一流の条件 1


「聞きましたか? 『ミュートス』の…」
「ああ、聞いた聞いた。アポロンの話だろ?」
 ここは言わずと知れた銀屋横丁、ホストクラブ「009」。開店間際のちょっとしたひととき、俺はみんなと一緒に従業員控え室でコーヒーなど飲みながらダベっていた。
 あ、自己紹介忘れてた。俺、ジェット・リンク。この店の中じゃ一番の新人、まだまだ先輩たちにはヒヨッコ扱いされてるけど、これでも最近じゃ随分人気も出てきてるんだぜ。
 いや、そんなことはともかく。
 他愛ない世間話の途中、ふと出た名前に俺の耳がダンボになった。
 だってよ、「ミュートス」っていったらこの銀屋横丁のすぐ向こう側、エーゲ通りにある超人気ホストクラブ、早い話がウチのライバル店だ。しかもアポロンていったらそこのナンバーワンじゃねぇか。…一体、ヤツがどうしたって?
「しかし、見事な手際だったそうじゃないかネ。…あの子もようやく、『本物』になったちゅうことヨ。よその子とはいえ、よかったアルねぇ」
 傍らから飛んだ張々湖先輩の声に、話していたグレート先輩とピュンマ先輩も大きくうなづく。…でも、これだけじゃ何のことだかさっぱりわかりゃしねぇ。かといって、俺みたいな新米が、先輩たちの話に割り込んでいいものかどうか…。
 ううう、と悩んでいる俺の隣から、突然、おどおどと小さな、しかしはっきりした声が聞こえてきた。
「あ、あの…先輩? それ、一体どんな話…。―すっ、すみません! いきなり割り込んだりして」
 そう言ってうつむいたのは、隣に座っていたジョー。俺と同期だが、人をたぶらかすワザにかけては俺より一枚も二枚も上手。端整かつ純情そうなその童顔の下にひそむ本性なんざ、絶対に見せねーもんな。ほら、先輩たちだって全然やな顔してないじゃないか。むしろ、笑顔になってたりして。
「そんなの、全然構わないのコトネ。いつまでもそんなに遠慮ばかりすることないんアルヨ」
「そうだよ。ライバル店の噂に興味を示すっていうのはプロとしての自覚が出てきた証拠だからね。詳しく話してあげるから、さ、顔を上げて」
 張々湖先輩とピュンマ先輩に優しくそう言われて微笑んだジョーの顔は、まさしく天使そのものだった。…でもよ、これきっと、みんな計算ずくなんだぜ。うーん、恐るべし童顔。…俺にゃ絶対真似できねえ。
 だが、そんな俺にもにっこり笑いかけてくれたピュンマ先輩が、コーヒーを一口すすってゆっくりと―「詳しい話」とやらを語りだす。
「三日前、だったかな? 『ミュートス』でちょっとした騒ぎがあったんだよ。アポロンをめぐってお客様同士が張り合ってね…最初はささいな口論だったらしいんだが、だんだんエスカレートしていって、最後には取っ組み合いの喧嘩になっちゃったんだ。しかも片方が、テーブルに置いてあったナイフまで取り上げてさ。一歩間違えたら流血の大惨事になっていたかもしれない」
「うわ…」
 知らず知らずのうちにあんぐりと口を開けていた俺。自分をめぐって争うお客様…すなわちオンナなんて、ホストとして…いや、男としてはこたえられない構図だけどさ、刃傷沙汰にまでなっちまったら…ヤバすぎじゃんかよ、ソレ。大体、店でそんなことやらかされて警察沙汰にでもなったひにゃ、信用がた落ち、イメージダウン間違いなし! もしウチでそんなことがあったら、あのフランオーナーがどんなに怒り狂うか…うえ。考えただけで寒気がしてきたぞ。
 だが、ピュンマ先輩の微笑みは少しも変わることなく…。
「あのときは本当に、どうなることかとその場にいた全員が固まっちゃったらしいよ。でも、その中でたった一人、全然動じなかったのがアポロンで…」
「それはそれは見事な話術とエスコートでお客様方をなだめ、結局は丸くおさめちまったんだと。まだ若いが、大したもんだ。…これであいつも、一流の仲間入りだな」
 最後を引き取ったグレート先輩の言葉に、ピュンマ先輩と張々湖先輩が大きくうなづく。一方、俺たち―俺とジョーの二人はただ呆然と顔を見合わせているだけだった。さすがのこいつも、こんな生々しい話聞かされちゃ心底ビビってしまったらしい。…って、俺も同じことだけどよ。
「おいおい、どうした、少年たちよ。すっかり怖気づいちまったみたいだな。だが、お前たちにとっても他人事じゃないぞ。ホストなんてやってる限り、この手の騒ぎにはいつか必ずぶち当たる。そのときどう出るかで、そいつの力量がわかるってもんさ。なあ、ジェロニモ」
 からかうようなグレート先輩に続いて、それまで黙っていたジェロニモ先輩が大きくうなづいた。
「…ホストは、お客様が自分を争ってくれるようになってやっと一人前。目の前で起きたいかなるトラブルをも平然とさばけるようになって、一流」
「この店でだって、今まで事件が起きなかったわけじゃない。僕たち全員、大なり小なりいくつかの修羅場はくぐってきているんだ。…でも、一番すごかったのはグレート先輩かな」
「ええええぇぇぇっ!!」
 自分で自分の声にびっくりして、慌てて口を押さえた俺とジョー。
「よせやい、ピュンマ。昔の話じゃないか」
 照れくさそうに笑ったグレート先輩が、ふと俺たちに向き直る。
「しかし少年たちよ。今の驚き方は尋常ではなかったな。我輩のようなくたびれたオヤジをめぐってそんな大騒ぎが起こるわけがない、とでも思ったか? ん?」
「いえっ! とんでもないっ! そそそ、そんなこと決して思うわけが…」
 うわ…どうしよう。パニックってるおかげで全然言葉が出てこねえ。おいジョーっ! 何とか言えっ! こんなときこそお前の天才的タラシ文句、二枚舌三枚舌の出番じゃねぇかよっ!
 心の中で叫ぶまでもなく、ジョー自身もかなり焦ったらしい。すぐさま、悲鳴のような声が俺のあとに続く。
「僕も、そんなこと思ってませんっ! でも…グレート先輩みたいな優しい人の前で、喧嘩するようなお客様がいるなんて…」
 おーよしよし。それでこそお前だ。いけっ、ジョー!
 が。
「いいっていいって。わかってるよ。ちょっと意地悪を言っただけだ。気にするな、少年たちよ。…おっと、そろそろ開店十分前じゃないか。一足お先にセッティングの確認でもしに行くとしようか」
 残念ながら、ジョーの名人芸が本格的に披露される前に、グレート先輩はいつものごとく飄々と―俺たちをケムにまいて、かな―控え室から出て行ってしまった。
「…」
 何となく狐につままれたような気がして、再び顔を見合わせる俺たちを、先輩たちが面白そうに眺めている。
「二人とも、まだ信じられないみたいだね」
 ピュンマ先輩はそう言うけど―。
 誤解のないように言っておけば、俺は(多分ジョーも)グレート先輩のことを「くたびれたオヤジ」なんて決して思ってない。確かに、アルベルト先輩みたいに女を惹きつけて離さない華やかな容貌じゃないし、ピュンマ先輩やジェロニモ先輩よりはトシだっていってるかもしれないけどさ、その洗練された話術や立ち居振る舞い、そこに満ち溢れるさり気ない気配りなんかは多分―他の誰にも真似できないんじゃないかと思う。完璧な紳士―とでも言うのかな。グレート先輩と一緒にいるだけで、女はきっと自分が貴婦人になったような気分になっちまうと思うぜ。そーいや、グレート先輩の客ってみんな、帰り際には完全に瞳がトリップしてるもんな。しかも、先輩の魅力はそれだけじゃない。んーっと、何つーか…これは張々湖先輩にも言えることなんだけどよ、「癒し系」っての? ただ、一緒にいるだけで心があったかくなって、嫌なことや哀しいことはみんな忘れちまえるんだよ。白状すれば俺だってさ、ムカついたり落ち込んだりしたとき、ほんの二言三言―グレート先輩や張々湖先輩と話しただけで気分が軽くなって、それまでの悩みが全然気にならなくなったりすることがあるんだ。俺相手に世間話してるときなんざ、先輩たちにしてみれば完全に商売っ気抜きだろうに…。こーゆーのを「人徳」っていうんだろうか。
 でも。だからこそ信じられないんっスよ、ピュンマ先輩。さっきジョーも言いかけたけど、そんな包容力たっぷりの癒し系であるグレート先輩の前で争ったり、罵り合ったりする客がいるなんて…。
「まあ、二人はまだ知らないやろから、無理もないネ」
 ついつい考え込んじまった俺は、張々湖先輩の声にはっと顔を上げた。
「ジェットもジョーも、まだグレートと一緒に風呂入ったことないアルやろ」
「へ…?」
 ちょちょちょ、ちょっと待って下さいよ、張々湖先輩っ! いくら何でも俺、男同士で一緒に風呂入ったりなんかしたくないっス! どーせ一緒に入るなら是非オーナーとっ! あ…いやこれは置いといて。
 再び地蔵になった俺とジョーを解凍させたのは、次のピュンマ先輩の台詞だった。
「張々湖先輩、それは仕方がありませんよ。だって二人はまだ、うちの慰安旅行行ったことないんですから」
「そうだったアルネ。でも、次の旅行ももうすぐアルよ。行き先はいつも温泉でナ…今度の予定は確か、来年の二月だったネ。ということは、露天風呂で雪見酒ちゅうとこやろか。楽しみアル」
「ただし、近くに高級スキーリゾートがあることってのが絶対条件ですけどね」
「そりゃ、何てったってオーナーの趣味が第一やし…。でも、正直わては露天風呂の方がいいんやけどネェ…」
「実は僕もそうですよ」
 そこで、どっと笑い崩れる先輩たち。あーよかった。温泉の話だったのか。露天風呂に雪見酒…うん、それなら俺も喜んで参加するぜ。ついでに、混浴だったりするともっと嬉しいけどさ。…って、どーしてそっちの方にばっか想像が行っちまうんだ。しっかりしろ、俺!
 張々湖先輩も、話が脱線しかけたことに気づいたようだった。
「ああ、いかんいかん。グレートの話だったの、すっかり忘れてたアル。あのナ、実はグレートのここんとこには大きな傷痕があるんヨ」
 張々湖先輩が指したのは、胸。それも心臓のあたり。…げ。…ってことは…?
「もう二十年以上昔のことやけど、グレートを争って何かにつけて張り合ってたお客様がいはってナ…ある日、そのうちの一人がバッグにナイフを隠し持ってきて、テーブルでグレートと二人っきりになった途端、いきなりグサリ、ヨ。どうやら、無理心中を図ったらしいネ」
 張々湖先輩の声は淡々としていたけれど、それがかえってコワイ。何だか、そのときの状況が妙にリアルに頭の中に浮かんできちまうような…。
「で、グレート先輩はそのとき、どうしたんですか…?」
 そう言った俺の声は完全に掠れてて、おまけに震えていた。だってよ…テーブルについた途端にグサリ、なんて―あのー。俺、これから店に出るのがすげえおっかないんですけど。
 だが、張々湖先輩は穏やかに笑っただけだった。
「そっとお客様を抱きしめて、こう言ったアル。『そうか…。これが今夜の、君の望みか…。何か他にほしいものはあるかい、マイレディ…?』とナ…。そして、異変に気づいて駆けつけたわてには『すまん。ドジった。こちらのお客様にリンゴをむいてさしあげようとしたんだが、うっかりナイフ持ったまま、転んじまったよ…』。それを聞いてお客様は泣き崩れるわ、他のみんなも気がついて大騒ぎになるわ…そのまま気を失っちまったグレートはすぐさまわてが付き添って救急車で病院行きヨ。運び込まれた瞬間には、お医者様もかなり難しい顔してたネェ。正直、わての方が生きた心地しなかったのコトヨ。それでも結局警察沙汰にはしないで済ませたんやけどな、あのときのグレートが助かったのはまさに奇跡アル。わて、時々思い出しては神様仏様に感謝してるんヨ」
 張々湖先輩の声も表情も、最後まで穏やかなままだったけれど。
 …すごい…すごすぎる。俺、これからグレート先輩見る目が変わっちまうよっ!
 だが、驚きと感動で放心状態になってる俺の隣、ジョーはまだ納得がいかない様子で爪を噛んでいた。
「うーん…確かに、グレート先輩ならそんなすごいこともできるかもしれないけど…でも、僕にはまだ、信じられない…だって、あのグレート先輩と二人っきりになれたんなら、そんな…嫉妬とか殺意とかいう邪まな感情はみんな忘れてしまうでしょうに…」
 と、その栗色の頭にぽん、と置かれた手。アルベルト先輩!
「ふふん。そうだな。お前の言うことの方が正論なのかもしれん。だが、そのときそのときのほんのちょっとした心の揺らぎ、ごくささいなきっかけ一つでとんでもないことをしでかすのが女―いや、人間というものなのさ。ただでさえ、俺たちはある意味『罪な』商売してるんだ。いつ何が起こってもびくともしないよう、覚悟だけは決めておくことだな。純情坊や」
 そう言って、かすかに唇の端をつり上げ―アルベルト先輩は俺たち全員に向き直った。
「さあ、そろそろ開店時間だぞ。スタンバイだ」
 


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