君の昔を 5


(…おい、眠ったぜ。張大人、フランソワーズ、頼む)
 時刻はそろそろ深夜になろうかという頃。リビングのソファに無言のまま座り込んでいた張々湖とフランソワーズが、グレートの脳波通信を受けて立ち上がる。不安げにその動きを追うギルモア博士にほんの少し、頭を下げて。軽く、うなづき返されて―。
 駆けつけたのは二階。ジョーの部屋。
「よ。いつも悪いな。待たせちまってよ」
 迎えてくれたグレートの顔は、ほんの少し赤い。
「そんな…グレートこそ、お疲れ様。大変だったでしょう」
「いやいや、俺はただ、飲んだくれてるだけさ。…何一つ、ジョーの力になれないまま、な」
 淋しげに笑ったグレートに促されて部屋に入ってみれば、窓際の小さなソファにもたれたジョーがすやすやと寝息をたてていた。だが、かすかに眉をひそめたその表情はいかにも哀しく、苦しげで―そう―眠りの、中でさえ。その傍らに転がっているのは、ビール、日本酒、そしてスコッチウィスキーの空き缶や空き瓶。
 一瞬その場に立ちすくんだものの、三人はすぐさま作業を始める。グレートがジョーを抱き上げてベッドに移し、張々湖がクローゼットから取り出してきたパジャマに二人がかりで着替えさせる。その間に、フランソワーズは散らばった缶や瓶を片づけ、ソファの前に置かれた小さなテーブルを丁寧に拭いていった。
 そして、全てが終ったあと。暗い、痛ましげな表情で、三人はベッドに横たわるジョーの寝顔を見つめていた。
「だいぶ、顔色が悪いアルね…」
「…ええ。それに、少し痩せたみたい」
「ああ。抱き上げるたび、軽くなっていくのがよくわかるぜ。…だがそれも、仕方ないさ」

 あの日、石原医院へ半ば強引に使いに出てから、ジョーはずっと塞ぎこんだままだった。みんなと一緒にいるときはともかく、一人になるといつも何かぼんやりと考え込み、ため息ばかりついて。食欲も落ち、夜もろくろく眠れないらしく、いつしか夜毎アルコールの力を借りるようになって。
 もちろん、仲間たちといるときにはそんなそぶりを見せるはずもなく、精一杯普段通りにふるまおうと必死になり、全てを隠し続けようとしていたのだが―。
 実はみんな、気づいていた。ジョーの苦悩にも、その原因にも。
 ギルモア邸の新聞を持ち出して処分したとはいえ、張々湖飯店には客へのサービス用の新聞がちゃんと用意してある。ジョーが決して仲間たちの目に触れさせたくないと思っていたあの記事は、まず張々湖とグレートの目にとまり―当然のことながら、フランソワーズとギルモア博士の知るところとなった。
 そればかりか、ジョーの様子を心配した石原医師から、事情を逐一説明したメールがギルモア博士宛に入ってきたりもして―。
 だが、真実を知ったからといってジョーを問い詰めることなど誰にもできなくて。せめてもの対応策として、何日かに一度、酒瓶を持ったグレートがあれこれと理由をつけて無理矢理その部屋に入り込み、ともにグラスを傾けつつ、ジョーが無闇に飲み過ぎないようさりげなく監視するのが精一杯だった。

「こんなことをいつまでも続けていたら、いつか本当に身体を壊してしまうわ…」
「だが、どうするっていうんだ? 『全部知ってるから心配するな』って言うのか? ジョーはあんなにも…必死になって、俺たちには隠そうとしているってのに」
「しっ! 二人とも、話は下でするアルヨロシ。せっかく眠ったのに、起きちまうアルヨ」
 張々湖にたしなめられ、三人はそのまま部屋の灯りを消して、外に出る。リビングに戻れば、ギルモア博士が温かいお茶を入れて待っていてくれた。
「まあ、博士! 言って下されば私がやったのに…すみません」
「いやいや。何もせずに待っているのも辛くてな。コーヒーや紅茶の方がよかったかもしれんが、時間が時間だしの。烏龍茶にしておいたよ。…大人、無断で秘蔵の茶葉を使ってしまってすまん」
 ギルモア邸の烏龍茶は、以前張々湖が中国に里帰りした際、わざわざ福建省武夷山の生産農家を訪ねて頼み込み、直送してもらっている武夷岩茶である。仲間たちのリクエストがあればいつでも気前よく振舞ってくれるものの、味にうるさい彼は自分以外の誰にもこのお茶を淹れさせないのだが、今夜だけは―別。
「とんでもないことヨ、博士…そんなの、全然構わないアル。…どれ、それでは遠慮なく頂くことにしようかネ」
 ぱたぱたと盛大に手を振りながら自分の湯呑みを取り上げ、一口すすった張々湖の顔が、ぱっと輝く。
「うん、美味い! 初めて淹れたにしちゃ上出来アルヨ。これなら、少し練習すればわてと同じ味、出せるかもしれんネ」
「大人にそう言ってもらえるとは、光栄じゃの」
 一瞬、みんなの顔に笑みが浮かぶ。だが、それもすぐに消えて。
「それにしても、一体どうすればいいんじゃろうなぁ…」
 湯気の立つ湯呑みを手のひらで包み込んだまま、ギルモア博士の視線が宙をさ迷う。
「ジョーの奴…一緒に飲んでいても全然喋らないんですよ。黙ってぼんやり、暗い目をしたまま、キツイやつをぐいぐい空けていく。そして突然、ばったり倒れてそれっきり。そりゃ、あいつは飲みすぎるとすぐに寝ちまうけど…少なくともそれまでの間は結構はしゃいだり騒いだり、陽気な酒だと思っていたんですけどねぇ」
「それだけ、ショックだったってことなのよね…。正直、私もこの頃新聞やニュースを見るのが怖いの。もちろん、一番辛いのはジョーだってわかっているけど、もしまたあの記事の続報が出ていたらどうしよう、ジョーがこれ以上追いつめられて…壊れてしまったらどうしようって、そう考えると、もう…!」
 フランソワーズの声は震え、最後は嗚咽にまぎれた。張々湖がそんなフランソワーズの背中にそっと手を伸ばし、慰めるようにその肩を抱き寄せる。
 その様子を見ていたグレートが、思い切ったように口を開いた。
「あのさ…考えたんだけど、俺があのBG野郎に変身して、警察に自首するってのはどうだ? 『五年前の犯人は俺だ』ってさ」
「何言い出すアル! おまはん、ジョーのかわりに罪をかぶって刑務所に入るちゅうのかネ!」
 びっくりして叫ぶ張々湖に、グレートは慌てて手を振る。
「違う違う! 自白して、犯人だって証明できたら適当なところで脱獄してくるよ。留置場だろうが刑務所だろうが、俺の変身能力を持ってすればあっという間に出てこられるさ」
「おお、それなら何も問題ないネ…と言いたいとこアルけど、それじゃやっぱりジョーに…わてらが全部知ってるって話さなきゃならんやろに…。『あんなにもひた隠しにしてるジョーにそんなこと言ってどうする』ってのは、おまはんの台詞だったはずアルヨ」
「いや、確かにそれを言われると弱いが…でも、ちゃんとした対応策つきならまだマシかもしれないだろう?」
「もしそうだとしても、自分のかわりにおまはんが、たとえ短い間でも犯人扱いされるなんて、ジョーにとっては堪えられないことじゃないのカネ」
「しかし真犯人に変身するんだから、別に俺自身が犯人扱いされるってこっちゃなかろうが―第一、そこまで神経質になってたら、いつまでたっても何もできんじゃないか」
 いささか歯切れの悪い言い合いを続ける二人に、フランソワーズの不安げな声が飛んだ。
「ねえ、ちょっと待って。…私も…グレートの考えは名案だと思うんだけど…自首した容疑者が突然、留置場とか刑務所から消えてしまったりしたら、とんでもない大騒ぎになったりしないかしら?」
 はっと振り向く二人。その視線の向こう、フランソワーズはおずおずと語り続ける。
「事件自体はそれで解決するかもしれない。でも、そのことで、もし…大騒ぎになって、今以上に世間の注目を集めてしまったら…それって、かえってジョーにあの事件を思い出させて―苦しめることになったりは、しないかしら…」
 三者三様、それぞれの正論。だが、その焦点は微妙にずれていて。それぞれの論旨がほんのわずか絡み合い、かすかに軋んで…進めなくなる。
 黙って聞いていたギルモア博士が、穏やかに三人の話を遮った。
「みんな…今日のところは、そこまでにしたらどうじゃね。石原君からのメールによると松井警視が動いてくれておるそうじゃし…今は、その邪魔をせん方がいいかもしれん」
「松井警視って、あの威勢のいい刑事さんですかい? 石原先生の友達の。…まぁ、確かに餅は餅屋、専門家に任せた方がいいのかもしれませんが…」
「いくら腕利きの刑事はんでも、BGの工作員、それももう死んじまってる人間を逮捕するなんてできないんじゃないやろか」
 首をかしげるグレートと張々湖に、ギルモア博士も重々しくうなづく。
「君たちの不安ももっともじゃが、わしらが動くのはそちらの結果が出てからでも遅くはないんじゃないかな? 何だったらわしが明日にでも、その後の状況を石原君に問い合わせてみるよ。この件についてはその結果次第でまた、考えよう。…さあ、そろそろ休むとしようか。わしらまで体調を崩してしまっては、ジョーを助けるどころか、余計な心配をかけてしまうことになるぞ」
 「家長」であるギルモア博士にそう言われては、三人とも、うなづくしかない。茶器を片づけ、多少しぶしぶといった体で、みんなはそれぞれの寝室に引き上げた。





 どこだかわからない場所。暗くて、寒くて―そして、誰もいない。
 呆然と立ちつくすジョーの耳に、やがてかすかなざわめきが聞こえてくる。と同時に、周囲にうっすらと浮かび上がる青白い影。
 ゆっくりと―じれったくなるくらいのろのろと、そいつらの影が濃くなっていく。やがて、明らかになる人の形。だが、そいつらには顔がない。どいつもこいつも、シルエットだけの青白いのっぺらぼうだ。気がつけば、かすかだと思っていたざわめきも、次第次第に大きくなっていて。
(あいつだ)
(ほら、あいつだよ)
(間違いない)
 振り向けば、さっと逃げ去る影。消えるささやき。だが、一瞬あとにはまた、別の方向から聞こえてくる声。次々と現れてくるのっぺらぼう。
(よくもまあ、あんなに平然と…天使のような顔をして)
(何も知らないふりをして)
(ああやって、みんなを騙していくつもりなんだ)
(おお、怖い)
 嫌悪、恐怖、嘲笑…口も目もない顔から放たれる、あらゆる悪意を秘めたざわめきが、視線が。目に見えない無数の針となってジョーの皮膚に突き刺さる。
「誰だ! あんたたちは…っ! どうしてそんな…」
 たまりかねて叫べば、四方八方から返ってくる声、声、声…。
(『誰だ』だって?)
(『どうして』だって?)
(わからないのかい? 我々は、お前のすぐそばにいるじゃないか)
(わからないのかい? お前は…)
 言葉が途切れ、不気味な含み笑いにかわる。そして。
(人殺しじゃないか!)
「うわああああああっ!」
 最後の言葉が、針以上に巨大な鋭い刃となってジョーの胸をざっくりと切り裂いた。
(人殺し)
(人殺し)
(恩ある人を)
(殺した…人でなし!)
 いつのまにかざわめきは巨大なシュプレヒコールとなり、放たれる言葉の一つ一つが、不可視の凶器となって腕を、足を、肩を…全身を切り刻む。
「違う…僕は…っ! 僕は神父様を殺したりしていないッ!」
 血を吐く叫びも、怒涛のごとき合唱にあっけなくかき消され―。
 四方八方から襲いかかる刃に耐えかねて逃げ出しても、それらはどこまでも、執拗に追いかけてくる。
 無数の傷を負い、流れ出る血にまみれて真っ赤になった手。…自分の中に流れる人工血液にしては、妙に生々しく、ねっとりと温かい。
 刹那、目の前に浮かび上がった凄惨な映像。
「神父様ッ!」
 己れ自身の姿を映した鏡でもあるかのように真っ赤に染まり、胸を押さえて苦悶の表情でこちらを見つめる神父の目には、もう光がない。慌てて駆け寄ろうとしたとき、自分の手がしっかりと何かを握りしめていることに気づく。
 ―ナイフ!
 まさかこれは…神父様の…血…?
「あああああぁぁぁっ!」
 とっさにそれを放り投げ、再び走り出す。だが、それでもなお、追いかけてくる声。皮膚に突き刺さる、断罪の刃。
(ジョーッ! どこにいるの!?)
(すぐに、助けに行くアルよっ)
(位置を知らせろっ!)
 仲間たちの脳波通信がかすかに聞こえた気がした。だが。
「だ…だめだっ! 来るなあああぁぁァッ!」
 張々湖を、グレートを、そしてフランソワーズを巻き込むわけになどいかない。何故なら、この声は。刃は。そして敵は。
(この世の人間…全て…なん…だ…)
 街ですれ違う見知らぬ人々。毎日顔を合わせ、微笑んで挨拶を交わす近所の住人。知る知らぬに関わらず、今までジョーが、そして仲間たちが命がけで守ってきた、無辜の人々。…その心の中に潜む、犯罪者への恐怖。嫌悪。差別。誹謗中傷。侮蔑。憎悪。
 彼ら「善意の第三者」たちは、罪を犯した「悪人」どもを決して受け入れはしない。「真面目に」「こつこつと」「毎日を精一杯生きている」善男善女にとって、それは不可触の穢れ。抹殺すべき汚物。
 そんなものを目にしたが最後、善良でおとなしい「大衆」という生き物は、一瞬にして冷酷で残忍な狩人に変貌する。集団心理という鎧に身を包み、匿名性という武器を手にして、個人としての自分は決して表に出ることなく、執拗に、徹底的に―目指す獲物を狩り立て、屠る。
 真実なんか、どうでもいいこと―「犯罪者」と思われること自体が、彼らにとっては許されざる罪なのだから。
(ジョー! 返事をして!)
(一人になるな!)
(わてらが…いるんアルよっ!)
 再び聞こえてきた脳波通信も、固く耳を押さえ、激しく首を振り続けているうちにいつしか遠く、切れ切れになり…やがてふっつりと、途絶えた。
 振り返れば、全身の傷から流れ出す血が点々と、いや、途切れることのない細い、紅い道となって彼の足跡をくっきりと残し―あの青白い影どもが、それを追ってたゆたい、流れながらも次々と集まってくるのが見える。
 朦朧とする意識。ふらつく足。それでも必死に、前へと進もうとした先の地面から、からからと小石の落ちる音がした。
(ここは…!)
 忘れもしない、あのときの断崖。五年前、やはり同じように追いつめられて身を投げた、運命の場所。
 立ちすくむジョーを、追いついてきた影たちがまたしてもあの大合唱で責めたてる。
(この世にはお前の居場所などない)
(お前の存在を、我々は許さない)
 再び繰り出される刃。そして、ついに…!
(消えて…なくなれ!!)
 無慈悲な言葉が、闇を集めた鋭い槍となって、一気にジョーの背中から胸を貫き通した。
「あ…あ」
 突然、胸元から生えた暗黒の凶器を見つめる瞳は半ば虚ろで。
(も…う…嫌、だ…)
 もつれる足が、何もかも捨てて目の前の崖、暗黒の淵へと最後の一歩を踏み出そうとしたとき。





「ジョー! ジョー、起きて!」
 ドアの向こうから聞こえるフランソワーズの叫びと激しいノックの音に、ジョーは一瞬にして現実に引き戻された。
(今のは…夢…?)
 意識がはっきりしない。かすかな、頭痛もする。だが、ドアの外の叫びとノックの音は、いっそう激しくなるばかり。頭を押さえ、夢の続きのようにふらつく足でベッドを抜け出し、ドアへと向かう。
 そして、のろのろとドアを開けた刹那。
「ジョー、すごいわ! 大ニュースよ!」
 飛び込んできたフランソワーズが、いきなりジョーの体に抱きついてきた。
「え…。何、どうしたの、フランソワーズ…」
 何が何だかわからないまま問いかけてみれば、金髪の少女は涙交じりの、それでも歓喜に弾んだ声で―
「五年前の事件の目撃者が見つかったのよ! 真犯人は貴方じゃないって、証言してくれたの!」

 


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