第十二章 フランソワーズ


 フランソワーズの水色の目が、不安げに揺らめく。藤蔭医師はそんな彼女をいたわるように、一層穏やかな、優しい声で再び話し始めた。
「恋をすれば誰でも、愛しい人の幸福を願う。それは当然だわ。でも、貴女が今考えていることは必ずしも二人の幸せにはつながらない。下手をすれば、貴女の恋を台無しにしてしまうかもしれないのよ」
 藤蔭医師の端正な顔が、厳しく引き締まる。
「彼は今回のカウンセリングで一番の難物だった。それはあの四人も同意見だったらしくてね。彼に関してだけは、話だけじゃなくイワン君に直接その人間像を伝えてもらったの。それが、さっき言った『たった一度のテレパシー交信』よ。でも、そうやって全てを知ったと同時に、私は正直どうすればいいのか頭を抱えてしまった…」
 こめかみを、神経質に叩いた細い指。
「彼は…一見穏やかで優しい人間に見えるし、その『気』もさほど乱れてはいないわ。にもかかわらず、その本当の心は冷たく凍てついた孤独でびっしりと覆われている。多分それも、貴女たちと―本当の仲間たちと出会ってからは大分溶け出してきてはいるんでしょうけれども、それでもなお、彼の心を取り巻く氷は厚く、硬い―」
 フランソワーズは唇を噛んだ。…藤蔭医師の言葉に間違いはない。戦闘中は別として、彼女はジョーの、怒った顔を見たことがなかった。仲間たちの親愛の情を込めた悪戯やからかいにも決して声を荒げることなく、いつだって、静かな微笑で全てを受け流して―
 それは彼の優しさの所為だと思っていた。いや、思おうとしていた。本当に気を許している仲間同士なら、時にはちょっとした衝突やささやかな口論があって当たり前だという事実からわざと…目をそらして。ジョーが自分たちに最後の最後で気を許していないという真実に、気づくのが怖くて。
 でも。もう逃げられはしない。覚悟を決めて、何もかも見据えなければならないときがきたのだ。逃げるわけには行かない。彼を―愛して、いるのなら。
「あの、藤蔭先生…。それはやはり、ジョーが…孤児…だったことに関係あるんでしょうか」
 きっと上がった水色の瞳。はっきりとした問いかけに、藤蔭医師もはっきりとうなづく。
「多分、ね…。まして彼の場合、事情がさらに複雑だから」
 気丈な態度を装ってはいても、かすかに全身を震わせているフランソワーズを見るのが辛いのか、藤蔭医師はそっと目をそらした。
「彼…ご両親の顔を知らないだけじゃなく、お父様の国籍すらわからないんですってね。…難しいわ。それって、自分の存在基盤がまるっきりないのと同じことですもの。加えて、混血児だ、孤児だというだけで不当に加えられた迫害や差別…昔、非行に走ったっていうのも無理はないと思う。そりゃあ、同じような状況でもたくましく、真っ直ぐに生きていく人間はいくらでもいるでしょうし、逆に両親や国籍がはっきりしているからといって必ずしも幸せになれるとは限らない。幼児や児童虐待は最近日本でも大きな問題になっているし、社会制度に問題がある国に生まれたばかりに苦しんでいる人間も地球上にはたくさんいるわ。…でも、それでも親や祖国ってのはありがたいものでね。出来が悪けりゃ悪い、ロクでもなきゃロクでもないで、憎まれることによってその人の自我を守るってこともありうるのよ。彼もいっそ、親を憎み、恨んでいてくれたならことは遥かに簡単だった…自我を支えるマイナスの感情を、愛や希望といったプラスの感情に少しずつすり替えてやればいいだけだもの。通常のカウンセリングだったらそれでもかなりの時間がかかるでしょうけど、私にならあっという間にできたはずだわ!」
 藤蔭医師の拳がだん、と机に叩きつけられた。
「なのに彼は…親に愛された記憶もないかわりに憎まれた記憶もない。親が自分をどう思っていたかさえわからないから、愛そうにも愛せない、憎もうにも憎めないままで生きていくしかなかった…そんな宙ぶらりんの魂を、一体どうすればいいっていうの!」
 激昂した感情を無理矢理抑えつけるように、藤蔭医師は大きく深呼吸した。
「まあ、ね…普通そういう状況に置かれたら、十中八九親を憎むに違いないのにそうしなかったことを考えると、彼は遠い記憶の中で、ご両親に深く愛されていたのかもしれない」
 フランソワーズの表情がぱっと輝く。しかし、藤蔭医師は深いため息をついて。
「ただ、それはそれで困ったことがあってね…」
 切れ長の瞳を染める憂いの影に、その輝きも一瞬にして失せた。
「彼がどれほど深く愛されていたとしても、生まれたばかりの赤ん坊のときだけ。要するに、一番可愛い時期ね。思うままに、好き勝手をやっていても無条件に愛される、人間の一番幸福な時代。でもそんなときはすぐに終ってしまうもの。だって、子供はいつまでも可愛いばかりではないでしょう? すぐに大きくなって、いろいろなことを覚えるにつれて時には悪さもするようになる」
 同意を求めるように見つめられて、フランソワーズはこくりとうなづく。
「兄弟や友達と喧嘩して泣かせたり、家族の大切なものを壊してしまったり…それを親に見つかればこっぴどく叱られて、時にはお尻の一つも叩かれてしまうわね? だけど、ちゃんと反省して謝れば、親は―特に母親は、必ず許してくれる。すなわち、人間が初めて体験する原初的な罪と罰、そして謝罪と許しの図式だわ。大抵の人間なら、成長とともにあっさりと忘れ去ってしまうささやかな思い出に過ぎないけど、これは実は極めて大切なことなのよ。たとえ罪を犯しても償う道は必ずある、心底から謝罪すれば必ず許してくれて、過ちを犯した自分でも無条件に受け入れてくれる親という存在がある、そう心に刷り込まれることによって、初めて人は自分自身を許すことを覚え、間違いを恐れず、自分の道を真っ直ぐに進めるようになるからよ。なのに、彼にはそれがない」
 うつむく黒い瞳。頬にかかるほつれ毛。
「彼のご両親は彼を深く愛していたにもかかわらず、彼がそんな経験をする前に―成長した彼を、その過ちごと受け入れる前に彼と離れ離れにならざるを得なかった。そのこと自体は、ただ不幸だったというしかない。ただ、残されてしまった彼は、どうなると思う?」
 フランソワーズが、息を呑む。藤蔭医師が、痛ましげに首を振った。
「彼の心の中では、罪は永遠に許されることがないもの。死ぬまで、罰を受け続けなくてはならないもの。もしかしたら彼は、自分がサイボーグにされたのだって、かつて非行に走り、たくさんの人と争い、傷つけた報い、当然の罰だと思っているかもしれない」
「そんな…!」
 一声叫んだきり、フランソワーズは絶句する。そんなこと、あるわけがない。過去のジョーがどんな人間だったとしても、サイボーグにされて当然だという理由になんかならない。運命を受け入れ、それに立ち向かっていくことは必要だが、それは決して、怒りも苦しみも全て自分の所為だと無理矢理心を抑え込むことなんかじゃない。
「残念だけど、どうやら当たらずとも遠からず、といった状況だと思うわ。…石原先生が、彼のことをこう言っていた。『いつだって、どんな苦しみも痛みも自分ひとりで引き受け、決して誰も責めたり恨んだりすることのない、天使のような人間』だって。加えて、『だからこそ痛ましすぎて、ときどき見ていることさえ辛くなる』ともね。私達はその件について、とことんまで話し合ったわ。で、気がついたの。彼は、自分の苦しみや痛みを他人にぶつけることでその相手を傷つけることを恐れているのではないかと。他者を傷つけるという行為は、紛れもない罪だから。その罰として、その人を失ってしまったらどうしよう…その不安があるからこそ、彼は誰にも心を開けない。貴女方のような、命よりも大切な仲間ならなおさらね。天使の仮面に隠れているのは、愛する人々を失うことを恐れ、孤独の幻影に怯えて泣いている小さな子供。その恐怖から逃れるためなら自分自身の心を、いえ、生命を削ることさえ厭わないほど追い詰められた、傷だらけの…魂」
 藤蔭医師の言葉を聞きながら、フランソワーズはいつしかすすり泣いていた。あの夜の幻が心に浮かぶ。夜の荒野の中、冷たい雪に埋もれて、それでもかすかに微笑んでいた美しい顔。命の終焉とともに訪れる、永遠の静謐と、そして…安息。
(貴方のあんな表情を私は見たことがない…。ねえ、ジョー! それが貴方の安らぎなの?貴方が心の重荷をおろすには、それしかないの? 皆が…私が…こんなにも近くにいても? どれほど貴方を愛していても? そんなのってない…そんなのって…あまりにも、哀しすぎる…)
 声も出さずに泣き続けるフランソワーズの背に、藤蔭医師の手がそっと触れた。
「それでもね…。『父親の愛』だけは充分、彼の心に届いていると思うのよ」
 嗚咽が止まる。しかし、金色の髪の少女はまだ、うつむいたままだ。
「ギルモア先生も、そして貴女の仲間たちもそのほとんどが男性。しかも、貴女や彼よりは紛れもなく年上よね。そして誰もが、あなたたちを深く愛してくれている。たとえ本物の父親ではなくても、その思いには変わりがないでしょう? 違う?」
 フランソワーズは、無言のままでうなづいた。ギルモア博士…コズミ博士…グレート…そして張々湖。そう…私たちには、父親と同じ優しさと慈しみで包んでくれる人がたくさんいる。他の仲間たちだって同じことだ。アルベルト、ジェロニモ、ピュンマ…そしてジェットは、例えるなら、兄。小さなイワン坊やだって、時には自分たちを導き、守り…支えてくれる存在には違いない。
「ただ、父親ってモンはどちらかというと子供を厳しく鍛え、導く存在だからねえ。無条件の許容、癒しとなるとやっぱり母親の役割になっちゃうのかな…。でも、貴女たちの中には、母親の代わりになれる人は残念ながらいない」
「…!」
 咄嗟に何か言いかけたフランソワーズの唇を、「黙って」とでも言いたげに、藤蔭医師の指がそっと押さえる。
「いくら求めても、満たされない想い。だからこそ、よりつのる思慕。一種の悪循環ね。おそらく、今の彼の心の中は原初の許し―母親による無条件の許容への渇望でがんじがらめになっているはずだわ。マザコン、なんて言わないでね。それはただ、人間として、子供として必要不可欠なものを必死に求めているだけなんだから。もしそれを与えることができれば、彼を脅かしている恐怖から彼を解放してあげることもまた、できるかもしれない」
 そこで、言葉を切って。フランソワーズの空色の瞳を、その漆黒の瞳に呑み込むような視線を向けて。
「彼を、怯えた小さな子供のままにしておいてはいけない。彼の罪は、誰かが許してやらなければならない」
 神託を告げる巫女のように、藤蔭医師は重々しく宣言した。フランソワーズの泣き濡れた瞳が、はっとしてこの、白衣の巫女を見つめる。
「でもそれは、貴女じゃない。貴女は、彼の母親になってはいけない―」
 それは、思いもかけない言葉だった。

「彼の淋しさを知った貴女が、それを埋めてなお、あまりあるだけの愛を注ごうと考えること自体は間違いじゃないわ。でも、それはあくまでも恋人の愛情でなければいけないの。母親の代わりになんて考えはもう、お捨てなさい」
 巫女はいつしか人間の女に戻り、それこそまるで母親か姉のように優しくフランソワーズの手を握っていた。
「人は、さまざまなものにさまざまな愛情を抱くわ。その深さに差があるなんて思わない。親でも子でも、友達でも恋人でも夫婦でも、心から大切に思う相手への思いの大きさは同じなのよ。でも、その種類が全く違うってことは忘れないで。親は子を慈しみ、育み、導くもの。子は親を慕い、甘え、求めるもの。この二つの想いは、例えその大きさが同じでも、決して取り替えの効くものじゃない。親と子は、種類の違う愛情をそれぞれ一方的に相手に注ぐだけだわ。でも、友達とは好意や信頼、共感といった同じ種類の想いを互いに相手に注ぎ合うからこそ、友達でいられるの。恋人の場合も同じ。互いに対等の立場で、同じ憧憬を、恋情を、情熱を与え合わなければすぐに破局よ!」
 フランソワーズは幾分、青ざめていた。今まで密かに胸に抱いていた想い―ジョーにとっての全てになりたい―母親、仲間、そして恋人。彼を愛していれば当たり前だと思っていた切実な気持ちを、こうまではっきりと否定されるとは。
 だが、次の瞬間。藤蔭医師は悪戯っぽく笑った。
「まあねえ…これが夫婦だったらまた別なんでしょうけどね。男の人が、よく言うじゃない。恋人には絶対みっともないところは見せられないけど、母親や女房には気兼ねなんてする必要はないって。結局は母親も妻も同じもの―『家族』になっちゃうのよ。それはそれで真実なんでしょうけど、そうなるには長い年月が必要だわ。少なくとも、まだ恋人以前の段階から母親になんかなっちゃだめ。だって―」
 そこでまた、きっと目の前の少女を見据えて。
「母親とは永遠は誓えないもの。―絶対にね」

「彼の母親役は、私が引き受けるわ」
 ゆったりと椅子に座りなおし、足を組んだ藤蔭医師が、軽く自分の胸を叩く。
「そのための準備が、昨夜やっと完了したんだから。…何しろ、普通のやり方じゃ手に負えない相手でしょう。こちらも裏ワザ使っちゃった。彼の夢を操って、ちょっとした擬似記憶を作り出したのよ。彼の罪悪感の原点ともいえる不良時代に遡って『母』の代用となりうる人間像を作り出し、彼女に対する『罪』を犯させたの。もちろん、夢が覚めた後の彼は何も覚えていないけどね。ともあれ、彼女が彼を許してやれば、充分『原初の許し』の代償行為になると思う。難を言えば、その―母親代理ってのがちょっと若すぎたのが計算違いだったけど、不良なんてモンはそうそう年のいった人間に素直になれるもんじゃないし、贅沢は言えないわ。それならそれで、いくらでもやりようはあるし」
 不敵な笑み。その表情がジョーの夢の世界の住人―姫―に生き写しであることを、フランソワーズは知らない。
「…でも、間に合って本当によかった。私の能力では、あまり離れた場所にいる相手に手を出すことはできないし、ここへ来る前日まではどうしても東京を離れるわけにはいかなかったから、全てがここへ来てからの勝負。正直、命綱なしの綱渡りしている心境だったのよ、これでも。…だからあの『事故』も、結果的にはよかったのかもしれない。貴女があんな辛い思いをしたのに、不謹慎極まりない言い草だってことはよくわかっているけど、それでも…おかげで一晩、時間稼ぎができた…」
 大きく息をつき、目を閉じたその表情はいかにも満足げであった。だが、その言葉がフランソワーズの忘れていた記憶を呼び起こして。
「あの、先生…。そのことですが、あの幻は、先生の感情が私に同調したからだとおっしゃいました。だとしたら、先生は…。あの、すみません。立ち入ったことだとはよくわかっています。でも…」
 あの時自分自身の中に流れ込んできた孤独、喪失感、悲哀…何よりもあの幻を見た瞬間の衝撃は今思い出しても身体が震える。あれが、藤蔭医師の心だというのか。だとしたら、この女医はあんな想いを抱えたまま、ずっと生きてきたというのだろうか。
(私にとってのジョーと同じ…世界で一番大切な人を失った、心を引き裂かれるような哀しみ、そして痛み…)
 自分だったら、一瞬にして気が狂う。なのにこうして、平然としていられるとは。
(この女性は…この人間は、何ていう…)
 だが。
「ふふ…そうね。貴女の想像は多分当たってるわ。ただし、その相手は必ずしも『恋人』と限ったわけでも…ないんだけど」
 あろうことか、藤蔭医師はそこで、さもおかしそうな笑い声を漏らしたのだった。
「でもねぇ、そんなふうに人の心配している場合じゃないでしょうに。貴女たちは、これからが大変なんだから。…あのね、私がやったことはあくまで、『種をまいた』だけなの。それを育てて、美しい花を咲かせるには本人の努力と周囲の協力が必要不可欠なのよ。貴女の愛しい人の場合は特にね。だから、このあとどうなるかは貴女にかかっていると言っても過言ではない。私の言っていること、わかるわね?」
 自分の目をじっと見つめる黒い瞳に宿る強烈な光。フランソワーズは全てを理解した。多分…この女は何もかもを自分一人で背負って行ける人間。だからこそ、他人を癒し、その心まで救うことができる人間。目の前に立つのは、自分たちなど足元にも及ばぬ強さを持つ、艶やかに、鮮やかに咲く大輪の華。
 いつか、自分も。自分たちもそんな美しい華を咲かせたい。…今はまず、そのことだけを考えよう。それができないうちに他人の心配をするなど、傲慢以外の何ものでもない。
 目の前の、この天晴れな女に負けないくらいの視線を返し、しっかりとうなづくフランソワーズ。藤蔭医師の顔に、満足げな表情が浮かぶ。そして彼女は、からかうように―最後にこう、付け加えたのだった。
「その覚悟は、至極よろしい。ただし…。ま、これは彼だけじゃなくてほかの全員にも言えることだけど、いくら種をまいてもそうすぐには育つもんじゃないからね。まして、過去は別にしても、彼は相当お人よしだから…それこそ、頭にバカがつくくらい。脅かすわけじゃないけど、貴女これから、苦労するわよぉ〜」
 ぷっと吹き出したフランソワーズは、くすくす笑いが治まらないままに書斎を出る。そして、ドアの前で心配そうに自分を待っていた栗色の髪の少年に、はっきりと告げた。満面の、輝くような笑顔で。
「待たせてごめんなさいね、ジョー。あなたの番よ」

 


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