紫の少女 2


「でもよ、腹が筋肉痛起こして身動きできなくなるってのはかなり強烈だぜ。お前、一体どんな話し方したんだ」
 グレートのさりげないツッコミに、張々湖の眉毛が再びびくん、と吊り上る。
「え…そりゃ、別人、つったって基本的なとこは同じだ、ってさ。あいつは普段だって運動神経いいし、見てくれもあの通りだろ? 知能指数だって結構高い方だと思うし、弱いものには優しいし、って…」
「ずいぶんとまあ、褒めちぎったものアルね。で、後は?」
 張々湖の声が、妙に冷静なのが恐ろしい。
「後は…うん、性格的なところをもう少し詳しく…」
「もっと具体的に、言ってみるアル」
 もう言い逃れはできない。ジェットは覚悟を決めた。
「とにかく、すごくいい奴だっていうことは言っといたんだぜ。ただ、人格が根本的にパステルカラーで、しかもほんわかグラデーションが入ってる。つまり、優しくて、甘くて、お子様で…時々、信じられない些細なことで傷ついたり悩んだりするくせに、変なところで超鈍い。特に色恋沙汰に関しての鈍感さは世界遺産もんで、恋愛感覚の発達度合は三歳児並だ、ってまあ、そんなところかな。ついでに、それを裏付けるエピソードもたっぷりと…話したけどよ。何てったって、相手は医者なんだ。漠然とした印象なんかより、客観的事実ってやつを示してやらねぇと納得しないだろ」
 完全に開き直って一息に言い切ったジェットの前で、張々湖とグレートは顔を見合わせ、ため息をついた。
(ま、確かにそれはそうアルけどねェ)
(運転手をジェットに任せたのが、運の尽きだったな)
 戦闘中こそリーダーシップをとるものの、ひとたび戦場を離れてしまえば、ジョーは仲間内では最年少の弟分扱いである。もちろんそれは、決して莫迦にしているとか見くびっているとかいうわけではない。誰も皆、このようやく少年から青年へと変わりつつある年若い仲間を心から大切に思い、あれこれ気遣っているのだ。ただ、時折ちょっとからかってみたり、遊んでみたくなるのもまた、人情というもので。
 要するに、ジョーは仲間たち全員にとても可愛がられているということなのだ。…いろいろな意味で。特にジェットは、自分自身も他の連中から同じような扱いを受けている所為か何かとジョーにちょっかいを出したがる。同い年とはいえ、生まれ月でいえばジェットの方が三ヶ月ほど早いから、彼とすれば唯一年下の相手に兄貴ぶって見せたくて仕様がないのだろう(ちなみに、イワンは別格である。この赤ん坊に下手なことをしたら、その後の運命の保証はない。いかに百戦錬磨のサイボーグ戦士とはいえ、そこまで命知らずな者がいるわけがない)。何にせよ、普段のジョーの様子を仲間内で最もよく知る者の一人がジェットだというのは、困ったことに紛れもない事実なのであった。
(ジョーも災難アルね。気の毒に…)
(でもよぉ…アイツがまた、からかいやすい性格してるのも事実なんだよな)
(本質的に真面目な子なんやろ。何でもすぐ本気になって、真剣に考えちまうヨ。そのくせ、めったに怒らないし…)
(暇つぶしに遊ぶにはおあつらえ向きの人材だな)
 これが、普段の自分の立場を自覚した上での寛容さだとすれば、とんでもない大人物である。しかし、もしそうでなければただの…
 その先はあえて言うまい。見交わした相手の目に自分と全く同じ思いを見て取った中年男…じゃなかった、ナイスミドル二人は、もう一度、深い深いため息をついたのであった。
「どうしちまったんだ? 二人とも、急に黙り込んで」
 ジェットにしてみれば張々湖とグレートがあまり静かなので拍子抜けした気分である。
「別に。何でもないアルよ」
 どこか疲れたような張々湖の応えが返ってきた。だが、グレートはいまだ沈黙している。
「グレート?」
 さすがに心配になったジェットがその肩をちょん、とつつくと同時に突然の大声。
「そうか! それじゃやっぱり、今モデルを頼めるのはお前さんたち二人しかいないんだなっ!」
 ジェットの全身から、血の気が引いた。
(どーしてここでわざわざ思い出すんだよっ!)
 今までの努力が水泡に帰す、ぶつぶつという音まで聞こえてくるような気がする。助けを求めて張々湖を見ると、いつの間にか茶碗と急須を載せたお盆を手に、忍び足で部屋から抜け出そうとしているところだった。
「張々湖っ! 一人だけ逃げ出そうなんて、汚ねえぞっ!」
「何言うアル! これ、ジョーに持ってってやるネ! 熱下がっても、風邪は脱水症状が一番怖いのことヨ!」
 そういってそそくさと逃げようとした背中に、再びジェットの声が飛ぶ。
「待った! そんなら俺が持って行ってやるよ。いや、絶対持って行く!」
 言い終わったとき、すでにその手には張々湖からひったくったお盆がしっかりと抱えられていた。
「ジェット! おまはんこそ、一人で逃げる、ずるいアル!」
「大丈夫だ。グレート、後五分だけ待ってくれ! そしたら、飛びっ切りのモデル連れてきてやるからなっ!」
 声だけ残して部屋を走り出て行ったその姿を見送りながら、グレートと張々湖はしばし呆然と立ち尽くしていた。

 一応の礼儀ではあるが、なるべく柔らかにジェットはドアをノックした。もしかしたら眠っているかもしれないから返事は待たない。できるだけ静かにドアを開け、部屋に入る。意外なことに、部屋の主は目を覚ましていた。
(あ…ジェット)
 唇の動きから、かろうじて自分の名前を読み取る。張々湖が言った通りだ。こいつ、まるっきり声が出ねぇらしい。
「あ、いいからいいから。気、遣うなよ」
 ベッドから起き上がろうとした相手を、すかさず押しとどめる。
「熱はどうした、ジョー。もう、下がったのか」
(うん…もう大丈夫だよ。今日は大分気分もいいし…痛ッ)
 思うように声が出ないので脳波通信機で語りかけてきたジョーは、途中で急にこめかみを押さえ、顔をしかめた。
「莫迦。まだ本調子じゃねぇんだ。そんなもん使ったら脳ミソに余分な負担がかかってまた、頭痛くなるぜ。そんなことより、ほれ、張大人からの差し入れだ。烏龍茶。脱水症状が怖いって心配してたぞ。飲んでみるか?」
 にっこりと笑ってうなづいたジョーの背中を支え、ゆっくりと起こしてやる。茶色の瞳がいつもより潤んで、どこか儚げな風情に見えるのは熱の所為だろうか。体に触れた限りでは、もうさほど熱いとは感じないのだが。
(何か、軽くなっちまったなぁ。ま、仕方ないか。こいつ、しばらくもの食えなかったわけだし)
 両手に湯飲みを抱えたジョーがのどを鳴らして茶を飲み干したのを見届けて、ジェットは再び大事な親友兼弟分の体をベッドに横たえた。
「じゃまた、少し眠れよ。夕メシの時間にゃ起こしてやる。お前、少しは食えるようになったんだろ?」
 横になったままで顔だけこちらに向けたジョーがもう一度、うなづく。最後に、その唇が再び動いた。
(あ、り、が、とう…)
 いいってことよ、と手を上げて見せると、安心したように微笑んで、目を閉じる。しばらく待つまでもなく、その口元からは規則正しい寝息が漏れてきた。
(どうやら、眠ったらしいな)
 ベッドの脇にたたずんで、ジェットは一人、満足そうな笑みを浮かべた。

「ほい、お待たせ!」
 ジェットが戻ってきたとき、張々湖とグレートの二人はまだそこに立ち尽くしていた。勢いよく開いたドアの音にはっと振り向いた二対の目が、ジェットの抱えているものに気づき、まん丸に見開かれる。
「連れてきたぜ、モデル」
 誇らしげに宣言したジェットがそうっとソファに置いたそれが何であるかを知って、今度は二つの口が揃って驚愕の叫びを上げた。
「ジェット…?」
「何考えてるアル…」
 そこにはしっかりと毛布に包まれたジョーが安らかな寝息をたてている。
「さー、グレート。思う存分やってくれ。シェイクスピアでもカブキでもキョーゲキでも、好きにしていいぞ」
 一人、うきうきと上機嫌のジェット。完全に、自分の所有物と勘違いしている。もしも戦場で、ジョーが絶体絶命の状況に追い込まれているときには自らの命も顧みずに助けに行くくせに、今、その同じ相手を自分の身代わりにメイクのモデルとしてグレートに献上することに関しては良心の呵責などこれっぽっちも感じていないらしい。
「冷えないようにちゃんと毛布ごと持ってきたんだから安心しろって」
「冷えないように、って饅頭じゃないアルよ。ジョー…、ジョー? 大丈夫アルか?」
 心配そうにジョーの頬を二、三度つついた張々湖が訝しげな顔になる。
「ずいぶんとよく、眠ってるアルね」
「そりゃそうだ。こいつを飲ませてあるからな」
 ジェットがシャツの胸ポケットから白い錠剤のシートを取り出す。
「いつだったか俺が大怪我したときあったろ。あんとき、昏睡状態が一週間以上も続いた上、まともに動けるようになるまでずっとうつらうつらしてた所為で、睡眠リズムが完全に狂っちまったんだよな。で、ギルモア博士が処方してくれたのがこいつだ」
「睡眠薬アルか!」
 ぎょっとした張々湖に、ジェットは大きくうなづいてみせる。
「即効性の上、超強力。たった一粒で八時間はぐっすり眠れるシロモノだ。もっとも、今回はそんな長く眠らせる必要もないし、四つにぶち割ってその一欠けだけ、飲ませた。さっきの烏龍茶に溶かしてな。八割る四で、二時間は絶対に目を覚まさないぜ」
 いくら何でもそこまでやるか。唖然として、言葉を失う張々湖。だがジェットはそんな彼の表情になどお構いなく、傍らのグレートを懸命にたきつけている。モデルになるのが自分でさえなければこれほど面白い見ものはない、とでも思っているのだろう。で、グレートはというとかなり真剣な表情で、ジョーの寝顔と木箱の中の化粧品を見比べながら何やら考えにふけっている。張々湖は、事態がすでに自分の手の及ばないところまで発展していることを察してがっくりと肩を落とした。その傍らで、残る二人は異常なほどに盛り上がっている。
「おい、やっぱジョーならカブキだろ。日本の文化と伝統には敬意を表さなくっちゃな」
「うむ…ならば一つ、正義の味方の派手な紅隈で行こうか。ジョーには悪役の藍隈は似合わんだろうしな。…俺の好みでいけば助六か狐忠信…さて、どちらにするか」
 ジェットや張々湖には訳のわからない専門用語をつぶやきながら木箱の中をかき回していたグレートの手が、ふと止まる。一瞬の、驚いたような、哀しそうな表情。それがさらに、どこか諦めたような、やるせない表情になり、そして―
「おい、ジェット。予定変更だ。カブキはやめ、やめ」
 ええ〜、と露骨に落胆するジェットに、グレートはにやりと笑って見せる。
「そんなにがっかりするな。カブキの変わりに『スリーピング・ビューティー』ってのはどうだ? 似合うと思うぜ」
「おおおっ! 『眠り姫』! いいぞっ。やれやれ、グレート!」
「では、ご要望に応えて」
 グレートが腕まくりをし、眠っているジョーの上に屈みこむ。反対側から覗いているジェットの顔は期待で一杯、青い瞳がきらきらと輝いている。そんな二人をはらはらしながら見守りつつ、張々湖もまた、好奇心のあまりそこから離れることができないままでいた。

 さすがに、グレートの手際は見事だった。あっという間に、目の前の少年が少女へと変わっていく。いじくられている当人にとっては迷惑極まりない話だろうが、少なくともそれが、とことんまで鍛えられたプロの業であることだけは否定のしようがなかった。
「ほい、これで最後の仕上げだ」
 モデルの肩に腕を回し、ほんの少し起き上がらせて、どこから取り出してきたのか栗色の長い髪の鬘をかぶせるまで、時間にして三十分ジャスト。グレートが満足そうに大きく息をつき、額の汗を拭う。
「やっぱ、ジョーにして正解だったな。東洋人ってのは肌がきれいだし、顔立ちも子供っぽいから男でも女でも好きなように作れる。女顔のメイクなんて久し振りだったが、なかなか上手くできただろ?」
 自慢げなグレートの言葉など、ジェットと張々湖の耳には入っていない。ただ、吸いつけられるような眼差しでベッドの上の「眠り姫」を見つめているばかりである。
 元の色より幾分白めに整えられた、滑らかな肌。いつもよりやや細めにカットされた眉はなだらかで優美な曲線を描き、そのすぐ下で軽く閉じられたまぶたは微かに紫の入った青に、ほんの少し染められている。もともと長めの睫毛には、それとわからぬほどわずかに施された付け睫毛がさらなる陰影を加え、下まぶたに落ちる影が、何故だかえらく艶めかしい。ほんのりと淡い紅が刷かれた頬にはシミ一つ、黒子一つ見つけることはできず、それと同じ、鮮やかな珊瑚の朱に彩られた唇はふっくりとつややかで、心もち開いているのがまた妙にあどけなく、無防備で―まさに、「眠り姫」そのものの美しさ、清らかさ、そして可憐さ―
「す…げ…こりゃまさに、芸術品だぜ」
「まさか、ジョーがこんなんなるとはね…おっそろしいモンアルな…」
「舞台化粧としちゃまだまだ控えめな方だぜ。でもさすがにこれだけ変わってくれるとやり甲斐もあるってもんだ」
 息を呑み、言葉すら失ってしまったジェットと張々湖をよそに、グレートはまだ手を入れたいところがあるのか、あくまでも冷静に自らの「作品」を検分している。
 そんな三人の男の目の前で、不意に「眠り姫」は苦しげに眉をひそめたかと思うと、激しく咳き込み始めた。
「げ…どうしたんだ!?」
「寒いんじゃないアルか? 毛布一枚じゃ、やっぱり無理があったアル!」
「とにかくベッドに戻せ、ベッドに!」
 三人がかりで、壊れ物を扱うように慎重に、丁寧に―自分の部屋に送り届けられた「眠り姫」は、再び安らかな寝息をたて始めた。
「おい…これ、元はジョーだろ!? 男だろ!? 何だってこんな気ぃ遣わなけりゃならないんだよ!」
「しぃっ、ジェット! 目、覚ましちまうアルよ!」
「とにかく俺たちは一旦リビングに戻ろうぜ」
 戻れば戻ったでさらに一騒動である。これでグレートの気も済んだのだから、目が覚める前にメイクを落としてやれという張々湖と、面白いからみんなにも見せてやろうと主張するジェットの、喧々囂々たる言い争いになってしまったのだ。ジョーに悪いと思いつつも、自分の「作品」には大いに未練のあるグレートはどちらにもつけず、煮え切らない態度のままでいる。いつまでたっても決着のつかない口喧嘩の後、張々湖がとうとう、切り札を出した。
「ジェット。おまはん、みんなにも見せるいうことは、当然フランソワーズにも見せるつもりでいるんやろな」
「!」
 痛いところを突かれたジェットがぐっと言葉に詰まる。
「びっくりするアルやろねー。大事なジョーが、留守の間に女の子に変身させられてると知ったら…それも、だまくらかされて、薬まで飲まされて…」
「俺は別に、だまくらかしてなんかいねーよっ」
「そうであれどうであれ、好きな男を自分に匹敵するくらいの美少女にされて驚かない女がどこにいるアル! その後は、わて知らないアルよ」
 ううう、と悔しげに唸ってジェットは肩をすくめ、アメリカ人特有の「お手上げ」のポーズになった。
「くっそー、仕方ねえな」
 無理もなかろう。ある意味では00ナンバー最強と噂されるフランソワーズである。
「でもよ、せめて記念写真の一枚くらいは撮ってもいいだろ? ちょっとデジカメ取ってくる。それまで、絶対にメイク落とすなよ!」
 そう言い捨ててどたどたと二階に駆け上がって行ったのは、不屈の意志というべきか、懲りない性格というべきか。そんなことを考えている間もなく、今度は階段を駆け下りてくる足音。
「よーし、それじゃさっさと写真撮って、後始末しちまおうぜ」
 張々湖とグレートを急かしながら、ジェットは何の気なしに手にしたデジカメの電源スイッチを入れた…と同時に、あれ? と首をかしげる。
「どうしたアル?」
「ス、スイッチ入れてもオンにならねぇよ、これ!」
「電池切れか?」
「乾電池どこだ、乾電池!」
 またしても、繰り返される大騒ぎ。だが、いくら探しても目当てのものは見つからない。
「やべぇよ…早くしねぇとあいつらが帰ってきちまうじゃねぇか」
そんな呟きが、まるで呼び寄せてしまったかのように。
「ただいま。…あれ? どうしたんだい、みんなして」
 不意に響いた、穏やかな声。いつもなら、誰もが心の拠り所としている理知的で、落ち着いた響き。だがこの場にいた三人にとっては、最後の審判の七つのラッパの音色か、敵襲を告げる緊急警報のベルの音の方がまだマシだったろう。
「ピュンマ!」
 三人の叫びの向こう、すらりと長身の黒人青年がドアに手をかけたまま不思議そうに首をかしげていた。その背後には仲間たちの守り神たる巨人、ジェロニモの姿も見える。
「ジェロニモ…お前ら、帰ってきちまったのかよ」
 へたへたと尻餅をつくグレートに、ピュンマとジェロニモはますます不審そうな表情になる。
「何だよ…帰ってきちゃいけなかったような口ぶりだな」
 かすかにむっとしたように口を尖らせ、ピュンマがジェロニモとともにリビングに入ってくる。
「病人抱えて、留守番が三人だけじゃ大変だろうって、これでも必死に車を飛ばしてきたんだぜ。どうしたんだ、ジェット。デジカメなんか持ち出して」
 問い詰められたところで、何をどこから話せばいいのか。頭を抱えたジェットの脳裏を切り裂いた氷の稲妻。
「おいっ! フランソワーズはどうした! お前らと一緒に帰ってきたんだろ、えっ!?」
「あ…? ああ、買ってきたものをキッチンにおいて、ジョーの様子を見に行くって…ほら、僕らが出かけたとき、まだ眠ってただろう」
 あまりの剣幕に圧倒されたように後じさるピュンマの傍らを、文字通り飛鳥のような素早さで赤い髪がすり抜ける。
「キッチンだな、サンキュ!」
 だが、時すでに遅し。ジェットがキッチンに向かって猛ダッシュをかけるよりも早く、
「きゃああああぁぁぁぁっ!!」
家中に絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「あーあ…今日は一体、何回悲鳴を聞けば済むんやろねェ…」
 深く―深くうなだれた張々湖が、疲れ切った口調でやっと、それだけ言った。

 そして。舞台は再びジョーの部屋。ベッドを囲む四人の男たちは、無言のままただ、立ち尽くしていた。
 ベッドの上に横たわる「眠り姫」を一目見た途端、口をあんぐり開けたまま固まってしまったピュンマ。
 常に泰然自若たる光をたたえるその目をほんのわずか見開き、かすかに搾り出すような唸りを上げたジェロニモ。
 そんな二人からわざと視線をそらし、何故かドアの向こうばかりを気にしているジェットとグレート。
 フランソワーズと張々湖の姿はこの場にはなかった。
 買い物から帰ってきてジョーの部屋に入った途端、ベッドに眠るモノを見て悲鳴を上げたフランソワーズは、そのまま逃げるように走り去り、自分の部屋に閉じこもったままである。固く閉ざされたそのドアの前では、張々湖が必死になって事情を説明していることだろう。そっちの方はもう張々湖を信じて全てを任せるしかない。
(だけどこっちはやっぱ、俺たちが話すっきゃないんだろうなァ…。ま、いつも冷静沈着なピュンマとジェロニモのこんな表情が見られたんだから、後はどうでもいっか)
「おーい、お二人さん。俺の声、わかるか〜?」
 ジェットが目の前で手のひらを二、三度振ってやると、ようやく二人がこちらを振り向く。しかしその目はまだ、完全にどこかへトリップしていた。

 一方、一番厄介な役割を押し付けられる羽目になった張々湖はというと、額一面に汗の玉を浮かべ、一向に開く気配のないドアに向かって懸命に話しかけていた。
「だから、みんな全然悪気はなかったんアル。元はといえばグレートが、学生時代の憧れのヒロインをどうしても忘れられない、言うて…ジョーだって、決して自分から望んだわけじゃないネ。どっちかいうたら完全に被害者ヨ。だまくらかされて、知らないうちにああなってたんやから…」
 ピュンマとジェロニモの帰宅時点で完全に気が動転してしまった上に、こうして身振り手振りを交えて夢中で話し続けたおかげで、その説明がすっかり支離滅裂になっていることにまるで気づいていない張々湖であった。
「もしジョーが気がついたらどうなるか、わても心配でたまらないアルね。フランソワーズ、お願いだから出てきて、わてと一緒にみんなを説得して…」
 不意に、ドアがかすかな音を立ててわずかに開いた。隙間から、目を真っ赤に泣きはらしたフランソワーズの顔がのぞいている。まだ涙に濡れたままの水色の瞳が、寂しげに微笑んだ。
「もう、いいわ…大人。わかったから…でも、お願い。少しの間だけ、一人にさせておいて…ほら、こんな顔じゃみんなの前に、出られないでしょう?」
「わかってくれたか、フランソワーズ! それならもうわて、何も言うことないアルよ。大丈夫ネ。後はわてに任せて、気分が落ち着くまで好きなだけ休むヨロシ」
 嬉々として引き上げていく張々湖の背後で、ドアはまた、かすかな音とともに閉じた。

 その頃には、ようやく事情を呑み込めたピュンマとジェロニモも、いくらか自分を取り戻しつつあった。
「なるほどね。それじゃあ、グレートの気持ちもわからないではないな」
 そう言うピュンマの声は一応普段の調子に戻っている。
「思い出は、誰にとっても一番大切なモノ」
 ジェロニモもいつも通りの口調でそう言ってくれたので、グレートとジェットはほっと胸をなでおろした。そればかりか。
「だけど、本当に綺麗だな。最初に見たときは息が止まるかと思った。これがジョーだなんて、信じられないよ。…さすがグレート、演技だけじゃなくメイクの腕も超一流だね。なあ、ジェロニモ」
 ピュンマのこの台詞と、それにしっかりとうなづいてくれたジェロニモ。グレートはそれだけで、飛び上がらんばかりの喜びようである。
「おお、わが友の惜しみなき賛辞をこの身に受け、心は歓喜の美酒で満たされり…ありがとうよ、ピュンマ、ジェロニモ。お前らがそう言ってくれただけで俺はもう十分だ。さてそれじゃ、名残は尽きぬが、この美しき眠り姫にいざ、別れを告げるとするか」
「そうだね。フランソワーズはかなりびっくりしたみたいだし、ジョー本人だってこんな自分を見たらまた熱が上がっちゃうよ。まだ完全に治ってないんだから、なるべくそっとしておいてやろうぜ」
「それに、もうすぐ一番のうるさがたが帰ってくるし、ってか? 俺としちゃ、あの堅物にこの『眠り姫』を見せたらどんな顔をするか、是非見たいのが本音だけどな」
 おそらくジェットは何の気なしにそう言ったのだろう。しかし…
「一度あることは二度ある(以下略)」。さもなきゃ、「歴史は繰り返す」。
「誰が堅物で、どんな顔が見たいって?」
 ドアの方から聞こえてきた深い響きのテノールに、四人ははっと振り向いた。
「アルベルト…!」
 ほとんど銀色に近いプラチナ・ブロンドと薄氷の瞳を持つ男が、床に置いた大きなトランクに片手をつき、にやりと口元だけの笑みを浮かべていた。
「お前ら、ちょっと冷たいんじゃないか? せっかく博士が帰ってきたのに迎えにも出ないで」
「まあまあ、アルベルト。あまり責めるんじゃない。どうしたんだ? わしが発ってからジョーが体調を崩したと聞いたが…」
 その後ろからギルモア博士が心配そうに顔をのぞかせ、部屋に入ろうとしたとき。
「アイヤー、博士、アルベルト! もう帰ってきたアルか? 意外と、早く着いたネェ!」
 フランソワーズの部屋(正確にはドアの前)から帰ってきた張々湖の嬉しそうな声が響いた。たちまち、ジェットとグレートが走り寄る。
「大人! どうだった? フランソワーズは」
「ショックのあまり、手首切ったりしてなかったか?」
「大丈夫ネ。ちゃんと話したらわかってくれたのことヨ。二人とも、安心するヨロシ」
 ひそひそと交わされるそんなやり取りは完璧に無視して、アルベルトは大股な足取りで部屋に入る。みんながただ見舞いに来たにしてはどうもおかしな雰囲気を敏感にも察してしまったらしい。その後には心配そうな顔をしたギルモア博士が続く。アルベルトの薄氷色の瞳と博士の灰色がかった鳶色の瞳が、ベッドの中を同時に覗き込んだ。
「ひぇっ!」
 博士の喉が、しゃっくりの出来損ないのような音をたてた。そして、そのまま硬直。さながら先ほどのピュンマとジェロニモを見ているような、お約束の反応である。
 そして、アルベルトは。
「ホウ…!」
 一瞬への字になった唇の片側だけが、やがてゆっくりとつり上がる。「死神」の、皮肉な笑み。
「絶世の、美女じゃないか」
 耳に届いた意外な言葉に誰もがあっけに取られた、その中を。
「おお、アルベルト! お前までそう言ってくれるのか。わが心の美酒は今こそ溢れ、喜びの涙とならん! ありがとうよ!」
 駆け寄ったグレートの目の前で、アルベルトはさっと両手を組んだ。握手を求めようとしたグレートの手が、空しく空を切る。
「莫迦。俺はただ、単なる客観的事実を述べただけだ。…で? どうしてジョーがこんな美少女になっちまって異常にぐっすり眠り込んでるのか、理由を聞かせてもらおうか」
「異常にぐっすり…そんなことまでよくわかるな、お前」
「傍でこんだけ大騒ぎしてるのに目を覚ます気配すらないのを見れば、わかって当然だろう。くだらないことをいちいち聞くな」
 氷の一瞥。そこで再び―今度はグレートが―フランソワーズが悲鳴を上げて部屋に閉じこもってしまったというところまでを含めて全ての事情を話す羽目になった。




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