傷痕 終章


 翌朝、あくびをかみ殺しながら朝食の席に着いたメンバーたちは、そこに咲き誇る華やかな一輪の花に目をみはった。
「おはよう。あのね、この頃暑くてみんな食欲がないから、今朝のメニューはサラダをメインにしたのよ。もちろん、ボリュームもたっぷりあるわ。夏ばてしないように、しっかり食べてね!」
 大きなガラスボウルに山盛りになったサラダを乗せた銀のトレイを自慢するように少し持ち上げ、微笑んでいたフランソワーズはピンクのタンクトップに、ホワイトデニムのミニスカート姿。いつもの―よく言えば上品、悪く言えば少々地味すぎるファッションとがらりと変わったそのスタイルは、彼女をその年齢本来のはつらつとした少女に見せ、しかも爽やかなセクシーさまで感じさせる。
 たちまちその場に男性陣の賞賛の嵐が沸き起こったのは言うまでもない。
「Wow! 今日はいつもにもまして魅力的だな。ぐっとくるぜぇ」
 そう言って口笛を吹いたのはもちろんジェット。
「本当に輝くようだな、マドモアゼル。満ち溢れる朝の光の中、朝露を含んだ大輪のダリア…いや、たとえ花の女王たるバラでさえ、この美しいレディの前では恥ずかしさにうなだれ、しおしおと色褪せること必定たらん。おお、まさに君こそ我らが宝、我らが永遠のアフロディーテぞ!」
 例によって多分に芝居がかった、しかし心からの褒め言葉を述べたグレートは、フランソワーズの両手がトレイに占領されて、その甲にキスできないのがいかにも残念そうだ。
「全くもう、グレートはいつも大袈裟アルね。でもフランソワーズ、とっても似合ってるアルヨ」
「フランソワーズ、綺麗だ。その服はとてもいい」
「いかにも夏らしく華やかで、しかも涼しげでいいのう」
 張々湖に続けて、いつもは女性のファッションになどまるで無頓着なジェロニモやギルモア博士までもがこう言ってくれたのは特筆に価するだろう。さらには、ギルモア博士の膝の上から(ふらんそわーず、素敵ダヨ)というイワンのテレパシーまでもが飛んで…。
「また、その右腕のアームレットが効いてるよね。…もしかして、それはジョーの見立てかい?」
 しっかりとアームレットにまで目を留め、ジョーの方をちらりと見たピュンマの観察眼はさすがである。いきなりふられたジョーはぱっと赤くなり、消え入りそうな声でやっと、これだけ言った。
「フランソワーズ、それ…つけてくれてありがとう。あの…素敵だよ」
 そんな仲間たちの中、たった一人無言のアルベルトの顔にも、いかにも満足そうな笑みが浮かんでいて。
 ふと顔を上げれば、さり気なくジェットの青い瞳が自分を見つめている。二人の男は、彼らにしかわからない特別の微笑をかわしつつ、小さくうなづき合った。
 そして最後にもう一度、ジェットの声が飛ぶ。
「おい、フランソワーズ! せっかくなんだから、そこで一回ターンしてみてくれよ。ファッションモデルみたいにさ」
「ん、もう…! 朝ごはんが遅れちゃうじゃない。…一回だけよ」
 一度は怒ってみせたフランソワーズもまんざらではないらしく、す、と背筋を伸ばして姿勢を正す。そしてそのまま軽やかな足取りで一歩前に踏み出し、爪先立ちでくるりと一回、見事なターンを決め…た…と思った刹那。
「きゃああああぁぁぁっ!」
 突然バランスが崩れ、その華奢な身体がぐらりとかしいだ。手からトレイが離れ、サラダを盛ったボウルごと、宙に舞う。
「フランソワーズっ!!」
 その場にいた九人分の絶叫、しかし彼らは叫ぶと同時に行動に移っていた。
 高く舞い上がったトレイをはっしとつかんだのはジェット、ボウルはさし伸ばされたジェロニモの大きな手のひらの上に無事着地。ボウルと一緒に乗っていた人数分のナイフとフォークは、一瞬のうちに千手観音に変身したグレートが見事に全部空中で捕獲した。張々湖とギルモア博士は二人がかりでイワンをかばい、万が一に備える。
 そして、フランソワーズを助けに飛び出したのはジョーとピュンマ、そしてアルベルト。一番近い席に座っていたジョーがさっと手を伸ばし、フランソワーズの右腕をつかむ。が…確かに感じた手ごたえはわずか一瞬、少女のほっそりとした腕は無常にも少年の手を離れ、結局アルベルトとピュンマが差し出した四本の腕の真ん中に勢いよく倒れこむ羽目となった。
「大丈夫か!?」
 口々の問いかけに、フランソワーズは呆然と、だが無理に微笑を見せてうなづく。
「え…え…みんな、ありがとう。大丈夫よ。…でも、びっくりしたわ。滑った…って言うより、突然、床が動いたような気がして…」
 その返事に、ほっと胸をなでおろす面々。もちろん、ジョーも例外ではない。だが…。
(あれ?)
 さっきフランソワーズを捕まえたと思った手が、今だにつかんでいるこれは…何だ? それにあの瞬間、気の所為か「ぶちっ」という音が聞こえたような、聞こえなかったような…。
 嫌な予感が全身に広がる。それでも恐る恐る視線を落とし、手の中のそれを確かめようとした途中で、どうやら同じ予感を感じたらしいフランソワーズの、不安げな水色の瞳と目が合った。
 そして、二人が同時に、ジョーの手の中のそれを認めた瞬間。
「あああああーっ!!」
 二度目の絶叫が、男女混声の見事なハーモニーで部屋中を震わせた。

 そう、ジョーがしっかりとつかんでいたのは、昨日フランソワーズにプレゼントしたばかりのあのアームレットの成れの果てだったのである。

「ご…ごめんなさいっ、ジョー! せっかく…貴方が買ってくれたのに…すごく…嬉しかったのに…」
「そんなっ! そんなことないよ! 僕が悪いんだ。僕がこれ…思いっきり引っ張っちゃったから…」
 途端に泣き出しそうな顔になったフランソワーズをおろおろと慰めながら床に屈みこんだジョーを始めとして、男連中全員が床の上、あるいは食卓中に散らばったビーズを必死の形相で集めまくったのは言うまでもない。彼らの邪魔にならないよう椅子の上にしっかりと正座して固まりきったギルモア博士の腕の中、イワンの目がきらりと光ったかと思うや、すでに配られていた飲み物のカップや湯呑み、そしてサラダボウルの中から淡く光るパールビーズがふわふわと浮き上がり、水差しの水の中をくぐって食卓に並べられた一番大きな皿の中に小さな音を立てて落ちた。
 やがて、五分もしないうちに大皿はビーズで一杯になった。これなら、おそらくほぼ全部のパーツが集まったといえるのではないだろうか。まさに、人海戦術とチームワークの勝利である。
 と…
「あれ? 何だこれ?」
 テーブルの下にもぐりこんでいたピュンマが不思議そうな声とともに立ち上がる。その手には…
「もしかして、さっきフランソワーズが転んだのってこれの所為かな?」
 そう言ってピュンマがつまみ上げたのは一冊の雑誌。
「きっと、落ちてたのに気づかなくてうっかり踏んじゃったんだよ。…ほら、背表紙にこすれたような跡がある。フランソワーズが滑った勢いで、こっちもテーブルの下に飛ばされちゃったんだね。薄っぺらい雑誌だし」
 ピュンマの言葉には、決して他意はなかったはず。だが、それを聞いているうちにジョーとジェットの顔がみるみるうちに蒼白になっていった。…何故かといえば、それはまぎれもなく、彼ら二人が昨日の夕食後から深夜に至るまで、額をくっつけ合うようにしてあれこれ議論を交わしながら読みふけっていた自動車雑誌だったからである。
「あら…? もしかしてそれ…」
 フランソワーズとて気づかないわけがない。全てを悟った水色の瞳が、大きく見開かれる。
 もちろん、いつもなら笑って許せるはずのこと。だが、せっかくのジョーのプレゼント、いや、それ抜きにしても最高に気に入っていたアームレットを完膚なきまでに破壊されてはそうも行かない。しかし―その原因を作った片割れもまた、ジョーだったり…するのだが。
「ジョー! ジェット!」
 鋭い一喝に、忍び足でその場を逃げ出そうとしていた二人の足がぴたりと止まった。
「貴方たち…! どうして雑誌を読んだらきちんと片づけておいてくれないの!? ちゃんとすぐそこにマガジンラックがあるでしょうっ! 第一、どうしてリビングで読んでた雑誌がダイニングキッチンの床に転がってるのよ!」
 実は。
 皆が寝静まったあともリビングに残り、夢中で雑誌を読んでいた二人は、夜も更けた頃ちょっとした空腹を覚え、場所をダイニングキッチンに移して夕食の残り物を肴に、ついつい缶ビールなど開けてしまったのだった。そして、仲良く五〇〇ml缶三本ずつを飲み干し、ちょうど眠気も差してきたのをいいことにそのまま寝てしまったわけだが…。
 フランソワーズの根気強い躾のおかげで汚れた皿と空き缶は片づけたものの、肝心の雑誌のことは―おそらく、何かの拍子に床に落ちたのだろうが―きれいさっぱり忘れていたなんてこと、言えるわけがない。
 しかしフランソワーズもまた、自分の不注意は充分わかっていたらしい。
「…まあでも、気づかなかった私も悪いんだから貴方たちばかり責められないわよね…仕方ないわ。これからは、気をつけて…」
 さらにそこへ、助け舟が一隻。だが…。
(ソウダヨ。何シロ二人トモ、缶びーる三本ズツ飲ンデタ上ニ、車ノコトデ頭ガ一杯ニナッテタンダモン。ソレニ、ヨッパライナガラモ洗イ物ダケハチャントヤッテオイタンダカラ…)
「何ですって…?」
 振り向きざまにぎらりと光った空色の瞳、薔薇色の唇を震わせる歯ぎしり。
 …ああ、弁護しつつ、どうしてそう何もかもさらけ出す、イワン。これは果たして幼い赤子の無邪気な失言なのか、それとも何もかも計算しつくされた大魔王の巧妙な罠か。
 とにもかくにもそのテレパシーが、全くの別方向からフランソワーズの怒りの炎に新たなる油を注いだのは間違いない。すなわち。
(一昨日と昨日、私のために熱い涙をこぼし、真摯な言葉をぬかしたこの青少年どもは、その涙と舌の根が乾く間もなく、私のことなんかすっかり忘れて車談義に熱中した挙句、夜中にしこたまビール飲んで酔っぱらってたわけえぇぇぇ〜!?)
 このことである。
 しかも。
「じゃあ、今朝流しがびしょびしょになってたのも貴方たちの所為だったのね!?」
 シンクといわず床といわず派手に水が飛び散りまくり、さながら局地的豪雨のあとにも似たキッチンの後始末のために結構な時間を食い、朝食の仕度にてんてこ舞いした自分のことを、こいつらは知っているのだろうか。
 すでにフランソワーズは「朝に花の顔(かんばせ)ありて夕には般若となれる」風情、こうなったらもう、誰にも止められない。
「あのー…でも、ネ…ちゃんと、皿や空き缶を片づけただけでも偉いんじゃないアルかね…? 最近の若い男の子にしては、上出来アルヨ」
「大人! そうやっていつも甘やかすからくせになるのよっ! こういうときにはね、びしっと言うべきなの、びしっと!!」
 張々湖が決死の思いで漕ぎ出した助け舟第二隻目もまた、あえなく撃沈。そして…
「同情の余地なしだな。朝飯済ませたら、二人でその腕輪買った店に行って修理頼んでこい。…もちろん、修理代はお前らの折半でな」

 すでに謝る言葉も忘れ、ガチガチに固まりきった青少年二人に、銀髪の男のテノールが無常にも最後のトドメを刺したのであった。

〈了〉

 


 100、300、600と3回分のキリリクです。お踏みあそばしたのはもちろん「キリ番の女神」、まるり様。頂いたお題は「23/43/93 で各1本、オムニバス形式」。最初は痛暗系にするつもりで、実際途中までは予定通りに進んでいたのですが、ついついくっつけてしまった「終章」が、それまでの雰囲気を見事にぶち壊してくれました(泣笑)。ここのところコメディばっかり書いていた所為か、最近の管理人、どーしても最後を落っことさなければ気がすまない性格になってしまったようです。まるり様、こんなのしか書けなくてすみません…。




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