからと言ってその実在を信じ、お祓いや除霊を真面目に検討しようとする人間なぞほとんどいなかった。昭和も五十年代に入った今となっては、教師たちとて科学万能、物理法則と客観的事実のみを唯一絶対の真理と信じて育ってきた若い者たちが過半数を占めている。
 もっとも創立百有余年、しかも私立とくれば、普通の公立校ならとうに定年退職しているはずの老教師たち―今よりももっと祖霊や魂への信仰を身近に感じて育ってきた世代―もいまだ結構幅を利かせてはいるのだが。普通、そんな年寄り連中ならば、幽霊や妖怪などといった絵空事でも簡単に信じてくれて、そして今回の幽霊騒ぎもありうること、とその対策を真剣に検討してくれそうなものなのだけれど。
(ところがどっこい、ぎっちょんちょんなんだよねー…)
 いまだ唇を尖らせている姪っ子―聖に気づかれないよう、初音は小さなため息をついた。
 確かに、六十代、七十代を超える老教師の中には今回の幽霊騒ぎを本気で考え、その正体を突き止めて除霊するよう強硬に主張している者もいるが、その同じ世代の中に―無知蒙昧な迷信を駆逐し、理路整然とした科学的視点を日々の生活の中に取り入れようとして死に物狂いに戦ってきた人々が数多くいるということもまた、真実で。
 要するに、老若男女に関係なく、素直に幽霊の存在を信じる教師など絶対的少数派―というのが現状なのであった。だからこそ佐田校長―鎮女の元同級生であり、初音や御法の恩師でもあった彼女は藤蔭家の内情にもよく通じているし、藤蔭一族の操る、そして時には敵対するさまざまな妖かしとても実在のものとしてはっきりと認識してくれてはいたが―は、教職員たちの間に不必要な混乱を招く前に全てを秘密裏に処理するよう、初音に厳命を下したのであった。
 佐田校長の懸念は初音にも痛いほどよくわかる。自分とて、もしも藤蔭の家に生まれていなかったら、今回の件はただの生徒たちの妄想だと、鼻で笑っていたことだろう。
 それでも初音は―たとえ安部家に嫁いだとはいえ―まぎれもない藤蔭家の人間で。しかも自分より遥かに「能力」に長けた姪っ子、聖の報告ともなれば無条件に信じるほかはなく。
 だが。
 それでもやはり、素直に聞けることと聞けないことがある。

 言うにこと欠いて、資料室の「特別文献」を見せろだなんて―。

「ちょっと叔母ちゃん! 黙ってちゃわかんないよぉ! どーせたかが古ぼけた名簿や写真なんだから、ちょっくら見せてくれたっていいじゃない! こっちはただ、名前と顔を確かめたいだけなんだからさぁっ!!」
 ついに癇癪を起こしたらしい聖に、初音は肩をすくめた。普段はどんなにご立派な猫をかぶっているか知らないが、こんなところはまだまだあの小さなせいると同レベルだ。
(大体この子、アレの価値がどれほどのモンだかわかってんのかしら?)
 確かに、「特別文献」などと仰々しい名前がついていたところで、その中身は学園創立時からの学籍簿とかつての校舎や生徒たちの写真に過ぎない。特に学籍簿の方はといえば、たとえそこにかつての畏きあたり、やんごとない姫君たちの御名前がずらずら羅列してあるにせよ、所詮はただの古名簿。そのうち最古のものでも遡れるのはせいぜい百年ちょっと―となれば、古文書としての価値もさほどないだろう。
 ただ、問題は。
 それと一緒に残っている、色褪せたセピア色の写真の数々なのである。
 秀桜学園創立当時―明治初期の人々にとって、写真は決して身近なものではなかった。西洋からの伝来当初、「魂を抜かれる」と怯えた庶民の心情は今となっては笑い種。しかしそれが誤解だと認識されてもなお、写真というものはそうそう簡単に撮れるものではなく―。
 大抵の庶民、いや上流階級の人間にとってさえ、写真は一世一代の記念に目一杯の盛装をほどこし、真面目くさった顔で写してもらうべき「特別な」贅沢だった。だが、創立当初から華族士族の令嬢が多く学び、ともに学ぶ庶民の子女さえ、ある程度の特権階級に限られていたこの学校では、そんな贅沢もごく当たり前のこと。
 当時としては珍しかった「遠足」「運動会」「修学旅行」…四季折々のさまざまな学校行事の都度、学校お抱えの写真師がいそいそと駆けつけ、生徒たちのごく自然な顔―取り澄ました記念写真などではない、溌剌とした生の表情―を明確に記録し続けた。「○○宮××女王」「△△伯爵家令嬢」などといういかめしい肩書きから解き放たれ、仲良しの友達と屈託なく笑い合い、徒競走に興じ、初めて見る絶景に歓声を上げる、百年前の「姫君」たちの本当の素顔。それはまさに、冷たく無表情な肖像写真からは決してうかがい知ることのできない貴重な記録だといえよう。事実、近現代史や写真史の専門家や大学教授などが見学に来ることも珍しくない。いや、そのような資料としての価値以前に、秀桜学園にとってのそれらはかけがえのない大切な思い出、学校の宝として資料室に厳重に保管されているのである。
 いかに初音とはいえ、そんなものを独断で聖―一介の生徒に見せてやれるわけがない。
「もし本物がダメだってんならさぁ、コピーでもいいや。あたしら生徒には閲覧禁止でも、叔母ちゃんなられっきとしたここのセンセーなんだから、ちゃんと手続すれば堂々と調べることができるんでしょ?」
 またまた聖が乱暴なことを言い出した。確かに教員である初音なら、資料室に頼み込んでコピーをとらせてもらうくらい、できない相談ではない。  だが「特別文献」の量といえば、軽く見積もってもしっかり段ボール五箱分はある。
「ちょっと待ってよ! …あんたねぇ、いくら何でもあんな大量の書類、たった一人でどうしろってんだい!? ううん、それ以前の問題として、申請書の『理由・目的』欄に何て書けってのさ。『幽霊の身元調査のため』なんてほざいたひにゃ東郷先生がどんなに怒り狂うか。ヘタな嘘でっち上げたところであんな超ベテラン、しかもかつての恩師を完璧に騙しおおせる自信なんてあたしにもないね。そんな危ない橋渡って、もしもバレたらそれだけであたしゃクビだよ、クビ!」
 「東郷先生」というのは十数年前に定年退職したものの、今も特別講師兼資料室長として勤務している秀桜学園の大長老である。
「畜生…あのジジィときたら筋金入りの合理派、科学万能主義者だからなァ…大学で民俗学やってたとかいうくせに幽霊や妖怪なんか絶対信用しないし。なーにが『怪力乱心を語らず』でい、あの『直立即身仏』がっ!」
「これ聖! 何て失礼なこと言うの! ちゃんと『東郷先生』ってお呼びしなさい!」
 鋭い舌打ちとともにぼやいた聖の頭を「軽く」張り倒しつつ、初音の厳しい声が飛ぶ。
「第一、東郷先生がああなられたってある意味仕方がないでしょ! …お若い頃にあれほど哀しい思いをなさったんだから…」
「ま、そりゃあたしだって知ってるけどさぁ」
 張り倒された頭を押さえた聖はなおも不満げに口を尖らせたままである。
 だが、初音の言葉もまたもっともなのであった。
 東郷教諭は、幼い末弟を迷信の所為で失っているのである。まだ大学生の頃だったそうだ。
「…当時のわしは京都帝大の学生で、九州の田舎から一人京都に出て下宿生活を送っておった。そこへ、弟が危篤だからすぐ帰れという手紙が来て…」
 驚いた東郷青年は慌てて故郷へ駆けつけた。だが、家に着いたときには、すでに小さな命は旅立ってしまったあとで―。呆然と立ちすくんだ彼は、そののちさらに衝撃的な事実を知るのである。
 何と、弟が患いついたとき、両親を始めとする家の者が真っ先に頼ったのは病院でも医者でもない、村の拝み屋だったというのだ。そして―。
 医学・病理について何の知識もない拝み屋は、高熱とひきつけに苦しむ子供を目にした途端に「犬神つき」との診断を下した。そればかりか、恐れおののく親や家族、親類たちを指図して早速「憑物落とし」に取りかかり―。
 今から数十年前、それも都会から遥か離れた田舎ではそれも仕方のなかったことかもしれない。
 だけど。
 手当てらしい手当てもされず、憑物を落とすのだという大義名分のもとに得体の知れない薬草の煙にいぶされ、榊の枝の束で全身余すことなく打ちのめされ、与えられた薬といえば古ぼけたお札を燃やした灰を溶かした水のみ―。その挙句に、弟は…死んだ。
 全てを知った東郷青年は半狂乱になって家の者全員を部屋から追い出し、小さな冷たい身体を抱きしめたまま、一晩中泣き明かしたという。
「弟の死顔をわしは今でも忘れることができん。痛い、苦しい、助けて―あんちゃん…と、命尽きたそのあとまで泣き叫んでいるような…。もしわしがその場にいたら、そんな真似は決してさせんかったものを! たとえ…たとえ助からなくとも、あんな哀しい顔で逝かせることだけはせんかったものを! …だからわしは、今でも許さん! 人々を惑わせるくだらない迷信を、何の根拠もなくそれを信じる人々の無知を、そして面白半分に化物だ妖怪だなぞいう絵空事を語り、誰かを陥れたり差別したりするような愚か者どもを!」
 授業中、ふとしたきっかけから始まる哀しい昔語り、そしてその最後の最後で涙混じりに絶叫する東郷教諭の姿は、その授業を受けた代々の生徒の心の中、鮮烈に焼きついている。
 見方を変えればそんな東郷教諭の主張は、ただの噂のみで「外法使い」のレッテルを貼られ、好意悪意取り混ぜて特別視される藤蔭家の娘たちを擁護してくれるありがたい意見でもあったのだが、現在の状況においてはその頑固な老教師が聖の「調査」にとって最強最大の障害物として立ちはだかっていることもまた、動かしようもない事実であった。
「とにかく聖、その件についてはあたしもできるだけ考える。だから…だから、特別文献のことは…ちょっと待って」
 初音が苦しい言い訳を口にしたと同時に―午後の予鈴が鳴った。
「…もう、いいよ! とにかく今んとこ、叔母ちゃんにはあたしにアレを見せてくれる気なんてないってことはよくわかったからっ!」
 きっと唇をかみ、業を煮やして立ち上がった聖。
「ちょっと、聖!」
「だったらもう頼まない! あとは自分で考えるっ!」
 頬を思い切り膨らませ、飛び出して行ってしまった姪っ子を引き止める術など、あるわけもなく。一人取り残された初音は薄暗い体育倉庫の中で、ただ黙って大きなため息をつくしかなかった―。

 しかしまた、聖の方も。
 初音にあんな威勢のいいタンカを切ったとはいえ、自分一人でどれだけ頭をひねったところで名案など出るわけもない。瞳子や煕子に相談したとて、彼女たちも自分と同じただの生徒に過ぎないし、思いつくのは自分とどっこいどっこいの意見ばかりであろう。
 と、なれば―。苦手だろうが何だろうが、そんなこと言っちゃいられない。

 困ったときのババァ頼み。

 聖は悲壮な決意を固めて再度、祖母の家を訪ねたのであった―。





 ところが。
「まぁ聖ちゃん、いらっしゃい。今日は叔母さん一人で退屈してたの。さ、上がってちょうだいな」
 出迎えてくれたのは御法のみ。だだっ広い日本家屋には、鎮女はおろか小さなせいるの姿すらも見えなかった。
 姪の姿を見るや飛び上がって喜んだ御法に半ば引きずられるようにして家に上がり、早速居間に通されたものの、ちょっと拍子抜けしてしまった聖。だが御法の方はいかにも嬉しげにいそいそと茶菓を用意し、運んできたついでにさっさと聖の向かいに腰を下ろした。いつもなら日本茶と和菓子のはずなのに、今日はコーヒーとケーキを出してくれたのは、現代っ子の聖に対する心遣いであろうか。
「ところで今日は随分早いのね。学校はもう終ったの?」
「あ…今日は授業、5時間目までだったので…。でも、それ言うなら平日のこんな時間に叔母ちゃんが一人なんて珍しいですね。叔父さんはお仕事としても…お祖母ちゃんやせいるは…?」
「せいるはお友達と近所の公園に遊びに行ってるの。お祖母ちゃんは木下先生のところ。あちらの診療時間ね、毎週火曜日は午後からなのよ」
「うげ…」
 木下先生というのは近所の外科医院のことである。実を言うと鎮女は若い頃右手に大怪我をしたことがあり、今でも右手の薬指と小指がうまく曲がらない。もっとも全然曲がらないわけではないので日常生活にはほとんど支障はないのだが、それでも寒い季節になると時折その古傷が痛むと言ってかなり頻繁に木下医院に通っているのである。
 だが、御法に言わせるとその目的は治療などではないのだそうだ。木下医院の患者の多くは神経痛やリューマチに悩む近所の年寄り連中、互いに顔を合わせれば昔話に花が咲き、診療そっちのけで待合室が即席サロンに早変わり、というわけ。当然、自分の診療が終ったからとて素直にそのまま帰る者などまずいない。そんな患者ばかりでどうして木下医院が潰れずにすんでいるのかというのはこの町内の七不思議の一つ―と、そんなことはどうでもいいが。
「お祖母ちゃん、あちらへ行くとそう簡単には帰ってこないから…それでも夕ご飯までには戻ると思うんだけれどね」
 無情な現実にがっくりと肩を落とす聖。御法もさすがに、姪の落胆ぶりに気づいたらしい。
「どうしたの、聖ちゃん。お祖母ちゃんに何か急ぎの用事? もしかして、あの『幽霊さん』関係の…? だったら叔母ちゃん、すぐ木下医院にお電話して、戻ってくるようお祖母ちゃんに伝えてもらいましょうか?」
 「そ、そんなとんでもないっ!」
 聖は慌ててぶんぶんと首を振った。いくら何でもそこまでしてもらうのは叔母にも祖母にも悪いような気がする。とはいえついつい出てきてしまうため息だけはどうしようもない。
 と、御法がそんな聖にふ…と優しく微笑みかけた。
「…じゃ、聖ちゃん。叔母さんに話してみない? 能力はともかく、私だって一応藤蔭の人間よ。お祖母ちゃんみたいにはいかないけど、ほんのちょっとなら…力になれるかもしれない」
「叔母ちゃん…」
 聖の黒い瞳が、すがるように御法を見上げた。

「七〇年分の卒業生全員…? それは確かに大変な作業になるわねぇ。資料室の古名簿を見たくなる気持ち、わかるわ」
 幽霊を目撃したあの夜からついこの前の初音との言い争いまで、全てを聞いたと同時に御法も困ったように眉をひそめた。
「初音叔母ちゃんの言うことも無理ないな、とは思うんです。資料室長の東郷先生ってホント、頑固だから。だけどあたしには、他にいい手を思いつかなくて…」
 うなだれてコーヒーをすする聖の向かい側、御法は無言のまま、何ごとかじっと考え込んでいる。
 そして。
「…そうだ、聖ちゃん。もしかしたらその調査対象、もう少し狭い範囲に絞り込めるかもしれないわよ」
「ええっ!?」
 はっと顔を上げた聖に、御法がかすかにうなづいて見せる。
「その幽霊さん、黒羽二重の紋付を着てたって言ったわね。それ、どんな紋だったか覚えてる? 黒っぽかったとか、白っぽかったとか」
 一瞬、聖はきょとんとする。
「え…? 黒っぽい紋って…どういう意味、叔母ちゃん。普通着物の紋って、白で染めるモンじゃないんですか?」
「あ…あ、ごめんなさい。言い方が悪かったわね。えっ…と、それはつまり…」
 言葉を切り、つと立ち上がって部屋を出て行った御法が持って帰ってきたのは一冊の古い本。
「これ、随分昔の家紋図鑑なんだけど…ほら、御覧なさい。一口に家紋といってもいろいろ種類があるのは聖ちゃんも知ってるでしょう? で、例えばこの片喰紋は単純な形の分、白の部分がすごく多いけど、こちらの包み抱き稲の丸紋はかなり複雑で、図案を構成している線も細いし、地色―幽霊さんの着物で言えば黒、ね―がかなり目立ってる。遠くから見ればきっと、片喰なら白っぽく、包み抱き稲の丸なら黒っぽく見えるはずだわ。叔母さんが言いたかったのはそういうことなの。…で、何でそんなことを訊いたかと言うとね…」
 御法の柔らかい視線が、意味ありげに聖に向けられた。
「紋付といえば自分の家の紋をつけるのが常識。でも、うちの学校では創立当初からしばらくの間、生徒全員が『秀桜』の名前にちなんだ桜の紋をつけていた時期があるのよ」
 「うちの学校」と言ったのは、御法もまた秀桜学園の卒業生だからであろう。卒業してから二十年近くたった今でも、懐かしい学生時代の思い出は、この叔母の心の中から消えていないと見える。
「多分今、聖ちゃんたちが部活や何かでお揃いのユニフォームを作るのと同じ感覚だったんでしょうね。それぞれの家紋には関係なく、皆でお揃いにつけていた―学校独特の紋だったから多分これには載っていないと思うけど、似たようなものなら…ああ、そう! これ! これが一番近いわ!」
 手を叩いて御法が指差したのは松葉桜紋。他の紋に比べ、かなり地色の黒が目立つデザインである。
「だから―もし聖ちゃんが見た幽霊さんの紋が白の多いものだったとしたら、彼女はやや新しい時代の生徒だったと思うの。桜の紋はやがて廃れて、結局みんな慣習通りに自分の家紋をつけた着物を着るようになったって言うから。こんな話、役には立たないかしら?」
「そんなことないっ! すごく…すごく助かります、それっ!」
 いつしか食い入るように数々の家紋に見とれていた聖は、そう叫ぶやいなや必死になってあの幽霊のいでたちを思い出そうと試みた。
(黒紋付…臙脂紫の袴…赤い鼻緒の草履…結い上げた髪、大きなリボン…)
 だが、さすがにそこについていた紋までは覚えていない。少なくとも幽霊が着ていたのは礼装の五つ紋ではなく、準礼装の三つ紋か一つ紋だったのだろう。
(着物の前面…内袖に紋がつくのは五つ紋のみ…三つ紋や一つ紋なら紋がつくのは背中あるいは外袖…普通に相対してたんじゃ、見えるはずのない場所…)
 ならば何故自分は幽霊の着物が紋付だとわかったのだ? 遠い昔の秀桜学園の制服があの「はいからさんスタイル」だったということは何となく知っていたにせよ、その着物が紋付だったなんて聖は絶対に知らなかった。
(だったらあたし、必ず見てるはず! あの幽霊の着物についていた紋を―でなけりゃ紋付だなんてわかるわけがない!)
 なおも懸命に記憶をたどる少女の額には、いつしか大粒の汗が浮かんでいた。
(そうだ!)
 半ば諦めかけたときになって、突然頭に浮かんできた光景。

(キヨコサマじゃ、ないのね…)
 そう言って泣きそうな顔を背け、あっという間に消えてしまった幽霊。だがその時、聖は確かに見た。顔と一緒にぷい、と体ごとそっぽを―ほとんど後ろを向いてしまったか細い背中についていた紋を。その詳細を今すぐ思い出すことは難しいが、少なくともそれは―御法の言葉を借りるなら―まぎれもない「白っぽい」紋! 絶対に、松葉桜のような線の細いものではなかった!

「叔母ちゃん! 叔母ちゃんの言った通りです! 詳しく思い出したわけじゃないけど、あの子の紋は決してこの松葉桜じゃないっ。もっともっと白い部分が多くて、え…と…。どんな形だったろう…? ううん、それはあとでゆっくり考えりゃいーや。とにかく、あの子は桜の紋じゃなく、自分ちの家紋をつけるようになってからの生徒だったことに間違いないっ!」
 さも嬉しげに目を細めてうなづく御法に、聖は目を輝かせてまくしたてる。
「よかったぁ…これで少しはあたしも楽できるかも。ところで叔母ちゃん、その桜の紋が廃れてみんなが自分とこの家紋をつけるようになったのって、いつ頃のことなんですか?」
「えーっとねぇ…確か…」
 視線を宙に遊ばせ、あごに手を当てて考える御法を、期待に満ちた表情で見つめる聖。
「明治の終わり頃にはぽつぽつ自分の家紋をつける生徒さんが現れて、過渡期が約五年から十年…やがて大正に入ってからは、桜紋は完全に使われなくなったって聞いてるわ」
「大正の、初め…?」
 訊き返したきり、聖、瞬間冷却。
(ちょっとそれって…。いやそりゃ、確かに…確かに範囲は狭まった…け…ど…)
 明治から大正に年号が切り替わった時期といえば、「はいからさんスタイル」使用期間のちょうど中間あたりだろう。あの幽霊がそれ以後の秀桜で学んだ生徒だとしたら、それ以前の調査は不要になるわけで…調査対象期間が一気に半分に減ったことはありがたいが、それはあくまで、パーセンテージの問題。

(七〇年分の卒業生全員が三五年分の卒業生全員になったからって、誰が嬉しいものか…)

 それでも御法に、あまりがっかりした顔だけは見せまいと懸命になっていた聖だったけれども。
「でもねぇ…大正元年から終戦までといえばおよそ三五年。おまけに時代が下がれば下がるほど学校の規模も大きくなって生徒さんの数も増えていっただろうし、大変なことには違いないわよね、聖ちゃん」
 たかが高校生の姪っ子の本心など、御法にはあっさりお見通しのようだ。
「だったらもう一つ、いいこと教えてあげる。もしかしたら今の情報より、はるかに役に立つかもしれないわよ…」
 優雅なしぐさで立ち上がり、聖のすぐ脇に座りなおしたかと思うと、そっとその耳に唇を寄せ、二言三言ひそひそひそ。
 途端、今度こそ聖の顔に満面の笑みが浮かび上がった。
「その話…ホントにホントですか、叔母ちゃん!」
「ええ。間違いないわ。叔母さんの取って置きの秘密ですもの、どうか有効に役立ててちょうだいね」
「ああ…!」
 すぐさま聖は座布団を外し、あらためてきちんと正座して御法の前に両手をつく。
「あたし、今日やっぱりここへきてよかった…! おかげで何とかできそうです。御法叔母ちゃん、本当に…本当にありがとうございました!」
 深々と一礼して顔を上げた姪っ子に、御法はかつて鎮女に向けたものと全く同じ、「あの」婉然とした笑みを浮かべて優しくうなづいたのだった。
 


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