前略、道の上より 8


「奴らがヤサをフケたってことは、いよいよ覚悟を決めたってことっスよね…」
 小さな声でつぶやいたヤスに、今井が気の毒げに―しかしきっぱりとうなづく。
「残念だがそう見るしかないだろうな。…多分、この前ウチの管内で起きた連続放火事件、アレが引き金になったんだと思う。ほらチーフ、この間言ったろ? あのタレコミ電話のほとぼりが冷めた頃、万が一大事件でも起きて所轄署がかかりきりになるようなことがあったらそのときが一番怖いって。今はまさにそんな状況だ。あの放火事件は全国紙やTVのニュースでも派手に報道されてしまったから犯人側にも事情は筒抜けだろうし、奴らにとっては絶好のチャンス到来とばかりに行動を起こしたんだろう」
 その隣で腕組みをした竹内は先ほどから口をへの字に曲げたままだ。
「今所轄では全署を挙げて放火犯逮捕にやっきになっている。それはもちろん我々交番勤務の者も同じだ。そりゃぁ、他の犯罪を野放しにするつもりは毛頭ないし、こちらの件もかなり切迫した事態であることは明らかなのだから、できることなら今井と二人、ずっとこの店に張りついていてやりたいんだが…いくら松井管理官殿や署長からのお言葉があったとはいえ、あっちを完全に無視するわけにもいかんしなぁ…」
 その後控え室に陣取ったのはヤスと竹内、今井の二警官を始め、オーナーと井沢、そしてジョーとジェットの七人。それは当然この狭い部屋の許容限度を超えている。ソファも椅子もぎゅう詰め状態という、ただでさえ息苦しい状況に加え、皆が皆深刻な面持ちで頭を抱えてうなり声やらため息やらをひっきりなしに吐き出しているのだから、居心地が悪いことこの上ない。
「やっぱ俺…これ以上ここにいちゃいけないのかもしれない」
「ヤス!」
「おいお前、何てこと言うんだよ!」
 とっさに叫んだジョーとジェットの声にも、ヤスはうつむいたきり顔を上げようともしない。だが―。
「まさか辞めるなんて言わんだろうな、花岡。…ウチの店をつぶす気か?」
「オーナー!」
 それまで一言も発しなかったオーナーが口を開いた途端、ヤスははっとして頭を上げる。だが、それでもその表情は苦しげに歪んだままで。
「俺だって、この店辞めたくないっスよ! でも…俺のせいで店や仲間にまで巻き添え喰らわせるようなことになったら…俺…オーナーやみんなにそれこそ死んで詫びるしかないっス。それくらいならやっぱ、一人でてめぇのアパートにでもいた方が…襲われるのは俺一人でたくさんなんスから!」
「おいおいチーフ、それもまた短絡的な結論だぜ。…でも、河北さん」
 ヤスをなだめつつ、ふとオーナーの方に向き直った今井。「河北」というのはおそらくオーナーの名前なのだろう。
「正直、警護する側から言えばチーフのアパートの方がまだ安全だと思うんです。あのアパートと我々の派出所は同じ通りに面しているし、距離も百メートルと離れていない。おまけにその間はほぼ直線道路、派出所の前に立っていればアパートに近づく不審者だってすぐわかりますからね」
「だが、あのアパートの裏手は空き地になっている」
 オーナー…いや、河北がゆっくりと言葉を返した。
「あの空き地から、裏の塀を越えて侵入されたら派出所からは見えない。…それに今井さん。奴らは多分、花岡の住所までは知らないと…私はそう考えているんですがね」
「ほう…?」
 聞き返した今井、そして同じく河北を見つめた竹内の表情が変わった。研ぎ澄まされた刃物にも似た鋭い二対の視線が河北を射る。だが、河北は顔色一つ変えず、あくまでも冷静に―。
「あの事件は、金に困った犯人どもが行き当たりばったりにウチの店に押し込んだ―と聞いています。当然、そのための下調べなどほとんどしていないでしょう。そうでなくても、押し込む店の従業員の住所まで調べる強盗がどこにいますか。逮捕されて刑務所に収監されたあとだってそうだ。ムショ仲間から花岡の話を聞いたとはいえ、こいつの現住所まで耳にしたとは思えない。…というのも、刑務所を出てからの花岡は昔のムショ仲間とは一切連絡を取っていないからです。…そうだな、花岡」
 厳しい視線でぎろりと睨まれたヤスが、とっさに声を張り上げる。
「はいオーナー! 間違いないっス! 俺…出所してこの方、ムショ仲間には一切連絡してないっス!」
 その言葉に、河北が鷹揚にうなづく。そして再び、二人の警官に視線を戻して。
「そんな奴らが花岡のヤサを調べようとしたら、この周辺で聞き込みをするか、店から帰る花岡を尾行するか…それくらいしか手はないでしょう。だがここから花岡のアパートへは、竹内さんと今井さんが勤務する派出所の前を通らなければ帰れません。これから犯罪を犯そうとしている人間に、いけしゃぁしゃぁと派出所の前を通り過ぎるだけの度胸があると思われますか? 聞き込みにしたって同じことです。警察官でも探偵でもない人間にあれこれ聞きまわられたら、たとえ自分のことでなくとも近所の皆さんは不審に思いますよ。それを警察に通報でもされたら一大事だ。…まぁ、よほど腹の据わった奴ならそんなこと気にもしないでしょうが、果たして今回の犯人連中はそれほどの大物ですかね?」
「うむぅ…それはまぁ、確かに」
「一理ありますが、河北さん、だからと言って…」
 だが、二人の制服警官の反論をさえぎるように、河北はなおも話し続ける。
「もし花岡が自宅に閉じこもりきりになったら、犯人どもには打つ手がない。それであきらめてくれれば万々歳ですが、必ずそうなるという保証はない。業を煮やした奴らが、花岡のいるいないに関わらずこの店に押し込み、不運にもそこに居合わせた誰かを人質にして標的を呼び出す…そんな可能性だってないとは言えんでしょう」
「オーナー…」
 ヤスはもう、泣きそうになっている。河北が、それに向かってかすかにうなづきかけた。
「ですからね、花岡がここを辞めようが休職しようが、この店が危険なことには何の変わりもないんです。だったら今までどおり勤務してもらった方が、店にとってもありがたい」
「河北さん!」
 悲鳴のような叫びを上げた竹内を、河北は身振りでなだめた。
「恥ずかしながら私は名ばかりのオーナーでしてね。店の実務は一切この井沢と…そして花岡が仕切っているんです。もし私が店に出ても、バイトの大学生程度の仕事しかできません。とてもとても花岡の代わりは務まりませんよ」
 瞬間、井沢とヤスがはっと目を上げ、河北を見た。ヤスが、何事かを言いかける。だがそのヤスを、何故か井沢の視線が…止めた。
「二、三日で解決すればいいが、万が一…一ヶ月だの二ヶ月だのといった長期戦になったらこの店はおしまいです。まさかその間、井沢を昼夜ぶっ通しで働かせるわけには行きませんし…だから花岡、頼む。これまで同様、夜勤のチーフをやってくれ」
「オーナー…」
 河北の言葉に涙ぐみ、うつむいてしまったヤス。と、今井の質問が飛んだ。
「そういう事情なら仕方ありませんが…学生バイトはどうするんです? もしこの店に押し込まれたときに誰かが巻き添えを食う羽目にでもなったら…」
「彼らには事情を話し、昼間のシフトに回るか、しばらく休暇をとってもらいます。そしてその間、深夜のアシストには私が入る」
「オーナー! そんな…とんでもねぇ! ンなことして、もしも奴らが押し込んできたら…。バイト連中が無事ならそれでいいって問題じゃねぇでしょうが! オーナーにもしものことがあったら、一体俺はどうすりゃ…」
「ガタガタ騒ぐな花岡!」
 凄まじい一喝に、ヤスが言葉を失う。
「さっきから聞いてりゃてめぇ、誰を巻き添えにしたくないの、襲われるのは自分一人でたくさんだの…いつまでもそんなしょうもねぇことをヌカしてるんじゃねぇ! いいか、俺はこの店のオーナーなんだぞ? たとえ通常業務の全てを井沢とてめぇに任せてるとはいえ、この店の最高責任者は俺なんだよ! 店と従業員を守るのは俺の義務であり、立派な仕事なんだ、文句あるか!」
 怒鳴りつけられ、一瞬ひるんだヤス。が、次の瞬間には再び河北…上司を睨みつけ、食ってかかった。
「文句なんか…俺に文句なんかつけられるはずねぇっス! でもオーナー…。そんなことしてもしものことがあったらやっぱこの店はおしまいっスよ! もしオーナーに何かあったら、ここは一体誰が切り盛りしていくんっスか!」
「そんなん、井沢とてめぇがいるじゃねぇかよ! 一体何のために給料払ってると思ってるんだ! …それとも何か? てめぇら、俺がいなきゃ何にもできない幼稚園児並みのガキだってか? 一体今までこの店で、何勉強してきやがったんだこのクソバカ!」
「それとこれとは話がちがうっしょ! 俺はただ、オーナーのことが心配で…」
「だからそれが大きなお世話だって言ってんだこのボケナス!」
 思いがけないところで始まった大喧嘩に、すっかり目を点にしてしまった一同。それでもいち早く正気を取り戻したジェットが、ほとんど特攻隊並の覚悟を決めて二人の間に割って入る。
「ちょい待ち! 頼むから落ち着いてくれや、二人とも! 今お前らがケンカしたって何の役にも立たねぇだろうがよっ」
「うるせぇ! 黙っててくれジェット! これは俺とオーナーの問題だ。しかも店の存亡までかかってるとなりゃそう簡単に引っ込むわけにゃいかねぇんだよっ」
「おし、よく言った花岡! ここはあくまで、俺ら二人で決着つけようじゃねぇか。さぁ、覚悟決めて表に出ろっ」
「へいっ!」
「ちょ…ちょっと待ってよヤス! それから河北さんもっ」
 そのまま席を蹴立てて飛び出していこうとする二人に飛びついたのはジョー。ほっそりとした華奢な身体からは信じられない力で押さえ込まれ、ヤスと河北がはっとして振り返る。
「二人の気持ちはよく…よくわかったからっ! ねぇ、だったら深夜のヤスの相方、僕が入るよっ。何だったらジェットと二人交代でもいい。ね…それだったらヤスも河北さんも安心してくれるだろう!?」
 思いがけない申し出に、一瞬言葉を失う二人。そこへジェットがすかさず畳みかける。
「そうだそうだ! まさかてめぇら、俺たちじゃ不足だなんてヌカすんじゃねぇだろうな。何てったって俺たちの腕は警視庁の松井管理官が保証してくれてるんだぜ!」
 次に言葉を返す者は誰もいなかった。…そして結局、当分の間ヤスの深夜勤の相方はジョーとジェットが交代で勤めることになったのである。

「…ふぅん。しょれならとりあえずよかったじゃありまちぇんか。ジョーしゃんとジェットしゃんならヤスしゃんとも仲良しだし、警視庁の管理官が保証ちてくれるくらいなら、ボディガードとちてもうってつけでちよ」
 時刻は飛んで、その日の夜。善は急げとばかりにジョーとジェットは今夜から早速コンビニで働くことにした(もちろん、あれから仲間たちに一応の事情説明をするため、一旦はギルモア邸に戻ったのだが)。しかしコンビニでのバイトなど初めての青少年ども、ヤスと―どうしても今夜だけはと頑として譲らなかった河北の二人がかりで仕事の内容を一から教えてもらっていたのである。と、そこへ何故かまたとことこやってきたのがパピ―ジェットの言葉を借りれば「世界の七不思議」たるチビ犬だったわけで。
 しかし、普段ならともかく今夜は河北がいる。いきなりこんなワン公が店に入ってきたりしたら、つまみ出されて当然だと―少なくともジョーとジェットはそう思っていたのだけれど。
 驚いたことに河北もまたこのチビ犬のことはよく知っているらしく、パピが姿を見せた途端、「レジは俺に任せろ」と一言、控え室に向かってあごをしゃくってみせたのだった。―で、現在―彼らはまたも控え室に集まり、これまでの事情を逐一パピに報告する羽目になったのである。
 例によってソファにゆったりと寝そべったお犬様に向かって今回の事件を懇切丁寧に説明するヤス。そしてその様子をぽかんとして眺めているジョーとジェット。
(…ねぇジェット。パピちゃんって、すごく顔が広いんだね。まさかオーナーの河北さんまであの子のことを知ってるなんて思わなかった)
(おい。…頼むからこれ以上俺にあのワン公の話はしないでくれっ。俺…もう何が何だかわかんねぇ…。なぁ! 何であのチビ犬がこの場を仕切ってんだよっ! これじゃ俺たちの立場ってなぁ一体何なんだー!)
 いつしか半狂乱になって自分の頭をかきむしりだしたジェットをなだめる術など、さすがの「犬バカ」ジョーにもあるわけがない。そして、そんな二人にパピが気を遣うことなど、それ以上にあるわけがなくて―。
「それじゃボクもこれからちばらく、このお店の『番犬』とちてお手伝いさせていただきますでち。ね、ここの前にはいつもペットボトルやスナック菓子やカップラーメンの空き箱―ダンボールが山積みになってるでしょ? あしょこにちょっとした隙間を作ってもらえばボク、しょの中にもぐりこんで、誰にも―もちろん、犯人しゃんたちにも気づかれずに見張り番を務めてみせますでちよ」
「い…いやパピ、それじゃあんまり申し訳ねぇよ。大体お前にだって立派な飼い主がいるんだし、そうそう夜中に抜け出してばかりもいられねぇじゃん…」
 さすがに戸惑い、パピを押しとどめるヤス。一方のジョーとジェットは完全に自己主張を放棄し、ただただそんな二人(一人と一匹か?←笑)を見つめているばかりである。
 しかし当の「お犬様」は、そんな人間どものことなどまるっきり意に介さず―。
「いえいえ、ヤスしゃんにはいろいろお世話になってますし、どうぞご遠慮なく。しょれよりヤスしゃん、ボクのことなんかよりもっと重大な問題があるでしょう。…ねえ、こんな事件が起きちゃったからにはあの―子供たちをこのままにちておくわけにはいかないんじゃないの? …そろそろみんなが集まりだす頃でちよ。どうするつもりなんでちか?」
 図星を指されて、ヤスがぐっと言葉に詰まった。実は昼間、竹内と今井からも同じことを言われていたのである。
(なぁチーフ…こんな事態になっちまっちゃ、さすがの俺たちもこれ以上あの子たちの件に目をつぶるわけにはいかないよ。それでなくても例の…放火犯のこともあるし)
(君からはさぞ言いにくいとは思うが…今この状況であの子たちを本当に守るためにはどうすればいいのかは、わかっているはずだな)
 非難している目ではなかった。叱責する口調でもなかった。それでもヤスは、二人の警官にただただ頭を下げるしかなくて。
 今もまた、同様であった。ソファに寝そべり、じっとこちらを見つめるつぶらな瞳に、ヤスの頭がゆっくりとうなだれていく。そして―。
「…どうするもこうするもねぇよ。今夜奴らが来たら俺の口から事情を全部話して、しばらくは店に近づかねぇよう言い聞かせるしかないだろう…」
 パピがまた、後ろ足で耳のあたりをかりかりと掻いた。
「確かに、しょれちかないでしょうね…でもあの子たちにとってのこのお店は、多分この世で一番大切な場所のはず…。素直に言うことを聞いてくれればいいんでちけど」
 この傍若無人なワン公にしては珍しく、大きなため息がその口から漏れ、ぴんと張ったひげをかすかに震わせた。
 しかしこのパピの懸念は見事に大当たりしてしまい―事態は余計面倒なことになってしまったのである。
 そして、そのおかげで思わぬとばっちりを喰らう羽目になったのが―。



 アルベルトだった。
 


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