序章


 人類文明の進化・発展は二十三世紀中盤を最盛期として、以後停滞を続けている、あるいは衰退に向かっているという説がある。その論拠としては、かの時代以降、我々の日常生活における利便性がほとんど変化していないという事実が真っ先に挙げられる。その他にも、我々人類が社会的生活を送る上での基盤となる政治形態、及び人類発祥の地である地球と他惑星との力学的構造、すなわち力関係がほぼ完全に固定され、より画期的かつ有益なものへと成長していく余地がほとんど皆無となっていることなどが副次的に語られることもあるようだ。
 しかし、本当にそうだろうか? 我々人類は、本当にその輝かしい進歩の歩みを止めてしまったのだろうか。私はその問いに対して、声を大にして「否」と答えたい。過去数千年にわたる人類の歩み、よりよい世界、いや宇宙を手にするための遥かなる旅路は決して終ってはいない。現在、我々が存在している場所は進化の頂点などではない。まして、衰退期などでは絶対にない。今のこの時代は、大いなる転換期なのだ。過去の時代のエネルギー、そして指向性に背を押され、前世代から受け継いだ地図だけを頼りに何の疑いもなくたどってきた道程を考え直し、新たなる地図を作り上げなければならない―現代とは、まさにそういう時代なのである。

 私の主張に疑問を覚える読者諸兄姉も多くおられることと思う。「しかし事実、人類の生活水準は過去数世紀、ほとんど変化していないではないか」「貴方の説は私たちに希望を与えます。ですが、その根拠は一体何ですの?」今このときにも私の耳元に絶え間なく響いてくるこれらの声に向かって、私はこう応じよう。
「もう一度、よく考えて下さい。私たちの生活環境は、政治・経済、そして社会、全ての点において本当に変わっていないのですか?」と。
「我々を取り巻く世界、いや宇宙は、本当に過去三百年近く、その姿を変わらずに保っているのですか?」と―。

 まずは身近なところから見てみよう。我々が居住しているこの場所、この大地は果たしていつできたものなのか。現代において、人類の八十五%はその生活圏を地球以外の惑星においている。さらに、そのうち六十二%、すなわち過半数を遥かに超える方々は、太陽系以外の惑星の住人だ。その誰もが今自分のいる惑星、大地、空間が人間にとって過酷な条件下にあるとは思っておられないだろう。貧富の差を始めとする社会的、あるいは政治的諸問題の所為で不本意な生活を送らざるを得ない人々がまだ数多く存在するのは悲しい事実だが、彼らが暮らすその場所とて、ただ生存していくことだけを考えれば極めて快適なところであることは変わりない。しかし、貴方が暮らすその惑星、貴女の足が踏みしめているその大地こそ、ほんの二、三世紀前までは人類はおろか、いかなる生物も生存不可能なこの世の地獄、全くの異世界だったのである。
 今では古典文学となった二十世紀SFの作者が夢見たワープ航法を現実のものとしたSCNS(Space Compressive Navigation System=空間圧縮航法)が発見された二十二世紀初頭、人類は太陽系を横断するのに二十一分という時間をかけていた。それでも当時の人々は「人類史を塗り替える偉業」「本格的宇宙時代の幕開け」と熱狂したのである。それから百年近くを経た二十二世紀末、すでに人類は太陽系外惑星への移住を開始していたが、当時の地球惑星開発庁の居住適正審査では、ツェネルーン、ファテル等は折り紙つきのFクラスであった。すなわち、居住はおろか一時的な観測隊を置くこともかなわない劣悪な環境と判断されていたわけだが、現在この二惑星は太陽系外勢力の最大拠点として地球に変わらぬ繁栄を誇っている。
 問題の二十三世紀半ば、地球を中心として半径八〇光年の範囲に限られていた人類の生存圏は今やその直径を一〇四七光年に広げた。そして、当時でさえ居住適正範囲外(かつてのFクラス以下である)とされたエルス、アリアゾナ、ラヴォールといった辺境星域にさえ、現在では立派な惑星国家が誕生し、銀河系惑星評議会の一員として立派にその責務を果たしている。
 それらの惑星で暮らす我々の生活水準がかつての二十一世紀、二十二世紀から何の進歩も見られないという方々は、おそらく日常生活の利便性のみを問題にしておられるのだろう。確かに、我々の身近な道具、生活必需品のほとんどは二十一世紀にはすでにこの世に誕生していたものばかりである。
 公共交通機関、自家用に関わらずこの数百年来我々の足として活躍してきた自動車や列車、そして飛行機のエンジンは車輪駆動型、ジェット噴射型からリニア型、ホバー型あるいは反重力システム型へとその形態を変え、かつその動力源もガソリンやケロシンといった可燃性物質にかわって磁気や圧縮空気、そして反重力エネルギー等が広く用いられるようになっている。加えて宇宙船までもが人類の新しい足、いや翼として日常の乗り物への仲間入りを果たしたことは特筆に価するが、それらの乗り物の機能、「人や荷物を乗せて運ぶ」というその働きは初めてこの世に誕生したその瞬間から少しも変わっていない。変わったのはただ単に、そのための「方法」、それのみである。
 オフィスでも家庭でも、今やなくてはならなくなったコンピューターネットワークの端末にも同じことがいえよう。極限まで小型軽量化された現在のそれはちょっとした腕時計やアクセサリー程度の大きさしかない。情報入力も初期のキーボード入力やタッチペン入力ではない、音声入力が当たり前のようになっているが、各種の情報処理や他端末との接続及び情報交換といった機能自体は二十一世紀のそれと全く同じである。
 このような例は他にも枚挙にいとまがない。日常生活から産業、経済、教育、福祉、果ては宇宙開発に至るあらゆる面で我々を補助してくれる「道具」たちの利便性はその誕生当初に比べれば劇的な進歩を遂げたが、結局のところその機能においては我々の祖先たちが使っていたそれとほぼ同じなのである。しかもその利便性でさえ、既に極限まで完成され、これ以上の改良は不可能、あるいは不要といわれているものがほとんどなのだ。
 だがそれをすぐに技術の停滞、衰退に結びつけるというのはあまりにも短絡的に過ぎないだろうか。現在の技術にはこの世のあらゆる道具の性能を一気に数十倍、数百倍に高める余裕が充分あると私は見ている。
 ならば何故、それをしないのか。答えは「道具を使うのはあくまでも人間だからである」という極めて単純な事実に他ならない。
 小型軽量化が性能や利便性を高めるからといって、小指の爪の先ほどの大きさにしてしまった端末を、我々は果たして扱えるのだろうか? 五ミリ四方のMD、全長一ミリのマイクロチップを紛失・破損することなく存分に使いこなせる人間がいるとしたらお目にかかりたいものだ。逆に、巨大化することによってより臨場感が増すからといって、家よりも巨大なTTS(Telecommunication Terminal Screen=情報通信端末画面。かつてのテレビジョン)を欲しがる者などまずいないだろう。
 TTSについてはより具体的な事例がある。今世紀初頭、等身大の立体映像の送受信を可能にした3D・TTSが開発、販売されたがそのブームは十年と続かなかった。事件や事故を扱ったニュース、あるいはサスペンスドラマやミステリーホラーをあまりにも現実感あふれる映像で見せつけられたため、深刻なPTSDに陥る人々(特に子供や老人)が続出したためである。3D・TTS自体は現在でも広く利用されているものの、受信画像の大きさには厳しい規制(家庭用の場合は原寸の50%以下、公共施設用の場合は設置する空間の面積によって原寸の100〜300%以下と、事細かな基準が存在する)が課せられているのはまさしくこの手痛い過去の所為にほかならない。
 すなわち、我々人間の手に余るほどの高性能な道具、人間の脳の限界以上の情報伝達手段などは、宝の持ち腐れに過ぎないと言えよう。道具を扱う主体が人間である限り、人間の能力の限界がそのまま道具の能力の限界となってしまうのは避けようのない事実なのである。
 これからの文明、特に科学技術はその発展領域をを人間の目に見える世界から目に見えない世界(ミクロコスモスまたはマクロコスモス)に広げていくことだろう。その成果を直接自分の目で確かめることができるのは、当の道具―機械たち自身だけ、ということにもなるかもしれない。

 だからといってがっかりする必要はない。我々の生活、そして社会の中にはまだまだ改善しなければならない問題が山のように存在しているからだ。地球連邦統治体を頂点とする太陽系惑星連合と、ツェネルーンを盟主とする外惑星連盟との対立、辺境星域へのいわれのない蔑視と差別。銀河系のあちこちで今このときも絶えることのない惑星国家同士の紛争、富の偏在による生活水準の格差―時代の最先端を行くさまざまな有形無形のことどもの恩恵を存分に享受している「恵まれた」方々には、今もなお二十一世紀から二十二世紀レベルの暮らしを余儀なくされている星々、さらには戦火にさらされ、明日の生命の保障すらなく眠れぬ夜を過ごす子供たちがいる大地の存在を告げられても到底実感がわかないだろう。だがどちらもまだ確かに、それも多数存在しているのだ。
 考えてみればこれらこそ、人類が地球という惑星だけをその住処としていた時代からちっとも変わっていない現実ではないか。輝かしい進化と発展の王道を堂々と歩んできたつもりで、我々人類はかつて地球上だけに存在していた対立と紛争、貧富の格差や人種差別といった悪しきことどもを銀河系レベルに拡大しただけに過ぎないといわれたとき、反論できる人間がどれほどいるというのだろう。
 私にとってはこちらの方がよっぽど憂慮すべき問題だと思われる。たかが人類の住環境、そして生活様式だけがほぼ完成に近づいたからといってすぐさまそれを全ての絶頂に結びつけ、以後の停滞や衰退を恐れる暇があったら、人類文明発祥以来数千年の長きにわたり一向に改善されないこれらの問題をいかに解決するかを考えるべきである。もしかしたらそれには、人間そのものを変化させ、進化させることが必要になるかもしれない。
 「道具」の機能向上から「人間」の質的向上へ―それこそが我々にとって必要不可欠な方向転換であり、今後の人類文明をより発展させるための大いなる第一歩であると、私は心から信じる次第である。

           
『スターボウ』誌、2468年5月31日号     
                    サダム・B・ザイード記者による社説より抜粋




前頁へ   次頁へ   オリジナルトップに戻る   玉櫛笥に戻る