真夏の宵の夢


 呼び鈴を押した途端、インターフォンから聞き慣れた声が響いた。
(ああ、二人ともいらっしゃい。今鍵開けるから、どうぞ入って)
 続いて聞こえてきた小さな電子音とともに門の鍵が開く。勝手知ったる藤蔭邸、そのままいつものように中へ入ったジョーとフランソワーズだったが、ふと玄関先に妙なものを見つけた。
「あら? ジョー。何かしら、これ」
 フランソワーズに言われて、ジョーも怪訝な顔になる。
「僕も初めて見るよ。…何だろう。まさか、植木鉢なんかじゃないよね」
 玄関ドアの脇に立てかけてある、長さ一メートルほどの白っぽい、細い木…それとも、草の茎の束? そしてその脇には直径三十センチほどの素焼きの皿。材質的には植木鉢そっくりだけれど、こんな浅い皿に植えられる植物などあるのだろうか。
 首をかしげ、その場に立ち止まってしまった二人。と、玄関のドアがひょいと開いた。
「どうしたの? そんなところで。遠慮なんかしないで早く中へお入りなさいな」
 顔を出したのはいうまでもなく藤蔭医師。しかし玄関先で目を点にしている少年少女の姿に彼女もまた、一瞬不審そうな表情を浮かべる。しかし、二人が見つめているものに気づいた途端、その端整な顔がにっこりとほころんだ。
「ああ、それは焙烙(ほうろく)と麻幹(おがら)よ。今日からお盆に入るからね、お迎え火を焚くのに使うの。…まぁそんなことはともかく、家の中へどうぞ。さぞ暑かったでしょうに、お疲れ様」

 藤蔭医師や石原医師と知り合いになってから、ジョーとフランソワーズの用事は格段に増えた。それはすなわち、「お使い」である。
 もともと、ギルモア博士とコズミ博士とがそれぞれの持つ資料の貸し借りをすることは珍しくなかった。何しろ数十年来の友人同士のこと、日本での再会後はずっとそうして互いに協力しつつ、あれこれと知恵を出し合い、議論、研究を重ねてきたのである。かつて00ナンバーが巻き込まれた事件の中には、この老博士たちの知識が解決のきっかけになったものも枚挙にいとまがない。
 が、彼らがいかに学会の「世界的権威」と言えど、その専門―生体工学と生物学―以外の分野においては時折行き詰ってしまうことがあるというのもまた、仕方のない事実であった。
 そんなとき、自分たちとは似て非なる「医学」という分野における若き俊英二人と知り合えたのは、ギルモア博士にとって願ってもない幸運だったと言えよう。ましてそれが老友コズミ博士の愛弟子だったとくればなおさらである。
 かくて藤蔭・石原両医師もまた、ギルモア博士の―それはそのまま00ナンバーたちの―ブレインとして欠くことのできない協力者となり、それに伴って資料の貸し借りをする相手先もまた増えたというわけなのだった。
 もっとも近頃ではインターネットがかなり普及し、デジタル化された文書のやり取りで用が足りることも多いが、いまだデジタル化されていない古い文献、すなわち書物となるとやはり現物を貸し借りしなくてはどうしようもない。そしてその場合の「運び屋(パシリとも言う)」を頼まれるのは大抵、メンバー中一番年下の「ガキんちょ組」であるのもこれまた仕方のないことで。
 だがその「ガキんちょ組」のうち、ジェットは普段アメリカで生活しているし、フランソワーズは他にもイワンの世話という重要な仕事を抱えている。となればその「パシリ」を仰せつけられる機会が一番多いのはジョー、となるのも当然の帰結であった。とはいえこの少年、コズミ博士はもちろんのこと石原医師や藤蔭医師とも仲良しだし、結構このパシリ業務を喜んでこなしていたりするのだが(←もしかしたら天職かもしれない)。
 かえって、同じく彼らと仲のいいフランソワーズの方が、パシリ(だからちゃんと「お使い」って言えよコラ→自分)に事寄せて皆と顔を合わせる機会の多いジョーを羨ましげに見ていることも珍しくなかったりする。
 そこで今日は、そんな様子を察したギルモア博士が、ジョーとフランソワーズ、二人一緒に「お使い」に出すことにしたのであった。幸いイワンは夜の時間に入っているし、藤蔭医師は特に二人が慕っている相手でもある。

 しかし、それはそれとして。

「ギルモア先生に頼まれた本はみんなまとめてそこの箱に詰めてあるわよ。ちょっと重いけど、男の人の力なら―ましてフランソワーズと二人がかりなら充分持って帰れると思うわ。それにあなたたち、今日も車で来たんでしょう?」
 言いながら、藤蔭医師が運んできてくれた麦茶。いかにサイボーグとはいえ、この暑さにへばりかけていた二人は喜んでグラスを取り上げる。涼しげなガラスの中、浮かんだ氷がからん、と気持ちのいい音を立てた。
「はぁ…美味しい。おかげでやっと人心地つきました。…ところで藤蔭先生、お玄関先のあの…ホーロクとオガラ…オムカエビって、一体…?」
 ほうっと息を吐き出しつつ問いかけたフランソワーズに、藤蔭医師がにっこりとうなづいた。
「ああ…随分興味持ってたみたいだものね、貴女たち。うふふ。あれは日本の古い風習、『お盆』で使うものなのよ」
「お盆…?」
 不思議そうな顔になったフランソワーズに、ジョーが慌てて説明する。
「日本では、七月中旬の数日間、死んだ人の魂が家に帰ってくるっていう信仰があるんだよ。その時期にあわせて夏祭りだの盆踊りだのが催されることも多いんだ」
「まぁ、そうだったの、ジョー。…で、あのホーロクとかオガラとかは何に使うの?」
 可愛らしく首をかしげたフランソワーズの姿はたいそうあどけなく、可憐なものではあったのだが。
 たちまち言葉に詰まってしまったジョーに代わり、藤蔭医師がすかさず話を引き取った。
「あのね、フランソワーズ。今島村クンが『七月中旬の数日間』って言ったでしょ。もともとは旧暦―太陰暦の七月十三日から十五日あるいは十六日だったっていうけど、最近じゃ新暦―太陽暦でやるところも関東中心に多いのよね。そして旧暦新暦どっちにせよ、その一番初めの日の夕方にはあの焙烙のなかで麻幹を焚いて、帰ってくる死者―ご先祖様たちの目印にするの。それを『迎え火』って言うのよ。それから、最後の日にもやっぱり同じように火を焚くのね。それが『送り火』。あの世に戻るご先祖様たちの足元が危なくないようにって。ちなみに麻幹っていうのは麻の茎の皮をはいだもの。そうそう、きゅうりの馬やなすの牛を作ったりもするわね」
「きゅうり…なす…? 馬と牛…?」
 ますますわけがわからなくなった様子のフランソワーズに、藤蔭医師も苦笑する。
「迎え火や送り火を焚くときはね、きゅうりやなすにそれぞれ四本ずつの麻幹を刺して馬と牛に見立てたものを、ご先祖様の乗り物として一緒に置いておくのよ。家に帰ってくるときは馬を使って少しでも早く、そしてまたあの世に戻るときには牛に乗って少しでも遅く…ってね」
 懇切丁寧な説明に、すっかり納得した様子のフランソワーズ。一方のジョーはというと、少々恥ずかしげに顔を赤らめている。
「ああ、そうだったんだ…。そんなことちっとも知らなかった…。半分だけとはいえ、一応僕だって日本人なのに…」
 いくぶん哀しげなそのつぶやきは、藤蔭医師の豪快な笑い声に弾き飛ばされた。
「何言ってるの。そんなの、全然恥ずかしがることなんかじゃないわよ。私たちだって―そりゃ本家は別として―この家でこんなお盆の行事をやり始めたのは姉と父が亡くなってからだもの。今はどこも似たようなものじゃないの? 貴方くらいの年齢だったら知らなくて当たり前。ちっとも気にすることなんかないわ」
 それでもなお、淋しげな表情のままの少年、そしてそんな彼を気遣い、こちらも少々困ったような顔になってしまった少女に。
「そうだ。お盆の風習っていったら他にもあるのよ。ね、よかったらちょっとのぞいて行ってみない?」
 わざと明るい声を出して、立ち上がった女医。ジョーとフランソワーズの顔にも、ほんのわずかな好奇心が浮かぶ。
 長い廊下の突き当たり、この広い家にしては珍しい、四畳半ほどの小さな和室。
「ここがうちの仏間なの。仏壇を置いて、ご先祖様たちをおまつりする部屋ね」
 藤蔭医師が襖を開けた途端、二人の口から歓声がもれた。
「わぁ、綺麗…」
「藤蔭先生、もしかしてこれ、盆提灯…?」
「ええ、そうよ。ここにあるのはみんなスタンド式―大内行灯(おおうちあんどん)って呼ばれるタイプだけど、他にも天井から吊るす形の御所提灯(ごしょぢょうちん)ってのもあるわね」
 仏壇の前、野菜や果物、そして鬼灯などを形よく盛りつけた篭や、先ほどの話に出てきたきゅうりの馬、なすの牛などを置いた小さな卓の両脇に飾られた提灯は二対。薄手の絹で作られた火袋に描かれた色とりどりの夏草の絵、その下に吊るされた下房の色や光沢も鮮やかで、いかにも日本情緒あふれる美しさである。しかも下房にはうずらの卵よりも一回りほど大きい、艶やかな白い石までついていた。
「先生、この石は何なんですか? 提灯の飾り?」
「ああ、それは風鎮っていってね、房が外れたり揺れたりしないようにするための『おもり』よ。でも『飾り』ってのも当たってるかな。大抵の場合、こんなふうに綺麗に磨かれた石使ってるし」
「まるでムーンストーンみたい…。ちょっと触ってみていいですか?」
 提灯の脇に座り込み、まるで小さな子供のようにはしゃぐフランソワーズを、ジョーが微笑みながら見つめている。その顔からは、先ほどの哀しい翳はすっかり消え失せていた。
 それを見て一人満足そうにうなづいた藤蔭医師が、背後から声をかける。
「はい、二人ともちょっと離れて。灯り、点けてみるから」
 言われて立ち上がり、一歩後ろに下がった途端、藤蔭医師がコンセントのスイッチを入れた。
「…!」
 今度こそ二人とも、声すら出ない。内部に点った柔らかな光に照らされ、火袋に描かれた絵がまたその表情を変える。しかも、そのうち一対の提灯の中では青、赤、黄…さまざまな色の淡い光がゆっくりと回り始めさえして。
「こっちの一対は回り灯篭になってるからね。こういうのもちょっと面白いでしょ?」
 だがその言葉は果たして二人の耳に入っていたかどうか。
 昼の光の中でもこれだけ綺麗なのだ。もしも夜、暗くなってから灯りをつけたとしたら一体どれほど幻想的な美しい光景が繰り広げられることだろうか。
 ぽかんと口を開けたままうっとりと見とれている若者たちの様子に、藤蔭医師はもう一度、満足そうにうなづいたのであった。



「…本当はお墓参りにも行かなくちゃならないんだけど、昨日からの当直明けが今朝の九時だったんで今回私はパスさせてもらっちゃった。うちのバーサンがぶつぶつ文句言いながら出てったわ。帰ってきたらまた、お説教喰らうかもしれない」
 再びリビングに戻り、麦茶を入れ替えてくれた藤蔭医師が笑う。だが、二人の耳には相変わらず何一つ聞こえていないようだ。よほど、盆提灯が印象的だったらしい。
 だがそれでも、しばらくすると彼らもようやく正気に戻ってきたようで。
「それにしても本当に綺麗でした。日本の風習って、素敵ですね。…でも先生、先ほどお姉様とお父様が亡くなられる前はこんなことなさらなかった、っておっしゃいましたけど…お盆って、家族の誰かが亡くならないとやらないものなんですか?」
 どうやらフランソワーズ、ギルモア邸でも「お盆」の行事をやりたくなってしまったらしい。その質問に、藤蔭医師は静かに首を振った。
「ううん、そんなことはないのよ。たとえ一緒に住んでいる家族がみんな健在でも、そのもっと前にはたくさんのご先祖様がいらっしゃったわけでしょう? 彼ら彼女らがいてくれたからこそ、今、私たちはこうして生きている。『お盆』っていうのはそんなご先祖様たち全部に感謝し、供養するためのものだもの。本来なら誰でも、どのおうちでも忘れてはいけないことだと思うわ」
 そこで一口、自分のグラスの麦茶でのどを潤して。
「私なんて、お盆というのは自分の先祖だけでなく、この世のあらゆる淋しい御霊を供養するためのものだと思ってるからね。この期間だけは家の結界外しちゃう。『どなたでもお気軽にどうぞ』ってところかしら。…だから、いろんな意味で結構賑やかなのよね。夜になると特に♪」
 瞬間、ジョーとフランソワーズの身体がびくりと硬直した。茶色と水色の瞳が、きょろきょろと不安げに周囲を見回す。…そうだ。すっかり忘れていたが、この女医はそういう人間だったのだ。霊能者―またの名を「歩く瞬間冷却器」。
 いつしかかすかに震え出しさえした少年少女に、美貌の女医はぷっと吹き出した。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと脅かしすぎちゃったかしら。でも大丈夫よ。結界外してあるのは私の部屋だけだから。いくらお盆とはいえ、うちのバーサンは普通の人間だし、あなたたちのようなお客様がみえることもあるもの。いくら私でも丸ごと外すなんて、怖くてできないわ。…でも、今の話でちょっぴり汗が引いたんじゃない?」
 そりゃ、汗は引いた。確かに、引いたけど…。
(先生、その冗談あんまりキツ過ぎです…)
 今度はへたへたとテーブルに突っ伏してしまった少年少女。
全く、この家に来るのは心臓に悪い。



 不思議がったりうっとりしたり、さらには肝まで冷やされたり。わずか数時間の間にこれほどさまざまな体験ができるとは、そんじょそこらのアトラクションパークよりはるかに盛り沢山かもしれない。
 気がつけば、思ったより長い時間が過ぎていた。何の気なしに腕時計に目をやったフランソワーズが、慌てて立ち上がる。
「す、すみません。私たち、気がつかないでこんなに長居をしてしまって…」
「ううん、いいのよ。またいつでもいらっしゃい。ギルモア先生のご用以外ででも、あなたたちが来るのは大歓迎よ」
 にこやかにそう言われてぺこりと頭を下げた二人。もちろん、本をたくさん詰めた例の段ボール箱を持っていくことも忘れない。
 と、そのダンボールをいざ持ち上げようと手をかけたジョーの動きがふと止まって。
「あの、先生…」
 先ほどの「供養」の話を聞いてからずっと黙り込んだままだった少年が、おずおずと口を開いた。
「はい、なあに?」
 呼びかけられて、屈託なく応える藤蔭医師。
「先生、さっきおっしゃったでしょう? 『お盆っていうのは自分の先祖だけでなく、この世のあらゆる淋しい御霊を供養するためのものだ』って」
「ええ。少なくとも私はそう考えているわ」
「だったら…だったら僕たちも…供養してもいいんでしょうか。あの…僕たちが今までに倒してきた…この手にかけた無数の『敵』の魂を…」

「ジョー!」
 慌てて叫んだフランソワーズを、藤蔭医師の漆黒の視線がそっと…制した。

「僕たちが戦場で出会い、そして倒した敵はそのほとんどがサイボーグ…下っ端の、戦闘員たちでした。きっと彼らは僕らの、いや、僕のような社会のはぐれ者…家族のいない、たとえ不意に消えてしまったとしても誰の気にも留めてもらえないような人間だったと思うんです。BGが末端の使い捨て戦闘員を集めるときは、いつも…そんな人たちの誰かを攫ってくるから」
 そこでふと、閉じたまぶた。悲痛に歪む表情。
「彼らはきっと、今まで誰からも供養なんてしてもらえなかったに違いない。自分のために泣いてくれる家族も友達もいないまま、長い年月、ずっと…」
 少年にしては長いまつげがかすかに震え、一瞬その声が途絶えた。
「僕だって、もしかしたらそうなっていたかもしれない。僕が009になったのも、そして彼らが名もなき使い捨ての駒になったのも―互いを敵として戦い、僕が勝って生きのびたのも彼らが負けて命を落としたのもみんな偶然、単なる運不運に過ぎないんだ!」
「ジョー! ジョー、もういいわ! やめて!」
 だが、フランソワーズの絶叫を聞いても、ほっそりとした少女が涙を浮かべて少年の強張った背中に抱きついても―ジョーの言葉は―止まらない。
「ねえ…先生。昔は僕も孤独だった。親も兄弟も、気にかけてくれる人の一人もいないまま、奴らに捕われてサイボーグにされた。でも、今の僕には―」
 震える指が、自分にしがみつく少女の華奢な手をしっかりと握る。
「こんなに素晴らしい仲間たちがいて、父とも呼べるギルモア博士がいて。そればかりか、藤蔭先生や石原先生、そしてコズミ博士―他にも、大切な人たちがたくさんできました。もしもこの先、僕が戦いで命を落としたとしても、きっとみんなが僕のために泣いてくれて、いつまでも忘れないで―供養し続けてくれるでしょう」
 再び開いたまぶたの奥、涙に潤みながら、それでもしっかりと藤蔭医師を見つめた茶色の瞳。
「僕はそのことを心から幸福に思っています。だけどそんな―そんな幸せな自分だからこそ、僕は彼らを忘れてはいけないと思う。『009』になれたかもしれないのになれなかった、この世の誰にも顧みられることのない、淋しくて哀しい魂の平安を祈りたいと思う。…でもそれって、彼らにとってはかえって迷惑でしょうか。この手でその命を奪った、憎むべき敵である僕なんかに…供養…される…な…ん…て…」
 最後まで言い切ることができず、ついにジョーはその場に膝をついた。その肩にしがみつくフランソワーズは、ただ声もなく涙を流し続けているばかりである。



 しばしの沈黙。





 しかし、やがて。



「…そんなこと、ないわよ」
 響いたのは、藤蔭医師の穏やかな声。
「あなたたちが戦い、敵―いいえ、自分たちと同じサイボーグの命を奪ったのは決してあなたたちの所為じゃない。あなたたちが自分から望んで相手を手にかけたことなど一度もなかったと私は信じている。それはきっと、彼らも同じだったはずよ。みんな、あなたたちを恨んでいたわけじゃなかった。憎んでいたはずがなかった。ただ、強大で邪悪な力によって無理矢理その意思をねじ曲げられただけ。甘い言葉にだまされて、気がつけば心をもぎ取られた操り人形にされていただけ。そんな彼らの魂が、どうして貴方を―あなたたちを恨むというの? この世の全てのしがらみから解放され、純粋で無垢な魂に戻った存在には、もう恨みもない。憎しみもない。最後まで残るものといったら、それは―孤独だけだわ」
「藤蔭先生!」
 茶色と水色、涙に濡れたそれぞれの瞳が見上げたのは、さながら慈母観音にも似た、深く包み込むような微笑。
「供養…してあげなさい。祈ってあげなさい。そしてできれば一杯の水、一杯のお酒。そして、ひとかけらの食べ物でいいから彼らのために―供えてあげてちょうだい。―もともと、お盆っていうのは帰ってきた魂をもてなして、ゆっくりと安らいでもらうためのものなのだから―」
 そしてその温かい手が、静かに二人の肩に置かれて。
「心から自分のことを思ってくれる誰かの存在を喜ばない者などいないわ。それは生者も死者も同じことよ。忘れないでね」





「先生、今日は色々と―本当にありがとうございました」
「ううん、いいのよそんなの。気にしないで」
 藤蔭邸の門前、深々と頭を下げた少年少女に笑顔でうなづいた女医がふと、思い出したようにつけ加えた。
「あ、そうだ。あなたたち、まだ少し時間ある? この先の神社の境内に夏祭りの縁日が出ているの。そこで多分、回り灯篭を売っているはずだわ」
「回り灯篭…?」
 先ほど仏間で見た大きな提灯を思い出し、顔を見合わせるジョーとフランソワーズ。
 が、藤蔭医師はその白い手を大きくひらひらと振って。
「違う違う。あんなどでかいモンじゃなくて、もっと小さな…軒先にも充分吊るせる小さなやつよ。お盆だ供養だといっても、今からあれこれ揃えるのは大変でしょう? それにやっぱり、自分の先祖以外の人たちを必要以上に大袈裟におまつりするのは霊的にみても問題あるからね。だからそれを買っていったらどうかしら? 迎え火、送り火代わりに灯を入れて、帰ってくる人たちの目印にしてあげなさい。…ね?」
 再び、その顔に浮かんだ慈母の微笑み。ジョーとフランソワーズの顔も、ぱっと輝く。
「そう…なんですか。それじゃ、お言葉に甘えて…」
「すみません。もう少し車、ここに停めさせておいて下さい」
「ええ。いつまででもどうぞ」
 手を振る藤蔭医師に送られて、二人は教えられた道を歩き出す。程なく、遠い彼方から賑やかな祭囃子が聞こえてきた。















 宵闇、迎え火、夕涼み。
 祭囃子に誘われて、生者も死者も、いざ集え。
 縁日、浴衣、盆踊り。
 浮世離り世隔てなく、ともに―笑って、さざめいて。
 互いの世界に想いはせ、
 互いの幸福祈り合う。

 三千世界を一つに結ぶ、ひとときだけの桃源郷。

 それは、真夏の宵の夢―。

〈了〉
 


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