第一章


 凍るような風に吹かれて、長い髪が舞い上がった。セレインはコートの襟を立て、足を速める。ちらりと見た腕時計が、そろそろ午前一時をさす頃だった。
 街外れの、交差点。つい今しがたまであんなにもひしめきあっていた人影はふっつりと途絶え、遠い漁火にも似た街灯は、長い距離をおいてぽつり、ぽつり。一応、道の両側には大きなビルが建ち並び、酒を売る店の看板もちらほらと見えているというのに、そこにはネオンの一つ灯るでもなく、ただ、過ぎてきた歳月の重さにみすぼらしく疲れた雰囲気を漂わせている。半ば廃墟と化しつつある一角。それでも、通り抜けてきた街の喧騒が、華やかな光がかすかに届いてくるのは、まだここがかろうじてその街の一部であるという証拠かもしれない。事実、振り返ればそれらはほんの目と鼻の先、ちょっと手をのばせば届くくらいの距離にある。
 きらめく光にほっと安堵の色を浮かべかけたセレインの表情が、ふと翳った。彼女にとってはお馴染みの街の灯のさらに向こう、遥かな高みをほんのりと照らす、もう一つの街―いや、都市―の灯りをも、視界に捉えてしまったからである。
 遠い高台にそびえ建ち、眼下に広がる繁華街の輝きを、いかにも下品だとあてつけるかのように控えめで、淡い常夜灯のみが護るその都市は今、この惑星ラヴォールの『首都』と呼ばれている。だが、それはセレイン達の知らない世界の話だ。あそこにいるのは、他惑星からやってきた他所者ばかり。セレインを含めた生粋のラヴォール人たちのほとんどには入ることさえ許されてはいない、故郷の中の異国。せめて夜の間だけ、お上品ぶった『首都』の灯がこのけばけばしい光にかき消されるのを見て、鬱憤を晴らすしかない。
 肩をすくめて、セレインは交差点を渡った。二ブロックほど歩いたところに、黒い穴がぽっかりと開いている。地下へ通じる狭い階段の入り口なのだが、ちょっと見た限りではわからない。彼女は、ふと立ち止まる。いつもそうだ。ここへ来る為にやってきたのに、いざ入ろうとするといつも、迷ってしまう。しかしそれも一瞬のことで、彼女はそのまま、長いスカートを翻して階段を下り始める。
 突き当たりに、ドア。かなり分厚い一枚板がすすと埃に黒光りしている。ノブ代りの鉄の輪を握り力一杯引っ張ると、抵抗するかのようなやかましい音をたてて開く。向こう側の相手が、グラスを拭いていた手を止めてゆっくりと顔を上げた。
「ああ…来たのか」
「悪い?」
「悪かねえさ」
 もとは地下倉庫ででもあったのか、コンクリートがむき出しになった壁、天井、そして床。入ろうと思えば四、五十人は入れそうなだだっ広い空間に、古ぼけたテーブルがいくつかとそれを囲むように置かれた椅子。ドアのところに立ったままのセレインから見て、ちょうど真正面にしつらえられたカウンターの中で、男がわずかに表情を歪めた。
「いつものやつか」
 けだるげに歩み寄ったカウンターの前の椅子に腰を下ろしながら、セレインはうなづく。
「あ…でも、何も入れないで。水も氷も、いらない」
 男が、眉をひそめる。
「のどに悪いぞ」
「放っといてよ」
 不機嫌な表情のまま、男はのろのろと酒をグラスに注いだ。ことり、と小さな音がして、透き通った濃い茶色の液体を入れたグラスがセレインの前に置かれる。二人とも黙ったまま、セレインは最初の一口を飲み込んだ。身体の中を、炎が駆け下りていく。
「どこで、歌ってきた」
 酒の瓶を背後の棚にしまいながら男が訊く。指が、細く長い。身体つきさえ、会うたびに痩せていくようだ、とセレインは思った。彼女より五つ年上だから、まだ三十を二つ三つ超えたばかりのはずなのに。
「おい」
「歌ってたとこ? 『ディモ』だよ」
「『ディモ』?」
 向き直ってセレインを見据えた目が暗く光った。実際の年齢よりも、ずっとずっと年老いてしまったその瞳。吐き捨てるような声が、かすれてる。
「やめとけ。ロクな店じゃねえ」
「あたしの勝手だろ。…そんな、人の心配する暇があったら自分のことを考えな。いつまでもこんな人っ子一人通らないゴーストタウンにしがみついてないで、もっと商売になるようなところに店、移したらどうなのさ」
「…俺が今さら、あの街に戻れるなんて思ってんのか」
 まずいことを言ったと思った。どうやら今夜は、ここに長居をするべきではないらしい。立ち上がり、グラスを一息で空にしたセレインは、代金をカウンターに放り投げ、店を出て行こうとした。
「『アモール』の支配人から連絡があった。歌ってほしいそうだ。明日!」
 追いかけてきた言葉に立ち止まったその背中に、だめおしの一言が響く。
「お前、また『端末』切りっぱなしにしていたんだろう。ここにまで連絡してるなんて、よっぽどのこった。…必ず行ってやれよ、いいな!」
 しかしそのまま、振り返りもせず、セレインは外へ出た。

「セレイン! いやぁ、よかったよかった! 来てくれなかったらどうしようかと思ったよ」
 でっぷりと太った初老の支配人は、禿げ上がった頭を汗でてらてら光らせながら、抱きつかんばかりにセレインを迎えた。
「何せ、急に命令がきてな。統治体軍務局のお偉いさんが視察に来たとかで、駐屯軍が歓迎パーティーをやるから今夜一晩、貸し切りにしろっちゅうんじゃよ。もちろん、ショウタイム付きでな。そんなもの、ここじゃもう何年もやっとらんというのを承知の上でだよ。いきなり言われてもそうそう出演してくれる歌手や芸人はいないし、照明やら音響装置やらの調整も、一からやりなおさにゃならん。かといって変なものを見せるわけにもいかんし…今のわしらにとっちゃ、神様以上の奴らだからなあ」
 最後の一言には、自嘲の響きがあった。セレインは目をそらし、わざとふてぶてしげに言い放つ。
「ここにやってくる奴なんて、どうせカスよ。そんな卑屈になることないわ。ラヴォール一の高級クラブ、『アモール』の支配人ともあろう人が」
「しかしなあ…」
 とまどいながらも支配人は頼もしげにセレインを見つめた。セレインは、苦笑を浮かべる。
「もっとも、あたしが言ってもただの負け惜しみだけど。第一、ここしばらくこんな店で歌ったこと、なかったし…無事に勤まるかどうかさえ、わからないのにね」
「そんなことはないさ!」
「仕度してくるわ」
 どこか哀しげに微笑みながら、セレインは楽屋へ続く廊下を歩き出した。と、ニ、三歩行ったところでその足が止まる。
「ねえ、そういえば伴奏のほうはどうするの? 誰か、いいピアニストかギタリストはいた?」
「おう、それそれ!」
 今度こそ、満面に笑みをたたえながら支配人が大きくうなづいた。
「思わぬ掘り出し物を見つけたんだよ。ピアニストだ。流れ者らしくて身元がはっきりしないのがちょいと心配だが、腕はわしが聴いた中じゃ最高だね。お前との演奏が今から楽しみだ。それにな…ああ、いやいやこれはお前が自分で確かめたらいい。もう楽屋へ行ってるはずだ。きっと、びっくりするぞ」
 思わせぶりなその口調にセレインはちょっと訝しげな表情になったが、すぐにうなづくと再び楽屋へと向かった。
 ここで歌うのは何年ぶりだろう。物心ついてからずっと、セレインは歌うことによって生活してきたが、そのきっかけとなったのがあの支配人だった。小さな頃はほとんどここの専属歌手で、毎日のように通ってきた。そして、少しでも空き時間があると、支配人は彼女を膝に乗せ、伝統あるこの店の華やかな歴史、そこに集まった数々の賓客達、そしてこの店のステージで彼らを熱狂させた歌手や俳優、女優達のことを話してくれた。
「いつかお前もそのうちの一人になるんだよ、セレインや。お前の声は素晴らしい。十年も経ってみなさい。お前はラヴォール一番の歌い手になっているから」
 太った身体をゆすり上げるようにして笑いながら、彼は最後に必ずこう言っていた。しかし、十年経ったあのときに起こったこと。…そして、さらに十年近くが過ぎようとしている今。…セレインはまた、苦い微笑を浮かべ、頭を軽く振って思い出を追い払った。
 指定された楽屋のドアを開ける。だが、そこには誰もいなかった。あんなふうに言われていたので期待外れの気もしたが、何も一緒の部屋を使わなければならないということはない。ここにはたくさんの部屋があるのだ。それでも、例のピアニストとやらを早く見てみたい。初めてだというのなら開演前の打ち合わせも念入りにしておかなければ…。セレインは手早く仕度に取りかかった。
 時折、スタッフか誰かの足音がドアの外を駆け抜けていくのが聞こえる。急な話で、機材や人手が足りないのかもしれない。簡単な手伝いくらいなら、セレインにもできる。昔はどうあれ、今のここは歌手だからといってのんびり出番を待っているだけでいいところではない。
 純白のドレスに着替え、美しく化粧をしたセレインが楽屋を出る頃には、廊下を行き交う人々の動きは一層慌しさを増していた。
「何か手伝えることない?」
 重そうなコードの束を抱え、急ぎ足で行き過ぎようとした若者に、セレインは声をかけてみた。しかし彼は、見向きもしない。他の何人かに話しかけてみても、同じだった。
「ねえ、ちょっと待ってよ! あたしにも、何か仕事をちょうだい。この店の仕事なら、大抵のことはできるのよ!」
 とうとう、業を煮やしたセレインは、一人の男の肩に手をかけ、大声で叫んだ。しかし…
「いらないよ、あんたの手助けなんか。統治体お気に入りの歌姫に力仕事なんかさせたら、後でどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。邪魔になんないように楽屋に引っ込んでるか、舞台で出番を待ってるんだな」
 冷たい目。セレインの手から、力が抜ける。両手一杯に荷物を抱えた男は、身体をよじって彼女の手を振りほどくと、さっさと向こうへ行ってしまった。
 がっくりと肩を落として、セレインは舞台へと続く細い廊下を歩き出した。
(そうか…支配人があたしを呼んでくれたからって、この店の誰もが喜んで迎えてくれるって訳じゃないんだわ)
 だけどそれも、仕方のないこと。
(あたしったら、何を期待してたんだろう)
 唇を噛みながら歩いていった突き当たりは、数段の狭い階段。それが、舞台への入り口だった。できるならこのまま逃げ帰ってしまいたかったが、それでもセレインはその階段を上り、今夜の仕事場に立つ。
 ちょっとした小劇場ほどの広さと設備を持つこの舞台は、かつて『アモール』の名物だった。もう、どれくらいになる? 万雷の拍手とともに、最後の幕が下りてから。そして、彼女自身がそれにきっぱりと背を向け、この舞台を去ってから。…とりとめのない思いが心を暗く沈ませていくのは、先程の出来事の所為だろうか。
(やだ…あたしったら、何暗くなってんのよ)
 どうせ、今となってはいくら考えてもどうしようもないことなのだ。
(あたしが呼ばれたのは、歌う為じゃない。客やスタッフがどんな奴らだろうが、最高の歌を聴かせてやれば、それでいいのよ)
 軽く自分の頬を叩いて気合を入れ直し、舞台中央へ歩きかけたセレインの頭上から、懐かしい声が降ってきた。
「よう、セレイン! 久し振りだなあ」
「タグ爺!」
 舞台の遥か上方で手を振っている大道具係。彼は支配人と同じく、セレインが子供の頃からの古い馴染みで、もうかなりいい年のはずだった。
「また、あんたの歌が聴けて嬉しいよ。だが、その前にすまんがちょっと見てくれ。幕の上げ方、これくらいでいいかね」
「ええ。ちょっと待って」
 セレインは、嬉々として客席に飛び下り、少し下がったところから舞台を眺めた。
「ちょうどいいわ。本番でも、それくらいでお願い」
「よしきた」
 再び舞台に戻った彼女の上から、重たげな金の房飾りをつけた緞帳がしずしずと下がってくる。それがすっかり下りきる頃、タグ爺が彼女の側へやってきた。
「少し、右側の動きが鈍いわね。モーターがいかれちゃったのかしら」
「うーん、これでもずいぶん念入りに調整したんだけどなぁ。また、油でも切れやがったかな」
「あたし、見てこようか?」
「うんにゃ、せっかくのドレスが汚れちまうからいいよ。わしが行ってこよう」
 タグ爺の笑顔が、胸にしみるほど嬉しかった。軽く手を振り、客席を後にしたその背中に、ふと、セレインは思い出して訊いてみる。
「ねえ、今夜のピアニストって、どこにいるの?」
「さっきピアノを運んできてたから、その辺にいるんじゃないか?」
 振り返ると舞台下手、ほとんど袖に隠れるようにして、一台のピアノが置いてあった。数人の男達が、傍らで何か言い合っている。セレインはそちらの方へ近づいていった。
「こんな端っこでいいのかよ。客席からまるで見えやしねえ」
「やっぱりさあ、もうちょっと真ん中へ持ってこようぜ」
 不満そうなざわめきを抑えた一つの声。
「いいんだよ。舞台の主役は歌手なんだ」
 耳を疑うほど、若い声。タキシードを着てピアノにもたれた声の主の上半身は、陰に隠れてよく見えない。
「しかし…」
「大丈夫さ。音響的には、問題ない」
 なおも言いつのろうとした相手をなだめるように一歩前に出たその姿を見て、セレインははっと立ちすくんだ。
 若い。というより、それはまだ十五、六の少年だった。そして、美しかった。ほっそりと華奢な肢体と腰まで伸びた真っ直ぐな黒い髪。端正で、優しくはかなげな顔立ちにセレインは一瞬、男装の少女かと思ったほどである。
「…?」
 少年もセレインに気づいた。目と目が合い、真正面から相対してみると、あらためてその美しさにため息が出るほどである。やわらかな、ややつり上がり気味の曲線を描いた細い眉。高くとおった鼻筋も同じく細く、下手をすれば冷酷に見られがちだが、丸みを帯びた頬の線がきつさを消していた。唇はほんのりと紅く、何か言いかけた、その形のまま少し開いている。そして…目! じっとセレインを見つめた切れ長の、大きな瞳は暗い紫色をしていた。ラヴォールというこの惑星で代々過ごしている人間には紫色の瞳を持つものが多い。セレインの知人にも何人かいる。しかし、これほどまでに鮮やかな、深い色を見たのは初めてだった。
「誰?」
 低い声で、少年がつぶやいた。警戒している。
「セレイン。あなたの、今夜の相棒よ」
 相手の警戒心を解こうと、セレインはわざと快活に言い、手をさしのべた。が、無言のまま握り返してきた少年の手は冷たく、つややかな絹のタキシードの中、華奢な身体がわずかにこわばっている。そういえば、さっき話していた声も心なしか冷たく、無愛想だった。
「楽譜はもらった? あたしはどれも歌ったことがあるけど、貴方はどう? 変更したいところがあったら言って」
「僕の方も大丈夫。特に難しいものなんて、なかった」
 そのままくるりと向きを変え、すたすたと歩み去っていく。セレインはあっけにとられ、しばしぽかんとそこに佇んでいた。が、すぐに走って少年の後を追う。さっきの、舞台へ上がる階段のところで追いついた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
 鬱陶しそうに眉をひそめ、少年は振り向いた。
「あんた、リハーサルや音合わせはどうすんのよ。そうじゃなくても、打ち合わせくらいやっとくのが常識でしょう」
「僕には、そんなの必要ない。あんただって、それくらいできるだろ」
「な…」
 怒りのあまり、セレインは言葉を失った。その隙に、今度こそ少年の姿は階段の向こうへと消えてしまっていた。
「何よ、あのクソガキ!」
 支配人も、よくあんな奴を雇ったものだ。どれほどの腕を持っているかは知らないが、あの態度は腹立たしい以外の何物でもない。やがて全ての準備が整い、賑やかな客達のざわめきが幕の向こうに満ちる頃になっても、そして、いよいよショウタイム五分前、こっそり様子を見にきた支配人が心配そうに肩を叩いてきたときも、セレインの怒りはおさまらなかった。それでも、幕が上がると同時に無理に浮かべた微笑。店内は、すでに満員だった。制服の奴もいれば、私服でめかしこんできた奴もいる。『軍務局のお偉いさん』とはいえ、軍人ばかりというわけでもないのだろう。だが、彼女にとってはどちらも同じ。この惑星の不幸につけこみ、その支配権をまんまと奪い取った『他所者』。
(ふん。偉そうにしやがって。何が視察だい。どうせ、駐屯軍の力をかさにきて、あっちこっちでちやほやされて帰るだけなんだろ。今、あんた達の世話をしてるホステスやウェイター、バーテンダー…この惑星の皆の、本当の気持ちなんか、ちっとも知らないままでね!)
 今にも叫び出しそうになるのを懸命にこらえていたセレインの耳に届いた、最初の一音。
(え…?)
 危く、後ろを振り返ってしまいそうだった。
(何、このピアノ。この伴奏)
 澄んだ、明瞭な音の連なりが、歌い出した彼女の声をやわらかく包みこんだ。曲が進み、次の曲に変わり、そしてまた別の歌が始まるその都度、ピアノは朗らかに、あるいはうち沈み、ときには彼女と共に激しく泣き叫んだ。目の細かい二枚の布を重ねたときに生まれるあの不可思議な綾模様が、一人の人間の声と、一つの楽器によっても作り出せるということを、彼女は初めて知った。いつしか声だけでなく、彼女自身もそのやわらかな空間の仲に抱きしめられ、安らいで…自分でも驚くくらい穏やかな、優しい声で、セレインは最後のバラードを歌い終えたのだった。
 感嘆のため息と喝采の中、幕が下りるまでももどかしく、セレインはピアノの方へ駆け寄った。が、そこにはもうあの少年の姿はない。セレインはドレスの裾を翻し、楽屋へと急いだ。あてがわれた自分の部屋の左隣のドアの向こうに人の気配がする。ノックに応える声はなかったが、セレインはドアを開けた。上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外している少年が、そこにいた。
「あんた…あんたって子は」
 少年は、飛び込んできたセレインなどまるで目に入らぬといった様子でシャツを脱ぎ捨て、傍らに置いてあった自分の物らしい別のシャツに着替えていた。薄い青のダンガリーは、その姿をいっそう幼く見せる。ついさっき彼に対して感じた怒りはすっかり消え失せ、セレインは思わず少年を抱きしめていた。
「初めてよ…あんな…あんなピアノ聴いたの。あんた、すごいわ。天才だわ!」
 そのピアノと一緒に歌えた喜びと興奮を、あたしは一生忘れない…そうセレインは続けるつもりだったが、少年はその言葉も待たず、彼女を突き放した。
「何、そんな大袈裟に騒いでんだよ。ピアノは僕にとって、生きる為の一番手っ取り早い手段に過ぎない。メシの種、ってやつさ」
 とりつくしまもない、冷たい声。
「出て行ってくれよ。着替えの途中なんだ」
 あれだけのステージを共にしたというのに、そこにはひとかけらの共感も、親しみもなかった。先程の感動は跡形もなく消え去り、かわりに忘れていた怒りがセレインの頬を鮮やかな真紅に染めた。
「何よ。その言い方。ああ、悪かったわね、お邪魔して! あんたのピアノに感動したなんて、あたし、大莫迦だわ! もう、頼まれたってそんなこと言わないわよ!」
 部屋を飛び出し、凄まじい勢いでドアを閉める。それでもまだ気分はおさまらず、後ろ手にノブを握り締めたまま荒い息をついていたセレインのところに、支配人があたふたとやってきた。
「困るよ、アンコールもすっぽかして楽屋に引っ込まれちゃ。ステージは大成功だ。お客様が、ぜひ今夜の歌姫に会いたいって待っているんだよ。…おや、あの坊やは?」
「知らないわ、あんな奴! それに、今日来てる奴等に『お客様』なんて言葉、使わないでよ。あいつらはあたし達の星で好き勝手してるだけの他所者じゃないの!」
「おいおい、どうしたんだね、セレインや」
 今までのできごとなどつゆ知らぬ支配人は、セレインの激しい言葉におろおろしながらもしきりになだめ、彼女を再び舞台に連れて行こうとする。
「一体、何があったんだ。…え? よっぽど腹の立つことがあったんだろうが、お客の前ではひとことも、そんなふうに言うんじゃないよ。な、セレイン…」
 二人の足音が遠ざかっていく間中、少年の部屋のドアは固く閉ざされたままであった。




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