第九章 アクシデント


 深夜。誰かの声が聞こえたような気がして、フランソワーズは目を覚ました。仲間たちとは違う。かすかな、細い…女の声。
(誰…? どうして…?)
 ひそめられた眉の下、水色の瞳が不安げに細められる。彼女の目と耳に埋め込まれた感覚センサーは、眠っている間は安眠保護の為、自動的にその感知レベルを常人並みまで下げるよう、プログラムされているはず。
(なのに…何故?)
 不審に思い、ベッドに起き上がった彼女は意識して感知レベルを最大に引き上げる。声はどうやら、家の外から聞こえてくるようだ。おまけに、どんなに耳をすましても切れ切れにしか聞こえてこない。ますます、訳がわからなくなった。
(歌ってる…)
 それでもようやく、それが歌声であることはわかった。フランソワーズは耳に頼ることをやめ、今度はその瞳で、ギルモア邸の周囲を探索する。
(あ…!)
 家から五キロほど離れた岩場。夏ならば素潜りや磯遊びに最適なプレイスポットとしてにぎやかなその場所も、こんな真冬には訪れる人とてない。まして今夜は吹雪だし、海だってかなり荒れている。下手に近づけば、波にさらわれてそのまま天国行きだ。
 その岩場の一番端、高い波と舞い飛ぶ雪が容赦なく打ちつける巨大な岩の上に立つ、細い影。
(藤蔭…先生!)
 ブラウスとスカート、そして白衣だけというその服装にフランソワーズはぞっとした。藤蔭医師が生身の身体だということは、一番初めに彼女自身が確かめている。真冬の深夜、まして吹雪の中、そんな薄着であの場所に行こうものなら、サイボーグの自分とて、間違いなく風邪をひいてしまうだろう。生身の人間にとっては、明らかに自殺行為だ。とっさにベッドから飛び出し、仲間たちを呼ぼうとしたフランソワーズだったが、何を思ったのかつと動きを止め、その手を耳に当てる。
 しばらくの間、彼女は目と耳の感覚をさまざまに調整して、藤蔭医師の姿とその喉から漏れる歌声とを一心不乱に探り続けた。
(やっぱり…)
 思ったとおりだ。岩場の上に立つその細い姿は、紛れもなく実体。視力レベルを上げればくっきりと、下げればぼやけて見える。だが、その歌声はいくら聴力レベルを変化させてみたところで、大きくも小さくもならない。
(この歌は…通常の音、人間の声じゃない。…テレパシー?)
 そう思えば、イワンのテレパシーにどことなく似ているような気もするが、必ずしも同じものだと言い切ることができない。少なくともテレパシーには指向性があるはず。なのにこの歌声は誰にあてたものでもない。…強いて言うなら、自分の胸の想いをただ、吐き出しているに過ぎない、そんな気がする。
(この歌は、誰かに聞かせるためのものじゃないんだわ…)
 何とか、もう少しはっきりと聞き取る手立てはないものだろうか…その一点に、フランソワーズが全神経を集中させたとき。
 闇夜に降りしきる雪を呑み込んで岩に砕ける波よりも遥かに大きな波動が彼女に襲いかかってきた。
(何…何なの、これは…!)
 身を切るような悲哀。絶対的な孤独。失われたものへの、哀切極まりない思慕。決して満たされぬ渇望。頭上を覆う夜よりも、足元に広がる海よりもなお、深い深淵。
 悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。反射的にそれから逃れようと、身じろぎした刹那!
 第二の波動、決定的な衝撃が怒涛の勢いで押し寄せてきた。頭の中に流れ込んできた感情がそのまま視覚化され、彼女にとって何よりも残酷な映像が心の中に直接映し出される。
(ジョー…っ!)
 夢とも現ともつかない中、彼女は血も吐かんばかりに絶叫していた。
 荒野に吹き荒ぶ雪。冷たい夜。大地の白と、大空の黒の間に、たった一人うつぶせに斃れている―愛する人の姿。
 緋色の服も、栗色の髪も半ば雪に埋め尽くされ、その痕跡を完全に消そうとしている。まだ少年の香りが残る華奢な体はぴくりとも動かない。こちらを向いた顔からは完全に血の気が失われ、生の証も命の気配もすでに…ない。
 蒼白な頬。軽く閉じられたまぶた。それはすでに死神に魂を捧げ渡した、ただの抜け殻に過ぎなかった。なのに…なのにその唇は、かすかに微笑んでいるようで。
 美しい表情。
 だがそれは、人の世のものではない。
 隠り世の安息。幽冥の平穏。彼岸の至福。
(…いけない! そんなものは、命ある人間の求めるものじゃない!)
 今すぐに、あそこに行かなくては。彼の頬に触れ、彼の名前を呼び、彼の身体を温めてやらなくては。
 行ってしまう。
 大切なものが。
 この命より、世界より、宇宙よりも大切な。
 …はかない、白い鳥が。
 逝ってしまう。
 なのに。
 手が届かない。
 足が…動かない。
 声が…でない…。
全身を灼かれるような想いにも関わらず、四肢は全くいうことを聞かない。そうしている間にも、彼女が誰よりも愛している少年は、美しく凍てついた表情のまま、雪の中にゆっくりとその姿を溶かし―
(嫌ああああああぁぁぁぁっっっ!!)
心と身体の狭間で引き裂かれた自我が、天地を引き裂くばかりの激しい悲鳴を上げた。
 最後に覚えていたのは、遠い岩場ではっとしたようにこちらを振り向いた藤蔭医師の顔。驚愕と悔恨、自責とかすかな…歓喜がないまぜになったその表情を捉えたのも一瞬のことで、白衣の女医はさっと身を翻し、岩の上から姿を消した。
 そして、気がつけばベッドの上で、自分自身を壊れんばかりに抱き締め、小刻みに震えているフランソワーズだけが残っていた。
(今のは…幻だ…現実じゃない…)
(そうよ…私は現にこうして自分の部屋にいるじゃない)
(きっとジョーも…自分の部屋で静かに眠っているに違いない。そして、明日の朝にはいつも通りの…あの優しい笑顔で語りかけてくれるんだわ…「おはよう、フランソワーズ」って…そう…きっとそうよ)
 何度自分に言い聞かせようと、たった今目にしたあの映像はあまりにも鮮烈過ぎた。幻だと思い込もうとする心の隙間から、闇色の疑惑が抑えても抑えても湧き上がり、思考の全てを冷たい恐怖に染め上げる。一目、ジョーの部屋を透視しさえすればそんな疑惑など跡形もなく打ち消すことができるのに、それさえも恐ろしすぎてできない。
(もし、あれが真実だったら)
(ベッドの中のあの人が冷たい骸になってしまっていたら…)
(嫌だ…そんなの…絶対に…嫌…。もしそんなことになってしまっていたら…私も…生きてなんか…いられない…)
 幾度となく蘇る記憶と凍りつくような恐怖、そして言い知れぬ不安にさいなまれ続けながら、フランソワーズはそのままずっと―窓の外の空が白み、やがて暖かな朝日が世界を照らし初めてもなお―自分で自分を抱き締めたまま、震え続けていた。

 フランソワーズの部屋の前で、ジョーはほんの少しの間、躊躇っていた。
 いつもなら家で一番早起きの彼女が、今朝に限っていつまでも姿を現さない。時刻はそろそろ午前八時半。本当なら、みんな揃って朝食のテーブルを囲んでいる頃だ。
(まあ、食事の方は僕たちだけでも何とかなるからそれはいいんだけど)
 こんな時間まで起きてこないのは絶対におかしい。女の子の部屋に、男の自分がずかずか入っていくのは問題だが、もし、彼女に何か異変が起こっていたりしたらそれこそ取り返しがつかない。ジョーはついに、心を決めた。
「フランソワーズ? 起きてる?」
 控えめに、ドアをノックしてみる。返事は…なし。念の為、もう一度繰り返しても結果は同じことだった。ジョーの顔から、血の気が引いていく。
「フランソワーズ!」
 壊さんばかりの勢いでドアを開けたその栗色の瞳に映ったのは―
 ベッドに座り込み、とめどない涙に頬を濡らしながら自分を固く抱き締め、小刻みに震え続けるフランソワーズの姿だった。
(みんな、来てくれ! 早く!)
 頭が割れるかと思われるほどの強烈な脳波通信を受けた仲間たちが慌ててフランソワーズの部屋へ駆けつけたとき、ジョーは彼女のベッドの傍らに跪き、泣きそうな顔で必死にその名を呼び続けていた。
「フラン…フランソワーズ! どうしたの! 僕だよ…ジョーだよ! フランソワーズ…お願いだから、こっちを向いてくれ!」
 繰り返し呼び続けた所為でその声も掠れかけた頃、ようやく水色の瞳がゆっくりと彼の方を向いた。
「ジョー…」
 消え入りそうな声。ジョーは大きくうなづき、フランソワーズの華奢な手をしっかりと握り締める。
「そうだよ、僕だよ…フランソワーズ、一体どうしたの…。具合でも、悪いのかい?」
 ほっとして優しく語りかけるジョー。しかし次の瞬間、彼は驚きのあまり、素っ頓狂な叫び声をあげることになる。
「ジョー!!」
 あろうことか、いきなりフランソワーズが渾身の力で自分に抱きついてきたのだ。それも、不安げに見守る仲間たち全員の前で。
「ジョー! 貴方なのね…貴方は…ここにいるのね? 生きてるのね?」
「ちょ、ちょっと…フランソワーズ!?」
 昨夜の彼女の体験などまるっきりあずかり知らぬジョーとしては、目を白黒させて背後の仲間たちの方を振り向くしかない。しかし、こんな状況で適切な対応ができる者など誰一人いるはずもなく―
「おい、あの先生呼んでこい。こりゃ、とにかく医者に見せるべきだ」
「よっしゃ、わかった!」
 真っ先にそう反応したのがアルベルトとジェットであったことが不思議といえば不思議であったが。
 ともあれ、瞬くうちにジェットは藤蔭医師を連れて戻ってきた。心なしか、やはり青ざめた顔をした女医は、それでも部屋に到着するやいなや冷静にフランソワーズの脈を取り、男どもを全て追い出して―ただし、ジョーだけは別だった。フランソワーズが固く彼の手を握り締めたまま、どうしても離そうとしなかったのだ―その胸に聴診器を当て、診察を始める。ジョーはといえば仕方なく、その間固く目を瞑り、そっぽを向いているしかなかった。
「もう、目を開けていいわよ」
 藤蔭医師に肩を叩かれ、ようやくジョーは目を開く。部屋に溢れる朝の日差しがまぶしい。
「悪いけど、ちょっとこの子を見ててちょうだい。石原先生に連絡するから」
 そう言い捨てて、藤蔭医師は部屋を走り出て行った。フランソワーズはといえば、まるで幼い子供のようにひたすらジョーにしがみついているばかりである。その身体がまだ、かすかに震えているような気がして、ジョーは何が何だかわからないままに、そっとその華奢な肩を抱き、なだめるように金色の髪をなで続けることしかできなかった。
 そして、慌しく部屋に戻った藤蔭医師はというと―
 バッグの中から携帯電話を取り出し、目にも留まらぬ速さで右手の親指をボタンの上に走らせる。
「あ、もしもし、石原君? あたしよ。藤蔭」
 声を潜め、ドアの方を気にしながら早口で話し出す。
「ごめん…ドジった。…秘密兵器がちょいと暴発してね。フランソワーズ…だったっけ? うん、彼女をもろに直撃しちゃったらしいの。…いや、放っといてもすぐに治るとは思うけど、何しろ今、あたしと彼女は完全に同調しちゃってるから…今日一日だけはあたしがここにいるのはまずい。だからね、悪いけど渡しといたリスト…ホテルや旅館の名前がずらずら書いてあるやつよ! そう、そのどこでもいいから一部屋とっといて! こっちからはそんな電話するわけにもいかないし、とりあえず後始末もしとかなきゃいけないから、時間もないのよ…一泊だけでいいから…リストに載ってればどこでも構わないわ。ちゃんと、あの坊やとコンタクトを取れる範囲内から選んどいたからね」
 切羽詰った口調。なのにふと、藤蔭医師の口元がわずかにほころんだ。
「…でも案外これはラッキーかもしれないね。え? 時間稼ぎができたってことよ。今夜一晩あれば、何とかなる…いえ、何とかして見せるわ。…大丈夫だって。お姐さんを信じなさいってば。…じゃ、コズミ先生とギルモア先生によろしくね」
 電話を切った後は、再び駆け足でフランソワーズの部屋にとって返す。
 状況は、少しも変わっていなかった。ただひたすら、必死にジョーにしがみついているフランソワーズ。その水色の瞳は、ジョーだけを見つめ続けている。少しでも力を緩めたら、少しでも目をそらしたら目の前のこの少年が消えてしまうかとでもいうかのように…。
 しがみつかれたジョーの方は困惑しきった表情で、戸惑った瞳を藤蔭医師に向けた。診察が終ったと聞いて戻ったものの、ただ様子を見ているしかなかった他の仲間たちもまた救いを求めるように、ほっそりとした華奢な女医を見やる。
 いくつもの視線を痛いほどに浴びながら、藤蔭医師はそっとベッドに近づき、ジョーの隣にゆっくりと両膝をついた。
「フランソワーズさん…藤蔭です。…私が、わかりますか? 私の声が…聞こえますか?」
 穏やかに話しかけながら、片方の手で静かにその頬に触れると、フランソワーズははっとして藤蔭医師のほうを振り向いた。途端、その体がびくりと震える。驚愕の表情ではあるが、怯えてはいない。むしろ、その瞳に浮かんでいたのは畏敬の光。と同時に、深い悲哀と…躊躇いがちな、同情。それらの全てを目敏く読み取った藤蔭医師は、ジョーの邪魔にならないよう注意しながら、もう片方の手をも静かに上げる。そして、フランソワーズの頬を両手で包み込むようにやわらかく挟んで。
「大丈夫ですよ。貴女が見たのは、全て幻…貴女の大切な人はちゃんと生きて、ここにいます。今日は彼がずっと傍にいてくれますからね。安心して、ゆっくり心を休めなさい」
 フランソワーズが、おずおずとうなづく。そして、藤蔭医師の手が離れたと同時にその瞳は再びジョーを振り返ったが、少なくともその中から、今までの必死の色と緊張は消えていた。心なしか、しがみついている手の力もやわらかくなったような気がする。
「多分これは…精神的な問題でしょうね。昨夜はかなりの吹雪だったし…雨だの雪だのが降ったりすると水の気が乱れて、女性は影響を受けやすいんですよ。女は水の性とも言われますし、それでなくとも若い女性の心理状態は不安定だから…でね、島村さん」
「は…はいっ!」
 突然自分に振られてジョーは硬直する。
「今の彼女にとって何よりの薬は貴方です。今日一杯、彼女のナイトか番犬になったつもりでずっとついていてあげて下さい。そうすれば、夜までには回復するでしょう」
 何だかよくわからない説明だったし、ナイト…騎士と番犬ではあまりに落差がありすぎはしないか。ジョーの混乱は一層増すばかりだったが、他の仲間たちはそれで皆納得したらしく、黙ってうなづいている。
「あと、説明が残っているのはフランソワーズさんと島村さんのお二人だけなんですが、この状態では今日はとても無理でしょう。…私はいったん勤務先へ戻ります。お二人への説明は明日…この前と同じ午前十時にあらためて伺います」
 そして、半ば一方的にそう宣言し、すたすたと部屋を出て行く藤蔭医師を引き止めようとする者もまた、誰もいなかった。

 


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