紫の少女 1


 人は、生きている限り毎日何かを得て、何かを失っていく。それが何かは、当の本人にしかわからない。いや、その手の中からこぼれ落ちていく小さな砂の粒、心にそっと降り積もる儚い花びらのほとんどは、本人すらも気づいていないかもしれない。
 だがそんな、時の中に埋もれてしまったささやかな、しかし大切な宝物が思いがけないときにひょっこりと姿を現すこともある。サイボーグ007―グレート・ブリテンが見つけたそれも、おそらくそのうちの一つだったのだろう。

 事の発端は一週間ほど前。TVニュースによると「観測史上初」だという大型かつ強力な台風が日本の関東・東海地方を直撃したのである。その凄まじさときたら、さすがのサイボーグ戦士たちも家から一歩も外に出られないまま、吹き荒ぶ風と横殴りの雨に翻弄される家の中で不安な時間を過ごす羽目になってしまったほどだった。
 夕方から夜半にかけて荒れ狂った嵐が夜明けとともに去って行ったのち、幸いギルモア邸本体には大した被害はなかったものの、周囲の有様ときたら惨憺たるものだった。あちこちから吹き飛ばされてきたゴミで足の踏み場もなくなった玄関ポーチや車寄せ、へし折れた木の枝が散乱し、根こそぎ倒れた草花がいたる所で泥まみれの団子状態になっている庭。中でも最悪だったのは地下の物置だった。換気用の天窓のガラスが(用心のため頑丈な鉄板で覆いをしておいたにもかかわらず)見事に粉砕され、その隙間から大量の雨水と土砂が流れ込んでしまったらしい。その中身―メンバーそれぞれの私物と共用の季節用品―はどれもこれも砂利とゴミのトッピングつきの泥水漬けになっていた―
 結局、それら全部の後片付けには丸二日を要した。それでもまだ完全に終わったとはいえず、地下室の荷物の点検・整理などはほとんど手つかずのままだったが、張々湖やグレートには店があったし、他の連中だってそういつまでも季節外れの大掃除にばかりかかりっきりではいられない。可哀想なのは学会の為、その翌日にオーストラリアに出発しなければならなかったギルモア博士で、ほとんどぼろ雑巾のようにへろへろになりながら、それでもジョーの運転する車で成田に向かって去っていった。もっともそれは、みんながいくら言っても少しも休もうとせず、やたらと頑張ってしまった博士自身にもほんのちょっぴり、責任があるのだけれど。まあ、博士の旅の安全は、ジョーが帰りに成田山新勝寺にお参りしてくれるっていうことで、よしとしよう…てな訳で、ようやく彼らにもいつも通りの平穏な日々が戻ってきたのであった。

 そして、さらに五日後。
「お〜い、グレート。張大人が、お茶にしようってよ」
 言いながら、ジェットはグレートの部屋のドアを叩いた。
「…ん?」
 返事がない。確かあのおっさん、今日はずっと部屋にこもってあの泥だらけの私物の整理をしていたはずなのに…
「おい、どうしたんだよ! 入るぜっ!」
 不審に思い、ドアを勢いよく開けるジェット。だがそこで彼が見たものは―
「おっ…おわわわわあああぁぁぁっ!」
「ジェット! どうしたアルか!」
 素っ頓狂な悲鳴を聞きつけて、張大人が慌てて階下から駆け上がってくる。そこには、大きく開かれたグレートの部屋のドアの真ん前で、腰を抜かして座り込んでいるジェットの姿。
「だ、大丈夫アルか?」
 あたふたと助け起こしながら、大人もふと、ドアの中を覗き込む。途端。
「アイヤアアアァ!」
 その一言を最後に、硬直。ドアの前、「驚愕」という題の彫像よろしく固まってしまった二人の目の前にいたものは。
「いや…悪い悪い。でもさ、何もそんなに驚くことないじゃないかよ。おい…しっかりしてくれよ」
 おろおろと途方にくれた表情の、一人のピエロだった。
「グレートッ! おまはん、一体何してるアル!」
 正気に戻ったのは張大人のほうが早かった。さすがに仲がいいだけあって、いち早くピエロの正体を見破ったらしい。しかしこういうとき、親友というのは人一倍辛辣なものである。
「非常時ならともかく、せっかくの『平和』なひとときをアホな変身でぶちこわすもんじゃないアル! それに、やるんならもっと、もっと徹底的にやるべきアルやろ! そんな中途半端なカッコ、『カメレオン』の仇名が泣くヨ!」
「い、いやさぁ…これはその…えーと…」
 しどろもどろにつぶやくピエロ(グレート?)の格好は確かに珍妙なものであった。ピエロに変身しているのは首から上だけ。身に着けているのはオーダーメイドの高級ワイシャツ(それをまたわざと、ノーネクタイでだらしなく着つけている)にツイードのツータックズボン。つまり、いつものグレートの首から上だけがピエロに変身しているわけであって…こんな姿は生粋の英国紳士をもって任じている彼自身の美意識からも、かなりかけ離れていることは容易に想像できた。だが、だったら何故? と不審に思う余裕は今の張々湖にはない。
「も、何だっていいアル! さっさと、その奇妙奇天烈なカッコからいつものグレートに戻るアル!」
 張大人の剣幕にたじたじになったピエロは、どことなく名残惜しそうな仕草でのろのろとテーブルに歩み寄った。そして、そこに置かれている小さな木箱の中をごそごそとかき回している。大人の眉がふと、ひそめられた。
「どうしたアルか? そんなのいつものデベソ一発、変身スイッチの一押しで簡単に元に戻れるやろ?」
「それが、そういうわけにはいかないんだよ」
 振り向いたピエロの微笑みは、どことなく淋しそうだった。
「だってこれ、メイクだもん」

 そして。ジェットがグレートを呼びに行ってからおよそ三十分もたった後、三人はようやく午後のお茶にありつけたのであった。
「思い出?」
 つい今しがた、やっと気を取り直したジェットが不審そうに訊く。
「ああ。俺がイギリスの王立演劇アカデミーに入学した頃の、さ」
 大急ぎでメイクを落としたグレートの顔には、まだ所々白いドーランが残っていた。
「役者にとっちゃ、メイクは重要な技術だ。ちゃんとそのための授業があって、とことんまで叩き込まれたよ」
 部屋から持ってきた木箱をなでるグレートの目が遠くなった。
「教材…ってことで学校からこのメーカーの化粧品を指定されてな。バイトしてバイトして、やっとの思いで揃えたんだ。でもって、自分で自分の顔を作ったり、仲間同士で化粧し合ったりして腕を磨いたもんだよ」
 懐かしそうに取り上げたチューブには、ほとんど中身が残っていないかに見えた。なのに、ご丁寧に外側の紙箱ごととってあるところに、グレートの並々ならぬ思い入れがうかがわれる。
「知ってるか? ドーランをムラなく塗れるよう練習するにはこういう真っ白なやつを使うんだ。ほかにも黒いのとか青いのとか…とにかく、自分の肌とまるで違う色を選ぶ。そうすりゃ、ムラや塗り残しってやつが一目でわかるだろ? 来る日も来る日も、白や黒のドーランで自分の顔、塗りたくってよ。知らない奴が見たら、莫迦じゃないかと思うよな」
 そう言ってグレートは笑った。いつも飄々としているこの男には不似合いの、ほろ苦い笑顔。
「じゃあこいつはグレートが生まれて初めて手にした化粧道具ってわけか。道理で年季が入ってると思った」
 柄にもなくちょっとしんみりしてしまったジェットに、グレートは何故か怪訝そうな表情を向けた。
「へ…? 何でそんな話になるんだ? こりゃもっとずっと新しいやつだぜ。そう…あの島から抜け出して、ブラックゴーストの本部を叩き潰したあと、国へ帰ったときに買ったんだ、確か」
「はあ!?」
 ジェットと張々湖が同時にずっこけた。しかし、再び語り始めたグレートはそんなことには気づきもしない。
「俺はただ『このメーカーを指定された』って言っただけで、これがそのときのモンだとは一言も言ってないじゃないか。…あの頃の道具は、当の昔に失くしちまったよ。俺、ブラックゴーストに捕まった頃は相当、荒れた暮らししてたからなぁ…売っ払って酒にでも変えちまったんだろうが、よく覚えてないんだよ」
「グレートッ!」
 口をあんぐり開けたまま絶句しているジェットを尻目に、再び張大人の怒りが炸裂した。
「おまはんというヒトは、どうしてそう盛り上げるだけ盛り上げた話を一気に落っことすアル!? わてもジェットも、真剣に聞いてたんあるヨ!」
 その大きな鼻でグレートの鼻、いや顔全体を押しつぶしかねないほどに詰め寄ってまくし立てられては、さすがの弁舌の徒、天下の名優といえども口を挟む余地もない。
「それとも、これにはこれで何か別の思い出でもあるアルか?」
 至近距離でグレートを見据える大人の目には、殺気すらこもっていた。一方のグレートはというと、完全に蛇に睨まれたカエル状態である。
「い…いや…その…あるといえばあるし、ないといえば…」
「だったらただの、使い古しのガラクタやないか! さっさと使い切って、とっとと捨てちまうヨロシ! 何ならこの残り全部、わてがおまはんの顔に塗ったくってやってもいいアルヨ!」
 グレートから離れた大人の手が木箱の中のドーランに伸びる。途端、グレートが目にも留まらぬ速さで木箱をひったくった。
「だっ…駄目だ! 捨てるなんて、絶っっっ対に許さねーぞ!」
 ジェットの口から、感嘆の口笛が漏れた。
「すげ…今の、俺やジョーより速かったぜ、絶対」

「パッケージデザインが、変わっちまったんだよ」
 更なるすったもんだの末、ようやくグレートは白状した。
「ほら、ここんとこに可愛い女の子が描かれてるだろう」
 指し示したのはドーランのチューブを納めた外側の紙箱。そこには古代ギリシア風の衣装をつけて手に花を持った少女の絵が、いささか古風なタッチで描かれていた。正直、それはどう見ても現代の感覚に合うものではなく、張々湖やジェットの目には、はっきり言って年齢不詳の女の絵にしか見えなかったのだが。
「この子は、俺たちのマドンナだったんだ。紫っぽいインクで印刷してあるから、『ヴァイオレット』―日本語に訳せば『すみれちゃん』ってとこかな―そんな名前までちゃんとついてたんだぜ」
 その紫の色もすでにかなり褪せてしまい、淡いピンク色にしか見えない。
「みんなが、夢見ていた。いつかはこの『ヴァイオレット』そっくりのヒロインを相手にハムレットやロミオをやるんだってな。不思議なもんでさ、恋人ができても、結婚しても、憧れるヒロインはいつまでも、『ヴァイオレット』なんだ。気がつくと、下町のパブかどっかで一晩中、彼女の話で盛り上がってる。どんな性格か、どんな声か、どんな男が好みか…みんな、真剣に考えて、本気で議論してた…れっきとした大人の男どもがだぜ。ただの絵だってわかってるのに…。もしかしたら、この子は俺たちの芝居への夢、そのものだったのかもしれん。役者なんて奴は、ロマンチストが多いからナァ」
 グレートの手が、いかにもいとおしそうに紙箱をなでる。
「なのに、ある日突然、この子はいなくなっちまった。何の断りもなしに、いつの間にか…味も素っ気もないモノトーンのロゴマークだけになっちまってよぉ、畜生!」
 今の今まで、優しく少女をなでていた指が、握りこぶしとなってテーブルを叩く。
「これも、失くしちまったと思ってたんだよ。あれからもいろいろあったからさ。もうこれで、あの頃の思い出のよすがはなくなっちまったと半ば諦めていた。それが…それが、思いがけずこんな…故郷を遠く離れた日本の、ギルモア邸の物置にあったんだぜ!? なあ、頼むよ、張大人…ジェット…頼むからこいつを、捨てるなんて言わないでくれよ。ずっと、そばに置かせてくれよ。…頼むよ」
 小さな木箱を抱きしめて、張々湖とジェットを見つめた目に、光るものがあったと見えたのは錯覚だったろうか。もはや、二人に言う言葉はなかった。
「悪かったアルヨ」
 大人がグレートの隣に席を移し、その肩にそっと手を置く。
「わてもちょっと、言い過ぎたアル。大人気無かったネ…許してほしいヨ」
「俺も、ごめん」
 二人に謝られて、グレートがそっと首を振る。
「いや、元はといえば俺の説明の仕方が悪かったんだ。気にしちゃおらんよ」
「でも、それじゃ気が済まないアル。晩飯、何か食べたいもの無いか? どっちみち、今夜はギルモア博士が帰ってくるからうんとご馳走作るつもりだったアルけど、そのメニュー、全部おまはんの好きなものにしていいアルよ。中華でなくても構わないネ。ローストビーフでも、スコッチエッグでも、フィッシュアンドチップスでも、わて、何でも作るし何でもやるアルネ」
「片付けなら俺が手伝うよ。まだ部屋に持ってきてない荷物なんか、ないか? 言ってくれれば、泥おとして運んでくる。ほかの事でも、何でもやるぜ」
「い、いいよいいよ。大人もジェットも、そんなに気を遣わんでくれや。かえって俺の方が申し訳なくなっちまうじゃ…」
 すっかり照れまくって頭を掻いていたグレートの手が、はっとしたように止まる。そして何やら考え込んで、十数秒。
「本当に、何でもやってくれるか?」
 うんうん、と二人が大きくうなづく。
「じゃ…一つだけ、頼みたいことが…」
 遠慮がちに口を開いたグレートに、張々湖とジェットはぐっと身を乗り出した。
「メイクのモデル、やってくれないか?」
 瞬間、二人の男は凍りついた。
「ジェット?」
 グレートの手が、高い鼻の先をちょんちょん、とつつく。ジェット、解凍。と同時に、その見事な跳躍力でソファを一気に跳び越し、部屋の隅に逃げ込む。
「大人?」
 呼ばれただけで、張々湖、解凍。以下、ジェットと同じ。
「おい…何だよお前ら。たった今、何でも言うこときくって言ったばかりじゃねぇか」
「言…言った。確かに言った。けど…」
 ジェットの声が、震えている。その後ろに必死の面持ちでしがみついている張々湖は、壊れた人形のようにがくがくと首を縦に振るばかりであった。
「それだけは、勘弁してくれっ!」
「そんな、大袈裟なこっちゃねーだろ。昔を懐かしみながら自分をメイクしてたら、他人の顔もやってみたくなったんだ。どーせ、クレンジングクリームで簡単に落ちるじゃないかよ」
「そんなの、あくまで役者の感覚だろーがっ!」
 芸能界とは何の関係もない一般男性として言わせてもらえば、化粧なんて気色悪い以外の何ものでもない。そりゃ、今じゃ男性化粧品も当たり前みたいに売ってるし、使ってる奴も大勢いるけどよ、とジェットは唸る。
(だけど俺は、あんなの一度だって使ったことねーぞ!)
 心の中だけに響く、魂の絶叫。まして、グレートの手にあるのは舞台用のドーランだ。当然、そんじょそこらの化粧品なんかよりは遥かにカバー力があって、強力で…想像しただけで気が遠くなっていく。ブラックゴーストの科学の粋を結集した人工皮膚でさえ、呼吸困難を起こしそうだ。いや、絶対に起こす。行き着く果ては、顔面窒息死だ。これは今、自分の背中に必死の面持ちでしがみついている張々湖も同じ思いのはずである。
「ジェ〜ットォ〜」
 木箱を小脇に抱え、憑かれたようにこちらに迫ってくる吸血鬼ドラキュラ…もとい、グレートに向かって、ジェットは懸命の説得を試みる。
「グ…グググレート…俺たちなんかメイクしても、面白くないん…じゃねぇか? ほらよ、俺も張々湖も、ほら…不細工だから」
 普段なら、死んでも口にしない台詞。だが、今この状況から逃れるためなら何だって言ってやる。そんな決死の思いも空しく、グレートはまるで怯む気配を見せない。
「そんなこたねぇよ。二人とも、男前だぜぇ。ロミオだってハムレットだって、何でもござれだ」
「あんな軟弱少年や、根暗男にされてたまるかっ!」
「じゃ、リア王やオセロは?」
「おっさんコンビなんざ、もっとやだっ!」
「ようし、それじゃ取って置きのオフィーリア! それとも、ジュリエットはどうだ? ガートルードなんてのも、渋くていいなぁ…張々湖、似合いそうだぜ」
「お前、しまいにゃ殴るぞっ!」
 いつしか涙目になっていたジェットが叫んだときには、既にグレートは目前に迫ってきていた。背中にひっついた張大人も、ひいっ、と情けない声を上げて身を縮める。
「シェイクスピアがいやなら東洋風でいくか? 隈取も臉譜も、ちゃんと練習済みだ。自己流だけどよ」
「クッ…クマドリって何だよ!」
「日本の歌舞伎の化粧法アル!」
 背後から、張大人が押し殺した声で教えてくれる。
「じゃあ、リェンプってのは!」
「中国の京劇の化粧法!」
 もう、悲鳴すらも出てこない。ジョーや大人には悪いが、歌舞伎や京劇の舞台など、ジェットの目にはただ、顔を白く塗りたくってわけのわからない模様を書き込んだ連中が踊ったり飛んだり跳ねたりしているだけの仮装行列にしか見えないのだ。しかも、自己流だと…?
(そんなのてめぇの顔でやられたら、俺は舌噛んで死んでやるっ!)
 グレートがつと手を伸ばし、ジェットの腕をつかむ。こうなったら、一生の友情より目先の安全。張々湖は見捨てて加速装置で逃げるしかない…と腹をくくったジェットの頭に、不意に浮かんだ一つの名前。
「グレート! どうせやるならフランソワーズにやってやれよ! やっぱ、美しくなって喜ぶのは、ヤローなんかよりうら若き女性だぞ!」
 はた、とグレートの動きが止まった。ジェットの腕をつかんでいた手が緩む。
「フランソワーズ…ねぇ」
 しめた、とジェットは思った。何てったって、メイクといえば女性。女性といえばメイク。ぎゃあぎゃあみっともなく騒いだりしないで、最初からこうすればよかった―と、ほっと胸をなでおろしたその瞬間。
「フランソワーズは、今出かけてるアルよ」
 ジェットの背中から顔だけ出した張大人が、とんでもないことをのたもうた。
(張々湖〜! このバカ!)
 長い足に向こう脛を思い切り蹴られ、哀れジェットの背後から転がり出た張々湖。
「あたたたたた…ジェット、何するアルか!」
「お前ェが、余計なことを言うからだよ! せっかく、グレートの関心が俺たちからフランソワーズに移ったってぇのに…」
「だって事実は事実アルよ! ここんとこ家に閉じこもりっぱなしだったからって、自分から買出し引き受けてくれたネ! で、運転手と荷物持ちで、ピュンマとジェロニモがついてって…ジェットだって玄関まで見送ってたやないか」
 そりゃ、知ってたけどよぉ…とジェットはため息をつく。
(そんなこと、わざわざ言うバカがどこにいるかっての! せっかく、うまくすりゃフランソワーズを呼んでくるとか何とか言って、トンズラすることもできたのに)
 半ばやけくその、露骨な舌打ち。
「運転手に荷物持ち? そんなの、いつもはジョーの役目じゃ…あ!」
 意外なことに、グレートの視線が二人から離れた。
「あいつ、まだ具合悪いのか? 昨日俺たちが店から帰ってきたときには大分よくなったって話だったけどな」
 やった! 話題がそれた! 思いがけない張々湖効果。小躍りしたジェットの肘が、今度はかなり優しく大人の脇腹をつつく。
(行け! もっと話を続けてくれ、大人!)
 張々湖も、今度はジェットの意図を正確に読み取ってくれたと見えて、間髪入れずに喋り出す。
「ああ…もちろん、もう何の心配もないアルよ。熱も下がったし、食事も、お粥とかスープくらいなら食べられるようになったアル。ただ、まだちょいと咳が残ってる所為かね、声がまるで出ないんアルよ」

 ギルモア博士を成田まで送って行ったあの日。帰ってきたジョーが、珍しく身体の不調を訴えた。全身がだるく、食欲がないという。
(とりあえず、今日は夕食、やめとくよ…。無理に食べたら戻しちゃいそうな気がする。ごめんね、張大人、フランソワーズ)
 そう言って早々に部屋に引き上げてしまった本人も周囲も、そのときにはまださほど大したことだとは思っていなかったのに。
「とんでもなく酷い風邪だったアルからねぇ。くしゃみ、鼻水、鼻づまりに始まって、頭痛、腹痛、関節痛、発熱、咳に最後は声やろ。ありゃまさにフルコース…というより、満漢全席ヨ。もしかしたら、前から調子悪かったのかもしれないネ、可哀想に」
「それでも、ちゃんと博士を送っていってから倒れるってところが我慢強いっちゅうか、律儀っちゅうか…」
「おまけにちゃんと成田山の御守までもらってきてくれたアルからねぇ…」
「ま、あいつらしいって言っちまえばそれまでだけどな」
 会話を続けながらも、ジェットと張大人の間には電光石火の速さで目配せが交わされている。とにかく、絶対に話題を後戻りさせてはならない。
「それにしても、今回は石原先生のおかげで助かったネ。博士は留守だし、イワンはおねむの時間だし、ただの風邪とはいえあそこまで酷くなるとわてらだけじゃどうしようもなかったアルよ」
 石原先生、というのは一年ほど前に彼らが知り合った青年医師である。コズミ博士が勤めている大学の医学部を卒業して、母校の付属病院での研修を終えたのが二年前だというから医者としてはまだまだ駆け出しのペーペーと言われても仕方がない年齢だ。しかし、その医療技術は学部生のころからすでに教授全員が舌を巻くほどの腕前で、その卒業論文は欧米の一流医学雑誌に掲載され、各国の医師会から絶賛されたというのだから、正真正銘の天才である。ところが、そのあまりにも優れた手腕がかえって仇となり、ブラックゴーストの末端組織に目をつけられてあわや拉致されそうになったところを助け出したのが、彼らサイボーグ戦士たちだった。そのことを深く感謝した石原医師は、以来、陰になり日なたになってサイボーグたちを支援し続けてくれている。
「ホント、いい先生だよな。若いのに腕は超一流だし、かといってちっとも偉ぶらないで、気さくだし」
「この間遊びに来たときなんて、イワンのオムツ換えてくれてたぜ」
「人間ができてる、ってのはああいう人のことをいうんアルねぇ。今度だって、頼んだらすぐに往診してくれたアル。それも、一日だけじゃなくてネ」
 石原医師の自宅からギルモア邸までは、電車とバスを乗り継いでおよそ一時間かかる。にもかかわらず、彼は三日間続けてジョーの様子を見に来てくれたのだ。これにはメンバーたちのほうがすっかり恐縮してしまい、せめて帰りだけは車で送るようにしていたのだが。
「そういや、先生の運転手はずっとジェットだったアルよネ。ご苦労さんだったアル」
「そんなことねぇよ。あの先生と一緒のドライブ、結構楽しかったぜ。それに、おかげで今日はギルモア博士の出迎えまでアルベルトが代わってくれたし」
「とにかく、先生ももう大丈夫言うてくれはったんやから、まずは一安心アルよ。ところで、ジェット」
 突然張々湖の声が変わった。
「おまはん、昨夜先生に何言うたアル?」
 きょとんとしていたジェットの頬が、ぴくりと動いた。もちろん、それを見逃す張々湖ではない。
「今朝、フランソワーズが出かける前にお礼の電話したアルよ。そしたら…ネ」
 意味ありげな視線で、わざとらしく言葉を切る。
「先生、えらく具合が悪そうな、蚊の鳴くような声出してはったそうアルよ。尋ねてみたら、腹が痛くて動くのも辛いって言わはったネ」
「そっ…そりゃ、心配だな。もしかして、ジョーの風邪が伝染ったんじゃねぇか? いやー、医者って仕事も大変だなー」
「安心するヨロシ。先生、完全な健康体ネ。ハライタの原因は、病気でも何でもなくて…」
 そこで、ジェットにずい、と詰め寄る張々湖。
「筋肉痛だったアル」
「ありゃー、そりゃどうも…」
「ジェットォ!」
 こりゃやばいと思うより早く、張々湖の怒声が飛んできた。隣ではグレートが面白そうになりゆきを見物している。おい、張大人…もしかして、これも作戦の、うちかよぉ…。
「どうせおまはんが、わてらの普段の生活、面白おかしくくっちゃべったんやろ! …いいか、ジェット。石原先生にとって、わてらはヒーローなんアルヨ! 強くて優しい、正義の味方ネ。そのかっこいいイメージを、わざわざ自分でぶっ壊す阿呆がどこにいるアルか!」
 んなこと言われてもよぉ…ジェットはかすかに口を尖らせたが、現在の状況では張々湖を怒らせたままにしておくのはまずい。ここはさっさと機嫌を直してもらうに限る。
「そうカッカするなよ、張大人。俺が話したのはジョーのことだけなんだから」
「本当アルか?」
 ほんのわずか、ほっとしたような張々湖。
「本当の、ホントだってば。大体、元はと言えば先生がジョーの話を始めたのがきっかけなんだぜ?」
 そして以下、ジェットの釈明。
 男二人の深夜のドライブ。いつもなら色気のかけらもない道行きにうんざりするはずだったが、話し好きで話題も豊富な石原医師が一緒ならさほど退屈もしない。他愛ない莫迦話に興じているうちに、ふと訪れた沈黙。
「こんなこと言ったら、気を悪くされるかもしれませんが」
 突然話題を変えたのは、確かに石原医師の方だった。
「島村…クンって、可愛いんですね」
 あの一瞬だけは、この先生、危ない趣味の持ち主かと冷やりとしたもんだったが。
「あ、決して変な意味じゃありませんよ。ただ、あの事件のとき僕を助けてくれた彼とはあんまり、イメージが違っていたもんだから」
 ああ、そんならわかると、ジェット、納得。
「これは別に彼に限ったことじゃなく、皆さん、そうだったんですけど…あのときの島村クンは、冷静で、勇敢で、強くて…子供のころに憧れていたヒーローそのものでした。でも、風邪ひいて、ベッドで寝ている彼を見たら何だか、えらく小さな子供みたいに思えたんです。僕、弟が一人いるんですけどね。この三日間、僕は何だか、小学生の頃の弟を看病してるみたいな気分でしたよ」
 『皆さん、そうだった』というのが『ヒーローそのもの』と『小さな子供みたい』、どちらにかかるのかはともかくとして、他の部分についてはジェットにも異論はない。
「確かに、そうだろうなぁ。戦ってるときのアイツと、普段のアイツとはまるで別人だから」
「へぇ…。じゃ、普段はどんなふうなんです?」
 ルームミラーの中、いかにも好奇心丸出しで身を乗り出してきた石原医師自身の顔も、まるで憧れのヒーローの秘密を聞きだそうとしている小学生そっくりに見えたのだ、とジェットは懸命に訴えた。
「でもって俺、何か先生の方が可愛く思えてきちまってよ」
「ついつい、ご要望に応えてジョーの日常を話しちまった、いうわけアルね」
 張々湖の表情からは、大分怒りが消えていた。

 


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