Delight Slight Solty KISS 3


 だから。
 その数日後、早速資料を受け取るためにギルモア邸を訪れ、ついでにジョーにこっそり「フランス絵画の歴史展〜中世から現代まで〜」の招待券を二枚手渡したときの藤蔭医師が、さながら般若のごとき形相だったのはある意味無理もないことであったろう。
「…この美術展、今月一杯やってるからフランソワーズと一緒に行ってきなさい。変に構えなくてもいいから、とにかく二人っきりでよ。わかったわね!」
 一方、いきなりこんなものを手渡されたジョーはといえば何が何やらさっぱり訳がわからなかったのだけれど。
「は…はい。ありがとうございます、先生…。あの…でも…この前のアドバイスの成果、まだあんまり出てないような気がするんですけど…」
「うるさい! だったら作戦変更ってことで、四の五の言わずにとっとと行ってこい!」
 首を傾げつつおずおずと問い返した途端に食い殺されんばかりの剣幕で一喝されてはそれ以上何を言えるはずもなく…。そして結局成り行きのまま、この突発的かつ理不尽な任務をを遂行すべく、早速行動開始してみたところ。
「わぁ! この展覧会、前から行きたかったの! 嬉しいわ!」
 誘うどころか招待券を見せただけでフランソワーズは大喜び、たちまち話はまとまって次の土曜日の午後、二人は連れ立って上野の某美術館へと出かけることになった。
 その日は雲一つない青空が広がり、絶好のデート日和だったが、さすが土曜日だけあって会場はかなり込んでいた。
「ジョー、こっちよ! 早く早く!」
「あ…あ、フランソワーズ! そんなに走ったら転んじゃうよ!」
 久しぶりに懐かしい故国の絵画を鑑賞できるのをよほど楽しみにしていたのだろう、まるで子供のようにはしゃぐフランソワーズが早速人ごみの中に飛び込んでいく。そんな彼女の姿はジョーにとってもたいそう嬉しいものだったが、万が一はぐれでもしたらと思うとそうそう見とれてばかりもいられず、ただひたすらに彼女の後をついていくばかり、とてもじゃないが名画もへったくれもあったものではない。
 それでも、楽しかった。
 原則としては行儀よく順路沿いに歩を進めながらも、時折ふと後戻りをしたり、比較的空いている場所を目敏く見つけて不意に方向転換してしまうフランソワーズは、さながら花から花へと飛び回る気まぐれな蝶のごとく、ふわりふわりと展示室を漂っていく。その美しい軌跡を決して邪魔しないよう、しかし絶対に見失わないよう追って行くうちに何だか自分も子供に返ったような気分になってきたジョーは、いつしかこの綺麗な蝶々との追いかけっこに夢中になっていたのだった。
 そんなこんなで、およそ二時間ほどの後。幸いお互いはぐれることもなく、無事美術館の出口近くへとたどりついたとき、蝶々はまたしてもふんわりとその進路を変えた。
「ジョー、あそこに売店があるわ! 今日の展示品の絵葉書を売っているみたい。みんなへのお土産に一つ買って行きましょう♪」
 そのときジョーの方を振り向いていたのがいけなかったのか、小走りに売店へと向かいかけた細い体が、ちょうどそこから出てきたばかりの男性にもろにぶつかってしまった。
「フランソワーズっ!」
 二、三歩大きくよろけたフランソワーズを咄嗟に抱きとめたジョー。そんな二人に、相手の男性も慌てて頭を下げたのだが…。
「Pardon,Mademoiselle!」
 聞き慣れぬその謝罪の言葉が、腕の中の愛らしい少女の母国語であることをジョーが思い出すよりも早く。
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。うっかりよそ見をしてしまって…」
 こちらもよほど慌てていたのだろう、ついつい使い慣れた日本語で謝りかけた空色の瞳が一杯に見開かれた。
「シャ…シャルル!? シャルル兄さん!? どうして兄さんが日本に…?」
 途端、相手のとび色の瞳もこぼれんばかりに見開かれる。そして、次の瞬間。
「フランソワーズ!? 君の方こそ何で…パリにいたはずじゃなかったのかい!?」
「そんなことより何年ぶりかしら! 会いたかったわ、シャルル兄さん!」
「僕もだよ! ああ…何て素敵な偶然なんだ!」
 何とフランソワーズがまっしぐらに男の胸に飛び込んでいったではないか。そして男の方もまた、胸の中の少女を固く、固く抱きしめて―。そんな光景を目の当たりにしたジョーが、目を点…どころか真っ白にしたのは言うまでもない。
(え…そんな、「兄さん」って…。フランソワーズの兄弟はジャンさんだけじゃなかったのか!?)
 しかも、ようやく男―シャルル? ―から身を離した金髪の少女がいまだ興奮冷めやらぬ体でほんのり桜色に頬を染めつつ、今度はジョーに飛びつかんばかりにしてのたもうたことには。
「ジョー、紹介するわ! こちらは昔パリで、私の家のすぐ近所に住んでいたシャルル兄さん。私の、初恋の人よ!」
(えええええーっ!! は…初恋の人ォ!?)
 その無慈悲な言葉を聞いた刹那、ジョーは脳天から灼熱の楔を打ち込まれたような衝撃を覚えた。いくら何でも、せっかくのデートに心弾ませていたところへいきなり他の男、それも最愛の少女の初恋の相手が現れたなんて、天国から地獄へ真っ逆様に蹴り落とされたも同然である。
 けれどありがたいことに、その後にはちゃんと続きがあって。
「それから、私が生まれて初めて振られた相手!」
「は…? え…? それホント?」
 今度は瞬時に地獄から天国へ逆戻りしたジョーは、泣いてるんだか笑ってるんだか、何とも珍妙な表情でそれだけ訊き返すのがやっとだった…。

「それにしてもひどいなぁ、フランソワーズ。『生まれて初めて振られた』なんて…僕は君にそんな冷たい仕打ちをした覚えなんてないぜ?」
「まぁ! ひどいのはシャルル兄さんの方だわ。私、六歳のときにはっきり言ったじゃない。『大きくなったらシャルルお兄ちゃんのお嫁さんになる』って! 忘れちゃったの?」
(あ…はは…そうか…「初恋」って、六歳の頃のね…。あはは…あははははは…)
 しばし後、三人は美術館近くの喫茶店に場所を移していた。先程のフランソワーズの言葉に、ジョーとはまた別の意味で衝撃を受けたらしいシャルルが苦笑するのへ、ばら色の唇をちょっぴり尖らせたフランソワーズが反論する。そんな二人に挟まれたジョーは、額に一筋の汗を流しつつ、ただただ引きつった笑みを浮かべているより他にない。
「あのねジョー、シャルル兄さんはジャン兄さんよりも二つ年上でね、私たち兄妹両方の『お兄さん』みたいな人だったの。そして、ジャン兄さんと私がケンカするといつも私をかばってくれた…。ううん、もちろんジャン兄さんだって私をものすごく可愛がってくれたけど、小さな頃にはやっぱり時々ケンカしちゃったりするでしょう? …で、私が泣き出したりするといつも駆けつけて来てくれて、『妹を泣かしたりしちゃだめじゃないか、ジャン』って。ふふ…シャルル兄さんにそう言われると、今度はジャン兄さんの方がしゅんとしちゃってね。そんなとき、私にはシャルル兄さんが白馬の騎士のように思えた…だから、ありったけの勇気をふりしぼって告白したのよ、六歳のとき。なのにシャルル兄さんったら、大学を卒業した途端、クラスメイトだったジャンヌ姉さんと結婚しちゃうんだもの。私、あの日の夜はベッドの中でずっと泣いてたんだから!」
「え…そうだったのかい? だって君…僕たちの結婚式の時には本当に嬉しそうに『おめでとう』って言ってくれたじゃないか」
「それは『女の意地』ですよ〜だ。たとい子供とはいえ、あのときの私はもう立派なレディだったんですからね」
 そんなやり取りを聞いているうちに、ようやくほっと胸をなでおろしたジョー。見ればシャルルの左手薬指には、銀色の結婚指輪が燦然と輝いているではないか。…となると、今度はフランソワーズにぽんぽん言いまくられているシャルルが何だか気の毒にさえ思えてくるのだから、全く男…いや、人間というのは現金なものである。
「…でも、お相手がジャンヌ姉さんじゃ文句なんかとても言えないわよね。綺麗で頭がよくて優しくて、お料理も上手。…本当に、女の私でさえ憧れちゃうような人だったもの。ねぇシャルル兄さん、ジャンヌ姉さんも今、兄さんと一緒に日本に来ているの?」
 そしてこちらもようやく過去の恨み(?)の矛先を収め、溢れんばかりの笑顔で尋ねたフランソワーズ。すると何故か、シャルルの表情が不意に曇って…。
「あ…あ、もちろん彼女も今こっちにきているんだけど…。ちょっと難しい病気にかかっていてね、入院してるんだ」
「え…?」
「実は…僕たちが日本に来たのはジャンヌの治療のためなんだよ」
 そして、ぽつりぽつりとシャルルが語ったところによると―。
 シャルルの妻、ジャンヌの病は「ウェブスター・アサダ症候群」という、ごく最近発見されたばかりの心臓疾患なのだそうだ。詳しい病状については現在検査中とのことだが、何しろ発見されたばかりの病気では患者数も臨床例も極端に少なく、治療法もまだ完全には確立されていないらしい。
 それでも、現在その研究がもっとも進んでいるのが日本であるというのは確かな事実だった。そこでシャルルは即刻ジャンヌを連れて来日し、今は入院した彼女の看護をしつつ、S製作所という大手メーカーでロボットエンジニアとして働いているのだという。
「そう…だったの…。ごめんなさい、兄さん。辛い話をさせてしまって…」
「とんでもない! 君はジャンヌとも本当に仲良しだったし、僕に会えば彼女のことを訊きたくなるのも当然さ、フランソワーズ。むしろ彼女を覚えていてくれて嬉しいよ。ありがとう」
 そう言ってシャルルは笑ったが、その笑顔はやはりどこか哀しそうで。一方のフランソワーズもすっかりしょんぼりしてしまい、場の雰囲気が一気に重たくなってしまった。
「あ…あの…シャルル…さん?」
 さすがにこれはまずいと、ジョーが思いきって口を開く。
「あの…もしこれからお時間があるようでしたら、夕食でも一緒にいかがですか? フランソワーズとは随分久しぶりのようですし、まだまだ積もる話もおありでしょう」
 思いがけないその提案に、フランソワーズの顔がぱっと輝く。そしてシャルルもまたジョーの気遣いを察したのか、先程とは違う心からの笑顔を見せてくれたのだけれど。
「お誘いありがとうございます、えと…島村さん? ですが今日の私は生憎会社の研究開発に関わる重要書類を持っていますので、できればこのまま寄り道せずにまっすぐ帰りたいんです。…なんて、しっかり美術館に寄り道をしておきながらこんなことを言っては言い訳に聞こえるかもしれませんが」
 そこでシャルルは照れたように頭をかいて。
「実は明日から出張…というか、神奈川の研究施設に一週間ほどカンヅメになる予定でしてね、今日もその準備で休日出勤をした帰りなんです。ただ、この展覧会はジャンヌも観たがっていましたから、せめて展示作品の図版集でも買っていってやりたくて…。しかし残念ながら今日まで時間が取れず、カンヅメの後では展覧会が終わってしまう。だからほんのちょっとだけ回り道をして、目当ての図版集を手に入れたらすぐに家に帰るつもりだったんです。あ…! でもね、おかげで君たち―フランソワーズと、それから島村さんに会えていろいろ話ができたのは本当に嬉しくて、楽しかったんだから! 本当だよ!」
 最後に慌てて言い添えたシャルルに、フランソワーズとジョーの頬も自然とほころぶ。
「…いいのよ、シャルル兄さん。それじゃ確かに、無理にお誘いすることはできないわね。でも…」
「だったらせめて、お家までお送りさせて下さいませんか。僕たちは車を持ってきてますし、そんな大事な書類をお持ちなら電車よりずっと安心だと思うんですけれど」
「え…!? でもそんな、悪いよフランソワーズ! それに…島村さん…」
「遠慮なんかしないで、シャルル兄さん。…それとも兄さんのお家って、ここからよっぽど遠いの?」
「あ…いや別に…車ならせいぜい十五分程度の場所だけど…」
「ふふ…だったら決まりですね、シャルルさん」
 軽いウインクを送りつつ、ポケットから取り出した車のキーをしゃらりと鳴らしたジョーに、シャルルが再び照れ臭そうな苦笑を浮かべた。

「あ…そこ! そこの角で結構ですから、車を停めて下さい」
「え? こんなところでいいんですか、シャルルさん」
 突然車内に響いた声に素直にブレーキを踏んだものの、ジョーは怪訝な顔で振り向いた。
 周囲に広がるのはいかにも「由緒あるお屋敷町」といった風情の閑静な住宅街。駅にも程近いあんな繁華街から、いくら車とはいえたった十五分でこんな静かで落ち着いた場所に来られるなんて、正直ちょっと信じられない気もする。…のはともかく、そこはかなり大きな「お屋敷」二軒の長い塀に挟まれた道路への入口という何とも中途半端な場所であった。もし仮にこのうちどちらかがシャルルの家だとしても、どうせならきちんと玄関の前まで送るべきではないだろうか。
 しかし、当の本人は笑いながら大きく首を横に振って。
「あはは…いくら何でも僕なんかがこんな豪邸には住めませんよ。僕の家はその先の十字路を右に曲がった先にあるマンションなんです。…ほら、あそこに見えるでしょう? ただ、ここから先は一方通行の細い道ばかりで、うっかり曲がったりしたら大通りに戻るのがかなり厄介なんですよ。ですから、ここで結構です。なぁに、後はせいぜい二百メートル足らずだし、おかげさまで何とか明るいうちに帰れましたからご心配はいりません」
 指し示された先に目をやれば、確かに家並みの向こう、すぐ近くにこじんまりとしたマンションが見えていた。それにまぁ、日暮れの早い季節とてそろそろ宵闇も濃くなり始めてはいるものの、まだわずかな明るさが残っているのも事実である。となればやはりここで別れた方がいいのかもしれない―と思い直したジョーとフランソワーズは、シャルルと共に車の外に出た。
「今日は本当にありがとう、フランソワーズ。仕事が落ち着いたら必ず連絡するから、今度こそ一緒に食事でもしよう。…もちろん、そのときは島村さんもご一緒に」
 フランソワーズともう一度軽く抱き合い、ジョーとは固い握手を交わしたシャルルが、手を振りながら宵闇の中に消えていく。ジョーとフランソワーズも大きく手を振り返し、例の十字路を曲がったその姿が視界から消えるまで、名残惜しそうに見送っていた。
「…いい人だったね」
「ええ、もちろん! 何て言ったって、私の『初恋の人』ですものvv」
「あれ? 『生まれて初めて振られた相手』じゃなかったの?」
「まぁ! ひどいわジョー! 意地悪ね!」
「ごめんごめん。…さ、それじゃ僕たちもそろそろ帰ろうか。大分寒くなってきた」
 そして再び車に乗り込んだジョーがエンジンをかけた刹那、助手席からもう一度シャルルのマンションの方に目をやったフランソワーズが息を呑む気配がした。
「…? どうしたの、フランソワーズ」
 振り向いた目に映ったのは、青い瞳を限界まで見開いて硬直したフランソワーズ。
「ジョー! 大変! シャルル兄さんがっ!」
「何!?」
 慌てて窓を開ければ、かすかな男性の悲鳴と複数の人間が殴り合うような鈍い音がジョーの耳にも響いてくる。
「暴漢…いえ、強盗よ! シャルル兄さんのバッグや封筒を奪い取ろうとしてる!」
 そのときのジョーはすでにアクセルを踏み込み、二人を乗せた車は猛スピードで例の道へと突っ込んでいった。



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