真夜中の足音 3


 かたん…。

 かたん…。

 足音はかなりはっきり聞こえるようになってきた。おそらくあと一段か二段で階段を上りきるだろう。その正体は果たして鬼か蛇か…? しかし聖にとっては、「鬼」すなわち怨霊であればまさに望むところである。はやる心を抑えて待つのももう限界、ならばいっそ迎えに出てやろうと椅子から立ち上がり、ふらつく足で二歩、三歩。ドアの前、小さな深呼吸とともにノブを握り、いざ開かんと力を込めたそのとき。

 ずるっ…! ぼてっ!

 足を踏み外してコケたとしか思えない間抜けな音が派手に響いた。しかも、それに驚くよりもなお早く。

「ふえぇぇぇ〜ん。痛いよ、痛いよぉ〜。ママぁ〜っ」

(…パピ!?)

 予想だにしなかった声に慌てて飛び出せば、部屋からもれる明かりの中、階段の上から二段目にひっくり返ったチビ犬が泣きべそをかいていた。
「ひぃ〜ん。お廊下も階段もみんなまっくっく(=真っ暗)だったんで、ボク転んじゃったの〜」
「えっ…っ、大丈夫!? ちょっとママに診せてごらんなさい!」
 抱き上げた途端、チビ犬はぎゅっと聖にしがみついてきた。これでは怪我の様子を確かめるどころではないが、とりあえず頭だの背中だの、抱いている手が触れている部分だけは無事のようである。
「よしよし、痛かったの、可哀想に…。でも頭やお背中は何でもなさそうだから安心して。…次はあんよやお腹の方も診てみようね。さ、ママのお膝の上にねんねして」
 再び部屋に戻って椅子に腰かけた聖はそのままパピを膝の上に降ろそうとした。しかしチビ犬はいやいやをするように首を横に振り、ますます強くしがみついてくるばかり。心なしか、ひぃひぃぴぃぴぃというその泣き声も次第に大きくなってきたような気がする。もしかして、パピヨン特有の細い脚でも折ったのか…と不安になった聖の口調がわずかにきつくなった。
「パピ! いつまでも抱きついたままじゃどこを痛くしたのかわからないでしょ? お願いだからママの言うこと聞いて! …もう、そんなに泣いてばかりいないの!」
 ところが次の瞬間パピはぱっと顔を上げ、涙で一杯のつぶらな瞳で真正面から聖を見つめ返したではないか。
「ちゃうもん! 泣いてるのはボクじゃないもん! …ママだもん! 哀ちくて、辛くて、苦ちくて、大声で泣いているのは…ママの方だもん!」

「パ…ピ…?」

 思いもかけない反論に大きく見開かれた聖の目のすぐ前、チビ犬はまたその小さな鼻をくすん、とすすり上げて懸命に言葉を継ぐ。
「だって今日…しゃっき帰ってきたママの足音、泣いてたじゃない。ご門からお玄関、お廊下から階段…。お二階のママのお部屋に行くまでずっと…ううん、ご門に入る前、通りの向こうからおうちの方に歩いてきた時だって、ママの足音はずっとずっと哀ちそうで悔ちそうで淋ちそうで…えーん、えーんって泣いてたじゃない…っ」
 その間にも、パピの目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちてくる。慌てて机の抽斗から取り出したポケットティッシュでその滴をぬぐってやると、くしゃん! という小さなくしゃみが返ってきた。
「お部屋に行っちゃってからも同じでち。もう足音は聞こえなくなっちゃったけど、ボクにはママが泣いてるのがよくわかりまちた。お顔は泣いてなくても、心の中で…ママ、泣いてたんでしょ? ボクよりももっと大きな声で、哀ちいよ、辛いよ、悔ちいよって、ずっとずっと泣いてたんでしょ?」
 そこでチビ犬は精一杯体を伸ばし、聖の鼻の頭をぺろん、となめた。
「しょのうちにボクもだんだん哀ちくなってきて…でもって、ママのしょばにいてあげなきゃって思ったの。だってママはボクよりずっと哀ちくて淋ちくて辛いはずだから。しょれで、お二階まであんがちてきたんでちよ…」
 そう言われた聖の方はただ茫然とするばかり。
 元々、普通の犬でないことは承知していた。大体こうして人間の言葉で語りかけてくることからして、こいつが生物学の常識をはるかにとっ外れた生き物である証拠ではないか。
 ついでに言えば、動物の霊感は人間よりもはるかに強いらしく、時折霊の気配を感じて飼い主に訴えてきたりもする。だがそれも聖のような「能力者」に比べればただの子供だまし、ましてそれ以外の―テレパシーだのテレキネシスだのといった―超能力などこのチビが持っているわけがない。もしもそうなら聖自身がとっくの昔に気づいているはずだ。
 だがパピは、そんな戸惑いになど全くお構いなしに。
「ねぇママ、泣きたいときには思いっきり泣いていいんでちよ! どうちてしょんなに我慢ばっかりしゅるの! 人間の大人だから…? お医者様だから…? 泣いたりちたらみんなに笑われるから…? しょんなの関係ないじゃない。少なくともボクは絶対に笑ったりちまちぇんよ。だからママ、お願いでち。ちぇめてボクといるときだけは我慢なんかちないでちょうだい。ねぇ…」
 舌っ足らずな口調で必死に訴えるチビ犬の言葉を聞いているうち、こらえていた涙が再びあふれ出してきた。透明な滴がぽとりと小さな丸い頭の上に落ちる。
 気がつけば、聖はパピの柔らかい毛皮に顔をうずめ、声を殺してすすり泣いていた。
「…助けて、あげたかったの。あの赤ちゃんだけじゃなく、遠い昔のお母さんと女の子…それから、パピみたいに優しかった猫ちゃんも。…なのに、ダメだった。ママ…一生懸命頑張ったのに…必死だったのに…赤ちゃんしか助けられなかった…お母さんと女の子と猫ちゃん、助けてあげられなかった…」
 小さな子供のようにしゃくり上げながらのつぶやきに、もうパピは何も言わなかった。ただ、飼い主の頬に流れる涙をぺろん、ぺろんとなめているだけ。
 その湿った温かい舌が肌に触れるたび、心を押し潰しそうだった悔いや哀しみが、ほんの少しずつ和らいでいくような気がした。ふかふかの毛皮からは太陽と草と土とアスファルト、そしてほんの少しだけ犬―獣の、匂いがして。
(しょうでちよ、ママ…。辛くて哀ちいときは、うんとうんと泣いていいんでちよ。ママの涙は全部、ボクがなめてあげまちから。いつでも、いつまででも…ボクはママのしょばにいまちから…)

 そんな声さえ聞こえたような気がしたのは、別に超能力でも何でもないのかもしれない。

 元々人間のように複雑な言語を持たぬ動物たちのコミュニケーションにおいては、鳴き声―音声よりもむしろ行動や仕草、視線などの方がより重要な手段となっているという。そんな彼らはきっと人間よりも互いの心の動きに敏感で、ごくわずかな体や視線の動きだけで充分相手の心理状態を理解し、また自分の想いを伝えることができるのだろう。

 ましてそれが自分にとって何よりも大切な存在なら。
 相手の姿が見えなくても、声が聞こえなくても。
 かすかに響く足音、あるいは漂ってくる気配だけでその心中を察することさえ、あながち不可能とは言い切れまい。

 しかし、血を分けた親子兄弟あるいは同じ群れで共に生きる同族の仲間同士ならともかく、聖とパピは全くの異種族―人間と犬ではないか。

 なのに、このチビ犬は来てくれた。
 声も上げず、表情にも出さず。心の奥底深く封じ込めていた慟哭をしっかと聞きつけ、その哀しみを少しでも慰めようと、真っ暗な廊下と階段を通って―聖の元に来てくれた。

 その、深い誠実な「想い」が何より嬉しかったから―。

 正直、まだ完全に吹っ切れたわけではなかったけれど。
 三つの魂を救えなかった悔恨と懺悔、そして罪悪感は今でも胸の痛みとなって残っているけれど。

 しばらくして顔を上げた聖の頬に、もう涙は流れていなかった。
 そして、まだ膝の上から自分をじっと見つめているつぶらな黒い瞳に。
「ありがとうね、パピ。おかげでママ、元気が出てきたよ。でもまだちょっと哀しくて淋しいから…。今夜だけ、ママと一緒にねんねしてくれる?」



 かくてようやくベッドにもぐりこんだ聖とパピ。暖かい布団の中での会話は、いつの間にかごく他愛ない、取り留めのないものに変わっていく。
「わがまま言ってごめんね、パピ…。ママのベッドじゃ匂いが違って、落ち着いて眠れないんじゃない?」
「平気でちよ。ボクねぇ、自分のだけじゃなくてママやおばあちゃまの匂いを嗅いでるときもしゅごく安心できるの。落ち着かないなんてこと、全然ありまちぇんよ」
 そう言われてほっとしたせいか、ふとわきあがってきた疑問。
「ところでパピ、貴方どうやって茶の間から出てきたの? ケージのドアは外してあるけど、廊下へ出る襖はぴったり閉まっていたはずよ」
「あ、あれでちか。ボク、自分で開けて出てきちゃいまちた」
「え…っ! だってあの襖は確か立て付けが悪くて…」
「でもこの前、大工しゃんに直ちてもらったじゃない。…あ、しょうか。あのときママはお仕事に出かけてまちたよね。でも、ママだって帰ってきたあと『開け閉めが楽になった』って喜んでたじゃないの。忘れちゃったでちか?」
「あ…あ、そうか…」
「おかげしゃまでボクにも簡単に開けられるようになりまちた。しょれに、元々襖って下の方を押すと開けやすいんでしょ? だから、ね♪」
「…そうだったの。でも、よく襖なんて…こんな細くて小さなお手々…じゃなかった、『前脚』で…」
「お手々でも前脚でもどっちでもいいでちよ。ボクたちだって、前脚を人間しゃんのお手々みたいに使うことはよくありまちもの。物を押さえたりとか、引き寄せたりとか」
「それにしてもねぇ…」
 言いつつそっとパピの「手」を取り、ナイトランプの仄かな明かりの中、なでたり裏返したりしてみる聖。
「いやーん。ママ、くすぐったいでちよぉ」
 パピがもぞもぞ動いた拍子に、今度は同じく細い後脚の裏がちらりと見えた。と―。
「あ! パピの肉球、お手々とあんよで形が違ってる!」
「え…っ、本当?」
 チビ犬が驚いて身を起こし、自分の四肢の裏を確かめようとする。しかし自分で自分の足の裏を見るのは、犬にとっては中々難しい作業のようで。焦って四苦八苦するパピに、聖は慌てて言い添えた。
「あ、基本的な形自体は同じなのよ。ただ、お手々の方が掌肉球…ううん、手のひら部分や指の幅も広くて大きいのに、あんよの方はどっちも幅が狭くて、小さくて…お手々より肉球全体がちょっと細長く見えるの」
 それを聞いて、パピも安心したようにほっと息をつく。
「なぁんだ、しょんなことでちたか。ボク、ものしゅごく形が違うのかなってびっくりしちゃったでち」
「あはは、ごめんごめん。驚かせたりして、ママが悪かったね…」
 そんなやり取りもいつの間にか途絶えて。
 一人と一匹の健やかな寝息が聞こえてきたのは、秋の長い夜もほんのりと明け初めかけてきた頃であった。





 目覚めたのは、意外と早い時刻。
 重いまぶたを無理矢理開いて傍らに目をやれば、そこで眠っていたはずのチビ犬の姿はいつの間にか消えていた。
 やはり、慣れ親しんだ自分の寝床が恋しくなったのだろうか。
 それとも、真夜中の脱走を母に気づかれて叱られるのを恐れたのか。
 そんなことはどうでもいい。少なくとも昨夜、あのチビがそばにいてくれたおかげで自分は随分と癒された、それだけは確かな事実だから。

 とはいえ、あれだけ呑んだくれた酒がそう簡単に抜けてくれるわけもない。一夜明けた今でさえ、鈍い頭痛と倦怠感がまだ残っている。正直、このまま起き出すのはかなり勇気の要る作業だった。
 第一、「今日だけは自分がどうなったところで誰も困る者がいないように」―そのためにこそあちこちで周到な準備を重ねてきたのではなかったか。
 でも。
 どうせこのまま痛む頭と重い体をもてあましながらベッドで呻吟するくらいなら、どんなに体調が悪くとも起き出して行ってあのチビ犬を膝に抱き、ふかふかの毛皮に触れている方が、ずっと安らげる気がする。
 しばしの逡巡ののち、聖は思い切ってベッドから抜け出し、顔を洗うために階下へと下りていった。

「あらパピちゃん、朝ご飯全部食べちゃったの? それじゃぁおかわりを出しましょうね」
「はい、おばあちゃま! あんがとでち〜!」
 階段を下りていく途中から、母とパピの和やかな会話が聞こえてくる。洗面所へと続く廊下の途中、開け放した茶の間の襖の前を通り過ぎながら、聖はいつもどおりに朝の挨拶の言葉をかけた。
「おはようございます、お母さん。…寝坊してしまってすみませんでした」
 その声に振り向いた母の笑顔。
「まぁ聖、寝坊なんて…まだもっと寝ててもいいのよ。昨日は大変な『お仕事』があった上、夜だって遅かったでしょうに…って、ちょっと貴女、どうしたのその顔!!」
 優しく穏やかだったその声が、瞬時にして金切り声の悲鳴に変わる。驚いて飛び上がったパピが聖の足元をすり抜けて、洗面所とは反対の方へ―何故かそそくさ、こそこそと―逃げて行った。
 驚いたのは聖も同様である。しかしいくら理由を尋ねても母は大きく目を見開いたまま硬直しているばかり。しまいにはもうあきらめてその場を立ち去り、洗面所の鏡の前に立つ。



 途端。



「何よぉぉぉぉぉっ、これぇぇぇ〜っ!!」



 母と同じく金切り声の悲鳴を上げた聖のなめらかな頬に、何とまぎれもない犬の足型がくっきりと刻まれているではないか。それも幾分小さめで幅も狭い…とくれば、間違いなくこれは後脚の痕に違いない。



 つまり。



 一体どーゆー寝方をしていたのかは知らず、あれからパピはずっと聖の顔を後脚で踏んづけ―かたや踏んづけられた聖の方も何一つ気づかないまま、ひたすら熟睡していたと、そーゆーことになる。

(南総里見八犬伝…八犬士のうち、頬にアザがあるのは犬飼現八信道…だったっけ?)

 あまりの衝撃についつい支離滅裂な思考に現実逃避してしまった聖の頬からその痕が消えるまでには、ほぼ丸一日を要した。



(今日ばかりは―私がどうなろうとも困る者は誰もいない―)



 かくて聖は、自分の配慮が何よりも正しかったことを心底から思い知ったのである。

〈了〉
 


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