誰のせいでもない雨が


 酒場の中は暗く、空気は重くよどんでいた。古ぼけた木のテーブルのまわりには、幾人かずつの群れ―酒に溺れ、薬に溺れたあげく己れの体がすでに使い物にならなくなってしまったことを知りながら、なおも酒に頼るしか術を持たぬ人々が寄り集まっている。誰も、何も言わない。何を言っても応える者はないだろうから。
 吹きだまり―それは、このような場所をさす言葉であろう。ここに一度はまりこんだら、二度と出ていくことはできない。これ以上堕ちることはないという奇妙な安心のもとに、彼らは毎夜この暗い穴ぐらに集まってくるのである。  今夜も、そうだった。どこからともなくやってきた男たちは、安酒と麻薬で無理矢理酔っぱらおうとしていた。重苦しい沈黙がねっとりと彼らにからみつき、彼らをますます憂鬱にさせていた。
 ―不意に、涼やかな音が響きわたった。
「あ―?」
 老人は、首をめぐらして音のありかを探した。すでに最初の音は消えていたが、その前に次の音が老人の耳に届いていた。次の音はまたその次の音を呼び、その次にはまた別の音を奏で―いつのまにか、音は音楽へと変化していた。それが、穴ぐらの隅の黒い奇妙な形をした「がらくた」から発せられていることに、老人は気付いた。何の法則性も見受けられないでたらめな曲線を輪郭とするその箱の向こう側で、誰かがこの音楽を奏でているのだ。
 今や、穴ぐらの中にいる人々全てが、音楽に耳を傾けていた。静かな優しい調べを持つその曲は、何時か遠い昔に聞いた、不思議な子守唄に似ていた。
 老人の口から、深いため息がもれた。彼は自分の前にあったグラスの酒を飲みほすと、両手で顔を覆った。この音楽には、何か深い哀しみがまとわりついている。俺も知っているはずの…いや、それ以上に深い…いったいそれは何なのだ?何なのだ?何なのだ…
 音楽は、始まったときと同様、突然途切れた。夢から覚めたようなぼんやりとした目が見守る中、例の奇妙な箱の向こうの誰かが立ち上がり、こちらに歩いてくる。近づいてくるにつれ、それが一人の少年であることがわかった。
「ほう…」
 老人は、息をのんだ。少年が、あまりにもこの場所に似合わなかったからである。
 年齢は十五、六というところか。真っ黒な髪を腰のあたりまで伸ばしているのが不思議によく似合っていて、体つきもまだ細く、頼りなげに見える。端整な顔立ちは、少年というよりは少女のようであった。とはいえ、もうあと一、二年もすれば逞しい一人前の男になるだろう。
 自分のわきを通りすぎようとした少年を、老人は思わず呼びとめた。
「おい、若いの」
 見知らぬ老人から声をかけられて、少年はけげんな顔でふりむいた。
「今のは、お前さんがやっていたのかね?」
 少年は、黙ってうなづく。
「すばらしかったよ。わしもずいぶんと長いこと生きてきたが、あんなものを聴いたのは初めてだ。どうだい、一杯おごらせちゃくれんかね」
 一瞬、少年の顔にかすかな驚きの表情が浮かんだが、すぐにそれは微笑みに変わった。
「ありがとう」
 少年は、そのまま老人の向かい側の席に腰をおろした。まわりの連中が、無遠慮な目でその姿を見つめている。老人には、それがひどく気になった。しかし、少年のほうは気にもとめていないようである。慣れているのかも知れない。事実、こんな近くで見ていると、うっとりするくらいの美しい顔立ちである。いつのまにか、老人自身も、少年をじっと見つめていた。
「何か、僕の顔についているの?」
 不意にそう言われて、老人は少し慌てた。思わず我を忘れてしまったらしい。もう、夢を見る年齢でもあるまいに…
「いや…別に何でもないんだが…あんたがあまりきれいだからさ。まわりの奴らも、ほれ、じっと見つめとるよ」
「みんな、僕のことを男娼か何かだと思っているんだろう。今までもそうだったからね」
 少年は、ひどくぶっきらぼうに答えた。
「わかっとるのか…じゃ、いいが…出るときには気をつけろよ。誰か、莫迦な真似をするやつがいるかも知れんぞ」
「別にかまわないさ。したけりゃすればいい。僕もそれに応じた行動をするまでさ」
「どうする気だね?」
 嘲るような笑みを浮かべ、少年は口を開いた。
「気分次第だね。機嫌がよけりゃつきあってやるし、機嫌が悪けりゃ…そうだね、二度とこの店に来られないようにしてやるか」
 感情のまったくこもらぬ、冷たい声であった。老人は眉をひそめた。
「お前、自分の言ってることがわかっとるのかね。わしには、とてもそうは思えんが…」
 長い髪がうっとおしいのか、少年はポケットから取り出した小さな銀色の輪で、それを一つに束ねているところだったが、老人の言葉を聞くと、ちら、と横目で老人を見た。
「ようするに、抱かれてやるか殺っちまうかのどっちかだろう? どっちにしたってあんたには関係ない。よけいなお世話だね」
 そして、そのままぷいと横を向いたきり、黙りこんでしまった。老人も、それ以上何も言わなかった。ただ、時おり酒を注文するための、ほんの短い言葉がそれぞれの口から洩れるだけであった。
 この店で出される酒は、安くて強いことだけが取り柄だ。うわばみを自称している大男でさえ、四、五杯飲むともうふらふらになってしまう。もしかしたら、アルコール以外の何か怪しげな薬が混ぜられているのかも知れなかった。
 そんなことを知っているのかいないのか、少年はまるで水でも飲んでいるかのようにグラスを空にしていった。酒を飲んだとき、顔が赤くなる人間と青ざめていく人間とがいるとすれば、少年は間違いなく後者の方であると思われた。空のグラスが一つ増える毎に、その顔からは血の気がひいていく。それでも彼は飲むのをやめなかった。
「もう、いいかげんにしろ…! 顔が真っ青だぞ」
 見かねた老人は、とうとうその手からグラスを取り上げた。
「何するんだ! あんたには関係ないだろ?」
 老人を睨みつけた少年の目は、かすかに潤んでいた。
「何か、いやなことでもあったのか?」
 穏やかな声であった。答えはなかった。
「いい子だから、こんな所に来るのはやめろ。お前はまだ子供じゃないか。酒に逃げるには早すぎるぞ」
 蒼ざめた少年の顔に、先程の嘲るような笑みが浮かんだ。
「ここに来てる奴の口からそんな言葉を聞くなんて意外だな…だいたい、最初の一杯をおごってくれたのはあんただよ」
「何も、酒を飲むのが悪いと言っとるわけじゃない。ただ、飲みすぎるなと言うとるんじゃ」
「体に悪いとでも言うのかい? 結構だね。酒に溺れて、いつか血へどを吐いてのたれ死ぬ―なかなか、悲劇的でいいんじゃない?」
 優しげな、美しい顔立ちの少年が言うと、それらの言葉は異常に毒々しく聞こえた。老人は返す言葉につまり、それでも何か言ってやらなくてはと二、三度口を開きかけたが声にはならず、ただ口をパクパクさせることしかできなかった。その困惑に気付いたのか、少年は目を伏せた。
「―あんたに当たり散らしても、どうしようもないね…だめだな、夜は。つい本音がでちまう」
 相変わらず冷たい、無感動な口調ではあったが、毒々しさだけは消えていた。老人はほっと安堵の息をつき、少年をいたわるように話しかけた。
「なあ、坊主…お前くらいの年齢になるとな、それまで見えなかったいろいろのもの…世の中の醜さや汚さなんかが見え始めてくる。そして誰もが一度はそれに絶望して、どっかに逃げ出したくなっちまうのさ。無理もない。確かに、この世界は決して暮らしやすいところじゃないからな。…だが、実際にそんなことをしちゃいけない。逃げたところで、何一つ変わりはしないってことさね。それに気付かんと、こんなところで生活していたら、取り返しのつかんことになるぞ。…そう…わしのようになっちまうんだ…」
 最後のつぶやきは、ほとんど独り言のようだった。
「わしもなあ…お前くらいのときにそんなことを考えて、家を飛び出したのさ。誰もいない、静かなところへ行きたかった。じゃが、そんなところになんぞ、行けるはずもなく―気がついたときには、盗み、詐欺、恐喝…あらゆる悪事ができるようになっとったよ。生きて行くためにな。あげくの果てには、人殺しまでやったもんさ。…戦争に行ってな…ほら、四十年ほど前のカノーパス星系の独立戦争さ。聞いたことくらいはあるだろう?…何十人、何百人という人間が、わしの手にかかって死んでいった。…だがそれも、全体から見ればほんのわずかにしかすぎん。結局、あの戦いで死んだ連中がどれくらいいたかなんてのはわからずじまいだ。…わしはすっかりそれに慣れちまってな。戦争が終わってからも血を見なくちゃいられなくなって、賞金稼ぎになった。合法的に人を殺せる数少ない仕事の一つだからな。運もよかったのか、五、六年あとには一生遊んで暮らせるくらいの金が手にはいった…もっとも、それはみんな血で汚れたた金じゃったがね。とにかく、暮らしには不自由せんようになった。そしてわしは結婚した。妻は娼婦あがりで何も知らない女だったが、きれいで、そりゃあ優しかったよ。わしはそのとき賞金稼ぎをやめた。堅気になって、まともに暮らしていこうと思ったんじゃ…」

 老人はそこで一息ついた。少年の方を見ると、黙ってじっと話に聴きいっている。老人は、再び話しだそうとした。そのとき―
「…だよ。ほら、そこのガキみたいなのが…」
 隣のテーブルでの話し声が、二人の耳にはいった。喋っている男たちは声をひそめているつもりなのであろうが、大分酔っているらしく、だんだん大声になっていく。
「全部で六、七十人は殺られたかな。それがみんな人違いだったんだとよ。ひどい話じゃないか」
「そんな、不老不死の人間なんか、いるわけねェのによ。バカが多かったんだなあ…」
 聞いているうちに、老人の顔は苦しそうに歪んでいった。哀しみと深い後悔が、その表情にありありと表れている。しかし、今の話の何がそうさせたのかは、わからない。
 しばらくすると老人はだんだん落ち着いてきたらしい。不思議そうな顔をした少年に、照れたように笑って見せた。―それはほんの少し、唇のはしがつり上がったにすぎなかったのだが―
「年甲斐もなく、取り乱してしまったの。…もう、ずっと昔のことだというに」
「一体、どうしたのさ」
「どうせこれから話すつもりじゃったが…昔、おかしな噂が流れたことがあってな。不老不死の人間がいるという…な」
「不老不死?」
 少年は、目をまるくした。
「そんなもの、いるわけないじゃないか。何だい、そんな話信じる奴がいたのかよ?」
「そう、笑うもんじゃない。むろん、信じる者なんかいなかったさ。初めのうちはな。だがだんだんとそれが広まっていくにつれて、あながち根拠がないとも言いきれなくなってきたんじゃ。『火のない所に煙はたたん』というし、ただの作りごとならすぐに消えてしまうはずなのに、いつまでたってもそんな気配すら見せん。それどころか、銀河系全体にまで広がっちまったようでの。各惑星のお偉方としても見過すわけにゃいかんと思ったのか、銀河系惑星評議会の情報部が調査にのりだしたんだ」
「へえ…で? 見つかったの? その、『不死の人間』とやらはさ」
 老人は、肩をすくめた。
「わからずじまいさ。評議会は調査結果を発表しようとはせず、だんまりを決めこんじまった。それがいけなかったんじゃな。肯定したわけじゃないが、否定したわけでもない。とすれば、そいつが存在するという可能性は大いにあり得る。しかもそれは、相当に腕の立つ奴らしい。でなければ、あの惑星評議会がこんなあやふやな態度をとるわけがない。評議会の調査の手まではねのけられるようなら、そいつはもう英雄だ。…てなわけで、噂はますます広がり、惑星政府や大会社の中には、そいつを探し出そうと賞金をかけるようなものも現れる始末じゃ。もしそいつを配下におくことができれば、どのような危険な仕事も、困難な戦争も、思いのままにすることができるからの…」
 少年はまたそこで、わけがわからない、といったふうに尋ねた。
「どうして…? いくらそいつが腕の立つ、不死の人間だからって、たった一人でそんなこと…戦争をどうこうするなんてこと、できるわけないじゃないか。それに、そいつが必ずしも言うこと聞いてくれるとも限らない。随分と楽観的な奴らばかりがそろっていたもんだね」
「捕まえてしまえばいくらでも方法はあるさ。そいつの体組織を調べて、何が彼を不死たらしめているのかがわかれば他の人間に応用させることができるだろうし、そいつに命令通り動いてほしけりゃ、深層催眠をかけるか、麻薬づけにして、自分たちから離れられないようにするか―他にいくらでも方法はあるしな…人間というのは、こういう方面にのみ、やたら知恵が発達しよる。ま、そんなわけでな…あちらこちらで『狩り』が始まった。手がかりは、若く男前だというだけ。それだって、どの程度信用できるか、わかったもんじゃない。ま、わしは単なる希望的観測にすぎんと思っとったがね。英雄はやはり、ハンサムでなきゃならんしの。…ところでわしはその頃、妻と息子と三人でアルパに住んどったんじゃ。息子は、そう…お前さんより二つ三つ上といったところでな、大学で人類学をやっとったんじゃ。あるとき、息子は大学の友達と一緒に、辺境星系の調査に行くと言いだしおった。その頃の辺境なんぞは最も『狩り』が盛んだったし、息子は妻に似て中々のもんじゃったから、わしも妻も賛成せなんだが、息子がどうしてもというので、行かせてやった…」
 そこで老人は、頭を抱えこんだ。肩がかすかに震えている。少年は遠慮がちに、しかしはっきりとした声で尋ねた。
「その人…死んだのかい?『狩り』にあって…」
 雷にうたれたかのように体をびくりと震わせながらも、老人がうなづいたのははっきりと見てとれた。
「不死かどうかをためすのに一番手っ取り早い方法は、レーザーでも一発ぶちこんでやりゃあいいのさ。もし人違いだったら…なんて考える奴は、最初から『狩り』なんかしやせん。―息子の他にも、何人かの学生が殺された。…じゃが、『狩り』で殺されたのなら、まだあきらめもつく。…実はな…息子を殺したのは、昔、わしが殺した賞金首の弟だったのさ。『狩り』にかこつけて、わしに復讐したというわけだ。わしの一番大切なものを奪うことによってな。…それを知って、妻は自殺した。わしには何も言わなんだが、心の中ではさぞ苦しんでいたんじゃろうな…昔のわしの罪が、わしから息子と妻を取り上げてしもうた。二人を殺してしまったのはほかでもない、このわしかも知れん」
 そう言ったときの老人の目は、遠い光をやどしていた。過去の罪とその報いだけをじっと見つめている…そんな瞳であった。
「それからのわしは…いや、話さんでもわかるじゃろう。こんなところにいるのを見れば」
 長い物語をそう結ぶと、老人はもう、何も言わなかった。
「…ねえ、お爺さん。あんた、そいつを憎んでる?」
 ぼんやりと少年の方を見たその顔は、何だかひどく年をとってしまったふうだった。
「誰をだって?」
「その…息子を殺した男とか、『狩り』をおこした連中とか…それに、不死の男って奴をさ。そうさ、そいつがもしいなければ、そんな噂が流れることもなく、息子も死なずにすんだんだろ?」
 老人は、すぐには答えなかった。自分の本心がどこにあるのかがわからず、心の奥をまさぐっている様子である。
「さあな…今となってはわしにもわからん。今はもう、全てが夢になっちまった。何もかもがの…ふ…もしかしたら、不死の人間なぞも、そうだったのかも知れん。毎日毎日の、何の変化もない生活に倦み疲れた人々の作り出した、見果てぬ夢なのかもなぁ…」
 老人はそこで、少年の顔をじっと見た。
「じゃが、その何一つ変わらぬ生活こそが本当の幸せなんじゃよ。それに気付かぬ者が、夢に操られ、踊らされ…気がついたときにはどっぷりと底なし沼につかってしまって、二度とはい上がれなくなっとる…な、坊主。今なら間にあうんじゃ。そうなる前に、家へ帰れ、な…」
「…」
「見たところ、お前さんはずいぶんといい家で育ったようじゃがの。さっきの、あの…」
 老人は、先ほどの黒い箱を指さした。
「黒い箱は、ピアノ…とかいうもんじゃろ? 昔はずいぶんと流行ったらしいが、今はよほどの金持ちが、暇つぶしに弾くくらいになっちまった…と聞いておるよ」
 少年は何も言わなかったが、その手は固く握りしめられ、小きざみに震えていた。
「それに、お前さんの髪止めは本物の銀細工…それも、かなり古い値打ち物じゃな」
 ぱちん、と小さな音がした。少年が髪止めをはずしたのだ。手のひらに載せたそれを、じっと見つめている少年の表情は、老人が初めて見るものだった。優しく切なげな、そう、小さな子供が、自分の宝物を見つめるときの、あれだ。
「これは、僕の妹がくれたんだ」
 少年は、ぽつりとつぶやいた。
「そうか…」
 しばらくその銀細工を眺めたあと、また少年は髪を束ねた。銀細工のたてる音は、前と同じに、小さく、かすかであった。
「…どうしたね?」
 ふと、老人は少年が一点を凝視しているのに気づいた。
「…あの男…」
「何?」
「僕の左斜め後…そこに座っている奴がさ。何か、さっきの話の…あいつに似ているような気がして…只者じゃないな、きっと…それに若いし、中々のハンサムだよ。…どうする?」
 見ると、確かにその通りの男が座っていた。老人は一瞬、椅子から立ち上がろうとしかけたが、すぐに思いなおしたのか再びもとの姿勢に戻った。
「…因果なものじゃな。口では忘れたようなことを言っておっても、反射的に体が緊張しちまう。はは…莫迦なもんじゃな。人間というのは」
 そう曖昧に笑うと、老人は席を立った。
「何処へ行くの?」
「家へ帰るんじゃよ。神様はよくしたもので、こんなろくでなしにも、ちゃんと帰る所を与えてくださってるでの」
「帰ったって…独りなんだろ?」
「そうでもないさ。隣近所の連中が、結構よくしてくれるでな。誰もわしの過去なんぞ知らんからの」
 最後に軽く手を振り、老人はゆっくりと遠ざかっていった。その姿が見えなくなり、もう二度と戻ってこないことがわかっても、少年はずっとその消えた方向を見つめていた。しかし、やがてあきらめたように目をそらし、今度は何げないふうに酒場全体を見回した。
 さっきの男は、まだそこにいた。少年は、そいつのことが気になるのか、じっとその様子をうかがっている。
 相手は二十五、六といった年恰好で、明るい茶色の髪をしていた。少年の席からは横顔しか見ることができなかったが、彫りの深い整った顔立ちをしていることがわかる。額にかかる前髪を書き上げるしぐさはいかにもけだるげで、ちょっと見たところでは他の客と同じ、無気力なアウトサイダーといった感じである。しかし、その身体にはぬぐいようのない殺気がしみついているのを、少年は見逃さなかった。
 しばらくするうちに、男も少年の視線に気づいたのか、ちら、と後を振り返った。
 一瞬、目が合った。男がかすかに眉をひそめた。しかし、次の瞬間少年はさりげなく目をそらした。そして男もまた、二度と少年の方を見ようとはしなかった。
 少年が立ち上がったとき、椅子が何かにひっかかって大きな音をたてた。しかし、誰もそれを気にとめない。少年は、そのまま静かに店を出て行った。 そして―例の男の姿もいつのまにか、そこから消えていた。

 どんよりと曇った空には、月も星も見ることはできなかった。今にも雨が降りそうな、重苦しい夜の空気であった。
 酒場を出た少年は、賑やかな街の光に背を向け、薄暗い裏通りへと歩いていった。そして、さらに暗い路地へと向かう。誰もいない道で、まわりの壁に反響する少年の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
 その路地は、行き止まりになっていた。立ち止まって空を見上げた少年の目に、濃い灰色の夜が映った。
「おい、坊や」
 振り返ると、さっきの男が立っていた。
「そこは行き止まりだぜ。道にでも迷ったのかい?」
 男はゆっくりと近づいてくる。
「危ねえなあ…お前みたいな子供が、こんな所で遊んでちゃ。この辺にはたちの悪い奴らがウヨウヨしているんだぜ。例えば…」
 不意に、男の体が闇に沈みこんだ。
 同時に、二人の男が襲いかかってきた。それを見事なアッパー・カットでたたきのめし、彼はにやりとした。
「こいつら、飢えてるからな。きれいなら男でも女でもかまわねぇってくちだぜ。自分のお顔がどんなにきれいか、ってことは一応知っとくもんだよ、坊や」
 言いながら、男は少年の肩に手をまわしてきた。少年はそれにさからおうとはしなかったが、顔を上げて男をきっと睨みすえた。
「あんただって、似たようなもんじゃないか。善人づらするんじゃないよ」
「何…」
 言いかける間もなく、男の腕は少年にねじあげられていた。
「ただし、狙ってたものは違ってたようだけどね…」
 男の手には、小さな銀の輪が握られていた。少年はそれを取り返すと、再び自分の髪を束ねようとした。しかし、今度は男がその手を捕まえる番だった。
「だからどうだってんだ。え? 坊や」
 その細い体からは考えられないような力で少年は男の手を払いのけ、後に飛びのいた。
「この輪は誰にも渡さない! さっさとどこかへ消えろ!」
「やだね」
 男は両手を広げて少年の前に立ちふさがった。
「今時本物の銀細工なんて、めったにお目にかかれるもんじゃない。その輪っか一個で二、三年は遊んで暮らせると見たね、俺は」
 その目がすい、と細くなる。
「そんなお宝を前にして、指をくわえて見ていられるもんじゃねえ。どうしても手に入れたいんだよ、俺はな」
 いつの間にか、男の手には銃が握られていた。一条の光が闇を走り、少年の頬に鮮やかな紅い筋をひいた。
「さっさとよこさないと、今度は頭におみまいするぜ」
「できるものならね」
 少年は、平然と男の脇をすり抜け、路地の出口へ向かって歩き出した。男の顔が、さっと朱くなる。
「なめんな、このガキ!」
 再び男の銃が火を吹いた。さっと身を翻しざま、少年の手からも銀色の光が迸る。小気味よい音とともに、一本のナイフが男の髪の一ふさをかすめ、背後のコンクリート塀に柄のあたりまでつきささっていた。男の口から思わず小さな口笛がもれる。
「中々…やるじゃないか、坊や」
 言い終わらぬうちに、再びナイフの雨が襲いかかる。が、男も一つ所にぐずぐずしているような莫迦ではない。十数本のナイフは、空しく地面につき立った。
 狭い路地には、身を隠す場所もない。相手の攻撃からいかに身をかわすかという反射神経と、どれだけ長く戦っていられるかという持久力が、勝負のカギとなる。となると、前者はともかく後者においては、明らかに少年のほうが不利であった。充分なエネルギーで長時間の使用が可能であるレーザーと違って持ち歩けるナイフの数には限りがある。次第に、少年の顔には焦りの色がみえてきた。
「そらそら、どうした!」
 猫が鼠をなぶるように、男は少年を追いつめていった。何度目かの跳躍の後地面に降り立った少年がはっと顔を上げると、男の銃口がその額にぴたりとあてられていた。
「ここまでだ。さ、輪っかよこしな。―中々頑張ったよ、お前も…。だけど、この俺…『不死身のディルック』さまの相手をするには、十年早かったな」
 それを聞いた少年の顔に、驚きの表情がうかんだ。
「不死身の―!? じゃ、あんた…」
「知ってんのかい。嬉しいね。さて…それなら話が早いや。いう事を聞いてもらおうか」
 男は得意げに喋りだし、そのすきに―銃口が、かすかにゆるんだ―少年は叫んだ。
「いやだ!!」
 そのまま横にとびのき、転がったままの姿勢から投げたナイフが、狙い違わず男の右肩につきささった。しかし、それよりもほんの少し―おそらくは一秒の何百分の一かそこら―早く、レーザーが少年の胸を貫いていた。
「ぐ…」
 二人の口から、同時にうめき声がもれた。しかし、男が肩をおさえてそこに膝をついただけなのにひきかえ、少年の方はもうぴくりとも動かなかった。
「…ったく、てこずらせやがって…」
 肩の傷口もそのままに、男は少年の体を抱き起こし、目あての銀細工をはずした。乱れた髪の毛が額にこぼれ落ちる。かすかに開いた口許に、赤いものが一筋流れている。その肩は、彼に比べるとまだまだ幼く、華奢だった。
「…殺すことはなかったかも知れないな。でも…ま、悪く思うなよ。俺の方が殺られてたかも知れねェんだからな」
 少年の額にかかる髪をそっと払いのけてやり、男はおざなりに十字を切った。
「―時々は、神様にお前のことを祈ってやるよ」
 そのまま死体を静かに地面に横たえると、彼は路地の出口へ向かって歩き出そうとした。
「…!?」
 その足首を、誰かがつかんだ。
「…てめぇ…!」
 男が再び銃を構えるよりも早く、一本のナイフが深々とその額につき刺さっていた。声もなく崩れ落ちるその手から、銀の輪が転がり落ちる。それを、少年の震える手がぎゅっと握りしめた。
 苦しげに喘ぎながらも、少年は勝ち誇ったように微笑んだ。その体を、激しい痙攣が襲う。―しばらくの後、そこには物言わぬ二つの骸がころがっているだけだった。

 いつのまにか、雨が降り始めていた。雨は、どんなものにも分け隔てなく降り注ぐ。誰も顧みない暗い路地をも、雨の滴は優しく洗い清めようとしていた。
 そのつきあたり近く―降りかかる水の粒をふり払いながら、一つの影がゆっくりと立ち上がった。しなやかな、華奢な身体に、長い髪がまとわりつく。手にした銀の輪で少年は髪を束ね、傍らの死体に目をやった。かっと見開いたままの目をそっと閉じてやり、しばらくの間じっとそこに立っていた。
「あんたにとっての命って…安っぽいものだったんだね…こんな小さな輪のために…殺し―殺されて…」
 老人の言葉が、少年の頭をよぎる。
(酒に逃げるのは、早すぎる…家へ帰れ。今ならまだ、間にあうんじゃからな…)
(わしのようになる前に…)
 少年の髪や体にまとわりついた雨の滴が、どこからか洩れてくる光に、きらきらと光った。少年は空を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「でも…さ。お爺さん…あんたの罪はもう…もう…誰一人気にしてないよね…」
 そして、自分が殺した男に再び目を移したとき、冷たかった少年の表情が、泣き出しそうに歪んだ。が、すぐにまたもとの表情に戻ると、少年は街のほうに向かってゆっくりと歩き出した。
「『わしのようになる前に…』お爺さん、それは僕の台詞だったかも知れないね…」
 つぶやいた言葉は、雨の中に溶けた。やがてその姿も、ゆっくりと夜の中へ消えていった。

〈了〉
 


オリジナルトップに戻る   玉櫛笥に戻る