Delight Slight Solty KISS 10


「ふぃ〜っ、どうやらやっとカタ…というよりカタチがつきそうだぜ、あの事件(ヤマ)」
 久しぶりにギルモア邸に姿を見せた松井警視がいかにも「やれやれ」といったふうに肩をすくめ、ティーカップに手を伸ばす。
「しかし今回は本当にすまなんだのう…松井君はもちろんのこと、H署の方々にも散々ご迷惑をかけてしもうた」
 その向かい側に座ったギルモア博士が深々と頭を下げれば、同じくテーブルを囲んでいた面々―ジョー、フランソワーズ、グレート、張々湖、そして只今昼の時間とてクーファンの中でミルクのお相伴に預かっていたイワンまでもが一斉にそれに倣う。
「とんでもねぇ。今回の件は決してあんた方のせいじゃねぇよ。てかそっちこそ、おかげでかえって面倒な思いしたんじゃねぇのか?」
 あの時―最後の爆発で00ナンバーたちの闘いには一応のケリがついたのだが、かといって何もかも警察に黙っているわけにはいかなかった。全ての発端となった例の強盗事件のこともあるし、何といってもシャルルの勤務先から木村という一人の男が完全に消えてしまった、その事実があったからである。そこで彼らはまず松井警視に相談し、あれこれ内密のアドバイスを受けた上でシャルルがH署に出頭することになったのだが。
「何せノアイユ氏の証言以外、手がかりも証拠もまるでなしときてらぁ。長野県警に応援頼んで、例の爆発現場も鑑識の連中にくまなく調べてもらったんだが、何〜ンもめっかんなかったってよ。…ただ木村―木村省吾てぇ男が現実にゃ存在しねぇことだけは確かだった。入社の際提出した戸籍抄本だの住民票だの、どれもこれも巧妙なニセモノだったとさ」
「木村は最初からシャルルさんに目をつけてS製作所に入社したんでしょうか…」
 半分独り言のようなジョーの声を聞きつけた松井警視が、ゆっくりと首を横に振る。
「知らね。ヤツが入ったのはノアイユ氏が来日する三年も前のこったし…もしかして何か別の目的でもぐりこんでたのが、ノアイユ氏の出現によって宗旨替えしたのかもな」
「それは大いに考えられますな。彼奴めの言動から察するに、裏でBGが糸を引いていたのはほぼ間違いない。だとしたら、我輩たちの過去の関係者を調べるのも容易いことだ」
「それにしても、病気の奥さん抱えて苦労してはるヒトを騙すなんてとんでもないことネ。シャルルはんもさぞ辛かったやろ。…思っただけで涙が出てくるアル」
「最初は手取り足取り面倒見てくれる、そりゃぁ親切な上司だったそうだぜ。だからこそノアイユ氏もつい…いろんなこと相談しちまったんだろうなァ」
 シャルルの妻ジャンヌの病は、来日して初めて麻田教授の診察を受けたそのときから「もはや心臓移植しか助かる道はない」と断言されるほどの重症だったそうなのだが、ジャンヌはその手術を固く拒んだ。心臓移植にはドナー…脳死状態になった誰かの体が必要である。自分が生き永らえるために他人の死を待つような治療を受けたくはない、それくらいなら全てを神様にお任せすると言い張って。
 それを知った木村はいっそうシャルルを気遣い、励まし…ときには妻の病状とその固い決意の狭間で悶々と悩むシャルルを「しっかりしろ!」と涙ながらに叱りつけたこともあるという。そんな相手に絶大な信頼を寄せたシャルルを一体誰が責められようか。…だが、それこそ木村の思う壺だったのである。
 やがて、頃やよしと見た木村はシャルルの耳にとある「極秘情報」を囁いた。曰く「ギルモア博士という科学者が開発した人工心臓を移植すれば、ドナーなしでも奥さんは助かる。ただ問題は、そのための莫大な費用をどうやって工面するかなんだが…」などと思案顔でため息などつきつつちらりと見せた博士の写真、その片隅に写っていた「助手」というのが何とフランソワーズだった。
 驚愕するシャルルの話を聞き、自分も派手に驚いて見せた木村は「だったらこの縁を利用するしかない」とたきつけた。偶然を装ってフランソワーズと再会し、その伝手をたどってギルモア博士と懇意になれば比較的安価に、うまくすれば無償で人工心臓を提供してくれるかも―そして、そんな木村の言葉にシャルルは全てを賭けたのだった。
 だがいくらフランソワーズと再会したからといって、その日のうちにすぐさまギルモア博士にも会えるという保証はない。一方、のんびりゆっくり旧交を温めつつ博士に紹介してもらうのを待つなどという余裕もまたなかった。
「それで考えついたのが、あの狂言強盗だったわけですか…」
 ぼんやりとつぶやいたジョーに、松井警視もどこか沈痛な面持ちでうなづく。
「ま、そういうこった。久しぶりに会った幼なじみがあんな事件に巻き込まれて怪我した上に、カミさんも入院中で一人暮らしとくりゃぁ、せめて一晩くらいウチへ…とか何とか言いたくなるのが人情だからな」
「…でも兄さん、あのときは心臓移植の話なんかこれっぽっちも口に出さなかったわ。そんなに切羽詰っていたんなら、すぐにでも博士に相談したかったでしょうに…」
「木村に口止めされていたんだと。いきなりそんな話をしたひにゃかえって警戒される、まずはここの連中と顔繋ぎしとく方が先だってな。嬢ちゃん以外の『助手』とも親しくなりゃァ、あとでこっそり博士への口添えを頼むこともできるから…とも言われたそうだ」
「そうやってわてらのうちの何人でもいい、おびき出して抹殺しちまおうちゅうのが敵さん本来の目的やったんやろ。その前にシャルルはんが博士に直談判なんぞしちまったら台無しヨ。いっぺんで自分の嘘がバレちまうよってに」
 何にせよ、とりあえず計画の第一段階はうまく行った。ところがあの研究施設でのカンヅメが終了した途端、ジャンヌの容態が急変したのである。シャルルにとっては何より恐れていた最悪の事態、だが木村の方にしてみればまさに千載一遇のチャンスであった。
 「こうなったら少々手荒だが博士の助手の何人かを攫ってその身柄と引換えに人工心臓を提供させよう―もちろん、攫った相手に危害を加える気は毛頭ないが―」このとんでもない提案にはさすがのシャルルも度肝を抜かれ、強硬に反対した。それくらいなら何もかも博士に話して誠心誠意頼んでみた方がいい、と繰り返し訴えてもみた。だが「それで断られたらどうする」と切り返されてはそれ以上何も言うことができず…。
 正直、このときシャルルは初めて木村に対して疑念を持ったのだという。しかし今ここで見捨てられたらジャンヌを助ける手立ては完全に消滅する。たとい腐っていようがどうしようが、差し出された藁をつかむ以外シャルルに残された道はなかった。

「あの日…いや、その前の電話の時点ですでに、ノアイユ氏のカミさんは『保って後半月』と言われていたそうだ。何もかも諦めてこのまま付き添うか、それとも最後の最後まで千分の一、万分の一の希望に賭けてみるか、亭主としても随分迷ったろうよ。だが結局ノアイユ氏は後者を選び、賭けに負けた―そういうこったな」
(「今にして思えば、他人の好意を裏切るような勝負になんか勝てるはずがなかったのに」って泣いてましたよ、あの人。「そんな汚い賭けに出た報いとして、妻をたった一人で逝かせてしまった」…って。あんときゃさすがの俺たちももらい泣きするトコでした)
(やらかしたことの是非は別にしても、あのノアイユって外人さんが奥さんを―多分俺たちなんぞにゃ想像も真似もできないくらい深く―愛してたてぇことだけは確かだったんじゃありませんかねぇ、警視殿…)
 シャルルからの事情聴取を終えてわざわざ報告に来てくれた際、心なしか目を赤くしていたH署刑事たち―高橋と今野の顔がふと脳裏をよぎり、一瞬瞑目した松井警視。しかし次の瞬間、再び口を開いたときにはそんな感傷など微塵も感じさせずに。
「まーな、そんなこんなで立件できたのは結局最初の狂言強盗だけだったわ。しかしアレだって主犯は木村だったわけだし事情が事情だ、ノアイユ氏には充分情状酌量がつくだろうさ。一応送検するだけした後で起訴猶予…つーのが妥当なセンじゃないのかね。勤務先の同僚からの署名なんぞも届いてるみてぇだしよ」
「え…? 署名って、S製作所の皆さんからですか?」
「ああ。『できる限り寛大なご処置を』って、黒田本部長以下開発チーム全員と他部門有志で総勢一〇〇人分くれぇかな。…少なくとも、職場の連中がノアイユ氏を大切な仲間として心底心配してくれてる、その気持ちだけは本物だったってこった」
「そう…ですか…。よかった…よかったわね…シャルル兄さん…」
 そう言ったきり、顔を覆ってすすり泣くフランソワーズの肩をジョーがそっと抱き寄せる。ギルモア博士を始めとする他の人々も、ようやく表情が明るくなったようだ。
「そういや黒田本部長―木村の言葉を借りりゃ『仕事バカ』ってか? ―が言ってたぜ。例の木村の嘘…ギルモア先生の講演を聴いたって話を覚えてたのは、そんときのヤツの様子があまりに異常すぎたからだとさ。ある日何の気なしに休憩室に入ってみれば、そこでたった一人備えつけの科学雑誌を読んでた木村の表情がどうにも…憤怒と敵意と憎悪をごちゃ混ぜにしたような、まさに鬼のような形相だったそうだ。で、ぎょっとして覗き込んだらそのページにギルモア先生の写真が載っててよ、ついつい『知ってる人なのか』って訊ねたその返事が…ってんで、特に印象に残ってたらしいですぜ」
 そこでちらりと視線を向けられたギルモア博士が、深いため息と共にうなづく。
「そうじゃろうのう…BGの奴らにしてみれば、わしやこの家の者たちはおそらく八つ裂きにしても飽き足らん相手じゃろうからな。だがそのせいで黒田本部長が不審を抱き、ずっと覚えていらしたというのなら…木村が墓穴を掘る原因となったのは紛れもない、BGに籍を置く己れ自身そのものじゃったということになる」
「そりゃぁ、何とも皮肉なこってすな」
「でもま、悪人なんてみんなそんなモンやろ。やっぱ人間、まっとうに暮らすのが一番アル」
 グレートと張々湖の言葉にしみじみとうなづいた一同の間に沈黙が落ちる。しかし気がつけばいつしか新しい話題、新しい会話が生まれ―ギルモア家の人々と松井警視は、それからもしばしの歓談を楽しんだのであった。










 聖I教会は東京二三区の中心部に位置するにもかかわらず都内でも有数の規模を誇る大教会であり、その礼拝堂は数百人単位の信者を充分に収容できる広さを持っている。
 だが今は慈悲深い神父の姿も敬虔な善男善女の姿もなく―そこに息づくものといえば、祭壇の前に跪いて一心不乱に祈りを捧げている男、ただ一人であった。
 両手を組み、頭を垂れる男の上にステンドグラス越しの陽光が射し込んでいる。その光の微妙な色合いの変化は、そのまま男が祈り続けている時間の長さを物語っていた。

 と―。

 背後に誰かの足音が聞こえた気がして、男は顔を上げた。この礼拝堂の扉が迷える子羊たちのために常時開放されていることはよく知っている。けれど特に何の礼拝もミサも予定されていないこんな日に訪れる者など、ほとんどいないはずなのに―。

 男は首だけをゆっくり後ろに向けてみた。―刹那、その表情が凍りつく。

 そこにはまだ年若い男女が、男と同じ喪服姿で静かに佇んでいた。



「シャルル兄さん―」
 反射的に後じさりしかけた男―シャルルに、フランソワーズがかすかに涙の混じった声で呼びかけた。その後ろでジョーが深々と一礼する。
「今…ね…。納骨堂でジャンヌ姉さんにも挨拶してきたの。それから…もっと早くに会いに来られなくてごめんなさい…って、お詫び…も…」
 こみ上げる嗚咽にフランソワーズの言葉が途切れる。一瞬きつく目を閉じたシャルルが観念したように立ち上がり、ゆっくりと首を横に振った。
「…君が謝ることは何一つないよ、フランソワーズ。悪いのは全て僕たち…いや、僕一人だ。今となっては許しを請う資格すらない。それどころか、君と同じ場所に存在する資格も、君たちと同じ空気を吸う資格も…もう…僕にはない、から…」
「そんなことない! 兄さんは騙されただけじゃないの! ジャンヌ姉さんの命を助けるために何もかも捨てて必死になっただけじゃないの!」
 そのまま逃げるように立ち去ろうとしたものの、再び飛んだ悲痛な声にはっとして立ち止まったシャルル。…と、そこへ今度はジョーの抑えた声が響いて。
「シャルルさん…。松井警視から伺いましたが、まだしばらくは日本に滞在なさるそうですね。あの…介護用ロボットの開発が何とか形になるまで」
 今回の件とは何の関係もない仕事の話にシャルルはわずかにほっとしたふうだった。しかしその目は未だ伏せられたまま、ジョーやフランソワーズの顔を見ようとはしない。
「…はい。今更会社に戻れた義理ではないのですが、一度携わったからには最後まで責任を持たなくてはいけませんし…ですからそれまでは、ジャンヌの遺骨もここに、と…」
「そうですよね…。貴方がそんな人間だから、会社の皆さんも貴方のためにあらゆる手を尽くし、貴方と一緒に仕事を続けることを望んだ。あの…僕たちも…同じふうに望んではいけないでしょうか。貴方が日本にいらっしゃる間、いや、その後も―フランソワーズの大切なおさななじみ、そして僕たち自身の大事な友人として、一緒に…」
 途端、ぱっと上がったシャルルの顔をあらゆる感情が通り過ぎていった。後悔と自責、困惑と羞恥、苦悩と煩悶…そして、ほんのわずかな安堵と歓喜。けれど最後に再び、その首が横に振られて。
「ありがとう…。貴方の優しいお言葉には、心から感謝します。ですが―それを受け入れることだけは―到底、できません」
「シャルル兄さん!」
 飛び出そうとしたフランソワーズをジョーが渾身の力で抱き止めた。今ここで彼女に取りすがられたりしたら、シャルルはますます追い詰められてしまう。
「ごめんよ、フランソワーズ。君や島村さん、そしてギルモア家の皆さんには本当に申し訳ないことをしてしまったと思ってる。たといどんな罰を受けてもどんな償いをしても、一生…許されるはずがないと…。でもその反面、僕はもう二度と君たちの顔を見たくない。…だって、思い出してしまうんだよ。君たちに会うたびにジャンヌを―彼女のために僕が犯してしまった罪を、そして何よりそのせいでたった一人ぽっちで逝かねばならなかった彼女の淋しそうな死顔を! どんな罰でも、償いでも―ああ、それも確かに僕の本心だ。だけどジャンヌのあの表情を思い出すことにだけは絶対に耐えられない! …それとも、それが君たちの目的かい? 親切ごかしにまた迎え入れて、皆に会う度罪の意識に苛まれる僕を見て溜飲を下げる、それが君たちの魂胆か!」
「そんな…! 私たちは決してそんなこと…」
 フランソワーズの体から全ての力が抜け落ちる。ジョーが抱き止めたままでなかったら、その場に崩れ落ちていたことだろう。瞬きすらも忘れた水色の瞳からとめどなく溢れ続ける涙に、つと目を背けたシャルルが今度こそためらうことなく歩き出す。二人の脇を通り過ぎるときだけは深々と頭を下げたものの、もうそれ以上は一言も口を聞かず、振り向きもせず―あらゆるものを拒絶し、ただゆっくりと遠ざかっていくばかりの背中―。
「待って下さい、シャルルさん!」
 その頑なな歩みを、ジョーの凛とした声が呼び止めた。
「もう…これ以上嘘はつかないで下さい。違うでしょう? 貴方が僕たちの前から永遠に消え去ろうとしている理由は、決して…貴方自身の辛い思い出なんかじゃないでしょう?」
 瞬間、シャルルの全身が雷に打たれたかのように硬直した。
「貴方は自分自身が許せないんだ。僕たちを…いやフランソワーズを騙し、その思いを裏切り、あまつさえ『機械人形』と呼ぶような奴らの手先に―たとい一時にせよ―なってしまった自分が!」
 シャルルはまだ振り向かない。振り向かないまま―ただわなわなと震えている。
「けれどフランソワーズなら必ずその過ちを許し、再び手を差し伸べてくれるだろうことも貴方にはよくわかっていた。それを『彼女への罪悪感』故に無理矢理振り切ったりしたら彼女の心をいっそう…それもどれだけ深く傷つけてしまうかわからない。だから、『彼女』ではなく『自分』のためだと…。自分がこれ以上悲しい思いをするのは御免だからもう二度と顔も見たくないと平気で言い切るエゴイストを装って、幻滅した彼女に愛想尽かしでもされた方が―たとい彼女を傷つける結果は同じでも―まだましだと思ったからこそ、心にもない酷い言葉を…」
「やめて下さい、島村さん!」
 かすれた絶叫とともにシャルルが振り向く。その頬に流れる、大粒の涙。
「貴方は…。貴方は僕を…悪人にさえして下さらないんですか…」
 切れ切れの言葉を受け止めたのは、ジョーの穏やかな微笑だった。
「貴方はちっとも悪人なんかじゃありませんよ、シャルルさん。だってあのとき―僕たちを『機械人形』と罵った木村に、貴方は飛びかかろうとしてくれたじゃありませんか。拳銃を構えている相手に丸腰で…ただ僕たち、いえフランソワーズのために激怒して、我を忘れて。…そんな人間を悪人なんて思うことは僕にはできません。それに…」
 そこで何故か突然口ごもって。腕の中のフランソワーズに視線を移し、怪訝そうに見返してきた水色の瞳をしばしじっと、見つめたあとで。
「それに僕は…僕はフランソワーズを愛しているから…彼女にとって大切な人間である貴方にも、もうこれ以上辛い思いは絶対にしてほしくないんです!」
「ジョー!?」
 思いがけない言葉に、フランソワーズの瞳がこぼれ落ちんばかりに見開かれる。けれどジョーの視線はまだじっとシャルルに注がれたまま。
「貴方がお気持ちを整理するには時間が…それもかなり長い時間が必要なことは僕にもわかります。ですがシャルルさん、もしいつか時が満ちたら、またフランソワーズや僕たちのところに帰ってきては下さいませんでしょうか。あらためてもう一度―お願いします」
 いつしかフランソワーズからそっと手を離し、姿勢を正して深々と一礼したジョー。フランソワーズももう崩れ落ちたりはしない。自分自身の足と力でしっかりと立ち、ジョーと並んで真っ直ぐにシャルルを見つめる。
「待っているわ…シャルル兄さん。私もジョーも…他のみんなも、いつまでも兄さんのこと…待ってる」
 シャルルのとび色の瞳から、新たな涙が溢れ出した。
「ありがとう…。ありがとう、フランソワーズ…。そして、島村さん…。ありがとう」
 そして丁重な礼を返し、今度こそ礼拝堂から出て行ったシャルルを、二人はずっと見送っていたのだった。

 けれどやがて、その姿も完全に二人の視界から消え去った頃。
「…ありがとう、ジョー。貴方がああ言ってくれなかったら、私は本当にシャルル兄さんを失ってしまうところだったわ」
「いいんだよ、フランソワーズ。だってシャルルさんは君だけじゃなく、僕にとっても大切な人だもの」
 そう言って微笑んだジョーに、こっくりとうなづきかけたフランソワーズ。だが不意に何かを思い出したように動きを止め、見る見るうちにその頬を鮮やかな朱に染めて。
「…あ…あの…。ところでジョー…あの、さっきのあれ…本…当…? あの…シャルル兄さんが…私だけじゃなくて貴方にとっても大切な人だっていう…その…理由…」
「え…えっ!? あ…うん…あれは…その…えと…あの…」
 途端、今度はジョーの顔が―頬どころか、首筋から耳のつけ根に至るまで―真っ赤になった。しかも口を開けばこれまでとはうって変わったしどろもどろ、張りつめていた気がすっかり弛んでしまったのか、どんなに頑張ってもまともな言葉が出てこない。だがそのあまりの狼狽ぶりに「やはり聞き違いだったのか」と再び泣き出しそうになったフランソワーズの表情を目にした刹那、ジョーの脳内で何かが真っ白に弾け―あとは頭で考えるよりも先に体が動いていた。
「ジョー!?」
 突然強い力で抱きしめられて、はっと体を固くしたフランソワーズ。と、そのばら色の唇にそっと触れたのは―。
(あ…あ…!)
 祭壇の上に立つ木製の十字架、その背後にきらめく色とりどりのステンドグラスの前で。
(ごめん、フランソワーズ…どうしても…言葉じゃうまく言えなくて…。だけど…僕は君を愛してる! 世界中の誰よりも…何よりも…君を…愛してる…)
(おお、ジョー! 私もよ! 私も…貴方が好き…。愛しているわ…永…遠に…)
 重ねた唇を通して、声にならない互いの想いが直接心に流れ込んでくる。悲しみに凍えた心、そして体にさえ満ちていく温かい波の中、それまでの躊躇いや不安が少しずつ―溶けていく。
 やがてようやく唇を離し、微笑んで見つめ合ったのは、いつもどおりのジョーとフランソワーズ。
「何か、あの…。『誓いのキス』みたい…だね。礼拝堂の十字架と…ステンドグラスの前でなんて…さ」
「え? だって私たち喪服姿で…それに…あんなにしょっぱいキスだったのに? さっき泣いたときの涙が…その…唇にもたくさん…ついちゃってたから…」
「あ…。言われてみれば確かに…そうだったかも。でも…いいじゃないか。だってこれから…あの…きっと…」
「わかってるわ。『甘いキスをするチャンスもたくさんあるよ』でしょ?」
 もはや完全に元の「優柔不断な日本男児」に戻ってしまった「恋人」に、フランソワーズが恥ずかしげに腕を絡める。肩にこつん…ともたれてきた「恋人」の金髪に、ジョーが照れ臭げに頬を寄せる。そして生まれたてのカップルはゆっくりと礼拝堂をあとにした。
 二人の誓いをしっかりと見届けた十字架とステンドグラスに見送られて―。



 後日、ジョーから一部始終の報告を受けた「人生の先輩」たち―石原医師、松井警視、そして藤蔭医師とついでにパピが大いに喜んでくれたことは言うまでもない。特に石原・松井コンビの喜びようときたら大したもので、話を聞き終えたと同時にジョーを再び「たぬきばやし」へと拉致してくれやがったくらいである。ちなみに二人からの祝いの品は「お前にしてはよくやった!」というありがたいお褒めの言葉と、翌朝から二日間続いた、そのものずばりの「二日酔い」であった…。
 それに比べれば、前回同様カフェオレ風のコーヒーでもてなしてくれた藤蔭医師とパピの祝福は極めて穏便かつ常識的なものだったのだけれど。
 「…あとは、私たちが生きているうちに結婚式を挙げてほしいものだわねぇ…」というこれまた真綿で首を絞めるがごとき祝辞、さらには「言っときまちけどしょの中にはボクもちゃんと入ってるんでちからね! わんこの寿命が人間しゃんよりはるかに短いってことだけは忘れないでちょうだいよっ!」…とその重圧を一気に数百、数千倍にまで膨れ上がらせるという二段攻撃をぶちかましてくれたところなんぞは先の二人と大差ないと言うべきか。





 そしてその後も様々な紆余曲折を経て月日を重ね、いつしかビールもブランデーも存分に堪能し合う仲となったジョーとフランソワーズ。二人きりの甘いキスとて、もはや何百、何千回交わしたかわからない。
 ただ、そんな今でもフランソワーズはふと思うことがある。身も心も歓喜に痺れるような極上のキスをいくら交わそうとも、自分たち―いや自分にとって最高のキスはやはりあの―十字架とステンドグラスに見守られたちょっとしょっぱいそれだったのではないかと。
(「初めて」だったっていうのももちろんあるわ。でもそれ以上に…あのときの私は本当に哀しくて淋しくて、そして…辛かったから…。貴方の想いがいっそう心に沁みて…嬉しかったのよ。そう…多分今まで生きてきた中で…一番…)
 ベッドからわずかに身を起こし、隣に眠る愛しい人の髪にそっと触れつつ心の中でつぶやいてみる。返事は健やかな寝息だけ、それで―いや、その方がいい。
(だってこれは私だけの秘密だもの。この世の誰より愛してる、大切な貴方にも絶対…教えて、あ・げ・な・い)
 密やかな微笑を浮かべたまま再び横になって目を閉じる。と―。



(塩辛い味を知らない者には本物の甘い味だってわからないんだよ。不安や恐怖、悲しみや苦しみといった塩辛さが耐え難ければ耐え難いほど、そばにいてくれる誰か、その嘘偽りない優しさや温かさが深くゆかしい本当の幸福の甘さとなって、ひりつく心、そして体を癒してくれるんだ…)



 耳の奥底、かすかに懐かしい声が聞こえたような気がした。日本での仕事を終えてフランスに帰国したきりふっつりと消息を絶ち、今はもう会う術もない―けれど幼い日の自分がありったけの想いで恋焦がれた、もう一人の「大切な、ひと」の声が―。

〈了〉



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