桜めぐり


 大画面テレビ一杯に、満開の桜の花が映っていた。
 アルベルトの口から小さな声がもれる。日本とも縁浅からぬ彼のこと、今までにも桜は何度か見ていたし、つい先週には仲間たちと花見にも出かけた。だがそれはいつも、ギルモア邸の裏山にほんのニ、三本植わっているだけのささやかな「桜の園」に限られていて。
 要するに、これほどたくさんの桜が一斉に咲き誇っているのを見るのは、たとえ映像とはいえ初めてのことだったのだ。ちら、と隣を窺うと、フランソワーズも同様らしい。かすかにそのばら色の唇を開き、声もなく画面に見入っている。
 そんな中、ジョーだけが平然と雑誌を読んでいるのが理解できない、というか癪にさわるというか。やはり日本人だけあって、桜は見飽きているのだろうか。
(まあ、そんなことはどうだっていいか)
 思い直して、視線を画面に戻す。こんな素晴らしい風景を見飽きるような贅沢な日本人になんか、構っている暇はない。
 そして、心を奪われたまま数分が過ぎ―。
 自分の脇をかすかな風が通り抜けたような気がして振り向けば、イワンを抱いたギルモア博士が出かけようとしているのを、ジョーが玄関で見送っているところだった。…そうだ。確か今日、博士とイワンは泊りがけでコズミ博士の家に行くことになっていたはず。アルベルトとフランソワーズは慌てて立ち上がる。
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
 口々に声をかけながら博士たちを送り出したあとでふと気づく。
「…ジョー、何でお前がここにいる? お前、確か二人をコズミの爺さんとこまで送ってくはずじゃなかったのか?」
 いぶかしげな薄青の視線の先、栗色の髪の少年は小さく笑った。
「うん、博士がね、自分たちはいいから、アルベルトとフランソワーズを桜見物に連れて行ってやれって。東京まで出れば、まだ満開の桜が見られるはずだから。あんなに夢中になってテレビに見とれていたんだし、本物を見たらきっと喜ぶぞ、ってさ」
 そんなに俺は莫迦面してあの桜に見入っていたのか…青白い頬にかすかな羞恥の紅を上らせたアルベルトの脇で、フランソワーズがいかにも嬉しそうな歓声をあげた。

 そんなわけで。三人はギルモア博士の好意に甘え、ジョーの車で東京まで桜見物に出かけたのだが―
(…どうしてこうなるんだ?)
 一人リアシートに沈み込んだアルベルトは、いかにも不満そうに腕を組んだまま、微動だにしない。
 確かに、最初に話を聞いた時にはアルベルトも賛成した。
(いいじゃないか。せっかく博士がそう言ってくれたんだ。東京の桜めぐりでも何でも、存分に楽しんで来ればいい。…どうせなら、夕食も済ませてきたらどうだ? 銀座でも六本木でも渋谷でも、たまには張々湖飯店以外の豪華ディナーというのも悪くはなかろう)
 そう言ったのは間違いなく自分。それは認める。だが…
(俺は、ジョーとフランソワーズ、二人で出かけろと言ったつもりだったんだがな…)
 何が、「アルベルトも一緒じゃなくちゃつまらない」だ。「二人だけで豪華な夕食を食べたって美味しくない」とはどういうことだ。
(たまの機会に気を利かせてやった「大人の気遣い」というものがわからんのか、こいつらには…っ!)
 アルベルトとて、一人淋しく夕食を自炊するつもりなどはなかった。彼は彼で、たまにはこの手のかかる「お子様たち」のお守り役を返上して、一人ゆっくり張々湖飯店で「豪華なディナー」を楽しむつもりでいたのである。店が終ったら張々湖やグレートと一緒に、大人三人でゆっくり酒を酌み交わすのもいい。張々湖の店の近く、「西王母」とかいう中国風パブには、世界各国のビールやウイスキーがとりどり揃えてあるそうな。個室もあるというから、そこならホステス抜きでゆっくりくつろげるだろう。
(なのに、せっかくの俺の目論見を台無しにしやがって…)
 しかも、しぶしぶながらつき合うことを承知して車に乗り込む段になればなったで。
(どうしてフランソワーズがリアシートで俺が助手席なんだ?)
 唖然として問いかければ、「アルベルトがうしろに一人じゃ、話し相手がいなくて退屈でしょう?」という答えが返ってきた。
 …あの時、発作的にマシンガンを乱射しなかった自分はつくづく、大人だと思う。しかも、怒りと情けなさで一杯になった心を必死に抑え、一応は穏やかな声でこう、諭したのだから。
(助手席というのは目上の者を座らせる場所じゃない。少なくともこの中で一番年食ってるのは俺なんだから、少しは年長者を立てる、ということも考えろ)
 そのとき自分の額に青筋が立っていなかったかどうかというところまでは自信がないが、そんなことは知ったこっちゃない。こんな、幼稚園児並みの恋愛感覚しか持っていないままごとカップルの付き添いをしてやるだけでも立派なボランティアなのだから、それ以上のことは要求しないでほしい。
 だが。
「わあ、ジョー! アルベルト! 見て、すごいわ! ピンクの森よ!」
「この次は、ピンクの帯だよ。桜が一杯に植わった土手が、どこまでも続いているんだ」
「素敵! ねえ、ジョー、車を止めて! もっとゆっくり、見てみたいわ!」
 千鳥が淵。靖国神社。飯田橋から赤坂にかけての外堀の土手。東京の桜の名所を巡りながら左右のフロントシートで交わされるそんな会話を耳にしているうちに、いつかアルベルトも窓の外を走り行く見事な桜にすっかり心を奪われていた。
 霞か雲か。日本ではそう歌われているというが、それは決して誇張でも、間違いでもない。こんもりと茂った山を、遥かに続く土手を、穏やかに日の光を映す水面を覆いつくすこのちっぽけな薄紅の花々が織りなす春という季節の喜び。ひらひらと舞い散るその花びらが語りかける、世界の一瞬の輝き。そしてその中には、ちらほらと芽吹いたばかりの新緑の木々が鮮やかなエメラルドグリーンのアクセントをつけて。
 気がつけば、怒りも情けなさもじれったさもすっかり自分の中から消えていた。
「…大した、ものだな」
 いよいよ大詰めを迎えた桜めぐりの道中、休憩を兼ねて座り込んだ上野公園のベンチからつとアルベルトは立ち上がり、頭上に咲き誇る花の枝に手を伸ばす。
「え? 何が?」
 つられて振り返ったジョーに、唇の端だけで薄く笑って見せる。
「いや…落ち着いてよく見れば、この花の一つ一つはえらくちっぽけなものだと思ったのさ」
 「死神」とあだ名される自分が言うことではない、という気が少し、した。だが、たまには少々饒舌になってもいい。…そんな気にさせる花だ。桜、というのは。
「こんな小さな花でも、無数に集まればこれほどまでに見事な景色を見せてくれるのかと…何だか、人間に似ているとは思わんか」
 ジョーとフランソワーズが、首をかしげて自分を見つめている。ああ…どう言えばいいのだろう。どう言えば、わかってもらえるだろうか。
「一人一人は、本当にちっぽけだ。何をやるにも、何を願うにもたかが知れている。しかも、哀しくなるくらいもろくて…ちょっとしたことで簡単に死んじまう。だが、皆が同じ心で同じことを…そう、例えば平和を願えば…この桜のような、淡い、優しい色で世界を染め上げることもできるんじゃないかと、そう思っただけさ。…ただの、感傷だよ。忘れてくれ」
 伸ばしかけた手を元に戻し、照れたようにアルベルトは言い添えた。
「…俺らしくない台詞だな。…少し、酒に酔ったような気分だ。楽しくて、嬉しいはずなのに…何だか…くらくらする」
「私もよ」
 ベンチに思い切りもたれ、白く美しい喉もあらわに全身で桜を見上げたフランソワーズがうっとりと言う。
「すごく幸せで、うきうきして…このまま、踊りだしたい気分。でも、ちょっと目が回ったような…自分が自分でなくなってしまいそうな…」
「…二人とも、桜に酔っちゃったんだね」
 突然のジョーの言葉に、二人ははっと現実に戻った。茶色のガラス玉のような瞳が、優しい笑みを浮かべて自分たちを見つめている。
「昔…言われたんだよ。桜を見ているとね、人はそれぞれ、みんな違うことを思うんだって。ある人には、過去の思い出。ある人には、未来の夢。そしてまたある人には、現在の幸福。何にせよ、その人にとって一番楽しくて、嬉しいことを思い起こさせてくれるんだって。それも、本物よりもずっと美しく、甘い幻想として。だから人はみんな桜を愛する。ずっとその花を見て、何もかも忘れてその思いに浸っていたいと思う。だけどその反面、これは桜が見せてくれたひと時の幻に過ぎないことも心のどこかでわかってるから…そんな二つの気持ちがぶつかり合うとどちらが本当の自分だかわからなくなって、頭がくらくらしたり、目が回ったような気分になることもある。…それが、桜に酔うってことなんだって。でもそれは本当に一瞬のことなんだよ。だって、この花はあっという間に散ってしまうから…人は否応なく正気に返る。そして、一抹の淋しさと哀しさを抱いたまま、また次の桜の季節を待つんだって…教えてもらったことがあるんだ」
「ほう…」
「詩人の言葉ね」
 しみじみと、感嘆したように自分を見つめ返す二人の視線に、ジョーは幾分どぎまぎしたように立ち上がった。
「ところで、このあとはどうしようか? 食事に行くにもまだちょっと早すぎるし…」
 時計を見ればまだ午後五時をようやく過ぎた頃。夕食には確かに少しばかり、早すぎる。その一方、都内の桜の名所もあらかた回ってしまったし、だいぶ陽も低くなってきたというのも事実だ。
 無言のまま顔を見合わせた二人に、ジョーがやや遠慮がちに言った。
「もしよかったら、あともう一箇所だけ、つき合ってもらえないかな。…僕も桜に酔っちゃったみたいで…懐かしい場所を一つ、思い出しちゃったんだ」

「中学校?」
 驚いたようなフランソワーズの言葉に、ジョーはハンドルを切りながら小さくうなづく。
「うん…僕が通っていたところ。さっき思い出したのは、そこにいた先生のことなんだよ」
 前方に油断なく目を走らせ、車を操りながらもジョーは懐かしそうな表情になった。
「…もう、かなりのお爺さんでね。校長先生の、大学時代の先輩。どこかの名門高校の校長を定年退職したのを、校長先生が頼み込んでうちの学校に来てもらったんだ」
 赤信号。車を停止させたジョーは、ハンドルにかけた手の甲に顎を乗せ、一人、思い出に浸ったように話し続ける。
「そりゃあ、厳しい先生だったよ。…僕、昔は結構ワルだったろう? もう、目の敵にされて、顔を合わせる度に追いかけっこさ。一度なんか、思い切り投げ飛ばされたことがある。中三のとき」
「え? 貴方が?」
 フランソワーズが目を丸くしたのには、アルベルトも同感だ。サイボーグであることを別にしても、ジョーの運動神経はかなりのものである。まして日本の中学三年といえば、十五歳…人にもよるだろうが、ほとんど大人と変わらない体格ではないのか。そんな彼を「かなりのお爺さん」である教師が、果たして投げ飛ばせるものだろうか。
「あとで聞いた話なんだけど、その先生、合気道の有段者だったんだよ。…あの時は心底、やられたと思ったな。だって、本当に身体が吹っ飛んだんだもの。決して大袈裟な話じゃなくて。しかも、僕が怪我したりしないように、ちゃんと積み上げたマットめがけて投げてくれたんだ。…すごい人だって、思ったよ」
「そうだったの…でもまだ私には信じられないわ。だって…」
 楽しそうな会話を聞いているうちに、アルベルトは胸が痛くなってきた。悪さをして投げ飛ばされた。そんなことでも、月日が経てば懐かしくもなるだろう。それはいい。だが、もっとほかにマシな思い出はないのかと…つい、問い質したくなってしまう。考え過ぎかもしれないが、ジョーの過去が決して恵まれたものではないと知っている自分には、どうしてもそんな疑問を捨て切ることができない。
 …フランソワーズも多分、同じ気持ちでいるのだろう。だが、彼女は精一杯はしゃいでいる。ジョーが、自分の思い出話をすることなど、めったにないから。しかも、楽しい思い出など、今まで多分…一度もなかったから。
 言い知れぬやるせなさに耐えかねてつい顔を背ければ、窓の外は夕暮れ迫る寂れた繁華街。華やかなネオンの間をぬってちらほらと呑んべえたちが集まってくるのが見える。だが、それでも何故か淋しく見えるのはまだ薄明るい空にネオンの光がぼやけているからだろうか。それとも、この街が本当の賑わいを見せるにはまだいくらか早すぎる時刻だからなのだろうか。
「着いたよ」
 とりとめもなくそんなことを考えているうちに、車はどうやら目的地に到着したようだった。
 古ぼけた、都会にしては小規模な中学校。周囲を繁華街と中小の工場街に囲まれた中、ひっそりと佇んでいる古ぼけた校舎。お世辞にもあまり環境がよいとは言えない場所だが、それでもさすがに日本の学校らしく、敷地を囲ったフェンスに沿って、校舎を取り囲むようにしてたくさんの桜の木が植えられている。そのどれもが、今まで見てきた名所のそれと同様、薄紅の小さな花を満開にしていた。
「ここの桜も満開ね。綺麗だわ…。でも、どうしてこんなにひと気がないの? 生徒の姿も全然見えないし」
「もう春休みに入っちゃったんだよ、きっと。…ちょっと、降りてみていい?」
 三人は車から降り、フェンス沿いに学校の周囲をゆっくりと一周してみた。そして、ちょうど校門の前を通り過ぎたとき。
「ああ、あったあった!」
 不意に大きな声を出して、ジョーが少し先にある一本の桜の樹に走り寄った。わりと低めの枝が一本、フェンスの外にはみ出している。その先が途中で切り落とされているのは外を通る車の邪魔にならないようにという配慮か。だが、その切り口のすぐわきにも小さな細い枝がたくましく伸び、一人前に小さな花を二、三輪つけている。
「ねえ、見てごらんよ。この枝の根元、ちょっと変なふうに曲がってて…小さなこぶになっているだろう?」
 指を指された方に目をやれば、確かにその枝は幹から少し離れたところで不自然に折れ曲がっていた。だが、こぶのほうはあまりはっきりとはわからない。アルベルトがちら、とフランソワーズの方を見ると、彼女もかすかに首をかしげている。
「昔ね…僕、この枝を折っちゃったんだ。悪ガキ同士でふざけているうちに誰かのカバンが当たってさ。ぽっきり、とはいかなかったけど枝の直径の半分くらいは千切れちゃったんじゃないかな」
 そんな二人の様子になどお構いなしに、ジョーは目を細めて独り言のように言う。
「あれは卒業式の一週間ほど前だった。そのときにはまずい、と思っていったん逃げたんだけど、あとで何となく気になって…。そのへんの工場から拾ってきた廃材とか、鉄パイプで添え木をしておいたんだよ」
 フェンスの土台に足をかけて身体を持ち上げ、身を乗り出したジョーの手が、そっとその枝に触れる。
「だけどその一週間後は卒業式…うまくつながったかどうか、すごく心配だった。一人でやったから、ぴったり元通りにってわけにも行かなかったしね。で、そのあとも時々様子を見に来てた…。そしたらね、いつのまにか添え木が外されて、それでも大丈夫で…継ぎ目がちょっと、変なこぶになっちゃったけど…次の年、先っちょにちゃんと花をつけたときには嬉しかったなぁ。植物の生命力って何てすごいんだろうって…感動した」
 そしてすとん、と土台から下りて。
「いつのまにかこぶもあんなに小さくなって…今年も花をつけてくれてたんだ。…よかった」
 嬉しげにもう一度だけ枝を見上げ、ジョーは微笑んで背後の二人を振り返った。
「この枝を、もう一度見たかったんだよ。つき合ってくれてありがとう」
 アルベルトとフランソワーズの顔も知らず知らずのうちにほころぶ。それはいかにもジョーらしいエピソードだった。
「いや、構わんさ。おかげでまた一つ、見事な桜の名所を見られたしな。それに、そろそろ食事にもちょうどいい時間になったじゃないか」
「そうだね。じゃ、車に戻ろうか。ここからだとどこがいいかな…やっぱり、銀座が一番近いかな…」
 ぶつぶつとつぶやくジョーの腕に、フランソワーズがそっともたれる。
「その話、すごくジョーらしいわ…貴方はやっぱり、昔から優しい人だったのね」
「そんなんじゃないよ。ただ、さっき話した先生が、桜…好きだったから」
「え? それじゃあの『桜に酔う』って話ももしかして…?」
「そう。その先生に教わったんだ。国語の先生だったから、『詩人』って言葉も当たってるかもしれない」
 二人の会話を聞きながら、アルベルトの口の端がさらにほんの少し、つりあがる。
(やれやれ…ようやく普通のカップルらしくなったじゃないか)
 最初からこうなっててくれれば、自分だって余計な苦労をせずにすんだのだ。
 すぐそこの角を曲がれば、車が停めてある。最後にジョーが、名残惜しげに背後の桜を振り返った。
 と―
 突然、その身体が硬直した。傍らのフランソワーズが、怪訝そうな表情になる。
「ジョー?」
 その声に、ジョーは我に返ったらしい。しかし次の瞬間、フランソワーズの手首をつかみ、物凄い勢いで角を曲がって。
(アルベルト! 早く! 君もこっちへ!)
 叩きつけるような脳波通信に、わけもわからないままアルベルトも先の二人の後を追う。
そして。今曲がったばかりの角からそろそろと顔を出し、今まで自分たちが歩いてきた通りを窺うジョーにつられて、アルベルトとフランソワーズも用心深く頭を覗かせてみた。
(ん…?)
 春とはいえ、すでに周囲は宵闇に包まれ、さほど遠くまで見通すことはできない。だが、サイボーグである彼らにとってそんなことは問題ではなかった。  たった今自分たちが歩いてきた道をこちらの方にやってくる小さな影が一つ。小さいといっても子供ではない。杖をついた…老人だ。
「先…生…!」
 絞り出すようなジョーの声に、アルベルトは危うく叫んでしまうところだった。
(な…に!? 先生って…さっきの話に出てきた、お前を投げ飛ばしたあの先生か?)
 脳波通信で語りかけても応えはない。ジョーはただ、何度も繰り返してうなづくだけである。
(じゃああれがその…合気道の有段者?)
 小さくて痩せたその姿は、とてもそんなふうには見えなかった。おぼつかない足取りで歩いてきた老人は、つい今しがたまでジョーが佇んでいたのとほぼ同じ位置で足を止め、同じように手を伸ばし、あの枝に触れようとする。だが、大きく腰が曲がってしまったその身体では、いくら手を伸ばそうが到底枝には届かない。まして、足元もかなり危ない。杖をついているにもかかわらず、背伸びをするたびにふらふらとよろめき、今にも転んでしまいそうだ。なのに、どうしても手が届かないと思ったのだろうか、何と老人は杖を地面に置き、先ほどのジョーと同じくフェンスの土台によじ登ろうとし始めたのである。そして、案の定あっという間に足をもつれさせ、しりもちをついてその場に転がった。
「先生っ!」
 小さく叫んで飛び出そうとしたジョーが、はっと動きを止める。ゆっくりと、自分の全身を見つめ…そして、唇をかんで。茶色の瞳が、みるみるうちに潤んできた。
「待て、ジョー。…俺が行く」
 囁いたときにはもう、アルベルトは老人に向かって走り出していた。

「大丈夫ですか?」
 声をかけ、そっと抱き起こす。
「あ…どうも、ご親切に…」
 礼を言って振り返った老人の目が、はっと見開かれる。自分が外国人であることに驚いたのだろうか? いや、違う。この、反応は…
「あ…! あ…お前…! しま…」
 言いかけた唇が止まり、老人は顔を伏せた。しかししばらくのあと、きっぱりと顔を上げて今度こそはっきりとアルベルトに礼を述べる。
「失礼致しました。せっかくご親切に助けて下さったというに、申し訳ない」
「いえ。私が外国人で、驚かれましたか?」
「そんなことは!…違うです。わしは…昔、教師をしておりましてな。失礼ですが、貴方がその頃の教え子に…大層…似ておられたものですから。大変ご無礼を致しました」
「それは構いませんが…一体、何をなさるつもりだったんです? この暗さでははっきりとはわかりませんでしたが、貴方はこのフェンスによじ登ろうとなさっていたように見えた。こちらも失礼を承知で申し上げますが、そのお年齢では無茶ですよ」
 穏やかに語りかけながら、老人をそっと立たせ、杖を拾い、膝や尻についた埃を払ってやる。老人はすっかり恐縮した様子でしきりにぶつぶつと礼らしき言葉をつぶやき、頭を下げる。どうやら、倒れたときの怪我もなさそうだ。アルベルトはほっと息をつき、あらためて老人に向き直る。
「もしかして、この桜の枝がほしかったんですか? なら、私が代わりに…」
「や、やめて下さい! この枝を折るなんて! わしは…ちょっとでもこの枝にさわれればそれで満足だったです! 本当に、それだけです!」
 あからさまな引っかけに、老人は面白いようにあっさりと引っかかってくれた。アルベルトは心の中でこっそりとうなづく。
「何だ、そんなことでいいんですか。なら…」
 言いながら、ひょいと老人を抱き上げる。こんな小さな老人など、アルベルトにとってはイワンと同じようなものだ。一瞬、壊れた笛のような声を上げた老人も、アルベルトの腕がしっかりと自分を支えてくれていることを知ると、安心したように身体を預け、桜の枝に手を伸ばす。
「ああ…今年も、咲いたぞ…お前が治してくれたこの枝が…ちゃんと今年も花を…つけとるぞ…。見せてやりたいのう…一体…お前はどこにいるんだ……」
 フランソワーズには及びもつかないが、アルベルトの聴覚も常人のそれを遥かにしのぐ。いつのまにか涙の交じったその声が最後につぶやいた名前は、彼の耳にはっきりと届いた。
 老人は、確かに言ったのだ。
「…島村」
 と。彼の大切な仲間の名前を、老人は確かに呼んだのだった。
 やがて、老人が満足した頃を見計らってアルベルトはその身体を地面に下ろした。老人が再び、深々と頭を下げる。
「重ね重ねのご親切、本当にありがとうございました。おかげでやっと、気がすみましたわい」
「いえ、貴方の生徒さんに私が似ているというのも何かのご縁ですから」
「いや、よく拝見すれば顔立ちなどは全然違っておりました…それに、あの子は貴方のような紳士とはお世辞にもいえませんでしたから…そりゃもう、手のつけられない暴れ者で…ただ、何といいますか、その…雰囲気が…」
「ほう! それじゃ俗に言う『ワル』、つまり不良だったんですか」
 わざと大きな声でそう言うと、老人はびくりと縮み上がった。
「も、申し訳ない…そんな子と貴方を『似ている』などと、ご無礼を…」
「構いませんよ。でも、少し興味がでてきた。よろしければもう少し詳しくその子のことを話して頂けませんか?」
 校門の手前に、四、五段ほどの階段がある。アルベルトは老人をそちらに誘い、二人並んで腰を下ろした。老人が座ろうとしたところに自分のジャケットを脱いで敷いてやったのは、その年老いた身体が冷えないようにとの心遣いである。
 そんなアルベルトに恐縮しながらも老人はすっかり心を許したらしい。最初はぽつりぽつりと、しかしすぐに、次から次へととめどなく思い出を語り始めた。そのどれもが、手のつけられない悪ガキにとことんまで振り回された教師の苦労話。だが、それを口にする老人の顔はいかにも楽しそうで、懐かしそうだった。
 とはいえ、一通りの話が終ったときにはさしものアルベルトも頭を抱えてしまった。今のジョーからは想像もつかないが、自分が教師だったらそんなろくでもないガキなんぞ間違いなく絞め殺していると思う。そんな様子を見て、老人がかすかに笑った。
「だいぶ、驚かれたようですな。しかし、あの子は本当はとてもいい子だったですよ。気性が真っ直ぐで、優しくて…あの桜の枝が折れたとき、添え木をしてくれたのもあの子です。その後も、時々様子を見に来ておりましたわい。こっそりと、隠れるようにして…わしが、三階の職員室の窓から見ていたことにも気づかず、ただじっと、嬉しそうな顔であの枝を見つめておりました。そんな…優しい子だったですよ」
 そこで突然、老人の口調が激しくなった。
「わしは、あの子のそんなところをもっともっと、引き出してやりたかった…! 頭から彼を不良だと決めつけていた同僚教師や周囲の大人たちに、あの子の本当の姿を教えてやりたかった! なのに、とうとうそれができないまま卒業の時期を迎え、あの子とは別れざるを得ず…その後のあの子はさらに悪く、泥沼にはまり込んでいくばかりで…とうとう鑑別所送りになった上、一か月も経たずに脱走して、そのまま行方不明になったと風の便りに聞きました。今は一体、どこでどうしているものやら…わしは今でも、そのことを考えると辛くて哀しくて、いたたまれなくなるですよ。あのときのわしに、教師としての力がもう少しでもあれば…いや、卒業後もあの子のことをもっと気にかけてやっていれば…そう思うと…もう…」
 とうとうその目からは涙がこぼれだした。肩を震わせ、必死に嗚咽をかみ殺す老人を見つめるアルベルトの目が、きらりと光る。
「そうですか…なら貴方は、今でもその子のことを教え子として、大切に思っていらっしゃるんですね」
 アルベルトは、わざとまた大きな声をだした。普通に話していてもどうせあいつらには聞こえているだろうが、こういう話はきちんと伝わった方がいい。
 感情がたかぶった所為か、老人の声もまた大きく、はっきりとしていた。
「もちろんですとも! 親にとって、子供がいつまでも子供であるように、教師にとって教え子はいつまでも教え子です! どうか無事で、まっとうに生きていてほしい…いや、まっとうでなくても、身体を悪くしていてもいい。それならわしが、今度こそとことんまで世話をしてやればいいだけの話ですから。ただ…生きていてさえ…生きていてさえくれればそれで…それだけでいいと…そう思って、わしは毎年、この桜を見に来るです…身体が利く限り、来年も、再来年も…きっと…見に来るです…」
 今度こそ、老人の喉からすすり泣きの声が洩れた。アルベルトはしばらくの間無言のまま、やがて老人が落ち着いた頃を見計らってそっと、その背中に手をかける。
「長々とお引止めして申し訳ありませんでした。だいぶ寒くなってきましたから、そろそろ、引き上げるとしましょう。お帰りは…? ああ、バスですか。なら、そこのバス停までお送りしますよ。…いえ、私もそちらから帰りますから、どうぞご遠慮なく」
 老人が立ち上がるのに手を貸し、脱いだジャケットを再び身につけたアルベルトはそのまま老人に付き添って自分たちの車とは反対方向に歩き出した。
(すぐ戻る。先に、車に戻って待っていろ)
 背後の二人にはごく短い脳波通信だけを送る。どうせあいつも、茶色の瞳に一杯たまった涙を、必死にこらえていることだろう。この爺さんと別れてからの年月に比べ、あまりにも変わっていない自分の身体に躊躇って飛び出し損ねたあの莫迦は。そっちの面倒は、フランソワーズに見させればいい。
(落ち着くまでの、いい時間稼ぎだ)
 片方の唇の端だけをそっとつり上げて、老人を気遣いながらバス停に向かうアルベルトの姿が、暖かい春の夜の中にゆっくりと溶けていった。

〈了〉
 


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