落とし穴 5


 だが、いつまでものんびり地蔵になったままではいられない。
「あああああぁぁぁっ!」
 耳をつんざく悲鳴とともに、再び自分の身体をかきむしろうとしたピュンマに、ジョーが慌てて飛びつく。
「だ…だめだピュンマっ! そんな無闇やたらにひっかいたりしたら、君の肌がぼろぼろになっちゃうよっ」
 だが、その腕の中で暴れまわるピュンマの力はもの凄くて―さしものジョーも撥ね飛ばされんほどの勢いである。
「薬…。そうだ、薬はないかっ? 何でもいい! かゆいのを止めるやつ!」
 グレートの焦った叫びにも、みんなはただ困ったように顔を見合わせるばかり。
「…おお、そうじゃ! 確か、虫刺され用の軟膏が、救急箱の中に…」
 はっと気づいてつぶやいた、ギルモア博士の言葉を耳にするやいなや。
「救急箱ですね! わかりました、取ってきます!」
 ぱっと身を翻し、駆け去るフランソワーズ。
「あ…おい、おい、フランソワーズ!」
 呼び止めた博士の声も聞けばこそ、薄暗い廊下に消えた少女は、加速装置顔負けの速さで薬を手に戻ってきた。
「ピュンマ! 薬だぞっ! 今すぐに塗ってやるからな…。で、一体どこがかゆいんだ?」
「ああ…体中だよ、体中! 全身、どこもかしこも…がゆい〜っ!」
「よしわかった!」
 フランソワーズから受け取ったチューブのキャップをあたふたと外し、軟膏をしぼり出したグレート。が、その手がふと止まり、いくぶん戸惑った顔が背後の少女を振り返る。
「あ…あのー…。願わくば、マドモアゼルにおかれましては少々…後ろを向いていていただけませんかな」
「え…?」
 きょとんとしたフランソワーズにますます困惑したらしいグレート。が、すぐさま思い切ったように一気に言葉を続けた。
「えー。これから薬を塗らなくてはならんのはピュンマの全身。麗しく、たおやかなレディ同様、我らむくつけき男とはいえ、異性に生まれたままの姿を見せるというのはやはり、気恥ずかしいことには違いないからして…」
「あ…!」
 たちまち、真っ赤に頬を染めたフランソワーズがぱっと後ろを向く。それと同時に男どもは寄ってたかってピュンマの衣服をむしり取り、その腕、足、肩、腰、腹…体中のあらゆる場所にごしごしと薬を塗りこんだのであった。
「お…おいっ! 君たち! その薬は…もう三年前の…」
 ちなみに、そんなギルモア博士の言葉を聞く者などただの一人もいなかったのは言うまでもない。

 例え三年前の薬でも何でも、とりあえずの効果はあったらしい。それに、この家の中で「虫さされ用の軟膏」などを使うのはギルモア博士とイワンくらいのもの、量もまだたっぷりと残っていた。
 そしてようやく一息ついたらしいピュンマの肌を、ギルモア博士が丹念に診察する。だが、しばらくして顔を上げた博士は、困ったようにこうつぶやいたばかりであった。
「うーむ…少なくとも、外見上の異常は一切ない。湿疹や外傷、あるいは腫れやただれといったものはまるで…認められん。もちろん、皮膚移植の失敗その他のトラブルもなしじゃ。なのにこんなにかきむしりおって…。おお、おお、あちこち傷になって、周囲にも粉がふいておるではないかい。可哀想に、よっぽど辛かったんじゃろうなぁ」
 そのまま絶句しながらも、さり気なく送った目配せ。それを察した仲間たちがピュンマの衣服を―下着からパジャマから全部―元通りに着せかけてやり、フランソワーズもようやくまた、こちらを向くことができた。
「でも…何も異常がないアルなら、ピュンマのこの苦しみようは一体どういうことネ? まさか博士…今回移植した人工皮膚…それに使ったピュンマの生体細胞そのものに何か、問題が…」
 ためらいがちな張々湖の言葉は、博士の手厳しい声に一喝された。
「そんなことはあり得ん! ピュンマの皮膚細胞は今回だけでなく、BGでの改造時にも徹底的な検査をしておる! そのときにも…無論、今回も全く異常は認められなかった。もちろんそれは、君たち全員同様じゃぞ! 大体、ちょっとでもそんな異常のある細胞組織だったら、いかに持って生まれた肌とはいえ…それに、たとえ表面だけとはいえ…わしは決して移植したりはせんわい!」
 こうまできっぱり言い切られては、張々湖ならずともそれ以上の反論などできるわけがない。
 だが、みんなに首をかしげる間も与えず。
「ううう〜っ…!」
 ベッドの上にうつぶせになり、ほっと一息ついていたらしいピュンマが再びこぶしを握りしめ、苦しげに顔を歪ませた。
「何か、また…かゆくなってきた…ぐぅっ! だめだ、我慢できないっ!」
「やめろ、ピュンマぁぁぁっ!!」
 またも飛びついたジョーの声さえ、すでに泣き声に近くなっている。
「離せ、ジョーっ」
「だめだってばっ!」
「だったらどうすればいいんだっ! 頼むから離して…このかゆいのを何とかしてくれぇぇぇっ!」
「だからって、かきこわしてひどい傷にでもなったりしたら…そうだ!」
 突然、何かを思いついたような表情で、ジョーが背後の仲間たちを振り返る。
「みんな、ピュンマの身体を叩いて!」
「叩くぅ?」
 理解不能な台詞に、全員が点目になった。
「そう、平手でこうやって、軽く…。僕が子供の頃、水疱瘡になったとき、神父様がこうして一晩中叩いてくれてたんだ。『辛いだろうけど、かきむしったら傷が残ってしまうよ』って…」
 ようやくジョーの意図を理解した一同が、あたふたとピュンマのベッドに群がる。
 ぽんぽんぽんぽん。
「もっと強くっ! そんなんじゃ、全然…効かないよっ!」
 身をよじり、絶叫するピュンマに、仲間たちはその手にもう少し力を込める。
 ぺちぺちぺちぺち。
「もっと! もっと強くっ!」
「しかしピュンマ、これ以上力を入れたらおまはんが怪我しちまうアルよ。何しろわてらは…サイボーグやし」
「そうよピュンマ。一番生身に近い私だって…結構力持ちなの、知ってるでしょう?」
「そんなの、構うもんかっ! アザになっても骨が折れても、このかゆみが止まればそれでいいんだぁっ!」
 ついに、言ってることさえ滅茶苦茶になってきたピュンマ。と、それまでギルモア博士の腕の中で黙ったままだったイワンが、ちらりと博士の顔を見上げた。
(博士…コウナッタラモウ、ドウシヨウモナイヨ。非常手段ニデルケド、イイ?)
 ここまできたら、博士もただうなづくしかない。イワンの目が、きらりと光った。
「あ…」
 途端に、かすかなため息とも、呻き声ともつかぬ声を上げ、ピュンマはことりとベッドに倒れこむ。
「お、おいっ!」
「大丈夫かっ?」
 仰天する仲間たちに、赤子のテレパシーが飛ぶ。
(イインダヨ。ソノママ、ソットシテオイテアゲテ…。ぴゅんまハタダ、眠ッタダケダカラ)
 怪訝そうないくつもの目が、今度はイワンに集中する。
(ぴゅんまノ神経制御回路ヲ戦闘もーどニシタノサ。人間ッテ、喧嘩ナンカデ興奮状態ニナッテイルトキハ、殴ラレタリ蹴ラレタリシテモアマリ痛ミヲ感ジナイッテイウダロウ? 君タチノ場合ハソノ作用ガサラニ大キクナルヨウ、神経回路ニ痛覚神経ノぶれーかーガ取リツケテアルンダヨ。戦闘用さいぼーぐガ、傷ノ痛ミデ戦意喪失シタリシタラ使イモノニナラナイカラネ…。デモ、マサカコンナコトデ役ニ立ツトハ…)
「もともとかゆみを感じるのも痛覚神経のはたらきには違いないからの」
 ギルモア博士はもう、泣き笑いの表情である。兵器として改造されたが故の哀しい機能がこんなわけのわからない役立ち方をする羽目になってはそれも無理はあるまい。
(本来ナラコノ神経制御回路ッテイウヤツハ、体内ノあどれなりん分泌量ナドヲ感知シテ自動的ニ通常もーどト戦闘もーどガ切リ替ワルシ、例ノぶれーかーモソレニ連動シテルカラ、外カラ作動サセルコトハマズデキナインダケド…今回ハボクノさいこきねしすデ無理矢理すいっちヲ入レチャッタンデ、多少…回路自体ノばらんすモ崩レチャッタト思ウンダヨネ。ダカラ、ぴゅんま自身モ眠ラセタンダヨ。…デモッテ博士、アトデチョットシタ再調整モ必要ニナルカト…)
「ああもう、そんなことは気にせんでよろしい。神経制御回路の調整なんぞ、三十分もかからずにすぐできるわい。それより問題は…これからどうするかじゃ」
 確かに、そっちの方がかなりの大問題ではある。
「やっぱり…医者に診てもらった方がいいんじゃないですかい?」
「石原先生や藤蔭先生にアルか?」
「そうじゃなぁ…先の皮膚移植に関するトラブルが全くないとすると、もうわしの手には負えんしのう…」
「じゃ、どちらの先生にお願いします? 皮膚科だとすると、藤蔭先生のいるT大附属病院に…?」
「いや、ここは石原君の方がいいじゃろう」
「でも博士、石原医院には皮膚科はなかったんじゃありません?」
「それはそうじゃが、藤蔭君は精神科医じゃろ? 皮膚科に運び込んだとて、彼女に診察してもらうことはできんよ。君たちの事を何も知らない医者に診察してもらって、万が一騒ぎにでもなったらまずかろう。その点、石原君の専門は外科じゃし、あれだけの腕を持つ男じゃ。皮膚科についての知識も中々のもんじゃぞ。今回の人工皮膚開発の際、彼にも意見を訊いたんじゃが、中々有意義な助言をいくつもしてくれたしの」
「じゃあ、明日の朝一番に…」
「石原医院へ直行ね」
 …と、いうことで。ようやくこの大騒ぎに一段落ついたのは、すでに白々と夜が明け初める頃であった。

 幸い、イワンの応急手当はかなりの効き目があったらしい。翌朝目覚めたピュンマは、どうやらあの気が狂うほどのかゆみからはとりあえず開放されたようだった。
 しかし…。
「ピュンマ、もうあと十分ほどで石原医院に着くからね」
「うん…」
 運転席から声をかけ、ちらりと見上げたルームミラーの中、すっかり脱力しきったピュンマが弱々しくうなづく。どう見ても、すっかり「心ここにあらず」といった状態だ。何でも彼に言わせると、「意識も感覚もどこかぼんやりして、現実感がまるでないんだよ…。おまけに、冷たいとか熱いとかいった感触もはっきりしなくて、体全体が麻痺しちゃったような感じなんだ」そうで。おそらくそれは、イワンの言う「神経制御回路のバランスが崩れた」状態だからなのだろうが…。
(とにかく、一刻も早く何とかしなくちゃ…)
 自分自身もかなり焦っていたジョーには、駐車場を探す手間さえも惜しかった。悪いと知りつつ石原医院の前に堂々と路上駐車し、どこか足取りも頼りないピュンマを抱きかかえるようにして建物の中に入ろうとしたとき。
「ああ? てめえらどこのガキどもだ! こんな狭ぇ道に堂々と車止めやがって、通行の邪魔になるってのがわかんねぇのか、コラ!」
 背後から突然響いた、ドスの効いた声。はっと振り向いた途端、ジョーの…そして相手の目が真ん丸になる。
「松井さん!」
「あ! お前…。島村のボーヤじゃねぇか。おまけに、一緒にいるそいつは…」
 TシャツGパンの上にダウンジャケットをひっかけているくせに、何故か一番下は素足に下駄履き…といった珍妙な格好で立ちすくんでいたのは松井警視。石原医師の幼なじみで、いくつかの事件を通し00ナンバーたちともすでに顔見知りの警視庁刑事である。
「おいおい、勘弁してくれや。お前さん、よりにもよってこんなトコで駐車違反するような常識知らずじゃねぇはずだろ。…それとも…何か、あったのか?」
「す、すみません松井さん。でも、僕の仲間が…ピュンマが急病で…少しでも早く、石原先生に診てもらいたくて…」
 ジョーの弁明に、松井警視の顔色も変わる。
「バカタレ! どーしてそれを早く言わねぇんだ! ヒデ! おいヒデ! 急患だぞっ!!」
 ぱっとジョーたちを飛び越して石原医院の扉を開け、松井警視が喚きたてるのとほぼ同時に、白衣姿の石原医師が走り出てきた。
「急患って…ピュンマさん!?」
 だが、そこに仁王立ちになっていたのは松井警視。石原医師がぽかんと口を開ける。
「え…? 何で松っちゃんがここにいるんだよ! 仕事は!?」
「ドアホ! 今日は非番だ! だから、朝メシ買いにちょっくらそこのコンビニまで…って、俺のこたどーだっていーんだよっ! 急患は、そのピュンマ氏だ! すぐに診てやってくれっ」
 そこでようやく玄関にはいってきたピュンマとジョーを、石原医師があたふたと迎え入れる。
「ああ、ピュンマさん! 島村クン! さっき、フランソワーズさんから電話をもらって、昨夜のことはみんな聞いてます! とにかく、すぐに診察室へっ」
 うなづいて、玄関から廊下に上がる二人。と、松井警視がジョーの上着の裾をちょいちょい、と引っ張った。
「…おい、車のキー貸せや。どっか適当な駐車場探して、入れてきてやるよ」

 朝一番のこととて、他の患者は誰もいなかった。石原医師に案内されるまま、ピュンマとジョーは診察室に直行する。そして、とりあえず上半身だけ裸になり、診療台に横たわったピュンマの肌のあちこちを鋭い視線でチェックする石原医師。
 だが、それから一分もたたないうちに―。
「あ…れぇぇぇぇぇ? もしかして…」
 突然、素っ頓狂な声を上げた石原医師が、どこか拍子抜けした表情でピュンマとジョーとを見つめる。
「あのー、これ…です、ねぇ…。多分…この季節によくある、乾燥による急性皮膚炎じゃ…ないかなぁ…と…」
「はぁ!?」
 それっきり、言葉を失う患者とその付き添い。三人の間に、とてつもなく居心地の悪い沈黙が落ちた。





「ああ、ピュンマ。ここにいたんだ。探したよ」
 それは、いよいよ帰国を二日後に控えた夕暮れ。海を見下ろす崖にぼんやりと座り込んでいたピュンマの背中に、ジョーが声をかけた。
「どうしたの、ぼんやりして。…もう、どこもおかしなところはないんだろう?」
 自分も並んで座り込み、心配そうに尋ねるジョーに、ピュンマは力なく笑う。
「うん…皮膚炎もすっかり治まったし、神経制御回路の再調整も無事済んだしね…。ただ…」
「ただ? 何?」
「ショックだったんだよ。石原先生に、あんなこと言われちゃってさぁ…」
 深いため息をつき、がっくりと肩を落とすピュンマ。ジョーの頭の中にも、あのときの石原医師の言葉が蘇る。

(皮膚炎自体は、これから出す薬で治まるでしょう。ただ…ピュンマさんはどうも、乾燥性敏感肌…みたいですね。炎症が治まったあとも、市販の薬や化粧品で結構ですから、お肌の手入れとか保湿ケアなどをまめに行って下さい)

「でも、大したことがなくてよかったじゃないか。一時は本当に、どうなることかと思ったよ」
「そりゃ、そうだけどさ…」
 何故か、ますます落ち込んだ様子のピュンマ。
「僕だって、何度も日本に来てるんだ。この国の、この地方の冬が乾燥することくらいよく知ってるよ。…だけど『乾燥性敏感肌』なんて、若い女性特有のトラブルだとばっかり思ってたのに、まさか自分がなんて…。僕みたいなごつい男が、お肌の手入れだの、保湿ケアだの…何だか、恥ずかしいじゃないか」
「…」
 正直、ジョーに言わせれば、いかに鍛えられてたくましいとはいえ、引き締まってしなやかなピュンマの身体は決して「ごつく」なんてない。だが、彼はサイボーグ008。それを抜きにしても、祖国ムアンバの内戦を戦い抜き、生き延びてきた歴戦の勇士、猛者には変わりないわけで。それが、化粧品だの薬だので「お肌の手入れ」とか「保湿ケア」とか言われては、確かに気恥ずかしくもなるだろう。
 今ここでヘタなことを言ったらますますピュンマを落ち込ませてしまいそうで、ジョーはただ、黙ってピュンマを見つめていることしかできなかった。
 と、そこへ―

「ピュンマ! ジョー! すぐに戻ってきて! 石原先生と、松井警視さんがいらしたの。この間の診察の件で、もっと詳しいお話があるそうなのよ…!」
 いつしか星が輝き始めた宵空の下、背後に遠く見えるギルモア邸の方から、二人を呼ぶフランソワーズの声が切れ切れに聞こえてきた。

 


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