小夜時雨 8


 翌朝、ギルモア邸の食卓には何とも言えぬ気まずい雰囲気が漂っていた。
(…ねぇ張大人、一体どうなってるんだい?)
(大人のお話とは、随分様子が違ってるみたいだけど…)
(そんなん、わての方が聞きたいくらいヨ。昨日の夜わてが引き上げたときには、グレートもかなり元気を取り戻してすっきりした顔してたちゅうのに…)
 黙々と朝食を取りながらもいかにも不安げな脳波通信が飛び交い(←ちなみにもちろん通常とは周波数の違う「内緒話モード」)、しまいには話題の主―グレートがちょっと手洗いに立った隙に、家長たるギルモア博士までもが大きなため息を漏らしたくらいである。
「やれやれ…全く、何がどうしたというんじゃろうなぁ…」
 そもそもの発端は、グレートが珍しく店の出勤時間ぎりぎりまで寝坊していたことであった。フランソワーズほどではないとはいえ、いつものグレートならかなり早い時刻から起き出し、たっぷりの時間をかけて大英帝国紳士にふさわしい身だしなみを整えた上で勇躍出勤…というのがお決まりだというのに。もっとも昨夜のことを考えればそれもある程度仕方ないと、この件については特に誰も気にしていなかったのだが。
「おおグレート、おはようさんアル! 昨日はお疲れさんやったナァ。…そうそう、あのかおりはんの話ナ、もうみんなに伝えといたよってに。メシでも食いながらまた話し合うてみるヨロシ。『三人寄れば文殊の知恵』ちゅうくらいや、五人で考えればきっといい考えが浮かぶのことヨ!」
 朝食間際になってようやく起きてきたところに、キッチンから顔を出した張々湖が声をかけた瞬間、グレートの表情は明らかに曇って…。
「あ…ああ、ありがとうよ大人。でもま、その話はまた後にしようや。何せほれ、我輩が寝坊しちまったおかげでもうこんな時刻だし…昨日の酒もまだちょっと残ってるみたいでな、少し頭が痛いんだ」
 思いがけない返事に目が点になったのは張々湖だけではない。同じくキッチンで食事の支度をしていたフランソワーズと手伝っていたジョー、そしてたまたま「目覚めの緑茶」を淹れようとしていたギルモア博士とて同様である。
(?・?・?・?・?・?・?)
 たちまちキッチン中に飛び交うクエスチョンマーク、しかしその後食事が始まってからもグレートはずっと浮かない顔のまま―。
「…ご馳走さん。じゃ、俺はこのまま店に行ってくる。片付けも手伝わんですまんな、マドモアゼル。…大人! 急がんと間に合わんぞ!」
 食べ終わるなり席を立って玄関へと出て行ってしまったものだから、もう他の連中にとっては何が何やらである。
「アイヤー、チョイ待つのことネ、グレート!! あの…えと…わてもすまんアル、フランソワーズ!」
 かたや突然の置いてきぼりにすっかり狼狽し、グレートの背中とテーブルに残った三人を交互に見比べぶんぶんと首を振っていた張々湖もまた、すぐにあたふたとその後を追って行ってしまい―。残されたジョー、フランソワーズ、そしてギルモア博士はただただきょとんとした顔を互いに見合わせるばかりであった。

(貴方が日本で芝居を演ったという話を聞きました。私もエリックも、まだあの話を諦めてはおりません。…ご連絡、お待ちしております。
ブレンダ)

(私もエリックも、まだあの話を諦めてはおりません)
(ご連絡、お待ちしております)
(お待ちしております)

(お待ちしております…)

「畜生っ!」
 張々湖飯店の昼休み、人目を避けて裏口に出たグレートはそのまま頭を抱えてうずくまった。…昨夜握りつぶした手紙の文句が、ぐるぐると脳裏に渦を巻く。
(あんな手紙さえ来なければ…彼女とのことさえ思い出さなければ、俺は今日にでもかおりのために動き出せたものを…!)
 昨夜。
 藤蔭医師と煕子からかおり夫婦の深刻な事情、複雑な愛憎劇の一部始終を聞いたときの自分は確かに混乱していた。しかし、やがて家に帰って自室に引き取り、一人ゆっくりとその内容を反芻していくうちに。さらにそのあと、張々湖という思いがけない来訪者を相手に再度その物語を―かおりとその夫それぞれの苦悩、かおりを案じる藤蔭医師や煕子、そして神崎や久世の胸の内を自分自身の言葉で語っていくうちに、我知らずある一つの考えが徐々に固まっていったのである。
(例の場面―ローザとベルガーの台詞を書き直させよう。…あの芝居の呪縛からかおりを解放するには、他にどうしようもない)
 自分を捨てて出て行った夫、それでもなお忘れられぬ愛する男の「最後のメッセージ」を脚本の中から葬り去ってしまうことが、女にとってどんなに辛いことかは重々承知している。だがここで強引にでも過去を断ち切らないことには、かおりはこの先、女優として一歩も進めなくなってしまうだろう。
 しかもこれは彼女一人ではなく、「たまゆら」全体に関わってくる問題である。中堅・若手のほとんどがTVの仕事で出演不可能な今回の公演が成功するか否かは、ひとえに主宰者兼看板女優たる松本かおりの肩にかかっているといっても過言ではない。まして現在の「たまゆら」は演劇界でもかなり注目される存在、万が一公演が失敗でもしたら、その瞬間劇団の評判は地に落ち、団員たちの将来も危ういものとなろう。―と、なれば。
 仮にも主宰者たる人間が私情にかまけて公演準備の進行を遅らせるなど、これ以上一分一秒とて許されることではない。酷いようだが、それが劇団を率いる者の責任、宿命というものなのだ―そう、グレートは諭すつもりであった。まかり間違えばかおりとの友情を失うかもしれないことも、もちろん覚悟の上で。
 けれどあの手紙を読んだ瞬間、グレートの覚悟はもろくも雲散霧消した。というより、思い出してしまったのだ。他ならぬ自分自身もまた、かおりと同じ迷いをひきずり無様にもがく、優柔不断で情けない男に過ぎないということを。
 あの安ホテルでの夜を限りに、ブレンダへの想いはきっぱり断ち切ったつもりでいた。なのにあれから随分と月日が流れた今でさえ、グレートはたった一通の短い手紙―いや、差出人の名前一つでこれほどまでにうろたえ、動揺し、後悔さえしている。「未練」という名の泥沼の中を這い回り、過去に足を取られて一歩も進めなくなっている「同じ穴のムジナ」が一体、どの面提げて偉そうにかおりに説教するつもりでいたのか。
 それでも人間、あえて自分のことには目をつむって相手を説得しなければならないときがあるのはよくわかっている。わかっては、いるのだけれど―。
「ほいグレート! いつまで休憩取ってるアルネ! そろそろ午後のシコミ始めんと間に合わないのコトヨ!」
「あ…ああ、すまん。今戻る!」
 裏口から顔だけ出した張々湖にどやされ、グレートは慌てて厨房に戻った。
「さぁ、みんな気張っていくあるヨロシ! 今夜は宴会が三件入っとるよって、忙しゅうなるで!」
 威勢のいい声を張り上げながらも、張々湖が時折ちら、ちらと心配げな視線を向けてくる。…無理もない。たった一晩でがらりと様子の変わったグレートを見れば、誰だって不審に思うし、心配もするだろう。しかし、こればかりはいくら張々湖や他の仲間たちにとて相談する気にはなれなかった。全てを話せば、きっと皆は口を揃えて慰め、励ましてくれるに違いない。「あえて自分のことには目をつむる」、今こそまさにそのときだと―。けれど多分、自分はその言葉にうなづくことはできないと思う。納得できないとわかっている答えのために、皆を煩わせることなんてしたくない。だからグレートは全てを無視して、ただ黙々と仕事に没頭し続けていたのだが…。

 そんなグレートの苦悩など、張々湖にわかるはずもない。昨夜のちょっとした「お喋り」のおかげで随分と元気を取り戻し、すっきりした様子だったグレートだったのに、一夜明けたらまた元の木阿弥―いや、それ以上に深刻な様子で、ほとんど口も聞かなくなってしまったのだから、これはもう心配するなという方が無理である。おそらく、自分が部屋を出てから朝までの間に何かあったのだろうとそこまでは察しがつくが、その「何か」がわからないことには―。かくてこの気のいい中国人もまた、忙しく立ち働きながらも時折、人知れず深いため息ばかりをついていたのであった。

 そしてその心配と不安をぶつける相手といえば、やはりジョーやフランソワーズ、そしてギルモア博士しかいなくて。
「あーもうっ、今回ばかりは何が何だかワケわからんのことネ! も、わての方がええかげんどうにかなっちまいそうだったアル」
 帰宅するやいなやリビングのソファに轟沈した張々湖が悲鳴のような声を上げた。一緒に帰ってきたグレートはというと、今朝同様ろくろく口も聞かずにさっさと自室に引き上げてしまっている。
「とにもかくにもあの話好きがずっと黙りこくってるだけで、周囲の空気がどよよよよ〜んと暗くなるんヨ。そんな中でカラ元気出して仕事するなんて、こんなしんどいコトようあらへん」
「…確かに、グレートはみんなのムードメイカーだからなぁ」
「昨晩、わてがグレートの部屋を出てから朝までの間に何かあったことは確かアル。そやけど、肝心の本人が何も喋らんのやから完全にお手上げネ。こうなったらイワンのテレパシーでグレートの頭ン中探ってもらいでもせんことにゃ、どうにもならへんヨ…」
「う…む…。しかし大人、イワンはまだ…」
 あごに手を当てて考え込んだギルモア博士がそっと傍らに視線を向ければ、フランソワーズもまた困ったように首をかしげて。
「どんなに早くてもあと五日は目を覚まさないと思うわ、大人…」
 いかにも申し訳なさそうな、しかし無情な宣告に、張々湖が頭を抱える。
「はぁぁぁ…これぞまさしく八方ふさがりや。全く、たった一晩の間に一体何があったちゅうねん…わて、まるでタヌキにつままれたような気分のコトネ」
「あの、大人…それを言うなら『キツネにつままれた』じゃない…かな? タヌキだったら、『化かされた』…」
「そんなのこの際どっちゃでもええアル! 今のグレートをどないかしてくれはるちゅうなら、タヌキでもキツネでもわて熱烈歓迎するのコトヨ!!」
 何の気なしのジョーのツッコミにとうとうぶちキレた張々湖。しかしその願いが神に通じたか、はたまた仏に届いたか。…って、まさか本当にタヌキやキツネが訪れたわけではないが、そのかわり。
 ―犬が来た。

「今日は突然に申し訳ありません。ですが、この子がどうしてもと…」
 すっかり恐縮した態の藤蔭医師がパピとともにギルモア邸を訪れたのは、それからちょうど二日後、張々湖飯店の定休日とて久しぶりに住人全員が家でのんびりくつろいでいた昼下がりのことであった。とはいえグレートが相変わらずずっと押し黙ったままでは皆の気分もどうにもすっきりせず、誰もが少々息苦しい思いをしていたところだったので―。
「いやいや、とんでもない! むしろ君たちが来てくれてわしらも助かったというものじゃ…おっと、いかん」
「は?」
 ふと柳眉をひそめた藤蔭医師を尻目にギルモア博士が慌てて口をつぐんだのは、ジョーやフランソワーズ、そして張々湖に促され、しぶしぶながらも迎えに出てきたグレートの姿を認めたからである。…が、その瞬間女医の腕に抱かれていたチビ犬がぱっと地面に飛び降りて。
「グレートしゃん! グレートしゃん!! この前はホントのホントに、ありがとうございまちたでち〜!」
 いつもなら真っ先にジョーかフランソワーズ、そしてもちろんイワンが起きているときならばイワンに飛びつくはずの三色毛玉が、何故だか今日はグレートめがけてまっしぐらに駆け寄って行ったではないか。
「ワン殿…?」
 そのあまりの勢いに挨拶も忘れ、ついつい目が点になってしまったグレート、そしてギルモア家の人々。しかしパピはそんな人間たちの様子になどお構いなしに。
「この前買ってくれた毛糸玉ボールね、ボクとってもとっても嬉ちかったの。だからグレートしゃんのところへお礼に連れてってって、ママにたくしゃんお願いちたんでち〜vv」
「ボール…? あ、あのときの!」
 先日、藤蔭医師たちにかおりの話を聞きに行った際、パピのお気に入りのボールを土産に言付けたことをようやく思い出したグレートがひょいと抱き上げれば、今度はチビ犬、グレートの顔中を頬といわず鼻といわず、ぺろぺろぺろぺろなめまくる。
「前のボールが壊れちゃったとき(ぺろぺろぺろっvv)ボクしゅごく悲ちかったんでち。ママやおばあちゃまがたくしゃん探ちてくれたんだけどどこにもなくて(ぺろぺろっvv)、イワンくんに話ちたら、イワンくんも困っちゃったみたいで(ぺろぺろ)、しょんでボク、みゃみゃとおばあちゃみゃに(ぺろりん)、イワンひゅんに(ぺろぺろぺろっ)…ほみょみょみょみょみょ…」
 「口角泡を飛ばす」のとはちょっと違うが、口の端やらあごやらにたくさん泡を溜めつつ必死に顔をなめ、喋りまくって終いには完全に意味不明、それでも懸命に訴えるチビ犬を見ているうちに、グレートの顔に何日ぶりかの笑みが浮かんできた。
「そうかそうか、ワン殿…そんなに嬉しかったのか、よかったなぁ。それにしても、わざわざ礼まで言いに来てくれるとは…」
 言いかけた途端、パピがその細い前脚をグレートの胸にぴんと突っ張って少々反り返り、自分を抱いている英国紳士の顔を真っ直ぐに見つめた。
「しょんなの当たり前でち! ボクがどんなに嬉ちくて喜んでるか、直接会ってお話ちなくちゃ絶対にわかんないもの!」
「ああ…そうだな。そうだな、ワン殿…」
 パピの言葉にグレートは深くうなづいた。…高々五十円か百円のおもちゃの礼など、電話一本、葉書一枚でも充分すぎるくらいだが、いくら心のこもった丁寧な電話や礼状をもらっても、パピがこれほどまでに喜んでいるとは想像することもできなかったろう。こうして実際に顔を合わせ、その姿と声とを自分自身で見聞きしないことには―。
(!)
 瞬間、グレートの目がかすかに見開かれた。そしてしばしの間何事かを考えているような表情で、微動だにせず―。
「…? グレートしゃん?」
 小首をかしげたパピが恐る恐る問いかけたと同時に、グレートは腕の中のチビ犬を思いっきり抱きしめた。
「おおワン殿! 礼を言うのはこちらの方だ! 貴殿は何と素晴らしき哲学者、導師なるかな! おかげで我輩もようやく一筋の光明を見つけたり! ありがとうよ!」
 そして、突然のことに目を白黒させているチビ犬を丁寧かつ恭しく藤蔭医師の手に戻し、ついでにちょっとあることを確かめて…。
「あ…はぁ。それでしたら、私よりも煕子の方が…」
 そんな答えを受け取るやいなや「ありがとうございます、レディ! ワン殿ともども、どうぞごゆっくり!」と言い捨てて全速力で自室に戻った英国紳士はどたどた、がたがた―あの夜煕子から貰った名刺を探して部屋中をひっくり返し始めたのだった。
 


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