第十一章 真実


 藤蔭医師は前回同様、約束の時間きっかりに現れた。ジョーとフランソワーズの体が無意識のうちに強張る。と、ジェットがぽん、とジョーの肩を叩いた。
「安心しろや。あの先生、悪い奴じゃねえぜ」
 はっとしてアルベルトの方を見ると、薄青い瞳をちらりとこちらに向けて、小さくうなづく。ついこの前まであんなにも藤蔭医師を敵視していた二人が、昨日以来手のひらを返したような態度に出たことに、ジョーはかすかな不安を覚えていた。
(でも、特におかしな様子は…ないよな…)
 洗脳されたり催眠術にかけられたりしていては、とてもこんな、しっかりとした澄んだ瞳ではいられまい。
 それでもなお、ジョーはせめて自分の方が先に呼ばれることを祈っていたのだが、
「…じゃ、フランソワーズさんから始めましょうか。五分後に、書斎にお越し下さいね」
 残念ながら藤蔭医師が口にしたのは、自分の名前ではなかった。
 不安を抑えきれずに傍らの少女を見れば、しっかりとした水色の視線が見返してくる。
(大丈夫よ)
 その細い、白い手でジョーの手をしっかりと握り締め、フランソワーズはゆっくりと書斎の中に消えていった。

「どうぞ。そちらの椅子におかけ下さい」
 藤蔭医師の手の動きは、バレリーナの目から見ても非の打ち所がないほどに美しい。フランソワーズは幾分ぎこちない会釈とともに、指し示された椅子に腰掛けた。
 と、藤蔭医師が立ち上がり、深々と頭を下げる。
「まず…貴女には謝らなくちゃね。一昨日は、ごめんなさい。私の所為で、辛いものを見せてしまって…」
 フランソワーズは小さく息を吸い込んだ。…やはり、あの幻は藤蔭医師の…?
「あの夜…このあたりには珍しいほどの吹雪だったでしょう。夜に降る雪を見ていると私、ちょっと嫌なことを思い出して滅入っちゃうのよ。あの時も、そうだった…で、ここは一つストレス解消に大声出して歌でも歌ってみようか、って気になったの。貴女がもう眠っていることは気配でわかったし、睡眠中の貴女の『目』と『耳』が常人レベルに抑えられることも私は知っていた。それでも万が一の用心にあそこまで出て行ったんだけど、結局は全然役に立たなかったみたいね。まさか、私の声ではなく感情そのものが貴女に届いてしまうなんて…私の力はそんなに強くないはずなのに…。ううん、どちらにせよ私の配慮が足りなかったことには違いないんだもの。…本当に、お詫びの言葉もないわ。でも、あれはあくまで、ただの幻。私の暴走した感情が貴女に同調して、貴女に一番わかりやすい映像となって現れただけなんだから、現実とは何の関係もないのよ。それだけはわかってね」
「藤蔭先生…?」
 いきなりそんなことを言われても、フランソワーズには何が何だかわからない。
しかし、ゆっくりと考えている間もなく。
「それに、謝らなくちゃいけないことはもう一つ、あるのよね。貴女に…と言うより、貴女方全員に」
 思いがけないことを言われて、水色の瞳がはっと藤蔭医師の顔を見る。漆黒の瞳がそれに優しく微笑みかけた。
「ずっと…嘘をついていたわ。医者は医者でも、実は私、精神科医なの。内科の健康診断の解説なんて、まるっきり専門外なのよ。…ごめんなさいね」
 ぽかんと小さく口を開けたフランソワーズの頭から、先ほどの幻の件はすっかりどこかへ行ってしまっていた。

「ギルモア先生がね、とても心配していらしたのよ。貴女方のこと」
 藤蔭医師の静かな声が、書斎に響く。
「この半年ほどの間だったかしら。海外で暮らしている貴女の仲間たちが、これといった用事もないのにたて続けに日本に帰ってきたでしょう。ギルモア先生はまずそれを不審に思ったんだわ。しかも、帰ってきた人たちはみんなどこか疲れて、何か悩みを抱えているように見えた。しかも、よく観察してみるとそれは帰省組に限ったことじゃなく、日本を拠点にしている人たちも同じだと気づいて…不安でたまらなくなったギルモア先生は、こっそりコズミ先生に相談したのね。もっとも、あの可愛い赤ちゃん、イワン坊やにはすぐに気づかれて、無理矢理仲間に割り込まれたみたいだけど。まあ、それはともかく。ギルモア先生の一番の気がかりは、みんなの悩みの原因が自分の身体―サイボーグになってしまった自分自身であったらどうしよう、ということだった。問い質して、相談に乗ってあげれば済む話だったかもしれない。でも、貴女たちをサイボーグにしてしまった張本人であるギルモア先生には、どうしてもそんなこと…訊けなかったのよ。…先生はそのことを心から後悔していらっしゃる。一生かけても、貴女たちに償うことはできないと自分を責めていらっしゃる。『だがそれでも、せめて…せめて平和な時間だけは、みんなに幸せでいてもらいたい』…そう言って、ギルモア先生は泣いていらしたそうよ。コズミ先生の、目の前でね…」
 フランソワーズは小さくうなづいたまま、顔を上げることができなかった。目頭が熱い。鼻の奥が、つんと痛い。喉の奥に何かが詰まったようで、呼吸をするのさえ苦しかった。
(ギルモア博士…そんなにも、私たちのことを気遣っていて下さったんですか…? そんなにも…まだ…私たちに遠慮していらしたんですか? 私達はもう…貴方を心から…許しているというのに…)
 こぼれそうになる涙をそっと押さえる少女に、藤蔭医師はなおも話し続ける。
「そうこうしているうちに、コズミ先生が思いついたのよ。何かしらの名目をつけて、みんなにカウンセリングを受けさせたらどうかってね…。で、石原君…いえ、石原先生も仲間に引きずり込んで四人で相談した結果、白羽の矢が立ったのが私ってわけ」
 カウンセリング。それならば、納得できる。一人一人の説明にあれほど時間がかかったのも、書斎から出てきた仲間たちが皆、放心して何やら考え込んでしまったのも。
 が、それでも残るかすかな疑問。フランソワーズはおずおずと顔を上げ、藤蔭医師を見る。
「あの…先生。お話はよくわかったんですが…カウンセリングって言っても、先生はみんなと一回ずつしかお会いになっていらっしゃいませんよね? 私、心理学にはあまり詳しくないんですけど…それって、そんなに簡単に終ってしまうものなんでしょうか?」
 それを聞いて、藤蔭医師が満足そうに微笑んだ。
「頭のいい方ね。…そう、貴女の言う通りよ。カウンセリングなんて、とても一度やそこらで終るものじゃない。でも、私にはちょっとした特技があってね」
 漆黒の瞳が、きらりと光った。
「この世の全てのものには、生物、無生物に関わらずその存在の根本となるエネルギーがあるのをご存知? 熱エネルギーだの運動エネルギーだの、そんな物理学的なものじゃなくて、もっともっと深いところで存在そのものに関わっている大いなる流れ。もちろん、科学的には観測不可能だし、学会でも認められていないけどね。私達はそれを『気』と呼んでいるわ」
「『気』…? それって、合気道とか中国医学などでいう…?」
「うーん…厳密にはちょっと違うんだけど、ほとんど似たようなものだからそれでいっか、ってところかしら。『うちの連中』は何だかんだ言って結構いい加減だから」
 今度の笑顔は、悪戯好きの子供そっくりに見えた。
「まあ、そんなイメージでも間違いではないわ。で、それが具体的にどういうものかというとね…」
 声のトーンが一段落ちる。藤蔭医師が座っていた椅子をわずかに前に滑らせ、フランソワーズとの距離を詰めた。
「『気』の流れは実体そのものと密接に関わっている。心―精神を持つ生命体であればその精神ともね。人間の場合、肉体と精神それぞれを巡る『気』の流れが正常ならばその人は本来あるべき姿のままで健康に過ごすことができるけど、一度それが乱れるとたちまち病気になったり、最悪の場合は死んだりするわ。逆に、肉体や精神に変調をきたせば『気』の流れもまた乱れる。ということは、乱れた『気』を正常に戻してやれば、身体や精神の異常も治るってこと。この理論を応用しているのが中国医学よね。ただ、さっきも言ったように『気』というものは科学的には観測不可能だから、どうしても医師本人の勘とか、統計学的推論に頼らざるを得ない。だけど、もしそれを実体と同じように認識し、自由自在に操れるとしたら…かなり効果的な治療法だと思わない?」
 大きく見開かれた空色の瞳が震えだす。
「それって…まさか…?」
「ご名答。私は『気』の存在を実体と同じように感じ、それに触れ、ある程度は自由に操ることができる。そういう能力を持って生まれついちゃったのよ。もっとも、ほんのわずかな能力だから大したことはできないけどね。でも、人間の乱れた『気』を正常な状態に戻すことくらいなら可能だわ」
「それじゃ先生は、イワンと同じ…?」
 言いかけたフランソワーズに、藤蔭医師は小さく首を振る。
「残念ながら、イワン君と私の能力はまるで違うの。彼が超能力者なら、私は霊能力者…と言った方が近いかもしれない。死んでしまった―肉体を失ってしまった精神にだって、それを巡る『気』は確かにあるし、私にはどっちも同じように『わかる』しね。おまけに、イワン君と私の能力はどうやら相性が悪いみたい。今回の打ち合わせをしているとき、一回だけテレパシーを交わしたことがあるんだけど…その途端、二人ともとんでもない頭痛に見舞われたわ。情報伝達そのものは一瞬で済んだものの、あの時は本当に、これで人生終るかと思った。ギルモア先生たちも大慌てでおろおろ、どたばた…石原先生なんか走り回った挙句、自分も机の脚にけつまずいて転んじゃったの。可哀想に、すねに大アザ作っちゃったんですって」
 くすりと笑った藤蔭医師につられて、フランソワーズの唇からも小さな笑い声がもれる。が、藤蔭医師はすぐに真顔に戻って。
「まあそんな話はともかく、もし彼が私と同じことをしようとしたら、テレパシーで全員の心を読み取り、それぞれにふさわしい解決法を考えて、それをまたテレパシーで各自の心に送り込まなければならない。それって結構な手間だと思わない? しかもその場合、送り込まれた解決策はあくまでもイワン君の考えであって、当の本人自身が出した結論ではないという問題まで出てきてしまう。だけど、私には」
 漆黒の瞳が、真っ直ぐにフランソワーズを見つめた。
「みんなの悩みやその回答なんてどうでもいいのよ。…と言うより、そんなことまで探る能力はないの。ただ、その心を取り巻く『気』の乱れを修正するだけ。だからこそ、四人は私を選んだんでしょうね。彼ら自身の模索と決断、そしてプライバシーを尊重するために」
 寂しげな微笑。
「…ギルモア先生の懸念は見事に当たっていたわ。貴女の仲間たちの『気』は、どれもかなり乱れていた。当然、治療も力ずくよ。皆さんには辛い思いをさせてしまったと思う。正常に戻すためとはいえ、現在の『気』の流れを短時間で無理矢理捻じ曲げたんですもの。痛みや軋みはあって当然。自問自答とか、葛藤とか…きっと、精神にかかった負荷は限界ぎりぎりだったに違いないわ。…それでも、貴女の仲間は皆それに耐え、本来の姿に戻った。今後彼らがどういう決断を下すかはわからないけれど、少なくともそれは彼らが心から望んでいる道、自分に正直になって考え抜いた結果であるはずよ。それだけは医者として、自信を持って断言します」
 知らず、今度はフランソワーズが立ち上がり、藤蔭医師に向かって深々と頭を下げていた。自己の意思を無視され、サイボーグにされてしまった自分たちの運命を悲しみ、嘆き…自らの命を断とうとさえ思ったこともあっただけに。何よりも、もう二度と普通人の社会には受け入れてもらえないだろうと諦めかけていただけに。ギルモア博士同様、自分たちのために必死になってくれたコズミ博士、石原医師、そして藤蔭医師という「普通人」たちの存在が、涙が出るほどありがたかった。
 しばしの間はものも言えなかった彼女だったが、やがて再び顔を上げ…もう一つの質問を藤蔭医師に問いかける。
「先生…本当に、どうもありがとうございました。でも、もう一つお伺いしてもいいでしょうか。先生はこのことを、他の皆にもおっしゃったんですか? もし…そうでないなら、どうして私にだけ、こんなことを…?」
「…確かに、他の皆さんには話してないわねぇ」
 藤蔭医師が、面白そうに笑った。
「ではどうして貴女だけに? と言われたら…どう答えればいいかなあ。そうね、まず貴女とは、同じ女同士だから」
 意外な理由にきょとんとしたフランソワーズをじらすように、藤蔭医師は少々間を置く。
「それと、貴女の『気』がほぼ正常な状態だったからでもあるわね。…貴女が悩んでいないから、って意味じゃないのよ。サイボーグとして戦いに明け暮れなければいけない日々が、女である貴女にとってはどんなに辛いものだったか…同じ女だからこそ、私にはよくわかる。でも、貴女には…その苦しみを乗り越え、希望を持ち続ける為の拠り所がちゃんとあるでしょう」
 瞬時に真っ赤になったフランソワーズ。その反応を、藤蔭医師はどうやら楽しんでいる様子である。
「こればっかりは能力なんてあろうがなかろうが、誰だって見ただけでわかるわ。その名前は島村ジョー。サイボーグ…009ね?」
 もはやフランソワーズは言葉もなく、ただひたすら、耳まで真っ赤にしてうつむくばかりだった。
「恥ずかしがることなんてないわよ。誰かを一途に想い、その人への愛しさだけを唯一の武器にして、どんな状況でも戦い抜ける…それが女の強さですもの。ジェンダーの問題で全てを決めつけるのは私の主義じゃないけど、少なくともこの点だけは真実だと思うわ」
 と、その黒い瞳がふと翳って。
「ただ…そんな貴女の心に、ほんのわずか見え隠れする痛み。貴女の唯一の悩みの原因もまた、彼にあること。こうして貴女に何もかも話した、最後の理由がそれよ」

 


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