序章


 土鍋の中で、黄金色のだし汁がたぎり始めていた。
 その傍らには千六本に刻まれた大根とあさりの剥き身が山盛りに用意されている。
「そろそろ、いいかな」
 コズミ博士が、大根を一つかみ、無造作に鍋に放り込む。続いて、今度はあさりを一つかみ。ほんの一瞬静かになったもののすぐにまた勢いを盛り返しただし汁の中、大根とあさりが派手に踊りだす。
「ギルモア君、今じゃ。早う引き上げんと硬くなってしまうぞ」
「お…おう」
 ちゃぶ台の向かい側に座ったギルモア博士が慌てて箸と小鉢を手に取る。隣に置かれた揺り籠の中では、イワンが興味深そうにその様子を眺めていた。彼らは今日、研究の打ち合わせということで、泊りがけでコズミ邸を訪れていたのである。三人だけの、和やかな夕餉の風景。
「ちょいと七味をかけてもまた、美味いんじゃよ」
 言いながら、コズミ博士は自分の小鉢にさっと一振り。差し出された小さな瓶を受け取ったギルモア博士は素直にそれを真似る。
「さあそれじゃ、熱いうちにどうぞ」
 勧められるままに、ぱくりと一口。途端、ギルモア博士の目がまん丸に見開かれた。
「う…美味い!」
 そうじゃろそうじゃろ、とにこにこしてうなづくコズミ博士。しばらくの間、二人の老人は鍋を挟んでせわしなく箸を動かし、食事に没頭していた。
 そこに聞こえた、小さなあくびの音。
「おお、そうじゃった。食べるのに夢中で、肝心の話をすっかり忘れていたな。すまんの、イワン君」
「ドウゾ、オ気遣イナク。デモ…めんばーハモウ、ソロッタノ?」
「おう、勿論だとも。もっとも、メンバーというてもここの三人と、後は石原君と藤蔭君だけじゃがな」
「二人は、協力してくれると?」
 少し不安げなギルモア博士の問いかけに、コズミ博士は大きくうなづいて見せた。
「石原君はもう、二つ返事で引き受けてくれたよ。藤蔭君は…最初は渋っていたがな、わしと石原君の二人がかりで説得したら、最後はうんと言ってくれた。一度引き受けた以上は何事も責任を持ってやり遂げる人間じゃで、大船に乗ったつもりで任せてくれたまえ」
 それを聞いて、ギルモア博士もようやく安心したようだった。が、すぐにまた。
「じゃが、わしらの方はどうする?」
「コノツギボクガ眠リノ時間ニハイルノハ、一週間後ダヨ」
「わしゃあ、この前の検診で少々血圧が高めと言われてしもうたから、まあ、高血圧でひっくり返ったことにでもするつもりじゃ」
「そうか…じゃあ、わしはどうしようかのう…」
「ぎるもあ博士ハ、ギックリ腰カ何カニナレバイイヨ。二人トモ病気ジャ、アヤシマレルカモシレナイ」
「いや、そうじゃなくて…わしが家にいたんではまずくはないかと思っての。やっぱり、どこかに入院でもせんと…しかし、石原君のところには入院設備はないし…」
「安心しなされ。うちの大学付属病院の特別室にご招待するでな。医学部長と病院長には貸しがあるんじゃ」
「貸し?」
「おうさ。点五の青天井ルールで、大三元と字一色のダブル役満、リーチ一発ツモにドラ四つくっつけて和がってやったことがあるんじゃよ。メンツのもう一人は学長だったがな、三人とも真っ青になって『何でも言うことを聞くから支払いだけは勘弁してくれ』と泣きよったわい。付属病院の特別室で済めば、安いもんじゃ」
「コズミ君…君、一体大学で何をやっとるんじゃ?」
 呆然とするギルモア博士に、コズミ博士はからからと笑った。
「ただしな、人の命を預かる場所じゃで、そうそうニセ患者が場所をとるのも申し訳ない。じゃからベッドを二つ運び込んでもらって、わしと同室じゃ。それでも、いいかの?」
「勿論だとも!」
 今度こそギルモア博士は心の底から晴れ晴れとした顔になった。そうとなれば、早速食事の続きである。
「ネエ、博士。ボクモソレ、ヒトクチ食ベタイナ」
 イワンがギルモア博士の小鉢に小さな手を伸ばす。
「おう、よしよし…あさりは噛むのが大変だから、大根にしような。冷ましてやるから、ちょっと待っておいで」
 やわらかく煮えた大根の、七味がかかっていないところを小さく箸でちぎり、ふうふう息を吹きかけて冷ましてやったギルモア博士が、そうっとそれをイワンの口に運ぶ。
「オイシイネ」
 にっこり笑ったイワン。が、傍らで顔を真っ赤にしながら小鉢と格闘している二人を見て、首をかしげる。
「冷タクナッタッテ、ジュウブンオイシイジャナイ。ドウシテ、ソンナ熱イノヲ無理シテ食ベルノ?」
 ギルモア博士とコズミ博士が、顔を見合わせて笑った。
「それが、大人の楽しみというものなんじゃよ」
「フーン?」
 大人の考えることはわからない、と内心ため息をついたイワンであった。
 そして。
「それにしてもコズミ君。こんな美味い料理をどこで覚えたんじゃね?」
「ああ。わしが愛読しておる時代小説に出ておったんじゃよ。江戸時代を舞台にした殺し屋の話じゃ。現代風に言えば、ハードボイルドなピカレスク・ロマンというやつじゃな」
「ほう…?」
 どうしてハードボイルドに鍋料理の作り方が出てくるのだろう。日本人の考えることはわからない、とギルモア博士も内心で大きなため息をついたのであった。





 朝の電話は誰もが一瞬どきりとする。その日、全員揃って朝食のテーブルを囲んでいた00ナンバーたちもまた例外ではなかった。
「はい、ギルモアでございます」
 果たして、受話器を取り上げたフランソワーズの耳に飛び込んできたのは、慌てふためいた石原医師の声。
「朝早くからすみませんっ! 実は今日お約束していた件なんですが、僕が診ている近所のおばあちゃんの容態が急変しまして…」
「まあ、それは大変ですわね…それでは、延期致しましょうか? こちらの方は全然構いませんので」
「いえっ! そんなわけにはいきませんっ! コズミ先生とも相談して、急遽代わりの医者を頼みました。僕の大学時代の先輩で、名前は藤蔭…ふじかげ、ひじり! 皆さんのことも全部お話ししましたが、腕も人柄も絶対的に信用できる人ですから、ご安心下さい。じゃ、お約束の十時には藤蔭先生が伺いますから、どうぞよろしくっ!」
 一方的にしゃべりまくられ、いきなり電話を切られたフランソワーズはぽかんとした表情で背後の仲間たちを振り返った。

 そしてここ、某大学付属病院の特別室では。
「よし、よくやった石原君! これで、第一段階終了じゃな」
 携帯電話を切り、額の汗を拭った石原医師にコズミ博士の声が飛んだ。電話に出たのがフランソワーズと知って、今までギルモア博士と二人、頭から毛布の中にもぐりこんで息を殺していたのである。二人のベッドの間に置かれた椅子にへたへたと座り込んだ石原医師は、張り詰めていた緊張が一気に緩んだのか声も出ない。そんな愛弟子を優しく見つめていたコズミ博士が、今度はギルモア博士のほうに向き直った。
「後は、藤蔭君を信じて全面的に任せるだけじゃ」
 ギルモア博士が無言のままうなづく。その両手は、祈るように固く、固く組み合わされていた。

「どうも、気に食わないな」
 食後のコーヒーを一口啜り、アルベルトがつぶやいた。
「何が?」
 聞き返したジョーに、薄氷色の視線が飛ぶ。表情がない。
「今度の『健康診断』だよ。ギルモア博士が何故この時期にそんなことを言い出したのかがまずわからないし、あちこちでケチがつきすぎる」
「でも博士の主張に論理的破綻はなかったじゃないか。確かに僕たちはサイボーグだ。生体組織の機能を機械部品がサポートして、怪我や病気に対しては普通の人間よりも遥かに強い抵抗力を持っている。でも、もともとが戦闘用…だから、どうしても外傷への対応に重点が置かれて、内臓疾患に対するセキュリティは今一つ甘いし、何よりもどんな機械を入れたところで生体組織そのものの免疫力や治癒力を上げることは不可能だ。だから一度、徹底的に検査する。別に、おかしなところは何もないと思うけどな」
「お前さんらしくもないな、ピュンマ。だったら、俺たちが受けているメンテナンスは何の為だ? 別に、生体組織の能力まで面倒見てもらわなくったっていいんだよ。どっかがおかしくなったとき、それを知らせてくれりゃ十分だ。俺は自分の中の機械にそこまでの期待はしてない」
「でもそれじゃ、実際におかしくなったときにはどうすればいいアル? 機械部品ならギルモア博士に直してもらえばいいし、機械と生身の連結に問題があればコズミ博士の知恵を借りることもできるネ。でも、生身の部分、それも内臓に異常が出たとしたら、わてらは誰を頼ればいいアルか?」
「石原先生と知り合う前なら、俺もそう考えたんだけどな」
 アルベルトの口の端が、かすかにつり上る。
「しかし、少なくとも今は、いざとなりゃ俺たちの治療はあの人がやってくれる。ジョー、お前だってこの前大風邪ひいたとき、あの先生に治してもらったじゃないか」
「あ…うん、それはそうだけど…」
「『何故この時期に』というのはそういう意味だ。まして、いざ俺たちがこの『健康診断』とやらを承諾して、血液だの尿だののサンプルを石原先生に手渡して以来、周囲にやたらと病人、怪我人が出ている。最初にコズミ博士が高血圧で、次にギルモア博士がぎっくり腰で入院だ。おかげでいざ検査結果が出ても、俺たちにそれを説明してくれる人間が誰もいなくなっちまったじゃないか。でもって、急遽代役を頼まれた石原先生がこれまただめになったとくりゃ、疑問を抱かない方がおかしいだろう。第一健康診断の結果なんざ、異常のあるなしをカルテにまとめてそれぞれに手渡しゃ充分じゃないか? まあ、不本意ながら俺たちはとても『普通人』とは言えんから、その件を考慮したとしても…どうしてそこまで口頭の結果説明にこだわるんだ? まるで…その藤蔭医師を俺たちのところへ寄こす為に全てが仕組まれたような気さえする」
「そりゃいくら何でも、考えすぎじゃないのか?」
 かろうじてグレートがそう言ったものの、それ以上反論できるものは誰もいない。仲間たちの間に、沈黙が落ちた。
 ややあって、それを破った鶴の一声。
「あああっ、もういいじゃねえか! 今更何を考えたって、その…藤蔭聖とか言う医者が来るまでもうあと一時間もねぇんだろ? とにかく、一時間すりゃそいつがどんな野郎だかわかるんだ。後のこたぁ、それから考えることにしようぜ!」
「相変わらず、お前は単細胞だな」
 アルベルトは不満そうだったが、ジェットの言葉もまたもっともであった。結局他にいい案も出ないまま、彼らは不承不承、おとなしく藤蔭医師を待つことにしたのだが…
「来たわ!」
 十時五分前。フランソワーズの声が響く。
「今、海沿いの道をこちらに真っ直ぐ向かってる…淡いパープルのセダン。乗っているのは一人…って、ええっ!?」
 フランソワーズが驚きの声を上げたまま絶句してしまった理由は、すぐさま全員の知るところとなる。
 きっかり十時に、ギルモア邸の呼び鈴が鳴った。
「初めまして。藤蔭と申します。今日は、石原先生の代理として伺いました」
 慌てて迎えに出たメンバーたちの目の前に立っていたその人は―
 年の頃は三十代半ばか。緩やかなシニョンに結い上げた黒く艶やかな髪、、同じ色の切れ長で大きな瞳、透けるような白い肌―そして華奢で長身の身体をダークグレーのスーツで包んだ、日本人形を思わせる美しい女性であった。
「石原先生から、申し送りを受けております。ギルモア先生の書斎を拝借してよろしいことになっているとか」
「は…はい、こちらへどうぞ」
 戸惑いながらも家の中へ案内するフランソワーズに続き、ギルモア博士の書斎へと消えたその後姿を、残る全員は呆然として見送ったのであった。

 


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