天使の罠 4


 今考えてみれば、確かに日本酒三升というのはいかに自分たちサイボーグとはいえ無謀だった気がする。
 気がつけば、周囲には屍累々…いや、みんな多分生きてはいるのだろうが、完全に酔い潰れた七人がぐうぐうと盛大ないびき、あるいはいかにも幸せそうな安らかな寝顔とともに眠りこけていた。しかも、クーファンの中ではイワンさえもがうとうとと心地よさそうにまどろんでいる。…まぁ、あのあとも「孫」だの「浪曲子守唄」だのを絶唱していた張々湖に可愛らしい笑い声で合いの手を入れまくっていたのだからそれも当然かもしれないが。
(こうなっちまったらもう、万事休すか…)
 何とか次の手を考えようと必死に頭を絞るアルベルトだが、その前にはしっかりと二本の旗が立てられていたりする。日本酒一升以上を腹に収めたあとで冷静な判断、あるいは思考をめぐらせることなど、いかに彼といえども無理ではなかろうか。
「あの、お客様…?」
 振り返れば、例の店長が立っている。
「まことに残念ながら、そろそろ閉店時間でございまして…今回のチャレンジは皆様、無効ということになりますが…」
 見ればすでに、他の客の姿はない。やんぬるかな。こうなったら全員外に引っ張り出して、川べりにでも並べておくしかない。夜風にさらしておけば、正気を取り戻す奴も出てくるだろう。何だったら、どこかからバケツを借りてきて、思いっきり川の水をぶっかけてやってもいい。
「ああ…仕方がないな。勘定を頼む」
「恐れ入りますが、八名様合わせて九万八千五百六十二円になります。こちらが、明細で…」
 無言のままアルベルトが差し出したキャッシュカードを店長は押し頂き、そそくさとレジへと走り去る。アルベルトは見るともなしに明細と卓上の旗の数を照らし合わせてみた。
(最高はジェットの二升八合、次点はグレートの二升七合か…以下、ジェロニモの二升四合、張々湖の二升一合、ピュンマとジョーが一升九合、フランソワーズが一升六合…)
 ちなみにアルベルトは一升三合。最下位なのは当然である。何しろ彼は、ピュンマが酔っ払ってしまった時点でメンバー唯一の良心になってしまったわけだから…
(それにしても、全員合計で一六升七合も空けたってのか…?)
 それならあの値段も仕方がなかろう。だが、こんな庶民的な居酒屋で十万近くも呑んだくれるとは―バカだぞ、実際…。
 頭を抱えたアルベルトに、店長がおずおずとレシートを差し出した。
「では、こちらにサインを…ところで皆様、大丈夫でいらっしゃいますか? よろしければうちの若い者を何人か、介護に回しますが」
「いや。気遣い無用。…自分の面倒くらい、自分で見させなければな」
 サインするとともに軽く手を振り、まずはイワンのクーファンに手を伸ばす。知らぬものの目には、何を置いても赤ん坊が第一、という優しさの表れに見えたかもしれないが、今のアルベルトにとって、こいつは何もかも承知の上で滅茶苦茶にはしゃぎまわり、勝手に眠ってしまった無責任大魔王だ。
(…おい、このクソガキ! さっさと目を覚ませ! でないとクーファンごとこの店に捨ててくぞ!)
 情け容赦のない脳波通信に、イワンがけだるげな顔でまぶたを開く。
(ヒドイナ、人ガセッカク気持チヨク寝テルノニ…乳児虐待反対!)
 一度は言い返したものの、憤怒の形相も凄まじい「死神」の薄氷の瞳で睨みつけられては、さしもの「無責任大魔王」もおとなしくなるしかない。
(いいから、連中もさっさと起こせ。思考力なんざ眠ったままで構わないから、とりあえず自分の足でこの店から出られるようにするんだ)
 可愛らしい丸い頬がぷう、とさらに膨らむ。しかし、次の瞬間そのつぶらな瞳がきらりと光り、思い思いの格好で酔い潰れていた七人は、操り人形のようなぎこちない動きながらもふらふらと起き出した。もちろん、全員が半寝惚け状態であることは間違いないが、意外とその足取りはしっかりとしている。店長始め店の連中が、そんな彼らの様子をあんぐりと口を開けたまま見守っていた。
「じゃ、世話をかけたな。だが、この店の料理と酒は美味かったぜ。ご馳走さん」
 ぞろぞろと店を出て行く仲間たちの最後尾でアルベルトがそう言ってやると、ぽかんとしていた店長が、慌てて頭を下げた。
「毎度ありがとうございました!」
 外に出た途端、冷たい風が吹きつけてくる。初秋とはいえ、今夜の冷え込みはかなり厳しい。だが、そのおかげで完全に目が覚めたのか、先に出た者たちは皆、あーだのうーだの意味不明の声を上げながら頭を振ったり、こめかみのあたりを叩いたりしている。…少なくとも、全員川べりに並べてバケツで水をぶっかけてやる手間は省けたようだ。
 だが、結局のところ彼らも皆チャレンジには失敗してしまったわけで…このまま手ぶらで帰ったのでは松井刑事たちの二の舞である。
(さて、どうしたものか)
 酔っ払い七人と大魔王一人の中、一人(比較的)正気のまま取り残されたアルベルトがうんざりしたように腕を組んだとき。
「ジョー! それじゃ貴方、私が言ったこと全然覚えてないのっ!?」
 フランソワーズの悲痛な叫びが、酒に麻痺した全員の脳髄に突き刺さった。どうやら、完全に覚醒した瞬間、彼女の記憶は酔い潰れる直前のそれと直結してしまったらしい。だが一方のジョーは、店内にいたときからすでに半分眠っていたも同然の状態だったのである。…いや、もしかしてこいつ、今でも半分…寝てないか?
 こんな奴の頭の中に、記憶なんぞというシロモノがたとえカケラでさえ残っていると思う方に無理があるのは一目瞭然だったが、残念ながら今のフランソワーズは普通ではない。
「も、いやあああっ!!」
 いつもながらの天然ボケ、いや今は寝ボケてるのか…の恋人に絶望した少女の悲痛な声。たちまちそのなめらかな頬に、空にかかる満月の滴のような美しい涙がこぼれる。
「貴方は私の気持ちなんか、全然わかってないっ! 私はいつでも、貴方のことをこんなふうに…抱きしめたいって、思っているのに…!」
 そして。激しくいやいやをしたフランソワーズの目が、「たこ八」の前に立っている電柱を見つけてしまったことが、彼らにとっての運の尽きだった。
「貴方はどうして抱きしめ返してくれないの? たった一言の優しい言葉さえかけてくれないの? 私の想いは、このまま永遠に一方通行のままなの…っ!」
 頭の先からつま先まで、アルコールと自分の世界にどっぷりと浸りこみ、悲劇の少女と化したフランソワーズ。だが、いつまでたってもその人は…多分、抱きしめ返してなどくれないと思う。
 何故なら、フランソワーズが抱きついているのはジョーではなく、電柱だったのだから。
「お、おいっ!」
 慌てて電柱からフランソワーズを引きはがそうとしたアルベルトの肩を荒々しくつかみ、押しのけた誰かの手。
「アルベルト! 傷ついた女の子に何て乱暴な真似するんだよぉ」
「ピュンマ…!」
 多分彼もまた、今はアルコール漬標本状態のはず。アルベルトの頭の中に、とてつもなく嫌な予感がじんわりと広がる。
「フランソワーズ! 君の気持ちは凄くよくわかるよっ」
 もうアルベルトになど目もくれず、フランソワーズに向かって脱兎のごとく駆け寄ったピュンマ。
「僕じゃきっと…彼のかわりにはなれないだろうけど…でも、それでも…一人じゃ寒い…風邪をひくよ…」
 穏やかに語りかける声、そっとフランソワーズを抱きしめたその手の限りない優しさは、その場にいた者全員の心をなんともいえぬ温かいもので満たしたに違いない。…ただし、抱きしめたのが電柱ごとでなければ。
 そう、今やフランソワーズとピュンマは左右から電柱に抱きつき、アルコールの香り漂う異次元へとトリップしてしまったのであった。
「ああ、ピュンマ! 貴方だけよ、私の気持ちをわかってくれるのは。…だけどどうして、貴方の腕に手が届かないの? どうして貴方、こんなにも固くて、そして冷たいの…?」
「手が届かない…それが、僕たちの間の距離なんだ…っ! 君にはジョーがいるし、僕にはリタがいる…だから、決して越えられない、越えてはいけない二人の距離…だけど今夜はそれが悲しいよ…切ないよ…ああ…フランソワーズッ!」
「おお、ピュンマ…ピュンマ…」
 このこっ恥ずかしい大声に他の連中の酔いはかなり醒めたらしい。目の前の状況を認識するやいなや、あたふたと総がかりで二人を電柱から引き剥がそうとするが、如何せんしがみついている力はかなり強く、どちらの身体もびくともしない。あまりの大騒ぎに様子を見に出てきた「たこ八」の兄ちゃんたちも加勢してくれたが、何しろ相手はサイボーグのアルコール漬けである。フランソワーズの華奢な腕でさえ、生身の人間が何人束になったところでひっぺがせるものではない。
 挙句の果てにはとうとう電柱の方が耐え切れなくなったらしく、「めき…」というかすかな音、そしてコンクリートの表面に走った髪の毛よりも細いひび割れ。もちろん普通人にはわかるわけもないが、強化された耳と目でそれらを確かに捉えた00ナンバーたちは大慌てで兄ちゃんたちを止めに入った。この上電柱までへし折ったりしたら、捜査どころかこちらの方が警察に捕まってしまう。
 ついに万策尽き果てたアルベルトが、店の前で半ば放心状態になっている店長に声をかける。
「…申し訳ない。しかし、見ての通りだ。あの二人は俺たちが責任持ってひっぺがして連れて帰るから、あいつらの酔いがもう少し醒めるまで、すまんがもうしばらくの間、店にいさせてもらえんだろうか」
 途端、店長の顔色が変わった。アルベルトの眉が、それとはわからぬほどかすかにひそめられる。
(…何カ知ッテルトスレバ、アノ店長ダネ。…サッキカラドウモ、閉店後ノコトバカリ気ニシテル)
 先ほどのイワンのテレパシーが蘇る。…もしかしたらこれは、運の尽きどころか最高のチャンスかもしれない。
「もう閉店なのに無理を言っているのは承知の上だ。だが、せめてこの赤ん坊だけでも…今夜は冷え込みがきつい。いつまでも外に出しておいたら風邪をひいてしまう」
 途端、心得たとばかりにいかにも哀れな声でぐずり始めるイワン。…よしよし。お前もどうやら自分の役割というものを思い出したようだな。心の中でほくそえんだアルベルトはなおも店長に頭を下げ、さり気なく財布の中から千円札を取り出し、そっとその手に握らせた。
「う…。仕方ありませんね…それでは二階の宴会場をお使い下さい。ただ、一階はもう片づけて施錠してしまいますから出入りは非常階段からとなってしまいますが…」
「助かるよ」
 にやりとアルベルトが笑う。そして再び、彼らは「たこ八」へと舞い戻ることに成功したのであった。

「調理場の火を落としてしまいましたので、もうおもてなしはできませんが…」
 それでも魔法瓶と大振りの急須、そして人数分の湯飲みを持ってきてくれた店長が、最後までくどくどと念押しをしていった。
「店員も全員帰りましたし、一階はもう、完全に施錠してしまいます。出口はもちろん、調理場や従業員控え室への出入りもできません。ですから下へ降りられるときはそこの非常階段から…それと、あそこのインターフォンで必ず一言お知らせ下さい。失礼ですが皆様かなり酔っていらっしゃいますし…万が一お怪我でもなさったら店の責任問題になりますから」
「わかった。なるべく早く引き上げるようにするさ」
 なおも心配そうな店長にうなづいてみせ、階下へと追い返す。
 案内された宴会場はおよそ二十畳ほど。今日は予約もなく使っていなかったということで多少ひんやりとしているが、屋内ならばまだまだ暖房など要らない季節である。
「やれやれ。思いがけないハプニングだったが、おかげでまだもう少しここで粘れそうだぞ」
 その言葉にうなづいたのはジェロニモ、張々湖、グレートの三人。傍らのクーファンの中ではイワンもまた面白そうに目を光らせている。ジェットとジョーは、外の見張り兼フランソワーズとピュンマのお守り役としてあの電柱の脇に待機していた。
「…来るとしたら、やっぱり『外』からやろね」
 急須から注いだ熱い茶をごくりと一口飲んだ張々湖がぼそりとつぶやく。
「だろうな。店長はこのあとのことがやけに気になるらしいし、フランソワーズの透視でも何も見つからなかったんだろう、アルベルト」
 アルベルトは無言のまま、グレートにうなづきかける。こうなったらあとはとことん粘るだけだ。
「願わくば、あの二人の酔いが当分醒めませんように…」。銀と青の死神は、柄にもなく真摯な思いで神に祈り、心の中でこっそり十字を切った。…アーメン。

 一方、外の連中はというと。
「あーあ、これじゃ当分どうしようもねぇなぁ」
 いまだ固く電柱にしがみついている二人の傍らにしゃがみこんだジェットがぼやく。かたや、ジョーの方は懸命に二人にあれこれ話しかけていた。
「ねぇ、フランソワーズ! こんなところで寝たら風邪ひくよっ。ピュンマだって、寒いのはあんまり得意じゃないんだろう? 眠かったら僕がおんぶしてってあげるから…いい子だからもう、手を離して…」
 だが、差し伸べた手はいかにもけだるげに振り払われた。
「う…ん…。ジョー、お願いだからあと五分…寝かせてぇ…」
 あれだけ大声で喚き合っていた二人は、異次元から眠りの世界へと空間転移したらしい。静かになったのはいいが、完全に眠り込んでもなお電柱を離さないというのはどういう心理か。しかも、抱きついた腕の力はいささかも緩んでいないのだから始末におえない。
「しかしよぉ…お前の目が覚めたと思ったら今度はフランソワーズがおねんねかよ。…おいジョー、お前らって意外と相性悪いんじゃねぇの?」
 うんざり顔のジェットがそんな憎まれ口を叩いた、その刹那。フランソワーズの水色の瞳が大きく見開かれた。
「―誰か、来る」
 その言葉に、ジョーとジェットがはっと身構えた。ピュンマもいつのまにか眼を開き、鋭い視線で闇をうかがっている。
「五人…十人…いえ、もっと大勢よ。距離はおよそ一キロ。足音を忍ばせているけど、徒歩にしてはかなりの速度で近づいてくるわ」
 気がつけば「たこ八」前の通りにはいつのまにかふっつりと人通りが途絶えている。そろそろ深夜とはいえ、普通ならまだちらほらと家路をたどる酔っ払いたちの姿が見られる時刻。…まさかこれも、近づいてくる「奴ら」の所為なのか…?
 四人の間の空気が、ぴんと張りつめた。

(―来タ!)
 ちょうどそれと同じ頃、二階の宴会場でもイワンが近づいてくる何ものかの気配を感じ取り、残りのメンバーたちもむくりと身を起こして互いに目を見交わし、うなづきあっていた。
「作戦―開始だな」
 だだっ広い宴会場に、アルベルトの低い声がひっそりと響いた。

 


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