舞姫騒動記 2


 とにもかくにもその日の夕食時、店から帰ってきた張々湖やグレートをも交えて詳しく話を聞いてみたところによると。

 結衣ちゃん―大島結衣というのは、この四月からフランソワーズと同じスタジオでレッスンを始めたバレエ仲間なのだそうだ。何でもそれまでは自宅近くの子供向け教室に通っていたのが、高校入学を機にもっと本格的なレッスンがしたいと移ってきたのだという。よってもちろんスタジオ内では一番の新入り、フランソワーズを始めとする「先輩たち」に比べればまだまだ技術は未熟で拙いが、それでも結衣にはかなりの才能の片鱗が仄見えた。たといたどたどしくても、その踊りからは何かが伝わってくる。それに動きも大らかで優雅で、舞台上ではさぞ映えるに違いない。加えて、わきまえるところはきちんとわきまえながら決して物怖じしないその性格にも大いに好感を持ったフランソワーズは、何かにつけて結衣の面倒を見てやるようになり、気がつけばスタジオでも一番の仲良しになっていたのだが。
 困ったことに、結衣もまたフランソワーズと前後して重度のスランプに陥ってしまったのであった。あの表現力がすっかり影を潜め、そのせいか踊りも一回り小さく、縮こまってしまったように見える。いつしかその顔からは笑みが消え、時には更衣室の片隅で一人こっそり声を殺してすすり泣いていることもあった。フランソワーズがそんな結衣の様子にたいそう心を痛めたのは言うまでもない。だが、自分も同じスランプに苦しんでいる状況では他人に構う余裕などあるわけもなし、折々に慰めの言葉をかけてやるくらいが精一杯だった。
 ところが―。
 今日のレッスンで見た結衣の踊りに、わずかな変化…というか、回復の兆しが現れていたというのだ。まだまだ完全に元通りというわけではないが、少なくとももうおどおどと縮こまってはいない。そこで、レッスン終了後一番に理由を尋ねてみた、その返事というのが。
(私、日本舞踊習い始めたんです! あの、母が…スランプだったらたまには別のこともしてみなさいって、自分が通ってる近所のカルチャーセンターに、一緒に連れてってくれて…)
 どうやら結衣もフランソワーズ同様、あらゆる「気分転換」の手段を試してみたらしい。
(どうせならやっぱり体を動かせる講座の方が…っていろいろやってみたんですけど、ジャズやヒップホップみたいなダンス系だとどうしてもバレエのこと思い出しちゃうし、それ以外のスポーツ…テニスだの卓球だのには私、さっぱり才能ないらしくて、やればやるほど自分のドン臭さが身に沁みて滅入っちゃうし…)
 ほとんど全ての講座に挑戦してみたものの埒が明かず、最後の最後、半ばヤケクソ気味に飛び込んだ日本舞踊初心者講座、それが思いもかけない効果をもたらしたのだという。
(日本舞踊―日舞って、着物を着て踊るだけでも滅茶苦茶窮屈だし動きも地味だし、正直最初は全然面白くありませんでした。だけどそのおかげで、バレエで思う存分手足を動かして踊れるのがどんなに気持ちよくて楽しいことかわかったんです。それに日舞の方も、やっぱり途中でやめちゃうのは悔しい気がしてしぶしぶだけど続けてるうちに、だんだん見方が変わってきたっていうか…。だって着物って、ただ窮屈なだけじゃなくて、袂とか裾とかが本当に邪魔っけで、踊りにくいったらないんですよぉ。なのに上手な人が踊ると、その邪魔っけだった袂や裾がまるでその人の体の一部になって一緒に踊ってるような感じで、すごく綺麗で…。きっとそのためには、着物に隠れた体の動きがよっぽどきちんとしてなきゃいけないんだろうな…なんて思っているうちに、もしかしたらバレエも同じなんじゃないかって…。あの、例えば基本の第五ポジションみたいに足を前後に重ねるポーズだと、後ろになった足はほとんど隠れちゃいますよね? だからついつい前の足ばっかり気にして、後ろがおろそかになっちゃうなんてことがこれまでよくあったんですけど、やっぱりそれじゃダメなんだ、見えないところにもちゃんと気を配らなきゃ「本物の」バレエは踊れないんだ、みたいなこともいろいろ考えるようになって…)
 慎重に、言葉を選んで。時にはつっかえたり口ごもったりもして。それでも自分が感じたことを懸命に伝えようとしている結衣を見ているうちに、フランソワーズの胸の内にも日本舞踊への興味がむらむらと湧き起こってきた。
(そうだったの…。ねぇ結衣ちゃん、よかったらもっと詳しく教えてくれないかしら。そんなに勉強になるのなら、私も貴女と一緒に日本舞踊を習ってみたいわ!)
 だが…。
(え…? フランソワーズさんが…ですか…?)
 何故かそこで突然困ったような顔になってしまった結衣に、フランソワーズの表情も曇る。
(もしかして…ダメ? 私なんかと一緒じゃ…迷…惑?)
 泣き出しそうなその問いに、結衣が慌ててぶんぶんと首を横に振った。
(そっ…そんなっ! フランソワーズさんとお稽古できたら、私だってすごく嬉しいです! でも…ほら、フランソワーズさんのお家と私ん家ってまるっきり逆方向だし、使ってる路線も違うから…)
(…あ!)
 真っ赤になってうつむいた結衣のしどろもどろな言葉を聞いた途端、フランソワーズも小さく声を上げた。言われてみれば確かにそのとおり、ギルモア邸と結衣の家はこのスタジオを挟んで正反対の場所に位置しているのである。もっともスタジオまでの所要時間だけならどちらもドアtoドアでおよそ四十分前後、決して大した距離ではない。しかしこれが互いの家に遊びに行こうという話になったりすると、単純に考えても二倍の八十分はかかる計算になる。おまけに利用している電車まで別路線とくれば、乗り換えその他でさらに時間がかかってしまうことだろう。
(それに、元々そのカルチャーセンターの最寄駅って、こっち方面からだとウチよりもう一つ先になっちゃうんです。だからもしフランソワーズさんが通おうとしたら、片道だけで一時間半以上かかっちゃいますよ? それってかなり…大変なんじゃないでしょうか)
 そう言う結衣自身も心底残念そうな様子だったが、さすがに片道一時間半―往復ならば三時間―もかかるとなれば到底通いきれるものではない。けれどこのおしゃべりのおかげで、フランソワーズが一筋の光明を見つけたことだけは確かであった。
(そうだったの…。残念だけど、それじゃ結衣ちゃんと一緒のお稽古は無理ね…。でも今のお話、すごく参考になったわ。私も、家の近くで日本舞踊を習えるところ、探してみる!)
(はい!)
 …かくてすっかりその気になってしまったフランソワーズ、取るものも取りあえず帰宅するやいなや一心不乱に近所の日本舞踊教室を探し始めた、というわけなのであった。

 しかし、どうやら肝心の「探索」の結果はあまりはかばかしくなかったようで。
「…お教室自体はこの近くにもいくつかあったのよ。だけど、全くの初心者でも大丈夫で、しかもお稽古日や時間帯がバレエのレッスンと重ならないところとなると中々なくて…。はぁぁ…やっぱり、都心とかある程度大きな街でないとだめなのかしら…」
 ばら色の唇から、大きなため息がもれた。と、そこへ張々湖の声が飛ぶ。
「いや、まだ諦めるのは早いアルヨ、フランソワーズ。ネットや○ウンページでだめならあとは口コミで探してみるヨロシ」
「しかし大人、口コミっつったって、俺たちの知り合いにそんな…日本舞踊に詳しい人間なんぞいたか?」
「何言うてんねんグレート! おまはん、誰か忘れちゃおらんかネ! …まぁ、日本舞踊の専門家とはわてもよう言わんケド、日本文化全体に造詣の深そうなお方ならわてらのすぐ近くにかてちゃんといてはるやないか!」
「あ!」
「あ!」
「あ!」
 途端、他の者たちも何かに気づいたような大声を上げ―結果、ギルモア邸の面々は全員一致で「困ったときの神頼み」ならぬ「医者頼み」を決め込むことにしたのであった。

 …だが、いくら医者でも病気以外の相談ごとを、それもいきなり持ち込まれるなど、はっきり言って迷惑以外の何物でもないというもので。
(…は? 日本舞踊のお師匠さん?)
 案の定、電話の向こうの藤蔭医師はそう言ったきり絶句した。しかしフランソワーズの方にももう後はなし、そう簡単に引き下がるわけにはいかない。
「…あの、突然こんなお願いをするなんて、図々しいのは重々承知しているんですけど…でも、今の私にはもう先生しか頼れる人がいないんです。もしお心当たりがあったらどうか…どうか教えていただけないでしょうか」
(心当たりねぇ…。う〜ん…そりゃまぁ、全くないとは言わないけどさ)
「本当ですか!? 先生、でしたら是非教えて下さい! お願いします!」
(しょうがないなぁ…。それじゃ今度の日曜、ちょっとつき合ってくれる? 私はそっち方面に関しちゃからっきしだけど、本家の叔母なら何かお役に立てるかもしれないから。…ただし、「必ず」って保証はないわよ。それでもいい?)
「は…はい先生! それで充分です! ありがとう…ありがとう、ございます!!」
 普段あれほどフランソワーズを可愛がっている女医にしては珍しく、その口調は最後の最後までどこかぶっきらぼうでそっけなかった。しかし今回ばかりはそんなことに頓着している余裕もなく、フランソワーズはただひたすら、祈るような思いで約束の日を待つばかりだったのである。

 そしていよいよ当の日曜日、迎えに来てくれた藤蔭医師の車に同乗したフランソワーズは勇躍藤蔭本家へと出発したわけだが。
「せっかくの日曜日だってのに呼び出しちゃってごめんなさいね、フランソワーズ。もしかして、何か予定があったんじゃない?」
「いえ、それを言うならこちらこそ、ご無理を言って申し訳ありませんでした。でも、あの…叔母様なら何かお力を貸して下さるかもしれないっていうのは一体…?」
 女二人の気楽なドライブの最中、ふとそんなことを尋ねたフランソワーズに、ハンドルを握る藤蔭医師がかすかな笑みを浮かべた。
「ああ、実はウチの叔母も若い頃から日舞やってて、安曇流って結構大きな流派の名取なの。ついでに一応家元の直弟子だったりもするから、もしかして…って思ったのよ」
「え…? 流派? 名取? 家元? …って、あの…」
 聞き慣れぬ単語にますます困惑したふうのパリジェンヌに、藤蔭医師の笑みがますます深くなる。
「あのね、日本の伝統芸能の世界では、大抵その分野ごとにいくつかの『流派』があって、振付や節回しなんかが微妙に違ってたりするのが普通なの。で、そんな各流派の最高指導者を『家元』とか『宗家』って呼ぶのよ。一方『名取』っていうのは、家元その他の師範、所謂お師匠さん(おしょさん・おっしょうさん)方に習っているお弟子のうち、ある一定の技量を習得したと認められて、流派の一員としての芸名を許された人たちのことなんだけど、その場合―例えばウチの叔母なら『安曇照紫乃(あずみ てるしの)』っていう具合に―名前はともかく、名字は流派そのものの名称を使うのが一般的なのね。『どうせなら名字も好きにさせてくれたらいいのに』って思うかもしれないけど、流派の名前を許されるってのはすなわちその流派の看板をしょって立っても恥ずかしくないだけの腕前を保証されたってことでもあるから、名乗る方にとってもかなりの箔がつく…っていうか、ステイタス・シンボルになるわけよ。もっともそうなりゃ生半可な芸は見せられなくなるし、責任と重圧ってヤツもかなり大きくなるけどね…って、そろそろ着くわよ」
 そんな言葉をつぶやいて数分後、藤蔭医師が車を停めたのは何だかえらく由緒正しげな純和風の邸宅の前だった。そしてインターフォンのボタンを押すやいなや、玄関から和服姿の女性が一人、走り出てきて…。
「まぁまぁ聖ちゃん、いらっしゃい! 待ってたわ! …そちらが入門希望のお嬢さん? 初めまして。聖の叔母の御法(みのり)でございます」
 丁寧な挨拶とともに深々と頭を下げたその人―藤蔭御法は、想像していたよりずっと若々しい女性だった。藤蔭医師の叔母というからには少なくとも五十代後半、もしかしたら六十代になっていてもおかしくないはずだが、ちょっと見た限りではせいぜい四十代半ばくらいとしか思えない。とはいえ、しっとりとして落ち着いたその物腰や言葉遣いにはやはり、若い女にはどう頑張っても真似できない品格や貫禄といったものも漂っていて。
「あ…。フランソワーズ・アルヌールと申します。どうぞ…よろしくお願い致します」
 御法のたたずまいにすっかりぽうっとなってしまったフランソワーズは、消え入りそうな声でそう挨拶し、頭を下げるのがやっとだった。

 かくて藤蔭医師とともに奥座敷へ案内されたフランソワーズが、御法を前にこれまでの経緯全てを包み隠さず話してみたところ。
「確かにねぇ…ご自宅でこぢんまり教えておいでのお師匠さんの場合、ご家庭の事情やら何やらでお稽古日や時間がある程度制限されてしまうのも、ままあることかもしれません。貴女にもバレエのレッスンとの兼ね合いがおありなら、私と同じ、家元のお稽古場にいらっしゃるのが一番だと思いますよ。そちらのお稽古も毎日というわけではありませんが、時間は午前十一時から午後七時までですし、何かと融通が利くのではないでしょうか」
 そこで言葉を切った御法がじっとフランソワーズを見つめた。藤蔭医師ほどの厳しさはないが、やはり同じ黒曜石に似た―人の心を真っ直ぐに見透かすような眼差しである。
「あ…の?」
 一瞬というには少々長い沈黙に不安になったフランソワーズがおそるおそる声を上げた途端、御法は何故か夢から醒めたような表情になって。
「あ…いえ、ごめんなさいね。ちょっと、貴女のお家からの距離が気になって…その、バレエのお友達が習っておいでのお教室は少しばかり遠すぎたのでしょう? 失礼ですが、お家の最寄り駅はどちら? …ああ、Y駅! でしたら大丈夫ですよ。いつでしたか、その近くから通っていらっしゃる方に『片道一時間足らず』と伺ったことがありますから」
「え…? それじゃ叔母ちゃ…いえ、叔母さん…」
 そこで不意に声を上げた藤蔭医師に、御法はゆったりとうなづきかけて。
「ええ、聖ちゃん。こちらのフランソワーズさんは私が責任を持って家元にご紹介致しましょう。それで…よろしいわね?」
 きっぱり宣言したその表情が、次の瞬間ふんわりとほころぶ。
「さ、それじゃお話も一段落したことだし、お茶を入れ替えて、美味しいお菓子をいただきましょうね。…聖ちゃん、悪いけどちょっと手伝ってくれる? フランソワーズさん、お一人にしてしまって申し訳ありませんが、すぐに戻って参りますから…」
 言いつつ立ち上がったその背中に続くのは、幾分茫然とした表情の藤蔭医師。そんな二人を、フランソワーズは畳に額をすりつけんばかりの最敬礼で見送ったのだが…。

「ひぃ〜じぃ〜りぃ〜ちゃぁぁぁ〜んッ!!」
 台所に入った途端、地獄の悪鬼もかくやと思われる形相で睨みつけられた藤蔭医師が、まるで悪戯を見つかった子供のように縮み上がった。
「は…はいっ! 叔母ちゃん、ごめんなさいっ! お世話かけます!」
 そのまま拝むように手を合わせ、必死の上目遣いで自分を見つめる姪っ子に、片手でこめかみを押さえた御法が小さなため息をついて。
「もう…貴女ってば、肝心なことを黙ってるんだから。あちら…お人柄は申し分のないお嬢さんのようだけど、随分と難しいものを抱えていらっしゃるみたいじゃないの。…何にせよ、あの方に教えるとなったら、誰でもいいというわけにはいかないわ。でもまぁ、そのあたりは家元がうまく取り計らって下さるでしょう」
 何とも物思わしげにそうぼやいたものの、あとはそのまま何事もなかったかのごとく、いそいそとお茶を入れ替え始めたのであった。
 


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