前略、道の上より 10


 次の夜から早速、アルベルトも深夜のコンビニに「出勤」することとなった。だが彼はあくまでも遊軍、万が一に備えた最後の切り札である。当然、犯人どもにその存在を気づかれてはならない。…というわけで、コンビニからやや離れた路上に停めた車の中からさりげなく周囲に目を光らせる手筈になったわけだが。
(…やれやれ。どいつもこいつもご苦労なこったぜ)
 フロントガラスの向こうは左がコンビニ、右が公園。それぞれに油断なく目を配りつつ、煙草に火をつける。言うまでもなく、その薄氷色の瞳もまた、公園のそこかしこからじっとコンビニを見張っている子供たちの姿を確かに捉えていた。
(ま、ガキってモンはよく言えば一途、悪く言えば頑固で融通のきかん生き物だからな…。しかしアイツの方はそろそろガキから卒業してもいい頃だろうに)
 肩をすくめた視線の先は、今度はコンビニ前のダンボールの山、もっと正確に言えばそこにしゃがみこんでいる栗色の髪の店員に向けられていた。
(またあの…ウチの鳥頭の言葉を借りれば「世界の七不思議」と遊んでるのか? …まったく、何のための用心棒だか)
 気がつけば我知らず苦虫を噛み潰したような表情になり、くわえた煙草のフィルターをきつく噛み潰していた。
 それというのも。

 いくら極秘裏に動く遊軍、最後の切り札といえども、自分が守るべき相手、そしてもしかしたら今回の「戦場」になるかもしれない店の様子は把握しておかなければならない。そこで「出勤」初日のアルベルトは客を装い、ごくごく気軽に―もちろん、彼ほどの男がそうそう油断するはずもないが、そのとき周囲には何の異常もなかったし、万が一不測の事態が起こったとしても00ナンバー三人がかりで生身の人間二人を取り押さえることなどわけもないことと―店内に一歩踏み込んだわけだが。
「あ、アルベルト!」
「よう、オッサン!」
 口々に叫びつつ駆け寄ってくる二人の仲間、そして。
「あ…。もしかして貴方が、ジョーやジェットの同僚の…? このたびはお世話かけてすんませんっス! よろしくお願いしまっス!」
 言いつつレジの中で最敬礼したヤス、そこまではいい。
 が―。
 銀色の前髪に半ば隠された薄氷の瞳は、そこにいるもう一つの生き物をしっかり捉えてしまっていたのであった。
(…?)
 わずかに首を傾げた拍子にさらりと揺れた銀髪の奥、いつもは無表情で冷酷にすら見える死神の目が完全に点になっている。だがそれも仕方あるまい。強盗犯の報復に備えて厳重な警戒態勢を取っているこの店―今こうしていてもいつ凶悪犯どもが押し入ってくるかわからない、剣呑極まりない状況真っ只中のこんな場所に。
 どうして、どこからどう見ても超小型の愛玩犬としか思えないようなシロモノがちゃっかりしっかり紛れ込んでいるのだろう…?
 疑問を覚えたそのときにはすでに、黒手袋に覆われた繊細な指が真っ直ぐにレジの前―そこにきちんとお座りをして自分を見つめている毛玉を指差し、形のよい薄い唇が半ば呆れたようにこう、つぶやいていたのであった。
「…何だ、これは?」
 だが、彼にとって最大の衝撃が襲いかかってきたのはその直後。
「あ、その子はね…」
 言いかけたジョー、そして無言のまま肩をすくめて天井を仰いだジェットよりもなお早く。

「犬でちが、しょれが何か?」

 よりにもよって指差した毛玉、どこからどう見てもただのチビ犬にしか見えない物体が、まぎれもなくはっきりと―そう、答えたのである。
 さすがの「死神」アルベルトもこの手の衝撃には弱い(…ってーか、こういう衝撃に「強い」とか「慣れてる」人間がいるとしたらそれだけで異常)。瞬間、その薄氷の瞳は眼窩からこぼれ落ちんばかりに大きく見開かれ、完璧に言葉を失った唇は、気がつけば顎が外れかねないくらいあんぐりと―これまた開きっぱなしになっていたのであった。
 ちなみに、このときはヤスばかりではなくジョーとジェットも、後ろを向いてただひたすらに肩を震わせていた。余談だが、のちにジェットはこう述懐している。
「いやー、あのオッサンのあんなツラ見られるなんて、多分一生一度のことだろうなー」

「…くそっ!」
 あのときのことは思い出しても腹が立つ。ジョーもジェットも、何故あんな非常識な生き物の存在を前もって言っておいてくれなかったのか。どんなに些細な作戦行動とはいえ、決行前にはありとあらゆる情報を共有しておく―それがチームワークの基本ではなかったか。
(だってよー、信じてもらえるわけなんざねぇと思ってさぁ。それとも何か? もしも俺たちが最初っから正直にあのワン公の話してたとして、アンタ、素直に信じてくれてたってか?)
 これは、あの日の「仕事」が終わってギルモア邸に帰り着いたと同時に襟首つかまえて吊るし上げてやったジェットの台詞だ。…確かにそれを言われると痛い。もし、こんな羽目にならなければ―あのコンビニに行くこともなく、あの犬にも会うことさえなければ―日本語を自在に操り、昨今の教育・社会問題にも一家言あるクソ生意気なインテリ犬の存在など、自分は決して信じなかっただろう。
 噛み潰したフィルターから口腔に流れ込んでくる煙は妙に湿っぽくてまずい。せっかくの煙草の味も香りも台無しだ。
(まさかあの犬、どこかでBGとつながってたりしないだろうな。この件が片づいたら、あのワン公の飼い主がどんな奴か、一応調べておいた方が…いや、この俺が必ず徹底的に調べ上げてやる!)
 いつしか、まさしく「死神」そのもの―いや、悪鬼のごとき形相と化したアルベルトは、一人ひそかに固く決心したのであった。

 だが、アルベルトのそんな物騒な決心など、他の連中―特にこの、栗色の髪、茶色の瞳を持つ「犬バカ」青少年になどわかるはずもなくて。
 例によってさんざんパピと遊び倒し(もっとも、彼に言わせればれっきとした「情報交換」なのだそうだが←笑)、至極ご満悦で店に戻ったジョーは、そのままジェットと交代してレジの中に入った。
 深夜0時過ぎのこととて、店内には客の姿はない。そのせいか、いつもは気にも留めないBGM―店に流れる音楽がやけにはっきりと耳に響く。
(―あれ?)
 ふとジョーは首をかしげた。確かこの曲、さっきも聞こえていたような―。不審に思ってレジの奥に置かれたBGM用のCDラジカセを確かめてみれば、案の定リピートスイッチがオンになっている。
「ヤス、CDがリピートになっちゃってるよ。…直しとくね」
 しかし、振り返ったヤスの返事はというと。
「あ、いーんだそれは。お前さえよけりゃ、そのまんまにしといてくれねぇか」
 一瞬、きょとんとした顔になったジョー。だが、ヤスがいいというのなら自分も別に構わなかったので、そのまま素直に元の位置に戻る。
「悪りぃな、我儘言って」
 隣から片手で拝む真似をしてみせるヤスに、ジョーは微笑んで首を振った。
「ううん、そんなことないよ。だけどどうして? この曲、そんなに好きなのかい?」
 何の気なしの質問。なのにヤスの表情が、何ともいえない複雑なものに変わる。
「ああ、好きってったら大好きだぜ。一日中聴いてても飽きねぇくらいな。でも、俺がこの時間、この曲をエンドレスで流してるのは、ちびっと別の理由があるんだ…」
 かすかに眉をひそめたジョーに、照れたように笑うヤス。
「あのさぁ…。お前とジェットが初めてこの店に来たとき話したろ。ここに就職するとき、オーナーに『本当にやり直す気があるんなら、店の連中に昔のこと全部打ち明けて裸のままで飛び込んでみろ』って言われたって」
「あ…ああ、覚えてるよ」
 そこでふと、団栗眼が下を向く。
「正直言って俺、ずいぶん迷ったんだ。『前科持ちのムショ帰り』なんてことバラしたら、みんなに総スカン喰らうんじゃねぇかってすっげぇ不安でさ…。いくらオーナーに言われたからって、はいそうですか、なんてすぐに決心つくモンじゃねぇ。…わかるだろ?」
 ジョーは、こくりとうなづいた。ヤスの気持ちは痛いほどよくわかる。いや…自分にも同じことがあった。
 BGからの脱出行の途中、いきなりイワンに心を読まれて自分の過去を言い当てられたとき、ジョーはとっさに大声を出してイワンの言葉をさえぎっていた。それは、目の前の赤子が怖かったからかもしれない。まだ何も知らなかった当時の自分には、「超能力」などというものはただただ不気味な、得体の知れない手妻としか思えなかったから―かもしれない。
(だけど本当はそれだけじゃない。いや、超能力がどうのこうのなんて、はっきり言ってどうでもよかったんだ。僕がイワンを黙らせた、もっと大きな、本当の理由は―)
 あのとき、初めて出会った「仲間たち」。本当に怖かったのは、そんな彼らの前で自分の過去をあばかれることだった。混血の孤児、施設育ち―そして鑑別所からの脱走犯…そんな自分の「正体」を知ったら、この初対面の仲間たちに何と思われるか、それが一番不安だったのだ。
 きっとヤスも、あのときの自分と同じだったのだろう。
 ジョーの無言の思いは、ヤスにも充分伝わったらしい。やはり無言のまま、ジョーの肩をぽんと叩いたヤスが、ゆっくりと例のCDラジカセに歩み寄る。
「そんときな、いつまでたっても煮え切らない俺に、オーナーが聴かせてくれたのがこの曲なんだよ。一世風靡セピアの『前略、道の上より』っての。知ってるか?」
 残念ながら、ジョーには覚えがなかった。彼とて一応「今どきの若者」の一人、ヒット曲やアーティストの名前にはそれなりに詳しいつもりでいたのだが―。
「へへ、やっぱし知らねぇか。でも、当然っちゃ当然かもな。何せ二十年以上も前の歌だし」
「えっ!? そんなに古いの?」
「ああ。オーナーがまだ現役バリバリの頃流行ってたんだとさ。何か、あのヒトも若けぇ頃はかなりそっち方面で鳴らしてたらしくて…おっと、そんなのは余計なこった。ま、とにかくオーナーが、俺にこの曲を教えてくれたんだよ」
 気がつけば、ヤスの手がいかにもいとおしそうにCDラジカセをなでている。
「初めてコレ聴いたときさぁ、俺…恥ずかしながら泣いちまったんだ。別に、しんみりしたとか悲しくなったってんじゃなくて…うまく言えねぇんだけどさ、何つーの? 聴いてるうちに不安やら迷いやら全部消えちまって、『よし、そんじゃいっちょやったろか!』みてぇな気持ちになって、でもって、そんな自分に『大丈夫、それでいいんだ、頑張れ』ってエール送ってもらってるような気がして…あーダメだ! やっぱうまく言えねぇっ!」
 しどろもどろの説明をしているうちに癇癪を起こしたのか、自分の頭をがしがしとかき回すヤス。
「とにかくお前も一度この歌じっくり聴いてみてくれよ。俺のヘタな説明なんかよりその方がずっとよくわかってもらえるんじゃねぇかな」
 そのとき、タイミングよく曲が終わって最初に戻った。そこでジョーもレジにもたれ、今まで気にも留めずに聞き流していた旋律に耳を傾け、歌詞を追ってみる。
(あ…)
 突然の和太鼓の音と祭りの神輿を担いでいるような威勢のいい掛け声で始まるイントロ、そして野太く力強い男性コーラスのおかげで今までやたらとにぎやかな印象ばかりが強かったこの曲。だが、こうしてじっくり聴いてみると―。
 咲き誇る花、険しい山道の登り、息を止め、身一つで潜る海の世界、打ち寄せる波―そんなことどもになぞらえて人間の生の意味、命の証の存在などというものが果たしてあるのかと聴く者に問いかけ、そして。
 意味や証など、もしかしたらどこにもないのではないかと―でも、だからこそ太陽の下、真っ直ぐに光を浴びて歩いてみろと―強制でも説教でもなく、「とにかく一度やってみろ」と手を差し伸べ、あるいは後ろから豪快に背中を押してくれるような歌。
 ジョーの表情がかすかに変わった。ふとこの歌が、ヤスや自分のような境遇の人間への応援歌に聞こえたからである。
「…な? ぐっとくるだろ? カッコいいだろ? 何だかわかんねぇけど、とにかく必死こいて真っ直ぐに生きてみようって気になるだろ? だから、俺…」
 一瞬途切れた言葉に続いて、大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「もしもあいつらがまた押し入ってきたときにこの歌が流れてれば…この歌のほんの一言でもいい、奴らの耳に入ってくれれば…もしかしたら、もしかしたら奴らも俺みてぇに、いっちょやってみっかって気分に―真っ直ぐお天道さんを眺められるようにがんばってみっかって気分になってくれるんじゃねぇかと思ってさ…。だから、お客様の波が途切れるこの時間帯、いつ奴らが押し入ってくるかわからねぇこの時間帯になると俺はいつもこいつをエンドレスで流して…。バカ…だよな。たとえ奴らがコレ聴いたって、俺と同じふうに感じてくれるなんて保証は何にも…どこにもねぇのに…でも…それでも…」
 その台詞の最後はとうとう聞こえないままだった。絶句したまま、一度だけ大きく鼻をすすり上げたヤスが、次の瞬間いかにも軽そうな、そのくせその団栗眼をきらきら輝かせた笑顔を浮かべ、唐突に話題を変える。
「とにかく俺は、それくらいこの曲とセピアに惚れ込んじまったってこった。な、知ってるか? セピアはもうとっくの昔に解散しちまったけどさ、何とそのメンバーの中にはギバちゃんや哀川のアニキがいたんだってよ! 俺、それ知った瞬間にあの人たち見る目が変わっちまった。これまではまぁ、ちょっとカッコよさげなオヤジ俳優としか思ってなかったんだけどさ、も、今じゃ大ソンケーの大ファンよ。『踊る大捜査線』だって全編ビデオに撮ったし、映画だってどれも三回以上観た。もちろん『ゼブラーマン』のDVDだって買ったし、それからな…」
 いつまでもいつまでも、口を挟む隙さえ与えずにヤスは話し続ける。あまりの勢いにたじたじになったジョーは、とうとうレジの隅にまで追い詰められてしまった。こうなるとまさに傍迷惑、完璧にイッちゃってるセピア・フリークス、さもなきゃセピア・フーリガンである。
 だがその機関銃のような舌鋒を浴びせられつつ、ジョーは何故か目頭が熱くなってきた。と同時に、このちょっとヤサグレた気のいい昔の仲間―00ナンバーの仲間たちとはまた違う絆を持つ親友―ヤスを、何が何でも守ろうと決意を新たにする。
 それは決して、ヤスお薦めのあの歌―「前略、道の上より」を聴いたからだけではない、そんな気がした―。



こんな思いがけない、しかしささやかな一幕のおかげで、例によってついついしんみりとしてしまったジョー。そんな彼に再び正気を取り戻してくれたのは、これまた例によってあのチビ犬―パピの、冷静極まりない状況分析であった。
 


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