真夜中の足音 1


 「ただ今帰りました」と玄関で声をかけても、家の中はしんと静まりかえったままだった。おそらく母は先に休んでしまったのだろう。今夜「仕事」で遅くなることは前もって伝えてあったし、事実こんな時刻―深夜二時過ぎの帰宅になってしまったのだから、それもある意味当然のことなのだが。

 だけど、本当はそれだけじゃない。

 何故なら、母は知っているから。

 今日の「仕事」は、医者としてのそれではないということを。
 その「仕事」を終えた後の娘がどんな状態で帰ってくるかをも。

 だから。

 早々に休んでしまったのは、母から娘への精一杯の思い遣りだったのかもしれない。

 靴を脱ぎ、家に上がった藤蔭医師―いや聖は、母の寝室がある廊下の奥に向かって無言のまま深々と頭を下げた。



 薄暗い廊下から階段へ、物音を立てぬよう慎重に歩を進める。特に、居間の前を通り過ぎるときは要注意だ。何しろこの部屋の一隅を占領しているケージの中には、人間よりもはるかに敏感な耳を持ったチビ犬が一匹眠っている。
 幸いチビ犬が目を覚ました気配はなし、ほっと胸をなでおろしたところで階段手前の台所に寄り、食器棚から適当なグラスを一個調達して。
 ようやく二階の自室にたどり着いたときには、一気に緊張が緩んでその場にへたり込みそうになった。気を取り直し、愛用の書き物机の椅子に腰を下ろす。
 体が、重い。頭の中もぼんやりして、思考が形をなさない。肉体も精神もすでに疲労の限界に達していることが自分でもよくわかった。本当なら一刻も早く床につき、少しでも休息を取るのが正しい決断―それは、よくわかっているのだけれど。
 小さく肩をすくめて、机の一番大きな抽斗に隠しておいたウォツカのボトルを取り出す。アルコール度数は四十度、今この家にある中で一番強い酒だ。しかし封を開けてグラスに注いだ液体には色もなく、どこまでも透き通っているばかり。
 医者としての理性は、この状態での飲酒など自殺行為だと告げている。しかも度数四十度のスピリッツなど、口にしたが最後一瞬にして天国行き―とまでは言わないが、少なくとも肝臓を始めとする内臓全てにかなりの負担をかけることは間違いない。おそらく、明日一杯自分の肉体は使い物にならなくなるだろう。

 でも。
 それでも、いい。

 どうせ今夜は土曜の夜、明日は日曜。病院だって休みだし、担当の入院患者についても当直医にしつこいくらいの申し送りをしておいた。
 少なくとも今夜は―自分がどうなったって困る人間など誰一人いない。
 そのために、わざわざ「今日」を選んだのだ。

 第一。

 今夜素面で眠ることなんて、とてもじゃないけどできたものじゃない―。










 それは、ごくプライベートな筋から持ち込まれた話だった。



 創業三百年の暖簾を誇る、とある呉服屋。
 その店が呪われているのだという。
 何でも赤ん坊が死んでしまうのだそうだ。それも、代々の若夫婦に授かった「初めての男の子」ばかり。
 女の子、あるいは二番目以降の男の子なら無事に育つ。しかし初めての男の子だけは―それが第一子であれ第二子、第三子であれ―決して一歳の誕生日を迎えることができない。そんな怪しい出来事がもう六、七代もの間続いているというのだ。
 その原因については家族の誰にも心当たりはなく、どう対処すればいいのかすらもわからないまま時間ばかりが過ぎていくうち。

 三ヶ月ほど前、その家の若旦那、すなわち現社長夫妻の間に新しい命が誕生した。体がさほど強くない社長夫人にとってはまさに命懸け、「最初で最後」を覚悟したお産。そして、生まれてきたのは「男の子」だった。
 両親である社長夫妻、祖父母である会長夫妻が震え上がったのは言うまでもない。何を隠そう父も祖父も本来ならば次男、共に自分たちの兄を「祟り」で亡くしているのだ。
 かくて赤ん坊が生まれたその日から、家族は一丸となって子供を助ける手立てを探しに奔走した。夜も日もなく探して、探して、探し回った挙句ふと耳にした噂。
 同業者として親しくつき合っている「せき屋」という店の得意先に、不思議な力を持った一族がいるらしい―。
 たったそれだけの伝手を頼りに藤蔭家を訪れた社長夫妻は、紹介者である「せき屋」の大旦那、若旦那父子ともども聖の前に土下座して助けを乞うた。
 しかし、聖は―。





(正直、「厄介な相談」というのが私の第一印象だった…)
 ため息をつきつつグラスに手を伸ばせば、いつしか最初の一杯はすっかり空になっていた。
(もちろん彼らの言い分はよくわかったし、そんな事情では何かの祟りや呪いを疑っても当然だとも思った。しかし一方、原因の方には全く心当たりがないとすると…)
 新たな酒を注ぎ足し、一口含む。アルコールの刺激がかっと口内を灼き、ついでのどから腹へと流れ落ちていく。なのに、肝心の酔いはちっとも訪れてこない。
(私が介入すれば、家族の誰もが知らなかった遠い先祖の因縁が明るみに出るかもしれない。それが逆恨みだの妬みによるものならともかくも、もしも責任が「彼ら」の方にあったとしたら? たとい子供を助けることができても、祖先の悪行を暴かれるなど、家族にとっては決して気持ちのよいものじゃないだろう。それに…)
 さっきまでぼんやりとしていた思考が、飲めば飲むほど冴え渡っていく。こんなにも強い酒を飲んでいるのに…何故?
(精神科医といえども、私は医者。となればああいう場合は―呪いや祟りよりもまずは家族の血筋の中に潜む病…遺伝性疾患を疑うのが筋。それらの中には新生児、あるいは乳幼児に多く発症するものもあると聞いた気がするし、もし染色体に関係する病気なら、男の子ばかりが犠牲になるというのもありえない話ではないし)
 苛々と神経質に机を叩いていた指先が、いつしか再びグラスを取り上げていた。
(ただ、もしもそれが現代医学ではどうしようもない不治の病だったりしたら完全にお手上げ。あの若い父と母に「子供を助けるのは不可能だ」という無慈悲な宣告を下すよりほか、できることはなくなってしまう…)
 忘れたいのに。眠りたいのに。だから、飲んでいるのに。グラスにかなり残っていた酒を、半ば自棄気味に一気に飲み干す。
(科学の力及ばぬ呪詛か祟りか、それとも、科学の力でしか解決できない「病」という化け物か。…どちらにしても、八方丸く収まる大団円など到底望めないと…切羽詰った私は、「できれば病気であってほしい」という莫迦なことまで考えた…)
 突然、かすかなめまいを感じて聖はこめかみを押さえた。先程の危険信号、医者としての理性の警告がまたしても意識のどこかで激しく鳴り響く。だが―。
(…だって、病気なら誰も傷つかないもの。大体、遺伝性疾患全てが「不治の病」というわけじゃなし、現代の医療技術をもってすれば完治するものの方がずっと多いんだから。精神科医の私はともかく、同僚や後輩―内科の日高君や外科の石原君ならきっと、互いの技量とネットワークを存分に活用して充分かつ完璧な治療をしてくれるはず。…そう、もしも病気なら…あの両親に辛い宣告をしなければならない確率なんてほんの数%、いやそれ以下の…はずだった…!)
 きつく唇を噛み、再びその手をボトルに伸ばす。もう、危険信号も理性の警告も知ったことか。どうせ明日は日曜日。今夜ばかりは―誰も、困る者などいないのだ。





 結局、全ての話を聞いたからには依頼を断わることなどできなくて。
 半ば渋々といった体で件の家を訪れ、一歩その門をくぐった瞬間、聖は自分の「希望的観測」が完全に打ち砕かれたことを悟った。
 家の中に入る以前の敷地内全体に、得体の知れぬ不気味な気配が充満している。もっとも、普通人には何も感じ取れない―いや、もしかしたら生半可な霊能者にも察知するのは難しいかもしれない―ほどのかすかなものではあったが、その奥底には深い憎悪と怨念が身の毛もよだつ激しさで渦を巻いていた。
 針地獄さながらに全身の皮膚、そして神経に突き刺さってくる悪意と邪気を必死にこらえつつ、その日一日をかけて慎重かつ徹底的な霊査を行ってみた結果。

 やはり原因はこの家―正確に言えば、八代前の先祖にあった。

 その男はかなりのやり手で、江戸の外れの小さな古着屋だったこの店をいっぱしの大店に育て上げた、所謂「中興の祖」と呼ばれる人物だった。それだけに多少傲慢で人を人とも思わぬところもあったというが、店や家の者にとってはとりあえずよき主人、よき亭主、そしてよき父親であったらしい。
 しかし―。
 三十路も半ば、俗に言う「分別盛り」にさしかかろうというまさにそのとき、男はとんでもないことをしでかした。
 ふとしたことで見初めた水茶屋の女を店の近くに囲ってさんざん入れあげた挙句、やがてそこに男の子が生まれるやいなや、それまで連れ添ってきた女房とまだ十にも満たぬ娘を家から叩き出してしまったのである。
 「女の子には店は継げない。新しく生まれた男の子こそ跡取りだ」―それが、男の言い分だった。共に住んでいた男の両親も、一代でここまで店を広げた息子には何も言うことができず―というより、彼らもやはり「跡取り」の一言に目がくらんだのであろうか―長年一つ屋根の下で暮らした嫁と孫が出て行くのをただ黙って見ているだけだった。

 女房は、温和で従順で働き者の女だったという。
 娘もまた素直でおとなしく、小さな生き物の命をいとおしむ優しい子供だったという。

 しかし、男が彼女たちを振り向くことはもう二度となく…。

 流す涙も枯れ果てて、ひっそりと店の裏口から出て行く母娘の後を追って行ったのは、昔娘が拾ってずっと可愛がってきた三毛猫ただ一匹だけだった。



 着の身着のままで追い出された母娘は場末の小さな裏長屋に移り住み、母親が隣近所から請け負ってきた仕立物の手間賃だけを頼りに細々と暮らし始めた。もちろん、猫も一緒である。食うや食わずの生活の中、本来ならば生き物を飼う余裕などどこにもなかったはずだろうに、二人は決して猫を追い出そうとはしなかった。
 もともと人懐こくて愛嬌たっぷりの猫だったから情が移っていたのかもしれない。
 だが、それよりも何よりも。
 「家につく」と言われる猫が、その家を捨てて私たちを追ってきてくれた、その気持ちが嬉しい、愛おしい―常々周囲にそうもらしていた母と娘は、どんなにつましい食事の中からでも一口の飯、ひとかけらの惣菜は必ず猫にも分けてやっていたそうだ。一方の猫も心得たもので、食事が足りなければその辺のネズミを捕って飢えを満たす。
 そしてそれが、思いがけない「福」をもたらすことになった。
 あんたんとこの猫のおかげでネズミが減った、助かった―と感謝した長屋の衆が「ほんの気持ち」と仕立物の新しい得意先を紹介してくれたり、煮つけや漬物、乾物などを頻繁に「おすそわけ」してくれるようになったのだ。心細い身の上の母と娘にとってそれがどんなにありがたいものであったかは想像に難くない。
 かくてようやく、二人と一匹の生活がささやかながらも確かな物になろうとしていたその頃。

 冬が来た。
 その年の冬はことに寒さが厳しく、そのせいかたちの悪い風邪が流行った。これにかかったが最後、高熱と激しい咳であっと言う間に衰弱し、最悪の場合は死に至る。特に老人や子供の場合にはほとんど手の施しようもない。
 母娘が住む長屋でも何軒かの葬式が相次ぎ、人々の間からは笑顔が消えた。まだワクチンも予防注射もないこの時代では、病を完全に防ぐ手段などあるわけがない。
 娘が倒れたのは突然だった。いつもどおり母親を手伝って夕餉の支度をしている途中「気分が悪い」と座り込み―次の日にはもう枕も上がらぬ重病人になっていた。娘のために母親が八方手をつくしたのは言うまでもない。わずかな蓄えはあっと言う間に医者代と薬代に消え、それならばと長屋中、いや町中を走り回って手間賃の前借りや借金を頼みこんだところで所詮相手もその日暮らしの貧乏人、集まった金は雀の涙にも満たなくて。
 とうとう母親は恥を忍んで元の家―今や江戸で五本の指に入るほどの呉服屋となった店にすがった。しかしかつての亭主、病んでいる娘の父親はもうすっかり新しい女房と「跡取り息子」に夢中、泣いて地べたに土下座する昔の女房になど目もくれず、使用人どもに言いつけて店から追い払い、塩まで撒かせたという。
 結局、隣の家のおかみさんから分けてもらった卵をたっぷりかけた雑炊を食べさせてやったのを最後に娘は事切れた。

 それからの母親は腑抜け同然、ただぼんやり座って日を送るようになった。仕立ての仕事はきちんとこなすものの、これでは客たちも気味悪がって寄り付かず、得意先は見る見る減っていくばかり。しかしそれも最早どうでもよかったらしく―。
 娘が亡くなって半年が過ぎる頃には、飯を食べることすらろくろくしなくなった。見かねた長屋の連中が飯を差し入れ、半ば強引に食べさせたおかげで飢え死にだけは免れていたが、その体はいつしか骨と皮ばかりにやせ細っていった。
 そして訪れた娘の一周忌。
 久方ぶりに髪を結い直し、身なりを整えた母親は寺の坊主を呼んで経を読んでもらい、線香を上げに来た近所の人々にも丁重に礼を述べ―ささやかながらもきっちりとした法要を済ませたその夜、首をくくった。

 残されたのは一匹の猫。

 長屋の衆は貧乏人揃いだったが情には厚かった。なけなしの金を出し合い、母親の野辺送りを済ませたあとも、飼い主を失った猫を気の毒がって代わる代わる家に連れ帰ったり飯を振舞ったりしていたという。
 しかし猫はどの家にも居つくことはなく、与えられた飯にも決して口をつけなかった。ネズミ捕りにはこれまでどおり精を出していたようだが、捕えたネズミを食うことも一切しなくなった。
 そして。
 母親が首をくくった二ヵ月後、母と娘の月命日に当たるその日に。
 かつて母娘が住んでいた空き家の土間で、ボロきれのように飢え衰えて死んでいる猫が見つかった。
 畜生ながらも最期まで主に殉じたその心根がいじらしや、哀れやと近所の人々は皆涙を流して手を合わせ―猫の亡骸は母と娘が眠る無縁墓の傍らに手厚く葬られたという。



 それからしばらくのち、件の呉服屋―あの母娘の元の家だった大店の跡取り息子が満一歳の誕生日間際に原因不明の病で急死した。両親は半狂乱になって嘆き哀しみ、一時は商売すらも手につかない有様だったという。そしてその後、主人夫妻の間には女の子しか生まれず、結局は婿を取って跡を継がせることとなったのだが―。
 以来、この家に生まれる「初めての男の子」は誰一人として無事に育つことはなかった。



 これが、聖の見抜いた全てである。
 


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