くそじじい 6


「…あたしが隆志を産んだのは三四のときでした。ええ、当時としちゃァかなり遅い初産でしたからね、産院でも高齢出産扱いされましたよ。しかもあたしと亭主は元々が幼なじみで、二十歳のときに一緒になっちゃいましたモンで…二年や三年ならばともかく、六年、七年たっても子供ができないのが本当に淋しくて…亭主や爺ちゃん婆ちゃんにもただただ申し訳ないって、そんなことばっかり考えてました」
 だからといって、スミ子おばさんを責めたり辛く当たったりする家族などただの一人もいなかった。けれど嫁としてはそれがかえって苦しくて、切なくて、そして―。
「ちょうど三十になったとき、あたしは亭主と離縁しようと決心しました。『嫁して三年子無きは去る』―どころか、十年たっても子供を産めないこんな女より、もっと若くてたくさん子供を産める嫁を迎えた方が亭主やこの家のためだって、思い詰めちゃったんですねェ…。ま、今考えればそれこそが若気の至りだったんでしょうけど、当時はそんなことにすら気づきませんでした」
 とはいえそれ以外には何の問題もなく円満に過ごしている家族に離縁など申し出るのはこれまたかなり勇気の要ること、いかな決心を固めたとはいえ中々話を切り出せなかったおばさんは、しばらくの間悶々と過ごしていたそうである。
 しかしとうとうある日、店が休みで家族全員のんびりくつろいでいた昼下がりに。
「さっきの騒ぎじゃありませんが、うちの爺ちゃんとぎん婆ちゃんはかなりのお酒好きでね、休みの日にはお昼ご飯のときから一杯引っかけて、その後二人揃って昼寝するのが唯一の贅沢、楽しみだったんですよ。そのときには亭主もあたしもちょっぴりお相伴しますからみんなご機嫌、今なら自分の我儘も聞いてもらえるだろうって思ったし…ま、こっちもこっちで『お酒の勢いを借りて』…なんて魂胆があったのかもしれませんが」
 そこでおばさん、いつもより少々大きめのぐい呑みに注がれた酒を一気に飲み干し、「おうおスミ、いい飲みっぷりだなァ」と拍手喝采する爺さん、そして家族たちの前にきっちりと座り直し、両手をついて離縁を申し出てみれば。
「何だァ? おスミ、お前ェとうとううちの甲斐性なしのバカ息子に愛想が尽きたか、わははははっ!」
 話を聞いた途端にそう言って高笑いした爺さんはともかくも、当の息子―勝っちゃんおじさんがさぞぶったまげたであろうことは想像に難くない。
「おい待てスミ子! 何でいきなりンなこと言い出すんだよっ! あっそうだ、お前きっと酔っ払っちまったんだなっ。…ったく、いきなりあんなでけぇぐい呑み飲み干したりするから…よし、今すぐに床取ってやるから横になれ、一眠りして酔いが醒めりゃ、そんなバカな話は忘れちまうから、ほれっ!」
 慌てておばさんに駆け寄り、いまだ両手をついて額を畳にこすりつけているその背中を必死に抱き起こそうとする。そこへ、それまで黙っていたぎん婆さん―もっともその頃はまだまだ「婆さん」なんぞという年齢ではなかったが―の一声が飛んだ。
「勝っちゃん! いいからあんたはちょいと黙っといで! まずはおスミちゃんにもっとじっくり話を聞こうじゃないか。…おスミちゃん、もうちっと詳しく話してごらんな」
 そのときおばさんはもう、こみ上げる涙でろくろく口も聞けない状態だったが、それでも懸命に訴えた。勝っちゃんおじさんを嫌いになったなんてとんでもない、ただただ子供の産めない自分が申し訳なくて、いたたまれなくて―こんな嫁はさっさと出て行った方がいい、いや、家族のために出て行くべきなんだと―。
「バ…バカッ! 何をそんな気に病むことがあるんだよ!? なぁスミ子、俺たちゃまだまだ若いんだ、子供なんざこれからいくらだってできるさ。よし、そんじゃ今夜から早速、これまで以上に気合入れて子作りに励もうじゃないか。そうすりゃきっと…きっと、な…」
 そんなスミ子おばさんの言葉を聞いているうちに、いつしか自分も半泣きになった勝っちゃんおじさんが再びおばさんの背中に手をかけたとき。
「バカは手前ェだ勝治! たった今おぎん―母ちゃんが『黙ってろ』って言ったのが聞こえなかったのか! 大体俺ァ『子作り』なんて言葉は大ェッ嫌れえなんだ! 二度と俺の前でンなことほざきやがったらただじゃおかねぇぞ!」
 突然落ちた雷に、スミ子おばさんと勝っちゃんおじさんは文字通り飛び上がった。ただ、ぎん婆ちゃんだけが平然と、あのお気に入りの湯飲みになみなみと注がれた酒を静かにちびちび、なめている。
 そんな家族をじろりとねめ回し、これまた自分の湯飲みをぐいとあおった(ちなみにその中身はもちろん酒)爺さんが、鼻息も荒く再び口を開いたことには―。
「おい、おスミも勝治も耳の穴かっぽじってよぉぉぉぉ〜く聞きゃぁがれ! この世の中にゃ人間が手前ェだけの力で作れるものなんざただの一つもねぇんだよ! たといカボチャやナスビといえども、畑に種蒔いて丹精してやりゃァそれでいいってモンじゃねぇ。お天道様や竜神様、それから風神雷神様方のありがたいお恵みがあって初めて、立派な実をつけてくれるんでぃ。まして人間のガキともあろうシロモノをだな、男と女が布団の中でえっさかほいさか取っ組み合うだけで簡単にこさえられるわきゃねぇだろが! 全ては神様仏様の御心次第、それを手前ェらだけの力で作るだのできねぇだのヌカしゃぁがって、思い上がりも甚だしいたァこのこった!」
 さすがに息が切れたのか、爺さんの手が先程の湯飲みに伸びたところへ、婆さんがこれまた絶妙のタイミングでこぽこぽと酒を注ぎ足す。それをまたしてもぐいぐいと腹に流し込んで景気をつけた爺さんの舌鋒は、もはや止まるところを知らず…。
「いいか! ガキなんてなァ作るモンじゃねェ、授かるモンなんだ! だからこそ親だって、どんなに世話の焼けるデキソコナイだろうがロクデナシだろうが、手前ェの命懸けてでもまっとうな人間に育て上げようてぇ腹が据わるんじゃねぇか。それを手前ェらだけで『作った』なんて了見違げぇをするから、ちっとでも思い通りにならねぇと簡単にガキ見捨てたり、最悪の場合にゃ殺しちまったりするんだよ! まずはそこんトコから性根を入れ替えねぇと、仮にこの先ガキ授かったところでロクな親にゃぁなれねぇぞ!」
「は…はい、お義父っつぁん…すみません。あたしどもが心得違いをしておりました。でも…そうやって心を入れ替えても…もし…このまま子供を授からなかったら…」
 あまりの剣幕に、いっそう小さくなったスミ子おばさんの消え入りそうな声。しかし、そんなことではびくとも動じる爺さんではない。
「ふん! そうなったらなったで神様仏様にも何かしら思し召しのあること、いつかガキ以上の福を授けて下さるかも知れねぇって、俺たちゃ四人で今までどおり、仲良く楽しく暮らしてきゃいいこったい」
「でもお義父っつぁん! そんなことになったらこの富岡の家や店、それにお墓だって…」
「てやんでぃ! ウチは元々大したお家柄でもねぇし店だってあのとおりだ、いつ潰れたってちっとも惜しかねぇや。墓が心配だったら、お前ェらが生きてるうちに浄心寺の小坊主に一升瓶の一本も持ってって永代供養でも頼んどけ! あんなンだって伊達や酔狂で頭丸めてるわけじゃなし、それくらいの芸当はきちんとやってのけらぁな」
 そこでまたまた湯飲みの酒をごくりと一口飲んだ爺さんが、さながらお不動様か仁王様のごとき形相でスミ子おばさんを睨みつけた。
「とにもかくにもなァおスミ! お前ェが勝治に愛想尽かしたってンなら大いに上等、たといこのバカが嫌だつっても俺が替わりに三行半書いてやらァ。だがそんなつまらねぇ理由で出て行くなんざ絶対ェに許さねぇからな、よっく覚えておきゃぁがれっ!」
 ここまできっぱり言い渡されては、おばさんにもこれ以上返す言葉などあるわけがない。一瞬、しんと静まり返った部屋。…と、そこへ。
「…ねぇ、おスミちゃん。あんたの辛い気持ちはよっくわかったけどさ、それを言うならあたしだって、自分の腹を痛めた子供はとうとう産めず終いだったんだよ」
 ひっそりと響いたぎん婆さんの声に、おばさんがはっと顔を上げる。婆さんがまた、湯飲みの酒をちびりとなめた。
「だけどさァ、そんなあたしでもこうして勝っちゃんの母親になれたんだし、今じゃあんたの姑にまでなれてるじゃないか。あんたにだってこの先まだまだいろんなことが起こるはずなんだから、そんな若いうちから人生見限るような真似はもうおよしな。人の幸不幸なんざ、棺桶に収まって釘打たれるまでは誰にもわかんないモンなんだからね…」
 そう言ってにっこり微笑みかけられたとき、おばさんはようやく気づいたのだという。
「…何にって、そりゃ自分の弱さ、浅はかさにですよォ。たとい子供を産めず終いでもこんだけ立派に生きてきた、大した女の手本がすぐ目の前にあったってぇのに全然気づかなかったなんざ、大バカもいいところだって。と同時に、爺ちゃんの言葉のありがたさも身に沁みて…。以来あたしはきっぱり思い切ったんです。たとい子供を授かろうが授かるまいが、この家で皆と一緒に精一杯生きていけばそれでいいってね。したらその四年後、隆志が生まれて…ええ、亭主はもちろん、爺ちゃんも婆ちゃんもそれはそれは喜んでくれてねェ…あンときの嬉しさ、ありがたさは到底言葉にできるモンじゃなかったし、これまでだって一日たりとも忘れたこたないですよ。…でもねぇ、若先生」
 そこでにっこり笑ったスミ子おばさんの顔は、まさしく「大した女」そのものだった。
「万が一あのまま隆志を授からなかったとしても、あたしゃ亭主や爺ちゃん婆ちゃんと四人、結構幸せに暮らせてましたよ、きっと。―そう思えるのもみんな爺ちゃんとぎん婆ちゃんのおかげ―だからね、あの二人はあたしにとって一生の大恩人だってわけなんです」

 猪口の中の酒を一口飲み込んだ途端、胃の腑の焼けるあの快感と同時にかすかな鈍い痛みが走った。さすが「魚辰の爺さん」の肘鉄砲、あれから二日たった今でもなお、その威力は体の奥でくすぶっていると見える。
「あらヒデちゃん、一人で来るなんて珍しい。今日はゲンちゃんやトシちゃんは一緒じゃないの?」
「あぁ、みっちゃんおばさん…じゃなかった女将さん、お邪魔してます…って、うん、そう。今夜は何だか、一人でしみじみ飲みたい気分なんですよ」
 場所は例によってあの「たぬきばやし」、忙しく立ち働く合間をぬって声をかけてきたみっちゃんおばさん―小林美紗緒という名前だから「みっちゃんおばさん」だ―こと店の女将もまた、若先生にとっては子供の頃からの顔馴染みである。
「やぁねぇ、『女将さん』なんてカッコつけなくても『みっちゃんおばさん』で充分よ。何てったってヒデちゃんには、まだまだ『おばちゃん』って呼ばれてた時代の方が長いんだからね。…にしても『一人でしみじみ』なんて、随分いっぱしの口をきくようになったじゃないのさ…あら会長さん、専務さん、いらっしゃァい!」
 不意に声を張り上げたみっちゃんおばさんにつられて振り向けば、今しも光栄建設の光井会長と崎田専務が揃って縄のれんをくぐってきたところだった。
「今晩は、光井会長。ご無沙汰しております。崎田専務、先日は失礼致しました」
 早速腰を浮かせて頭を下げた若先生に、光井会長の老顔がいかにも嬉しげに笑み崩れる。
「おお、これはヒデ坊…じゃなかった、石原医院の若先生。この間はうちの崎田と随分楽しく過ごされたそうですな。よろしければ、今夜はこの爺いとも一緒に飲みなさらんか」
 町の長老たる光井会長にこう言われては断れるはずもなく、カウンター席からテーブル席へと移った若先生。そのまま三人でしばらく酒を酌み交わしているうちに、何とはなしにあの爺さんの話題になって。
「しかしヒデ坊…いや若先生も大変ですな。何しろあの爺様ときたら到底一筋縄じゃいかんお人じゃし」
「ええまぁ、確かに…。でもね、この間あちらのスミ子おばさんにちょっと昔話を伺いまして…医者の守秘義務がありますから詳しくはお話できませんが、あれで爺ちゃん、意外と優しいところもあるんだなぁって見直してたところなんです。…あ、それと会長、僕のことはヒデ坊で結構ですよ」
「ほう…それはそれは。でもまぁ若先生―あ、いや、ここはお言葉に甘えてヒデ坊と呼ばせていただきましょうかな―ヒデ坊や、それは全然意外でも何でもないことですよ。昔から、筋だけは一本きっちり入ったお人でしたからの。そう言えば先日崎田が爺様とうちの先代との関係をお話したそうですが、二人が知り合ったきっかけについても何か?」
「いや、そんなに詳しく話したわけじゃないですよ、会長」
「専務のおっしゃるとおりです。ただ、随分と古いおつき合いとは伺いました」
「左様ですか。ならば今宵はわしがその話を致しましょう。じゃがその前に…ヒデ坊はあの爺様が二回兵隊に取られたことをご存知かな? おお、ご存知ならば話が早い。いやその二度目の出征というのが戦争末期―何しろすでに三十代半ばの、それも元傷病兵のことでしたからのう―かの『東京大空襲』の前日だったんですわい。おかげで外地どころか内地の配属先へすら出発せんうちにあたり一面焼け野原、急遽その後始末に駆り出された後は軍隊の中の便利屋というか日雇い人足というか、東京近辺にある連隊のあちこちから呼びつけられて塹壕掘りばかりさせられとるうちに終戦になってしまったそうですわ。…もっともその分復員も早くて、他の誰よりも先に帰ってこられたらしいですがな」
 そこで光井会長、つと自分の猪口を取り上げてのどを湿す。
「その頃にはもう町もぼつぼつ復興しかけておりましたものの、何しろ働き盛りの男は全て兵隊に取られ、残っとるのは女子供と年寄りばかり。そこで爺様、皆の亭主や親子兄弟が戻るまでは自分が代わりにと随分面倒を見てやっとったそうです。しかしまぁ、そうこうしとるうちに他の男衆もぽつり、ぽつりと帰ってきてようやく一安心…しかかったところに、ちょいと余計なモンまで町に入り込んできてしまいましてのう」
「余計なモン?」
「兵隊崩れのゴロツキどもですじゃ。困ったことにその一団がここに目をつけてしもうて…戦争に荒んだ心のなせる業と思えば彼奴らもまた被害者なのでしょうが、それはもうひどい乱暴狼藉を働きましてな。爺様始め、戻ってきた男衆が追い散らすこともありましたが、中には戦地で大怪我をしたまま満足に動けん者もおりましたし、数では到底敵うモンじゃございません。警察や自警団だってみんな似たようなモンでしたからろくろく役に立つわけもなし、結局切羽詰った爺様が泣きついた―というより捻じ込みに行ったのが、地元の極道である『羽衣一家』だったんですわ」
 穏やかに語る会長の隣、崎田が「成程」とでもいうふうに何度もうなづいている。
「いや、あのときの爺様の啖呵には惚れ惚れ致しましたよ。『代々この町で極道の看板掲げてる手前ェらが何を手ェこまねいてやがる、あんな没義道を見て見ぬふりたぁそれだけで立派な同罪、今すぐ組の看板極道から極悪非道に書き換えやがれ!』…とね。いや、正直わしらも彼奴らの所業は腹に据えかねておったんですが、如何せん当時は羽衣一家も名ばかり、兄貴分たちのほとんどはまだ戦地から帰っておらなんだし、使い物になるのは親分以下、わしのような三ン下の小僧っ子を含めてもせいぜい十人足らずという体たらくで…かたやあっちはおよそ三十人、とてもじゃないが太刀打ちできる状態ではありませなんだ。とはいえ堅気の衆にそこまで言われちゃァ極道の面子が立ちません。そこで、親分子分全員彼奴らと刺し違える覚悟で一戦交えようと致しましたところ、何と爺様が町の男衆を連れて助っ人に馳せ参じてくれましてのう。もっともその数はわずか四、五人―ええ、あンときはどんなにかき集めてもそれが精一杯だったんでしょうて―とはいえ皆々復員服の上から敵と間違われんよう揃いの町名入り祭り半纏を引っかけた勇ましいなりを致しましてな、先頭に立った爺様曰く『あんたらをけしかけておきながら自分たちだけ高みの見物なんざもってのほか、極道に仁義があるなら堅気にもスジってモンがある、通すべきところはきっちり通させてもらうぜ』と…これにはさすがの先代も感極まったか、目に涙をためておりました。いや、先代の涙を見たのは後にも先にもあれっきりでしたわい。無論わしら子分どもも大感激での、このありがたい助っ人の皆様方にゃぁ毛ほどの傷も負わせちゃならねぇと大奮戦した結果、件の不埒者どもを見事撃退することができましてのう…以来、先代と爺様は義兄弟同様のつき合いをするようになったというわけですじゃ」
「はぁ…」
 先日に引き続き、またしても爺さんの意外な一面を耳にしてすっかり声を失った若先生。…と、胸ポケットに入れておいた携帯電話が低い唸りと共に振動し始めた。
「あ、すみません。ちょっと電話が入ったみたいで…おう、何だ俊之か。どうした?」
 そのまま、何の気なしに話し出した若先生。しかし電話の向こう、慌てふためいた弟の悲鳴のような声が伝えてきたのは、とんでもない知らせだった。

(兄貴! 魚辰の爺さんが発作起こした! とにかくすぐに帰ってきてくれ!!)




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