舞姫騒動記 1


 このところ、フランソワーズがかなり深刻なスランプに陥っている―残念なことに、それはギルモア邸の人々全員が認めなければならない事実のようだった。
(とにもかくにもナァ、レッスンの日の様子がまるで違うんヨ。いつもなら張り切って元気よう出かけていくはずやのに、近頃じゃいかにも億劫そうに、嫌々家を出る…ちゅう感じでナ)
(そりゃ帰ってきてからも同様じゃ。ちょっと前まではやれ先生がどうしたの、仲間の誰々がああしたのこうしたのと、楽しげにスタジオでの噂話を聞かせてくれていたというのに、そんなこともすっかりなくなってしもうた…)
(ソレカラ、踊リノ伴奏曲ヲはみんぐスルコトモ、ネ。オカゲデ僕、今ふらんそわーずガ何ヲれっすんシテイルノカマルデ知ラナインダ。コンナノ初メテダヨ!)
(気分転換とかもいろいろやってるみたいなんだけどねぇ…ジュンさんにテニスを教えてもらったり、セリーヌさんとショッピングに行ったり。…だけど生憎、どれも大した効果はなかったみたいだ)
(ま、芸の道を志す者には避けて通れん「試練」であるとはいえ、我らが美しき舞姫のあのような姿を見るのはやはりちと…辛いものがあるな)
 等々、最初は同居人たちだけでひそひそこそこそ、内緒話だの内緒の脳波通信だの内緒のテレパシーだのを交わしているだけだったのだが、悪いことは重なるものでそれから間もなく緊急ミッションが勃発、およそ半月にわたる戦闘及びその後のメンテナンスを終える頃には、海外組も含めたメンバー全員がこの「不都合な真実」を知るところとなってしまったのだった。

「な〜るほどねェ。それでようやく謎が解けたぜ。フランソワーズのヤツ、確かに今回はどっかヘンだったもんなァ」
「あ、やっぱジェットにもわかった?」
 それは全てが一段落し、再び平穏な日々が戻ってきたばかりの深夜。先のミッションで「舐めときゃ治る程度のかすり傷(←注:本人談)」を負ってしまったのが運の尽き、日頃サボりまくったツケとて徹底的なメンテナンスを言い渡され、最後までギルモア邸に居残っていたジェットが例によって例のごとくジョーを誘い、人気のなくなったリビングで真夜中の秘密宴会と洒落こんだのである。
「だってよぉ、普段あれほど戦争を嫌ってて、ミッションともなりゃずっと―そりゃ、手前ぇの任務はきっちりしっかり一二〇%以上果たすけどさ―さもやりきれなさげな、暗い表情ばっかしてるアイツが、今回に限ってどっかほっとしたような、せいせいしたような顔してたんだ、不思議に思わねぇ方がおかしいだろーが。…しかしまぁ、よりにもよってミッションよりバレエの方が辛いってのは…なぁオイ、もしかしてアイツ、かなりヤベぇトコまでイッちまってんじゃねーか?」
「そうなんだよねぇ…。『レッスン室』での自主トレでもさ、準備運動のストレッチやバーレッスンまではともかくいざ本格的に踊り出すとほんの一、二分でやめちゃって、後はずっと壁にもたれてため息をついているばかり。僕なんかの目から見れば、いつもどおり上手に踊れてると思うんだけどなぁ」
 ちなみにここでいう「レッスン室」というのは、日本に落ち着いたフランソワーズがバレエを再開した「お祝い」として他のメンバー全員で建て増しした、プレハブ作りの一室のことである。
「そりゃ俺たちみてぇな門外漢にゃさっぱりワケわかんねぇけどよ、見るヤツが見りゃぁやれ脚上げる高さが一mm足りねぇとか腕の角度が一度狂ってるとか、いろいろあるんだろうさ。だがそんな細けぇことなんざ、はっきし言ってどーでもいいだろうに。もちっと気軽に、楽し〜い気分で踊るこたぁできねぇのかね」
 と、ため息とともに肩をすくめたジェットが手にした缶ビールをごくりと飲み込んだ瞬間。
「…しかしなぁ、その一mm、一度にこだわることをやめたらバレエダンサーとしての彼女はお終いなのだよ。願わくば、そこのところも何卒理解してやってくれんかね」
 突然の飄々とした声に二人がはっと振り返れば、苦笑を浮かべたグレートが二階から下りてくるところだった。
「…ふふん。眠れぬ夜のつれづれにちょいと一杯…と思ったのは我輩だけではなかったようだな。ま、こんな偶然は滅多にない故、しばしこのオヤジもお相伴させていただこうか」
 などと言いつつ、その手の中のグラスにはビールどころかどう見ても生のままとしか思えないスコッチウィスキーがたっぷり注がれているというのはさすが年長者の貫禄か、それともただの飲んだくれか。…なんてことはまぁ、ともかくも。
「まぁなぁ…我らが麗しのプリマドンナがあの有様では心配するのが当たり前とはいえ、かくも些細な身振り手振りに悩むのはそれだけ彼女の技量が上達した証拠でもあるのだぞ。何にせよ、こればっかりはマドモアゼルが自分自身で乗り越えなければどうにもならんし、しばらくの間はこのまま放っとくのが一番だな」
 ソファの片隅に腰を下ろすが早いかあっさりとこう言い切ったものだから、すかさずジョーが抗議の声を上げた。
「だけどこの前はグレートだって『フランソワーズのあんな姿を見ているのは辛い』って言ってたじゃないか! なのに今になって『放っとけ』だなんて、そんなのあんまり冷た過ぎるよ!」
「それと同時に『芸の道を志す者には避けて通れん試練』とも言ったぞ、若人よ。もう忘れてしまったのか、情けない」
 それをこれまた間髪要れずにびしりと黙らせ、ぐびりとグラスのスコッチを飲み込んだベテラン俳優。
「そもそも『芸の道には終わりなし』、例えて言うなら上れども上れども決して頂上にはたどり着けぬ無限の坂道…いや、階段のようなものだ。しかもこの階段ときたら緩急の差がそれはそれは激しくてな、さらに厄介なことには見た目と上りやすさがまるっきり正反対ときている」
「はぁ? 何だそりゃ?」
 訳のわからぬ例え話に一瞬目を点にしたジェット、その横では同じく点目になったジョーが全身から不可視のクエスチョンマークを大量放出させている。グレートが唇の片端だけで少し、笑った。
「つまりだな…最初のうちはこの階段、足をまともにかける幅…と言うか奥行すらないくせに段差の方は身の丈以上、早い話がえらく急なわけだ。故に最初は誰もが怖気づき、中には一目見ただけで『自分には到底無理』とばかりに逃げ出してしまうヤツさえいる。しかしいざ決心して最初の一歩を踏み出せば、これが意外と簡単にひょいひょい上れちまったりするんだな。で、『ああ、こりゃ大したことはない』と調子に乗ってさらに進むと、今度は階段の奥行が次第に広くなってきて、逆に段差の方はどんどん低くなっていく。…となりゃァますます勢いづいて、より順調に上っていけると思うだろう。ところが、だ」
 そこで一瞬間を置いて、意味ありげに若者たちを見回せば、思ったとおりジョーもジェットもいまだ目を点にしたまま、グレートが何を言おうとしているのかさっぱり見当もつかないふうである。グレートがもう一度、唇の端だけで笑った。
「さっきも言ったが、この階段は見た目と上りやすさがまるっきり正反対…てぇところが曲者でな。上り端、身の丈よりも高い段差なら何の苦もなく乗り越えられるくせに、これが腰の高さくらいになると中々よじ登れない。ましてそれが膝頭の高さ、くるぶしの高さ…とだんだん低くなって行けば行くほど、全く足が進まなくなっちまうんだよ。その上奥行はといえば、これまた上れば上るほどどんどん広くなっていく一方、故にしまいにゃ散々苦労して一段上ったものの行けども行けども次の段差が見つからず、気が狂うほど歩き続けた末にようやく見つけたわずか一mmの段差、それを越えるためにまたもや延々とあがき続ける―なんて繰り返しになっちまうのさ。…ふふん。まだピンと来ないかね? お前さんたちだってその手の苦労は嫌というほど経験済みだろうに。カーレーサーへの夢を抱いて、初めて練習コースに出たときのことを思い出してみろ」
 そこまで言われた途端、ジョーとジェットがはっと顔を上げた。グレートの顔に、今度こそ満足そうな笑みが浮かぶ。
「まだ駆け出しのペーペードライバーだった頃にゃ、監督やスタッフ連中にちょいと叱られたり助言されたりするだけで、タイムの一秒や二秒簡単に縮めていただろうが。それがいざF1優勝争いの常連、自他共に認める世界のトップレーサーとなった今じゃァ、一秒どころかコンマ一秒の壁さえ中々越えられずに青息吐息の四苦八苦…違うかね?」
 問われて二人は言葉に詰まる。ここまで見事に図星を突かれては、もはやぐうの音も出ない。そんな「世界のトップレーサーたち」にふと愛おしげな視線を向けた「ベテラン俳優」が。
「ま、裏を返しゃァそれもお前さんたちの成長の証だからな、同情はせん。…というより、そんなモノは何の役にも立たないのさ」
 一転、皮肉めいた調子でつぶやいたかと思うや再びグラスの酒を一口含んで。
「これがいっそ『本物の』戦闘だったら、我輩のごとき非力な中年サイボーグとて援護の一つもできんわけじゃなし、いざとなりゃ命懸けで庇ってもやれるんだがな。しかし『芸』という名の無限階段―もっともお前さんたちの場合は『記録』と言った方が正解か―相手の闘いとなると我輩には…いや、それどころかいかに近しい家族や友人、あるいは恋人であってもどうしてやることもできんのだよ。文字通り『骨身を削る』苦しみにのたうち回り、流す汗や涙の全てが血に変わろうとも、お前さんたちの階段はお前さんたち自身がたった一人で上っていくしかない。いつかその牙が折れ、手足が萎え…灼熱の闘志さえ燃え尽きて自ら戦線離脱するか、さもなきゃ途中で野垂れ死ぬまでな。…無限との闘いってぇのは、そういうモンだ」
 いつもは剽軽な青灰色の瞳が、このときばかりは冥界の暗がりに燃える鬼火そのものに見えた。
「…ったく、明けても暮れても血で血を洗う『戦場』という名の地獄を散々這いずり回ってようやく手にした平和な暮らしだってぇのに、何でそこからまたわざわざ新たな地獄へと堕ちるかね。…もっとも、我輩も決して人のことは言えた義理じゃないが」
 二つの鬼火のうち、一つが消えた。ウインクだ。
「人間て生き物の中にはな、困ったことに生まれつきそういう『業』を背負ってるヤツがいるのさ。…ん? いや別に、サイボーグ云々は関係ない。仮に我々の境遇がもう少し違ったモノであってだな―差別も貧困も挫折も知らず、もちろんサイボーグにもならず―生まれてこの方ずっと平穏無事で満ち足りた暮らしをしていたとしても、お前さんたちはいつか走り始めただろうし、我輩は舞台を目指しただろう。何故なら、そうしなければ生きられんからだよ。たとい世界中の幸福全てを独り占めできたところで、走らなければ、演じなければ、我々はただ息をしているだけの死人も同然なのさ。マドモアゼルも同ンなじだ。…だから、放っとけと言っている」
 そこでじろりと若者たちを睨め回したのを最後に、鬼火はまた元の青灰色の瞳に戻る。そして、手元のグラスにふと視線を落としたかと思えば。
「おう…気がつきゃ随分と呑みすぎちまったようだなァ。さてそれじゃ、酔っ払いオヤジはさっさと退散致そうか。柄にもないお説教、平にご無礼、ご容赦を…っと」
 いつの間にやらすっかり空になってしまったグラスに事寄せてさっさと立ち上がったと同時に回れ右、あとは小さく片手を上げたきり振り向きもせず、何ともいい気持ちそうな千鳥足で自室に引き取ってしまったものだから、残された青少年二人はただただきょとんとした顔を見合わせるしかない。
 だが―。
「…ッキショー、あのハゲオヤジ!」
 しばしの沈黙の後小さく叫んだジェットがいかにも「参った」とばかりにソファの背もたれに轟沈する。
「普段は専ら道化役に徹してるクセしやがって、こーゆー事態になるときっちりしっかりクギを刺して行きゃぁがる。…ったく、食えねぇオッサンだぜ」
 続いて聞こえた鋭い舌打ちは、果たしてグレートに対してのものか、それとも…。
「しかしまぁ、一本取られたことだけは確かだな。走らなけりゃただ息をしてるだけの死人たぁよくもヌカしてくれやがったモンだが、俺に関しちゃまさしくそのとおりだ。走ってる自分の孤独も、目指すゴールに果てがねぇってことも最初からよくわかってたさ。だけど、それでも俺は走るしかねぇ。誰にも、俺が走るのを止めるこたぁできねぇ。…お前だって同じだろ、ジョー」
 青い瞳だけをちらりと動かしてジョーの方を見たその口から、今度は小さなため息がもれた。
「地獄だか業だか知らねぇが、ンなモン背負ってるバカは俺たちだけだと思ってたのに、まさかフランソワーズまでたぁ…。だがそれも、『生まれつき』だって言われちゃどうしようもねぇ。今回ばかりは俺たちの出る幕じゃなさそうだな。…残念だけどよ」
「…」
 一方のジョーは返事をするでもなく、下唇を強く噛みしめるようにして考え込んでいる。おそらく、理屈では納得しても感情がついていかないのであろう。
「お、おい、ジョー…」
 さらに声をかけようとしたジェットが次の瞬間「こりゃダメだ」とばかりに肩をすくめ、取り上げた缶ビールの中身を一気に飲み干して天を仰いだ。
 かくてそれからのギルモア邸では、フランソワーズを案じて何とかその気分を引き立てるべくあの手この手を尽くしてはその都度玉砕して落ち込むジョー、そしてフランソワーズばかりかジョーをも案じて以下同文のジェットという極めて不毛な三角関係、というか直線関係が繰り広げられたものの、生憎事態は何の進展も見せず―。
(お前の気持ちもわかるけどな、仲間…いや男にはときとして「黙って見守る優しさ」ってのも必要なんだぜ)
 最後の最後、搭乗ゲートをくぐる寸前までそんな台詞をジョーの耳に囁いていったジェットが、それからもなお振り返り振り返り―いかにも後ろ髪引かれる風情で帰国してからおよそ一週間後。

 「変化」は突然訪れた。

「ただいま帰りました!」
 レッスンから帰ってきたフランソワーズが久々に弾んだ声を張り上げたかと思えば、次の瞬間加速装置顔負けの速さでリビングへ飛び込んできて。
「ジョー! 博士! 私、日本舞踊を習おうと思うの! 結衣ちゃんが、それで見事にスランプを克服したんですって! だから、やってみる価値は充分あると思うわ。…っていうより、私にとってもこれは最後の希望なのかもしれないのよ!!」
 幾分興奮気味に頬を染め、水色の瞳をきらきら輝かせつつこうのたもうたものだから、迎えた方は寝耳に水ならぬ液体窒素をぶっかけられたも同然である。
(は…? 日本舞踊で克服…って、バレエのスランプをか?)
(…つーか、その前に「ゆいちゃん」って、誰…?)
 何が何やらわからぬままに、一瞬固まってしまった博士とジョー。しかし…。
「今から早速ネットで近所の教室を探してみるわ! それとあと…これも! すみません、ちょっと借りていきまぁ〜す!」
 問いかけるヒマもあればこそ、リビングの固定電話脇に置かれてあったタ○ンページをしっかと引っつかむやいなや二階の自室へと階段を駆け上がって行かれては、完全に点になった目と目を見合わせるより他どうしようもない。

(…アレ? 二人トモドウシタノ? 今、ふらんそわーずガ帰ッテキタンジャナカッタ?)

 しばし後、ふよふよと宙を漂ってきたクーファンの中から、イワンのきょとんとしたテレパシーがかすかに脳内に響いてきたような気がした。
 


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