旧家の風格 1


 それは、イワンが珍しくも癇癪を起こしたことから始まった。

「ウワァァァァァ…ンッ!!」
 小さな赤子の大きな泣き声と同時に大パニックに陥ったギルモア邸。もちろんパニックの主原因は、癇癪よりもそのおまけとしてもれなくくっついてくるサイコキネシスの暴走の方である。
 甲高い声が響いたと同時に家中の扉という扉―部屋のドアはもちろんのこと、タンスや戸棚、キャビネットのそれから冷蔵庫洗濯機炊飯器の蓋に至るまで―が一斉におっ開き、飛び出した中身が室内のあちこちで派手な空中戦を繰り広げた。その壮絶な光景を前にしてはさしものサイボーグ戦士たちとて声もなくその場にへたり込むしかない。しかもそれが全員総出の大掃除の翌日だったとくれば、すでに立派な音波攻撃及び心理攻撃のダブルパンチである。そうしている間にも、顔を真っ赤にし、全身をのけぞらせたイワンの泣き声はひたすら大きくなっていくばかり。
 これぞまさしく大魔王降臨、最後の審判の日よりも恐ろしい大災厄そのものだったのだけれど。

 イワンにだって、癇癪を起こす理由はちゃんとあったのだった。

 かつて00ナンバーたちがBGの秘密基地に潜入した折に見つけたパピというチビ犬が紆余曲折を経て藤蔭医師宅に引き取られたこと、そしてそのちょっと前、イワンとパピの間に麗しくも微笑ましい、そのくせかなり傍迷惑な固い友情が結ばれたことはすでに皆様ご存知のとおりである。
 そんな事情は藤蔭医師も全て承知していたから、その後もイワンとパピが淋しい思いをしないよう、暇をみてはパピを連れてギルモア邸を訪ねてくれていたのだった。
 だが、今年の後半ごろから急にその仕事が忙しくなり、以前ほど頻繁に遊びに来ることができなくなってしまった。その上、何とか時間を作って顔を見せても、あいにくイワンは「夜の時間」の真っ最中―という不幸な偶然がここ数ヶ月、たて続いてしまっていて。
 もっともパピの方は、眠っているイワンの傍らに丸まってうたた寝をしたり、時にはその柔らかい頬や手を優しくなめてやったりすることで充分満足していたらしいが、イワンとしてはそうもいかない。たといパピが一日中添い寝をしていてくれたとて、ぐっすり眠り込んでいる赤子にはさっぱりわかるはずもなく、目覚めるたびに、大親友のチビ犬に会い損なったことを知ってしょんぼりため息をつくばかり。
 そしてそろそろクリスマスを迎えようかという頃、イワンはとうとう半べそをかいて叫んだのだった。
「ぱぴチャンニ、会イタイヨォォォォ…ッ! 今度ノくりすますぱーてぃーニハぱぴチャンモ呼ンデチョウダイヨォォォッ!」
 しかしこのときにはギルモア博士がうまくなだめてくれたおかげで何とか事なきを得た。すなわち。
「おお…そうじゃなイワン。だがのう、クリスマスというのはそれぞれの家で、家族揃って祝うべきものじゃろう? 今のパピにはすでに新しい立派な家族がいるわけじゃし、イワンにだってちゃんと『家族』がおるんじゃから、クリスマスはそれぞれの『家族』とともに、静かにゆっくり過ごすことにしような、な…」
 「家族とともに過ごすクリスマス」なんざ現代日本においてはほとんど有名無実化しているものの、元々キリスト教圏(正確にはロシア正教か?)で生まれたイワンにはこんな話もそれなりに説得力を持っていたらしい。が、それも所詮はその場しのぎ、クリスマスが終わるやいなや再びイワンは駄々をこねだしたのだった。
「ネェ、くりすますニハ我慢シタンダカラサ、オ正月ハ絶対ぱぴチャンニ会ワセテ! 日本ニハ『年始回リ』ッテ風習ガアルンデショ! 行ク! 行ク! ボク、絶対『年始回リ』デ藤蔭先生ノオウチヘ行ク! ソンデぱぴチャントイッパイ遊ブンダァ!」
 ここぞとばかりに懸命に訴えるイワン。だけど…。
 藤蔭家が由緒正しい旧家であることはメンバー全員が知っている。しかも藤蔭医師の亡父は有名な弁護士だったというし、母親も書道、茶道、華道、編み物その他モロモロの趣味を通じてかなり顔が広いらしい。その上藤蔭医師本人とて斯界の大物…になりかけている逸材とくれば年始回りに来る客もさぞ多いことだろう。そんな中に自分たちまでのこのこと、それもこんな大人数で押しかけていいのだろうか? とついつい考え込んでしまった仲間たちとギルモア博士は無言のまま、互いの顔を見合わせるばかり。…で、焦れたイワンの堪忍袋の緒がついにブチ切れて大暴走、冒頭の大騒ぎに至ったわけである。

 「泣く子と地頭には勝てぬ」という古い諺のとおり、こうなってはさしもの勇士たちさえどうしようもない。そしてついに、破れそうな鼓膜と惨憺たる家の状況に気を失いそうになりながらも必死に電話の受話器を取り上げたジョーが(…さすが最強のサイボーグ! 偉いぞ青少年っ! ←だから、違うからっ)藤蔭家に電話、正月の都合を尋ねてみれば。
(あら、みんな来てくれるの? 嬉しいわぁ♪ なら一月四日はいかが? 仕事始めともなれば年始客も一段落するし、私もその日は家にいるし。…ええ、実は二日に当直が入っちゃって、一日中病院に詰めていなくちゃいけないの。だから四日はその代休。遠慮することなんか全然ないわv じゃぁ四日。待ってるわね)
 打てば響くよな返答をもらい、ほっと一息ついて―。
 ギルモア邸の面々は、どうにかこうにか無事年越しをすることができたのであった。

 そしていよいよ一月四日、00ナンバーたちは揃って藤蔭家を訪れた。中でも一番はしゃいでいたのがイワンであったことは言うまでもない。何しろギルモア博士がインターフォンを押すよりも早く、(ぱぴチャァ〜ン! 来タヨ〜!)と最強度のテレパシーを飛ばしてくれやがったくらいである。
 そしてまた、藤蔭家の玄関が開くやいなや。
「イワンくぅん! 待ってまちたでち〜! いらっしゃぁぁぁいっ♪」
 いの一番に飛び出してきたのは、やはり茶色と白と黒の小さな毛玉であった。
「ちょっとパピ! いきなりなぁに!? 今日は皆さん、お年始のご挨拶に来て下さったのよ!」
 続いて走り出てきた藤蔭医師は正月にふさわしい和服姿。三が日も明けたせいか、着物の格としては少々カジュアルかつ地味な江戸小紋ではあるが、ジョー以外は全員外国人である00ナンバーたちの目には充分、古式ゆかしい日本の新年の風情と見えたのだろう。たちまち、そこかしこから沸きあがる歓声やら感嘆のため息、加えて門の内側でぴょんぴょこぴょんぴょこ飛び跳ねる犬と外側でフランソワーズの腕から半ばずり落ちそうになりながら懸命に小さな手を伸ばす赤子がきゃぁきゃぁきゃんきゃん騒ぐものだから、やかましいことこの上ない。
 それでも何とか門を開け、この騒々しくも愛すべき年始客の一団を招き入れるとともにはしゃぎまわる飼い犬をも捕獲、家の中へと引きずり込むことに成功したというのはさすが、藤蔭医師ならではの偉業であったろう。
「さぁ皆さん、ご遠慮なさらずどうぞ中へ。さぞお寒かったでしょう」
「イワンくん、皆しゃん、どうじょでち〜♪」
 一足先に家に上がった飼い主と飼い犬がいそいそと声をかけてくる。…が、そこでギルモア博士がそっと皆を押しとどめて。
「いや、今日はやはり新年の挨拶に伺ったわけじゃからな。おうちへ上がらせていただく前にまずはこちらで一言…」
 重々しくも宣言すればメンバー全員がはっと姿勢を正し、一方の藤蔭医師もきちんと座り直して来客たちの前に三つ指をつく。
「明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します」
「こちらこそ、昨年中は大変お世話になりました。どうぞ今年も、相変わりませずよろしくお願い申し上げます」
 互いに深々と一礼して、とりあえず挨拶が無事終了…した途端。
「イワンくぅん、こっちこっち! 今日はいつもの洋間じゃなくて奥座敷に来てちょうだい♪ お正月のお飾りがとっても綺麗なんでちよ」
(ウンワカッタ。行コウ、ぱぴチャン!)
 漫画ならば鉄板で「ドドドドド…ッ!」などという派手な書き文字がくっつくであろう勢いでまっしぐらに走り去る犬、それをまた全速力で追う赤子のクーファン。たちまち、一人と一匹のちびギャングどもの姿は廊下の奥へと消えた。
「これイワン、待たんか! 行儀の悪い!」
「イワン! よそのおうちでは静かにしなさいっていつも…」
 慌てて後を追おうとしたギルモア博士とフランソワーズを、藤蔭医師の穏やかな微笑が引き止める。
「よろしいんですよ、ギルモア先生もフランソワーズも。久しぶりに会えてよっぽど嬉しいのね、あの二人」
「それはそうじゃが、あんなに暴れおって…」
「もしも何か、おうちのものを壊してしまったりしたらお詫びのしようがありません」
「大丈夫ですよ。うちには壊されて困るようなものなんてありませんもの。それより皆さんもどうぞ奥の方へ」
 かくてメンバーたちもまた、案内されるままに邸内へと上がりこんだのだが…。

 とにもかくにも、広い家であった。さながら明治時代に建てられた洋館のような造りも最近では珍しい。もしかして、かなり由緒ある建物なのではないか…という誰かのつぶやきに、藤蔭医師は小さく声を立てて笑った。
「いえ、そんなことは全然ないんですよ。父の趣味で、建てるときにわざとあの時代の建築を真似しただけのことですわ」
「ほう、お父上の…。では、これらもお父上のご趣味で?」
 グレートが指し示したのは廊下に規則正しく設けられた飾り棚―というか、西欧の教会建築によく見られる壁龕のように壁を窪ませていろいろな物を置けるようにした空間―に鎮座ましましている様々な茶碗や壺、飾り皿やら小箱やらであった。
「あ、いえ…それは…」
 と、たちまち白磁の頬がほんのりと赤く染まって。
「父ではなくて私の…その…『副業』の報酬と申しますかお礼と申しますか…」
 だんだんと小さく、ついには消え入りそうになってしまった声。だが、来客たちが全てを察するにはそれで充分だった。
「じゃぁ先生、早い話がこっち関係の…?」
 言いつつ、両手首をだらりと下げて「恨めしや〜」のポーズを取ったジェットに、すかさずアルベルトの教育的指導が飛ぶ。
「コラこの鳥頭! 失礼だろうが!」
「だって、事実は事実だろうがよオッサン!」
「いいんですよ、アルベルトさん。ジェットさんもどうかお気を鎮めて下さいな」
 少々険悪になった雰囲気をなだめた藤蔭医師の表情が、かすかな苦笑に変わった。
「正直、私としては『あちら』の仕事は完全なボランティアのつもりなんですけれどねぇ。勤務先の病院への手前もありますから金銭報酬などはとても受け取れませんし、その他の謝礼も一切お断りしているのですが、時折『どうしても』とおっしゃる方もいて…半ば断りきれなくていただいた物ばかりなんですよ」
「左様でしたか。しかしながら、ご事情はともあれ実に大したコレクションですなぁ」
 グレートの言葉に、藤蔭医師の頬が再び赤くなる。
「そう…かもしれませんわね。詳しいことは申せませんが、依頼者の中にはやんごとなき名家、名門と言われるお家の方々もかなりおいでになりますから。そのようなところにはきっと、こんな品々が数限りなく眠っているのでしょう」
 それは確かにそのとおり…と、深々とうなづき合う来客たち。しかしそんな中、ジョーだけがどこか納得がいかないふうに首をかしげていた。
「え…? そんな人たちでも先生に助けを求めてきたりするんですか? 僕なんかはそういう…上流階級の人々はみんな、何の悩みもなく裕福で華やかに暮らしてるとばかり思っていたんですけど」
「それがねぇ、そうでもないのよ、島村クン。むしろ、いわゆる『雲の上』って呼ばれるお家ほど、一皮むけばとんでもないモノが隠れていたりするものなんだから。…もちろん全部が全部とは言わないけれど、少なくともこれまで私が関わってきたところはどこもかしこも魑魅魍魎の巣窟だったわねぇ。ここだけの話、あんな場所で人間が暮らしているだけで奇跡よ、奇跡。…もしもそんなところに生まれちゃったら、たといあなた方でも命がいくつあっても足りないんじゃないかしら」
 息子も同然のジョー相手とて、藤蔭医師の口調もいくぶん気さくで軽いものになる。だがその内容の方は、例によってあまりといえばあんまりで。
「つまりは…そういう立派なお家になればなるほど、跡継ぎ争いとか遺産相続とか、家庭内の揉め事も大きくなるということ…ですか?」
 言葉を継いだフランソワーズの声、そして肩がかすかに震えているのが痛々しかった。
「うーん、そういうことも確かにあるけど…ほら、名家とか旧家とかっていうのは大抵、大小の差はあれ『権力』に近い位置にいたわけでしょう。そういう場所にいるとね、どんなに清廉かつ高潔な人物だって時には政争やら陰謀に巻き込まれたりするし、恨まれたり妬まれたりすることも多くなる。しかもそんな負の感情は、恨んだり妬んだりした当人が亡くなっても残ることもあるし…早い話が、没落とか失脚とかしない限り溜まっていく一方ってわけ」
 そこで浮かんだ意味ありげな微笑を、果たして妖艶と言えばいいのか不気味と言えばいいのか。
「まぁね〜。自分の家柄や血筋を自慢する人は今でも結構いるけれど、私に言わせりゃ名家・旧家の『格』なんて、所詮『祟られてなんぼ』よ。あっはっは〜♪」
(いや先生、いくら何でもそりゃあまりに乱暴な言い草ですからっっっ!)
(大体、貴女だって本を正せば立派な旧家のお嬢様…)
 鈴を転がす…どころか蹴っ飛ばすがごとき豪快な高笑いにそうツッコみたかったのは決して作者だけではなかろう。しかし、その思いを口にできるような勇気などさすがのサイボーグ戦士たちにもあるわけなくて(←もちろん、作者だって嫌)。
「…何はともあれ、先程申し上げましたとおり、こちらに飾ってある物はどれも特に曰くがあるわけではありませんから、どうぞご自由にご覧になって下さい」
 さしもの高笑いもようやく治まり、あらためてそう言われたとき、来客たちは全員申し合わせたように表情を強張らせ、頬や額に一筋の冷や汗を流していたのだった。

 しかしどのような人物のどのようなコレクションといえども、その素晴らしさには変わりがない。廊下を進みつつ、並んでいる品物一つ一つを熱心かつ丹念に鑑賞していた張々湖の足がふと止まった。
「どうしたんだい、大人」
 隣を歩いていたグレートが一緒になって覗き込んでみれば、そこに置かれていたのは高さ十センチほどの中国風香炉。
「う〜ん、いい香炉アルネェ…ウチの店にも一つ、こんなのを飾りたいアル。入手先の店とかがわかれば早速見に行くんやが、藤蔭先生はご存知ないやろか」
「どうかなァ…何しろ『ここにあるのはみんな頂き物』なんだろ? 先生自身が買ったんならともかく、もらい物じゃちょっと…」
「できることなら譲ってほしいくらいアルけど、それはあんまり図々しすぎるやろな…」
「しかしさっき『特に曰くのある物、壊されて困るものはない』とも言っておられたじゃないか。礼を尽くしてお願いすれば承知して下さるかもしれんぞ」
 ひそひそこそこそ、そんな内緒話が耳に入ったのかどうかは知らず。
「あら、もしお気に召したのなら差し上げますわ。どうぞ、お持ち下さいな」
「うわっ!」
 いきなり耳元に響いたアルトの声に飛び上がった中年紳士二人。が、次の瞬間張々湖が「とんでもない!」とでも言いたげにぶんぶんと首を横に振る。
「そそそんな、滅相もないネ! いくら何でもこんな立派な品をいただくのに、タダちゅうわけにはいかんアル!」
「いえ、こちらは全然構わないんですよ。心から気に入って大事にして下さる方のところで暮らせれば香炉も喜ぶでしょうし」
 おっとりはんなり、こともなげに言ってのける藤蔭医師。しかし、張々湖は―。
「いや! いかに藤蔭先生とわてらの仲とはいえ、そんなのご好意の限度を超えてるのコトヨ! もしこれを頂戴するなら頂戴するで、こちらもきっちりお返しをせんことにゃわての気持ちが済まないネ!」
 ついつい声を荒げたその剣幕に、他の仲間たちも何事かと集まってくる。さすがの藤蔭医師も驚いたのか、深々と頭を下げ―。
「申し訳ありません、張々湖さん。決してそのようなつもりはなかったのですが…ただ、こちらの値打がいかばかりのものか、実は私も知らないんです。ですから『お返し』と言われてもどれだけのものをいただけばいいのかまるで見当がつかなくて…」
 そこでようやく、張々湖も事情をのみこんだらしい。
「そやったアルか…いや、こちらこそ年甲斐もなくカッとなっちまって申し訳なかたネ。考えてみりゃ、人様に物を差し上げるときにわざわざ値段を教える人間なんているわけないのコト。大変失礼しちまったアル」
 そしてこちらも頭を下げ、しばしののちに揃って顔を上げたとき。
「あ…そういえばこれには鑑定書がついていたんでしたわ。そちらをご覧になればある程度の来歴、価値などがわかるかもしれません」
「だったらそれを見せていただいた上で、大人が値をつければいいんじゃないか?」
「おおそりゃ名案ネ、グレート。…しかし藤蔭先生はそれでヨロシアルか?」
「もちろんですわ。ではちょっとお待ち下さいね。書類を取ってまいります」
 藤蔭医師が場を外すやいなや、それまで興味津々に眺めていた仲間たちが一斉に香炉の周囲に群がった。
「確かにこれは中々の逸品だな。さすが目が高いじゃないか、大人」
「だけど鑑定書がついてるなんてただ事じゃないぜ。もしかしてとんでもないお宝だったらどーすんだよ」
「何の、わてだってこれでも天下の張々湖飯店オーナー、百万や二百万の蓄えくらいはちゃんとあるよってに心配いらんアル」
「うわ…それはまた大きく出たねぇ」
「だけど、それならきっと譲っていただけるわ。先生だってさっき『差し上げてもいい』っておっしゃってたんですもの♪」
 思い思いに勝手なことを言い合っているうちに、藤蔭医師が再び戻ってきた。
「こちらが鑑定書です。M大の野島先生が調べて下さったそうですから、信用性には問題ないはずですわ」
「ホウ…野島博士といったら美術史学の権威じゃないかい。大したものじゃ」
 ギルモア博士のつぶやきにうなづきながら鑑定書を受け取り、恭しく広げる張々湖。
「フムフム、『京焼色絵唐風香炉、江戸前期』アルか。やっぱり、かなり古いモンやったアルネェ…おや、作者もわかっとるねんナ。この時代にしては珍しいこっちゃ…って、何? 野々村仁清やて!? アイヤァァァァァァッ!!」
 派手な悲鳴とともに、その体が突如ガタガタ震えだした。気がつけばグレートとアルベルト、そしてギルモア博士もも顔面蒼白になって硬直しているが、他の者たちには何が何やらさっぱりわけがわからない。
「何だよ、急に…。よぉ大人、その野々村何とかってヤツがどうかしたのか?」
 のほほんとした問いかけに振り向いた張々湖は、すでに歯の根すらも合わない状態で。
「そっちこそ何言うてんねん、ジェット! 野々村仁清ちゅうたら日本の国宝になってる『色絵雉香炉』の作者やで! 他にも、重要文化財その他に指定されてる作品がぎょうさんあるはずや…あわわわわ」
 それを聞いた途端、ずざざざざぁっ…という音も高らかに全員がその場からドン退いた。残ったのはいまだ震えっぱなしの張々湖と、きょとんとした表情の藤蔭医師だけ。
「…あら? 皆さんどうかなさったんですか?」
 あくまでもおっとり、はんなりしたその口調に、たちまち襲いかかる抗議の嵐。
「どーしたもこーしたもねーよっ! そ…そんなとんでもないモン、無造作にそのへんに置いとくなァァァッ!」
「何が『特に曰くがあるわけではない』ですかっ! 曰くどころか由緒も価値も大ありじゃありませんか!」
「しかも『ご自由にご覧下さい』なんて…っ。万が一誰かが汚したり壊したりしてしまったら取り返しがつかないでしょぉぉぉっ!!」
 非難ごうごう…というより涙交じりの絶叫が廊下中に響き渡る中、和服の女はいかにも不思議そうに首をかしげて。
「ええ、ですから私どもも掃除はこまめにしておりますけど…? 仮に壊れてしまったとしても別に何が出てくるわけじゃなし、特に危険はありませんよ。あ…でも、こういう焼き物が割れちゃったら、片づけるとき破片で怪我をするかもね…」
「だからっ、そーゆーことじゃなくてっ!」
 完全に裏返った声の大合唱の中、ジェロニモがふと何かに気づいたように眉をひそめた。
「…先生。『何が出てくるわけじゃなし』とは、どういう意味だ? 他に『何か出てくる』ものもあるというのか?」
 重々しい問いかけに、藤蔭医師が大きくうなづく。
「実はそうなんですよ、ジェロニモさん。物には時として人の魂が宿りますからねぇ。百年、二百年と使われ続けて憑喪神化した古道具とか、戦で討死した思い人の後を追って自害した姫君の無念をひめた恋文の束とか、ささいな粗相で主君に切り殺された腰元の恨みがこもった妖刀とか…そうそう、古代権力者の葬儀の際に殉死させられた従者や馬たちの怨念を封じ込めた勾玉、真言立川流の秘儀のために暗殺されてご本尊にされたさる大将軍の髑髏とかもあったっけ。そういう品はもちろん『謝礼』としてではなく、『供養』を依頼されて引き取ったわけですが、中にはその因縁があまりに深すぎて、迂闊に手をつけられないものもかなりあるんです。仕方がないので裏庭に『それ』専用の蔵を建てて厳重に封印してあるんですけれどね。こちらの方はヘタに手を触れたり壊したりしたら、正直何が起こるかわかりません。…でも私がついていれば多分大丈夫でしょうし、よろしければそちらもご覧になります?」
 しかしその説明が終わる頃には周囲はすっかり静まり返っていて。

「結構です…」

 ついさっきまでの衝撃とは完全に別の意味で震え上がり、骨の髄まで凍りついた年始客一同の返事はたった一言、これだけであった。
 


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