第七章 ジェット


「どうしよう…お塩、切らしちゃったわ…」
 フランソワーズが泣きそうな表情でキッチンから顔を覗かせたとき、ジェットは内心「しめた!」と思った。
「それじゃすぐに買って来いよ。新聞にチラシがはいってたぜ。隣町のスーパー、今日は安売りだってよ。ジョーに車出してもらえば、夕飯の仕度にゃ充分間に合うだろ」
 リビングのソファで寝っ転がっていたくせにぱっと飛び起き、隣で雑誌を読んでいたジョーをも無理矢理立ち上がらせる。
「でも、説明が…ピュンマの次は私だって、藤蔭先生に言われてるのよ。お塩なら、歩いて五分の酒屋さんにも売ってるし…」
「そうだよ。何だったら僕がかわりに買ってきても…うわ、ジェット! そんなに押すなよっ! こっ…転ぶっ!」
「いいからいいから。説明は俺が代わってやるからさ。先生にも俺がちゃんと謝っといてやるよ。ほれ、さっさと行った行った」
 ぶつぶつ言う二人を強引に家の外に追い出し、勢いよく閉めたドアにもたれたジェットはほっと息をつく。
(助かったぜ…)
 彼もまた、アルベルト同様藤蔭医師に不信の念を抱いていたのであった。最初の張々湖の説明がやけに長引いていた時点から、二人でこっそり対応策を話し合っていたのである。
(どうやら今回は年食ってる順らしいから、切り込み隊長の役は俺が引き受ける。…何かあったら、後は頼むぞ)
 そう言って書斎に入っていったくせに、出てきたときの彼は先の二人―グレートや張々湖と全く同じ状態になっていた。黙り込んだまま、何か深刻に考え込んでいるようで、取りつく島もない。おまけに、あんなに嫌がっていた電話にも素直に出て、結構長話をしていた。
(まあ、全部が全部、悪いたあ言わねえが…)
 だが、続いてジェロニモまでもが同様の状態になってしまった今となっては、とても見過ごすわけにはいかない。正体不明のあんな女医のところに、一番生身に近い、すなわちか弱いフランソワーズをたった一人でやれるもんか。…いや、戦闘能力なんか関係ないんだ。
(あの女医は…どうやら俺たちの「心」をつっついてくるみたいだからな)
 メンバー中最強とはいえ、自分よりはるかに繊細で脆いところのあるジョーを先に行かせることだって、絶対にできやしない。
 ジェットの青い瞳が、鋭く光った。

 ジェットの姿に、藤蔭医師は少し、驚いたようだった。
「貴方は…ジェットさん? フランソワーズさんは…?」
「ちょっと急用ができましてね。…別に、俺が先になっても構わないんでしょう?」
 挑むように、ジェットは言う。藤蔭医師の口元が、かすかにほころんだ。
「そうね…却ってこちらにも、都合がいいかもしれないわ…」
「何…!?」
 気色ばむジェットの目前に、ぱっと広げられた白く美しい手。指の隙間から、二粒の黒曜石が妖しい光をたたえてひたと自分を見つめている。
(しまった!)
 そう思ったときにはもう、手遅れだった。

 マック…マッキー…お前は本当に、いい奴だったよな…

 初めて会ったのは、三年前の夏。レーサーとしてデビューしたてのジェットは連戦連勝、来季にはF1参戦間違いなしと言われていたが、まだそれほどの知名度があるわけでもなくて。
 だから、心底びっくりしてしまったのだ。ニューヨークの片隅で、何の気なしに入ったガソリンスタンドの店員が自分の顔を見た途端に硬直し、日に焼けた頬を憧れと尊敬で真っ赤にして、おずおずとフルネームで呼びかけてきたときには。
「俺…ジェットさんの大ファンなんです。貴方の出身地区と俺んち…すぐ近くで。こんなゴミ溜めみたいな町からあんな凄い人が出たんだって、嬉しくて、憧れてて…」
 マックと名乗った店員は、ジェットより二つ年下だった。チャイニーズとジャマイカンの両親のもとに生まれたものの、父親は彼がまだ幼い頃に蒸発、女手一つで育ててくれた母親も、一年ほど前に男を作って出て行ったきり消息不明だという。…かつてのジェットと似たような境遇。しかもマックは、三人の妹と弟を抱えながら懸命に生きていた。二人がすぐに友人になったのは言うまでもない。
「俺もいつか、ジェットさんみたいにでかいことやりたいんです。実はその為に今、少しずつ貯金してて…あ、でもこれは内緒ですよ。ジェットさんにしか、言ってないんスから」
 そう言って笑ったマックの夢がどのようなものかを知ったのは去年の春。いまや押しも押されもせぬF1の花形レーサーとなったジェットだが、マックとの友情は少しも変わらず、一層の親密さで続いていた。
「やっと買えたんだよ、ワゴン! 中古で、スクラップ寸前だけどちょいといじればまだまだ五万は走れそうな奴なんだ。…俺ね、こいつでアメリカ横断したいんだよ!」
 紅潮した頬、きらきらと輝く瞳に、ジェットも満面の笑みを浮かべる。
「すげぇな…マック! 大したもんだ! …で、出発はいつなんだ?」
「できれば、今年の夏。上の妹が働き出したし、弟もバイト始めたんで俺が旅行に出てもやっと大丈夫になったんだ。…俺の、初めての夏休みだよ!」
「そっかぁ…最高の夏休みにしようぜ! 俺も、できる限り協力するよ」
 以来、会う度に二人で綿密に計画を練り、準備を整え―夏になったばかりのその日、マックは意気揚々と古ぼけたワゴンに乗り込んだのだった。
「俺ね…ジェットに会えて、こんなタメ口きけるような仲になれて、本当に嬉しいよ。あんたがいてくれたから、こうして出発できるんだ。ジェットと友達だってことは、俺の誇りだよ」
「ばーか。何大袈裟なこと言ってんだ。俺は、何もしてねえよ。全ては、お前自身の力なんだぜ。…さ、行ってこい。何かあったら、すぐ連絡入れるんだぞ」
「もちろん!」
 胸ポケットから取り出した携帯電話を高々と掲げ、マックはワゴンのエンジンをスタートさせた。この携帯は、ジェットが有名になるにつれ、会える機会が少なくなってしまったのを寂しがっていたマックに、ジェット自身が誕生日にかこつけてプレゼントしたものである。最後に一度、大きくクラクションを鳴らし、ワゴンは誇らかに全米横断の旅に出発して行ったのであった。

「…あ、ジェット? 俺。今からロッキーの山越えに入るんだ」
 久しぶりのオフを、自分のアパートでゆっくりと過ごしていたジェットの携帯が鳴り響く。出発以来、マックからは最低でも一日一度連絡が入り、現在位置や道路状況、天候などを報告してくる。ジェットはその都度運転についての的確な指示や助言を与え、ついでにちょっと世間話をするのが日課になっていた。
「大丈夫かよ。あのあたりは落石や地滑りが多いんだぜ。おまけに昨日まで大雨だったらしいじゃねーか。のんびり電話なんかしてていいのかよ」
「うん、だからちゃんと危険地帯の手前からかけてるよ。…でも、これから山越えするまでは、連絡入れられないと思う。もしかしたら明日一杯電話できないかもしれないけど、心配しないで。山越えたら、すぐにまた連絡するから」
「オーケイ…おっと、悪い。俺の携帯、そろそろ電池がヤバそうだ。今日はこれで切るけどよ、何かあったらすぐに電話してこいよ!」
「わかってらいっ!」
 元気一杯のマックの声。そして二人が、同時に電話を切ろうとしたそのとき。
「う…うわああああああぁぁぁぁっっっ!!」
 突如聞こえた、マックの悲鳴。そして、大地が壊れてしまうような大音響。ジェットの全身から血の気が引いた。
「お…おい、マック! マック!」
 電話はすでに、通話不能になっていた。
「畜生!」
 慌しく地図を取り出し、マックのルートを確かめながら、クローゼットの奥にしまいこんでいた緋色の防護服に着替える。多分、今のマックの位置は…  大体の場所を割り出したと同時に、ジェットはアパートの窓から空に向けて飛び立っていた。

 大規模な地すべりによって無残に赤茶けた地肌がむき出しになった山は、上空から見てもひどく目立った。
「マック!」
 舞い降りた場所には、大きな岩にめちゃめちゃに叩き潰されたボロワゴン。そして、その傍らに放り出され、血まみれになった…マック。
「おい、マック! マッキー! しっかりしろ!」
 そっと抱き起こし、懸命に名前を呼びかけてもマックはぴくりとも動かない。ジェットは、蒼白になった唇をきつく噛みしめた。
 マックの携帯電話はワゴン同様岩に潰され、ぺちゃんこになっていた。慌しく自分のそれを取り出し、救援を呼ぼうとするジェット。だが、マックとの通話の最中からすでに電池切れの兆しを見せていたディスプレイは、番号を押している間にふっと暗くなったまま、何の反応も見せなくなってしまった。
「畜生!」
 マックの様子から判断するに、どうやら頭部に酷く強い衝撃を受けたらしい。脇腹にも深い裂傷があり、かなりの出血が認められた。…できるなら、このまま動かしたくはない。だが、救援を呼ぼうにもこの状態ではどうしようもない。いっそ、自分の脳波通信機の周波数を調整して連絡を取ろうかとも考えた。だが…もしも無事、連絡が取れたとして。
 アメリカの災害救助ヘリコプターは時速二百キロ以上で飛ぶことができる。
(しかしこの、とんでもない強風の中では…)
 昨日まで大雨だったこの周辺はまだ大気の状態が不安定らしく、上空にはとてつもない激しさの風が吹き荒れていた。さしものジェットさえ、危うく吹き飛ばされそうになるのを懸命にこらえながらここまで飛んできたのである。こんな天候の中では、いかに高性能のヘリコプターといえども時速百キロ…いや、八十から九十のスピードしか出せまい。
 ジェットの頭の中で、さまざまなデータがめまぐるしく回転する。…病院、それも災害救助用ヘリコプターを備えているところとなると、どんなに近くてもここから五百キロはあるだろう。
(救護ヘリの時速を百キロとしても、往復で約十時間…)
だったら自分で運んだ方が遥かに速い。ヘリを勘定に入れなければ、確か三百キロほど離れた町に結構立派な病院があるのも知っている。だが、こんな状態のマックを抱えて飛ぶとしたら、出せるスピードはせいぜい六十…いや、五十というところか。それ以上では、風圧で傷口が余計広がる恐れがある。高度も二十以下に抑えなければ、上空を吹く風がマックの身体を冷やし、激しい負担をかけるに違いない。
(必ず…助けるからな!)
 マフラーをほどき、傷口を止血した余りでマックの身体をぐるぐる巻きにする。これで少しは風から守ることができるだろう。頭上に広がる、どこまでも青い空をきっと睨み据え、マックを抱えたジェットは一気に飛び上がった。

 暗い廊下。乾いた足音。自分のすぐ前で立ち止まったのがわかる。だが…今は見たくない。何も…誰も…。
「ジェットさん…?」
 その声に、聞き覚えがあった。のろのろと顔を上げると、マックによく似た少女―以前、一度だけ紹介された―彼の、妹。
「あの…最後まで、兄の為に…本当に、どうもありがとうございました」
 気丈な声の後ろに聞こえる幻の嗚咽。
(…やめろよ。俺なんかに気ィ、遣うなよ…。泣きたいのは、お前さんの方だろうに…)
「兄は…心から貴方を尊敬して…貴方と友達になれたことを兄弟にも近所の人にも自慢していました。だからきっと…」
「やめろおぉぉぉっ!」
 絶叫して、弾かれたように走り出したジェット。後を追ってきた少女の手を乱暴に振り払い、どこまでもどこまでも、走って…走って…走り続けて。
(五時間…何でそんなにかかったんだよ…この俺がついていながら。マッハ五で自在に空を駆け回る、この002様がついていながら…っ!)
 気がつけば、そこはあの、ロッキーの尾根。切り立った断崖の先端から見えるのは、眼下に広がる果てしない森のみ。
(サイボーグでござい、平和の戦士でございなんぞとほざいても、俺は…たった一人の人間すら、助けられなかったじゃねえか!)
 ふらり、とジェットの身体が揺れる。ああ…もうここから、飛んでいってしまおうか。この身体一つで。役にも立たないジェット噴射など、もういらない。そうだ…ここから一歩踏み出せば、マックのところに…行ける。
 虚ろな青い瞳が、ゆっくりと閉じられる。そして大きく両手を広げ、大きく一歩踏み出そうとしたまさにそのとき。
「やめてえええぇぇぇっ!」
 不意に背後から響いた悲鳴。振り向けば…先ほどの少女。
「やめて、ジェットさん…! 兄のことは、貴方の所為じゃない! だからお願い…そんなに、自分を責めないで!」
「うるせぇな! 放っとけよ。どうせ俺なんざ、いずれは地獄行きなんだ! それがちっとやそっと早まったからって、どうってこともねえんだよ!」

 違う…心の底に響く声。俺はあれからすぐに日本へ発ったんだ。マックを思い出させるニューヨークの町にいるのが辛くて…苦しくて…あの娘にだって、あれ以来一度も会っちゃいない。なのにどうして、こんな場所でこの娘と言い争いなんか、してるんだ…?

「俺はマックを助けられなかった。大切な…友達だったのに。何があっても、助けてやるつもりだったのに! こんな役立たず、さっさと消えちまった方がいいんだよ!」
 架空の状況。偽りの風景。吐き出す言葉だけが…真実。
「でも…貴方は前に、友達を助けたわ! 遥かな成層圏で、孤独に消えかけたその生命を捉まえて、この地上に引き戻したじゃない! 役立たずなんてこと…ない…絶対に…」

 ああ…どうしてこの娘はそんなことまで知っているんだろう?

「あんたはそう言うけどな…あのときの状況をあんたは知ってるのか? あのときの俺たちは戦いの真っ只中にいたんだ! 戦い…すなわち、殺し合いだよ! そんな中で誰かの命を助けられた奴が、どうしてこの…平和の中でもう一人の命を助けられなかった? それを思うと気が狂いそうになる! こんな思いを抱いて生きるなんざ、一分一秒だって耐えられるもんか!」
「でもそんな…自分で自分の命を絶つなんて、神様がお許しにならないわ!」
「そんなもん信じられるか! …俺だって、あの時は一瞬…信じたさ。大切な仲間の命を救うことができた、あの瞬間だけはな! だが今度は、同じ神様とやらが同じ大切なダチを見捨てた…そんな気まぐれな奴なんざ、誰が二度と信じるか!」
ジェットの剣幕に、少女がはっと顔を伏せる。マックと同じ、やや癖のある黒い前髪が垂れ下がり、一瞬その顔が見えなくなる。ジェットの頭がほんの少し冷え、「言い過ぎたか」という後悔がちらりと胸の中をよぎった。
しかし。
「『神様なんて、信じない』ねぇ…。ふ…ん…そのくせ、地獄は信じているって言うのに?」
 再びその顔が上がったとき、少女の表情は変わっていた。顔立ちはそのままながら、双の眼だけが異様な光を放ち、黒い炎のように真っ直ぐに、ジェットの青い瞳を射る。
「神様が気まぐれで自分勝手? そんなの、今に始まったことじゃないじゃないの。救う命、見捨てる命を気分次第で簡単に決めときながら、人間にはああだこうだとうるさいことばっかり言うんだからさ。それも、何千年も前からだよ。…ったく、やってらんないわよねぇ」
 あまりの豹変振りに、ジェットは息を呑む。
「でも、だからこそ! 生きてるうちはその勝手な言い分を聞いてやるしかないのよ。いずれ、神様の御許とやらへ行ったときに、喧嘩の一つも売ってやる為にさ」
 青い空を見上げ、少女は不敵に笑う。
「敵に弱みを見せたらその瞬間に負け…それが喧嘩の基本じゃないの。しかも敵は、あんたがかつて仲間を助けたような…そんな奇跡を簡単に起こせる奴なんだよ? だったら、つけ入る隙を少しでも与えちゃだめ! 自殺なんかしたら、そこ突っつかれて喧嘩する前に地獄へぽい、で終わりだわ。勝手でも何でも、とにかく相手の言い分守って、生きられるだけ生きるのよ。それでこそ、『こっちはてめえの言うこと聞いてやったのにどうして』って噛みつくこともできるってもんじゃないの。ねえ、生きてよ! 力の続く限り! あたしたち人間が神様にたてつく為には、それしかないんだからさ!」
「人…間…?」
 さっきとは違った理由で、ジェットの身体がぐらりと揺れる。
「お前…俺を人間だっていうのか? こんな…機械仕掛けの身体になっちまった、あったかい血もやわらかい肉も、いや、この皮膚さえ造りもんになっちまった…この…俺…を…」
「当たり前じゃない!」
 少女は高らかに叫ぶ。
「ジェット・リンク…あんたは、人間よ。例え身体がどうなろうと、その熱い心を持っている限り、ダチのために泣けるその温かさを持っている限り…あんたは世界中の誰よりも、人間らしい人間よ!」
 言葉と同時に、ぱあん、と世界がはじけた。

「…ジェットさん?」
 意識を取り戻したとき、そこには藤蔭医師がいて。
「説明は以上です。大丈夫。貴方は充分、健康体ですよ。だからどうか…何も心配なさらないで下さいね」
 にっこり笑ったその瞳が、あの夢の中の少女に少し、似ている気がした。





「あーあ、行っちまったな」
 遥かなる西の空へと飛び立った飛行機を見送りながら、ジェットがつぶやいた。
 一週間前には、ジェロニモが故郷アメリカへ。そして今日は、アルベルトとピュンマがそれぞれの国へと帰っていった。幾ら何でもみんないっぺんに帰ってしまっては在日組がさぞ淋しがるだろうと気を遣った三人は微妙に離日日程をずらしてはくれたのだが、それでも取り残される方はやはり、一抹のもの悲しさを禁じえない。
「みんな随分と長い間日本でトグロ巻いてたくせに、帰るとなるとあっけないもんだな。あのドイツのオッサンなんか、こっちに来る前退職届まで出してきたんだろ? 国へ帰ってからどうやって暮らす気なんだ」
「あら…でもそれ、確か受理されてないんじゃなかったかしら?」
「へえ…?」
 こちらも心もちしんみりとしたフランソワーズの言葉に、ジェットが怪訝そうな顔を向ける。
「会社の友達…ワルターさんとかいう人が握りつぶしてくれたらしいよ。だから、今でもアルベルトは長期休暇扱いになってるんだって」
「友達って、ありがたいわよね」
「そうだね」
 顔を見合わせて微笑み合っても、ジョーとフランソワーズの表情にはどこか元気がない。そんな二人を横目に肩をすくめたジェットの口からも、知らず知らず同じ言葉がもれる。
「友達、か…」
「でもさ、ジェットがまだ当分こっちにいてくれるんだからそれでいいよね」
「そうよ! 私たちだけが取り残されちゃったわけじゃないわ」
 不意にジョーとフランソワーズが両腕に抱きついてきて、ジェットは飛び上がった。
「おい、おどかすなよ! お前らって、行動に出る前何も考えてねーだろ」
「ジェットにそんなこと言われたくないわ」
「僕もだよ。…でもジェット、本当に、帰らなくてもいいの? もしかして僕たちに気…遣ってる?」
 憎まれ口を叩きながらも心配そうにこちらを見上げる茶色の瞳。ジェットの口元がわずかにほころぶ。
「そんなこたねぇよ。俺が帰らないのはまだ、土産が用意できてない所為さ」
「土産…?」
「ああ。ニューヨークのマブダチがさ、首を長くして待ってる土産だ」
 きょとんと目を丸くしたジョーがジェットを見つめる。ジェットは手をのばし、そのさらさらと手触りのよい髪を思い切りくしゃくしゃとかき回した。
「F1の、優勝カップだよ…。見てろ、ジョー! 今シーズンは俺が頂きだ。悪いがお前は二位以下を狙ってくれ」
 悪戯っぽくそう言われて、ジョーの優しげな瞳にも闘志の炎が燃え立つ。
「そんなこと、させるもんか! 僕だって当然、優勝を狙うさ。二位以下を…って台詞、そのまま君に返すよ」
「おう、言ったなぁっ! じゃ、俺のこと捕まえてみろってんだ。前哨戦だ、手加減なしだぜっ」
「ようしっ!」
 たちまち、追いかけっこが始まる。
「ちょっと二人とも! こんなところで…やめてよっ! やるんだったら外へ出てからにしてちょうだい!」
 フランソワーズの抗議もどこ吹く風、赤と栗色の髪をなびかせた少年たちは完全に、じゃれあう二匹の子犬状態だ。
 と、追いかけてきたジョーの手を紙一重でかわしたジェットの指が、無意識のうちに胸ポケットを押さえる。

 そこに入っている一枚の写真―ジェットと肩を組み、屈託なく笑っている浅黒い肌、黒い癖っ毛の少年のことは、ジェット以外の誰も知らない。

 


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