落とし穴 1


 その電話を聞いたとき、ピュンマは耳を疑った。
「…おい…おい、ピュンマ! 聞こえとるか?」
 必死に叫ぶギルモア博士の声が遠い。ピュンマははっと我に返り、手の中の黒い受話器をしっかりと握り直した。
「はい! はい、博士…。次のメンテナンスは、必ずご指示の通り、時間をとります! 必ず…必ず、行きますから!」
 何故だろう。目頭が熱い。鼻の奥が痛い。どうして今さら…。この件についてはもう、遠い昔にきっぱり思い切ったはずなのに。
 用件を終え、別れの挨拶を交わしたあと、博士のためらいがちな声がひっそりとつけ加えられたのにピュンマは微笑した。
「それではの、ピュンマ…待っておるよ」

 年に何回か、メンテナンスのために日本へ行かなくてはならないのは今に始まったことではない。しかもそのときには一週間や二週間の時間をとられるのは当たり前だ。だからピュンマは、普段ほとんど休みを取らず、半ば不眠不休で働いている。所属するNGOの地区リーダーであるジェフが、時折心配そうに意見してくるほどに。
「おいピュンマ…いくら何でもそうそう無理ばかりしたら身体壊すぞ。例の…まとまった休みを気にしてるってのはわかるが…だがそりゃ、健康診断なんだろう? 不吉なことは言いたくないが、定期的な健康診断が必要な状態の人間が、休みも取らずにぶっ通しで働き続けるなんてのは自殺行為…」
 だがいつも、ピュンマはその台詞を最後まで言わせず、穏やかな微笑でこう答えるだけ。
「わかってるよ、ジェフ。でも僕の『病気』は、きちんと健康診断を受けて、その結果が正常なら何も心配することはないんだ。万が一異常が出たら、そのときにはすぐ君に相談するから、どうかそれまでは僕の好きなように働かせてくれないか。…頼む」
 気配りにたけた頼りがいのあるリーダーである以前に―仲間たち以外の―一番の親友であるジェフにも、自分がサイボーグであることなど言えるはずのないピュンマであった。だから彼には、ここに就職したときからこう言ってある。曰く、「自分は先天性の病気を持っている。それが発病したら命取りだ。だから年に数回、日本にいる主治医のもとで健康診断を受けなければならない」と―。
 だがそれでも、ジェフの心配には何の変わりもないわけで。
 だから、ピュンマがきたるべき新年にいつもの倍―約一ヶ月の長期休暇を申請したことに一番安堵したのはジェフだったのかもしれない。慢性的人手不足に青息吐息のはずなのに、どこか救われたような表情ですぐさま申請書に承認のサインをしてくれたカナダ人に、ピュンマはほんの少し―良心の呵責を覚えた。
「ありがとう、ジェフ。…いつも忙しいことはわかってるんだけど…ごめん」
 だがジェフは、微笑んで首を振っただけだった。
「気にするなよ、ピュンマ。お前は普段から充分すぎるくらい働いてくれてるんだからな。それに、お前のおかげでリタも戻ってきてくれたし、こっちはそれだけで千人力だ。何も心配せずに、じっくり検査を受けてこいよ」
 「リタ」という名前にほんのり顔を赤らめたピュンマ。…何ものにも換え難い、愛する人。もちろん彼女には、全ての事情を話してある。そして彼女はつい昨晩、今のジェフと同じ表情を浮かべて「行っていらっしゃい」と言ってくれたばかりだった。

 ジェフと固い握手を交わしたピュンマは、次の日にはもう機上の人となり、約一日の行程を経て、無事ギルモア邸に到着した。
「やあ、ピュンマ!」
「お帰りなさい!」
「待ッテタヨ!」
 インターフォンを鳴らした途端、飛び出してきたジョーやフランソワーズと握手を交わし、抱き合って再会を喜び合う。その傍らを嬉しげに飛び回るイワンのゆりかご。…変わらぬ仲間たち。もう一つの故郷。
 そして、一歩遅れて家の奥から姿を現し、両手を広げて迎えてくれたもう一人の父―ギルモア博士。
「おお、ピュンマ…よう帰ってきた。疲れておらんか、大丈夫か…?」
 そして、みんなに案内されたリビングでほっと一息ついて。
「…それで、ギルモア博士。この前の電話でのお話は…本当なんでしょうか?」
 最初に発したのはやはりこの一言。何しろ、ずっと不安だったのだ。「お前の聞き違いだ」「やはりだめだった」などと言われたらどうしよう、と…。
 しかしギルモア博士はにこやかに、しっかりと大きくうなづいてくれて。
「…ああ。本当じゃよ、ピュンマ。長いこと辛い思いをさせて悪かったのう。…だがそれも、すぐに終わる。今回のメンテナンスで、君の肌は全て―あの銀のウロコから元通りの肌に戻せるぞ。また、元の通りの姿に戻れるんじゃ。ようやっと…よう…やっと…」
 言葉の最後が涙にくぐもったのは、きっと博士も―あのときの、あの決断をずっと後悔していたからに違いない。それを思うとピュンマ自身の胸にも万感迫るものがあった。
 と、そこへ。
「でもねピュンマ。実は、それだけじゃないんだよ」
 割り込んできたジョーの声、そのどこか嬉しげな響き。
「そうよ。もう一つ、すてきなニュースがあるの」
 フランソワーズの口調も弾んでいる。心なしか、その肌も今日はひときわ美しく輝いているように見えた。
 すでに、胸が一杯になって何も言えなくなっていたはずのピュンマだったが、そこはそれ、知的好奇心にかけては仲間内で一、二を争う彼のこと、こんな謎かけみたいなことを言われて黙っていられるはずもない。
「え…? 何? 何だい、ジョー、フランソワーズ。教えてくれよ」
 だが二人は、面白そうににやにやするだけで、すぐには教えてくれない。
「もう…意地悪はやめて、教えてくれよ! 一体、どういうことなんだい?」
 ついに音を上げたピュンマににっこりと微笑みかけた二人が視線を移した先はギルモア博士。そして、博士がにこやかに教えてくれたその答えに、ピュンマはあらためて仰天したのである。
「あのな、ピュンマ。今回使う皮膚は、かつて君自身から採取した細胞を培養したものなんじゃよ。言わば、正真正銘の生身の皮膚じゃ。…あ…む…もちろん、身体の中身まで生身にというわけにはいかんが…それでも、の。少なくとも皮膚表面だけは、かつての君の肌そのものに戻せるんじゃよ」
「ええっ!?」
 大声を上げたきり、しばし絶句したピュンマを、三人は微笑んで見つめていた。

 落ち着いてよくよく話を聞いてみれば。今回移植するのもまた、人工皮膚には変わりがないのだった。ただ、今までのようにほぼ百パーセント人工物で生身を模造したものでもない。つまりは、こういうことだった。
 人間の皮膚は、表皮、真皮、皮下組織の三層に分かれている。だが、かつてBGが開発し、彼ら00ナンバーの改造に使った人工皮膚にはそのような区別などなく、耐熱耐寒、防弾機能に優れた素材―何でも、蛋白質と特殊樹脂の合成物らしい―でとりあえず全身を覆い、表面のみを生身に見えるよう、精密に加工しただけのものであった。
 だが、今回ギルモア博士とイワンが開発した新素材によって、より強度の優れた、しかも皮膚表面は完全な生体組織という人工皮膚が現実のものになったというのだ。
「要は、生身の肌を真似て三層構造にしただけなんじゃよ」
 そう言って、ギルモア博士は笑った。だがその大きな鼻がひくひく動いているところを見ると、今回の発明は博士にとってもかなりの自信作らしい。
「最深奥に位置する皮下組織と、その上の真皮の部分には今まで通りの人工素材を使うておる。じゃがその構造にちょっと工夫を加え、改良したことによって、最外部の表皮に君たち自身の生体細胞を使うことが可能になったというわけじゃ。…実を言えばこれまでとて、表皮に生体細胞を使えればそれにこしたことはなかったんじゃがのう。ただ、強度を考えると生身の人間の皮膚細胞ではどうしても弱い。それに加えて、樹脂と融合した素材では、いくらその中に蛋白質が含まれているとはいえ、その上に生体組織をかぶせてもうまく接合できんかったでな。早い話が、すぐにぼろぼろと崩れ落ちてしまうんじゃよ」
「つまりはターンオーバーができないということですね?」
 聞き返したピュンマに、ギルモア博士は大きくうなづいて。
「その通りじゃ。君たちも知っての通り、生物の細胞には寿命というものがある。もちろん、皮膚も例外ではない。毎日毎日、体内で活発に繰り返される細胞分裂によって、次々と新しい細胞が生み出されておるんじゃ。一方、古い細胞はどんどん外へ、外へと押し出され―やがては死滅して、垢となって剥がれ落ちる。それがすなわち新陳代謝、あるいはターンオーバーといわれる現象じゃな」
 三人の前を行きつ戻りつしながら、滔々と語り続けるギルモア博士。何だか、大学のゼミの講義みたいになってきたぞ…とピュンマはほんの少し、口元をほころばせた。
 しかし、そんなことにはお構いなしに博士の話は続く。
「そのような細胞分裂が正常に行われるためには、栄養が必要じゃ。皮膚の場合、実際に新しい細胞を生み出しているのはさっき話した表皮の一番内部にある『基底層』、すなわち真皮と接している部分じゃが、その基底層に栄養を補給しているのは真皮部分の毛細血管なんじゃよ。じゃが、真皮部分が人工物では栄養補給などとてもできん。よって、かぶせた生体組織の細胞が寿命を迎え、死滅してしまった場合には…」
「表皮はみんな垢となって剥がれ落ち、真皮がむき出しになってしまう」
「その通りじゃ。…って、わしの台詞を横取りするでない、ピュンマ」
 ぎろりと睨まれ、ピュンマは肩をすくめる。
「そこで、わしとイワンは考えたんじゃ。真皮からの栄養補給が無理なら、体内の生体組織から直接栄養を取りこめんもんかとな」
ギルモア博士の声が、一段と大きくなった。
「サイボーグとはいえ、君たちの体内には君たち自身が思っている以上の生体組織が残されておるし、その表面には縦横無尽に毛細血管が張り巡らされておる。もしもその毛細血管が、人工物である皮下組織、そして真皮を潜り抜けて直接表皮に届けば、細胞分裂のための栄養補給も不可能ではなかろう? じゃが、それが中々うまくいかなくてのう」
 そこでようやく、ギルモア博士はソファに腰を下ろした。興奮しつつしゃべり続けていた所為で、少々くたびれたのかもしれない。
「…以前の人工皮膚も皮膚呼吸や発汗に支障をきたさぬよう、細かい穴がたくさん開いた多孔質構造を持っておったから、最初はそれで大丈夫かと思ったんじゃ。じゃがやはり駄目だったようでな。どうやら、原材料の蛋白質と樹脂が、不可分の合成物質となっていたのがまずかったらしい。じゃから今回は、それぞれを繊維状にして網状に絡め合わせてみたんじゃよ。そうしたら、これが思いの外うまくいっての。絡み合った純粋な蛋白質と血管細胞がうまく接合して、活発に増殖していきおったわい。おまけに、このやりかただと人工皮膚そのものの弾力性までかなり向上することがわかってな。結果、強度も上がったというわけじゃ。固いばかりの物質というのは限界を超えると意外と脆いが、ある程度の柔軟性を持った物質は衝撃そのものを和らげ、無効にしてしまう性質があるからの。そればかりか、蛋白質と樹脂の割合を変えることによって強度自体にも幅をもたせることができるんじゃ。で、皮下組織部分は樹脂を多めにした最強度の素材、真皮部分は蛋白質を増やし、血管細胞の培地としての役割を重視した素材…これらを重ねることによって、皮膚全体の強度は今までよりおよそ12%から17%はアップしたはずじゃよ」
「すごい…」
 呆然とつぶやいたピュンマに、得意げに胸を張ったギルモア博士。だが急に、ふと困った顔になって。
「もっともこれも、万能とは言えん。生体組織自体を強化することはさすがのわしらにもできんかった。じゃから、あまりに強い刺激や衝撃を受けた場合、表皮が破損しやすいという欠点が出てきてしもうたんじゃが…。しかし、日常生活を送る分には全く問題はないし、戦闘時にも…防護服さえ着用しておればまず大丈夫じゃろう。なんと言うても真皮から下は従来以上の強度を持っておるし、生身の皮膚そのものの質感もそのままじゃ。表皮が破損したとて、致命傷になることも、あまりにグロテスクな傷になることもあるまいて」
「白状するとね、僕たちもすでに少しずつ…その皮膚を移植しているんだよ」
 穏やかに微笑んで、ジョーが静かに言葉を継いだ。
「最初は半ば実験的なものだったし、僕たち日本在住組には充分な時間もあったから…とりあえず目立たない部分から徐々に、経過を見つつ…ね。今のところ、僕は腕だけだけど」
 ピュンマの目が、大きく見開かれる。
「え…? 『僕たち』って、もしかして…フランソワーズも…?」
 もしかして―久しぶりに会った彼女の肌が、いつもより艶やかに、みずみずしく輝いていたと思ったのは―
 呆然と見つめられて、フランソワーズが恥ずかしそうにうなづいた。
「私は、顔から首筋、上半身はもう全部新しい皮膚になっているわ。初めての移植…『実験』に立候補したのはジョーなんだけど…『僕は最新型だから、万が一何かあっても損傷は最小限で済むはずだ』って。…でも、全てが問題なしとわかったあとは少しでも早く私にって、順番を譲ってくれたから…。でも…感じが変わって、おかしくはないかしら」
「そんなこと…そんなことないよ!」
 ぶんぶんと激しく首を振ったピュンマの指が、やがてそっと…ためらいがちにのばされる。
「あ、あの…もしよかったら、君たちの…肌に触らせてもらっても…いい…かな…」
 二人がにこやかにうなづいたのは言うまでもない。
「どうぞ」
 静かに身を乗り出し、いくぶん横を向いたフランソワーズの頬が、今自分の目の前にある。ピュンマの震える指がそっとその、白い肌に近づき―触れた途端、びくりと硬直して―動かなくなる。
(違う…。今までの、フランソワーズの肌とは全然違う…!)
 戦闘中、彼女をかばおうとして。あるいは平和な日常生活の中のちょっとしたはずみで彼女の肌に触れたことは何度もある。今までだって、それが造りものだなんて思ったことは決してなかった。
 しかし。しかし、それでも―。
 この柔らかさ。しっとりとして、指に吸いついてくるような感覚。透き通るような色合い―。
「本…物だ…。本物の、人間の…肌…だ…」
 仲間内で最も生身に近いフランソワーズ。そんな彼女の肌でさえ、これだけの違いがあるということは―。
 弾かれたように振り向けば、すでにジョーはシャツの袖をまくり上げて、まるで招きよせるようにピュンマに向かって両腕を伸ばしていた。
「あ…あ!」
 たった今感じた衝撃と男同士の気安さに、ピュンマは半ばつかみかかるようにジョーの腕を取った。その手のひらにはっきりと感じ取れる、ぴんと張りつめた少年の肌のなめらかさ。体温をそのまま伝えてくる温かさ。もちろん、柔らかさや吸いつくようなみずみずしさはフランソワーズの肌と全く変わりがない。
 これが…この肌が…自分にも…?
 知らず知らずのうちにこぼれ落ちていた涙。いつしかピュンマはジョーの腕を、そしてその手をしっかりと握りしめて頬を寄せ、声もなくすすり泣いていた。
「ピュンマ…。大丈夫だよ。この皮膚の移植に関する拒絶反応は今のところ全くない。何てったって、これはもともと僕たちが持って生まれた自分自身の肌なんだから―」
 しっかりと自分の手を握り返してくれたジョーのささやきを耳元で聞きながら、ピュンマはただただ、繰り返しうなづくことしかできなかった。

 長旅のあとの疲れも考慮し、ピュンマのメンテナンスはそれから三日後に行われることになった。ギルモア博士とイワンに加えて今回はジョーとグレートがアシスタントにつく。今回は一部分のみならず、全身の皮膚を移植しなおすのだからこれだけの布陣も当然のことといえよう。
「今…思うとね。このウロコも、悪いことばかりじゃなかったなぁ…。実際、これのおかげで生命が助かったことも何度もあるし…。最初はショックだったけど、今の僕はこのウロコに心の底から感謝してる―。『今まで僕を守ってきてくれてありがとう』…って、それが僕の、嘘偽りない気持ちなんだ…」
 付き添ってきたフランソワーズに笑顔でそう言ったピュンマは、そのままメンテナンスルームに消えた。

 メンテナンスのアシスタントは、正直、メンバーたちにとっては気の重い仕事である。意識もなく横たわった仲間を切り裂き、その中にある機械を嫌というほど見せつけられるわけなのだから無理もない。
 しかし、今回に限り―ジョーにもグレートにも、そんな鬱屈はこれっぽっちもなかった。
 全身の皮膚を取り除き、新たな皮膚を移植しなおす―それはある意味、通常のメンテナンス以上に痛々しい、目を覆いたくなるような作業だったかもしれないけれど。
 作業手順が一つずつ進んでいくにつれて、ピュンマの身体が元の姿へと戻っていく。
 漆黒の肌。アフリカの強烈な太陽光線に灼かれ、荒々しい、しかし力強い生命力に満ちた自然に、地球の鼓動をじかに伝えてくる大地にはぐくまれた艶やかな肌が、ゆっくりとその全身を覆っていく。
 メンテナンスが全て終了したとき、半ば涙ぐんだグレートが、いまだ眠り続けるピュンマにそっとささやきかけた。
「おい、ピュンマ…。元に、戻ったぞ…。頭の先からつま先まで、俺が初めて会ったときのお前そのものだ。…黒ってのは、綺麗な色なんだなァ…。俺は今日ほどそれを思い知ったことはないよ…なァおい、ジョー。そうは思わないか?」
 器具の後片づけをしていたジョーも、こっくりとうなづく。
「うん、本当に…綺麗だね。…やっぱりピュンマには、この色が一番似合うよ」
 そんな二人を尻目に、そっとメディカルルームを抜け出したギルモア博士。一歩扉の外に出た途端、その脚は崩れるようにがくりと折れ、そのまま冷たい床に跪き―両手を組み、頭を垂れた、まるで祈りを捧げるような姿勢のまま、長いこと微動だにすることなく―。
 その胸に去来するものが何だったのかは、おそらく博士以外の誰にもわからなかったろう。ただ、その皺深い頬を一筋の涙が流れ落ちたことだけはまぎれもない事実である。

 


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