第二章 グレート


 部屋に一歩踏み込んだとき、軽い眩暈がグレートを襲った。
(あ…ああ、いかんいかん)
 ぐっと気を取り直し、藤蔭医師の待つデスクに向かって威厳を持って歩み寄る。落ち着いて控えめな、それでいて男心をくすぐる微笑を浮かべた、清楚な花のような美女。こんなレディの前で無様な格好を見せるなんて、英国紳士の誇りが許さない。
 健康診断の結果は、おおむね良好だった。が、内心恐れていた通り、ガンマGTPの値だけはしっかりと危険ゾーンに突入していたらしく、ひとしきりお小言を食らう。
「値だけ見れば56で、まあ正常値ではあるんですけどね…一応は、60以下が正常とされていますから。でも、体内の機械部品によって制御、調整されている貴方にとっては…」
 以下の台詞は先に張々湖がいやというほど聞かされたものと全く同じだったが、勿論グレートにはそんなことがわかるはずもない。
 ともあれ、一連のお説教が無事済んで、ほっと一息ついたとき。
「でも、実を言うと私、グレートさんにお会いするのを楽しみにしてたんですよ。イギリスでは大層有名な俳優でいらっしゃるとか。お目にかかれて、本当に光栄ですわ」
 あの微笑でそんなことを言われたら、舞い上がらない方がおかしい。
「いえ、とんでもない。こちらこそ光栄ですよ。こんなに美しい女性の知遇を得られるとは私にとっても大変な名誉です」
 当然のように、白い手を取ってその甲に口づけしようとする。と…
「友達からずっと、貴方のお噂を伺っておりました。ご存知でしょう? 松本かおり」
 その名を聞いた途端、グレートの身体が硬直した。
(松本…かおりだと? 何故だ! 何故あんたが、彼女の名前を知ってる!?)
「中学、高校時代の同級生なんです。今は女優と脚本家、演出家の三役をこなして劇団『たまゆら』を主宰しているんですけど…」
(言うな…! そんなことは、みんな知っている! 言うな言うな! 彼女の名前を、これ以上俺に聞かせるな―!)
 再び激しい眩暈がグレートを襲い、彼はそのまま、意識を失った。

(どうして…どうして引き受けて下さらないんですか? 公演日程も場所も、全て貴方のご都合に合わせます! もし、どうしても時間が取れないのなら一日だけだって構いません! それとも…日本の、こんなちっぽけな劇団の客演では、役不足ですか…?)
(そんなことはありません。貴女の劇団は、小さいながら日本演劇界でもかなり高い評価を受けている。私も先月の公演を拝見しましたがね、いい舞台でした。『ブルー・ヴァンパイア』―女吸血鬼の邪恋によって無理矢理吸血鬼にされてしまった若者の苦悩を見事に描き出していて―彼が恋人に真実と別れを告げようとしたシーンでは、不覚にも涙を流しましたよ。…貴女からのオファーは、役不足どころか役者冥利に尽きる。でも…それでも私には、お引き受けできないのです。どうぞ、お解り下さい)
(そんな…そんなに言って下さるなら、どうしてっ!)
(それ以上は、何卒お許し下さい。…申し訳、ありません)
 言い捨てて、席を立ってしまった自分。泣きそうな顔で、追いすがろうとした松本かおり。
 あのときの自分は、さぞ高慢ちきで嫌な奴に見えただろうと思う。だが、グレート自身だって辛かったのだ。本当は、かおりと同じ舞台に立ちたかったのだ。だからどうか、許してくれ、聞き分けてくれ…と、心の中でひたすら祈り続ける毎日だったというのに。

 一瞬にして、意識が戻る。ここは…何処だ?
 スポットライト。木の床。無人の客席。巻き上げられた緞帳。
 知らぬ間に、立っていたのは舞台の上。自分以外の人の気配などまるで感じられない中、何故かグレートには眩いばかりのスポットライトが当たっている。
「ここは、私たちの劇場」
 不意に、最前列の真ん中の席が明るくくっきりと浮かび上がった。座っているのは―
「松本…かおり!」
 再び迸った光の束が浮かび上がらせたのは舞台の下手、袖の部分。そこにも、もう一人のかおりがいた。
「貴方に断られたのは仕方がない。でも、一度でいい。私たちの舞台で、貴方の演技を見せて」
「あたしが、貴方の相手役を演るわ」
 三本目、いや、グレートを含めれば四本目のスポットライトが照らし出したのは、グレートのすぐ前。最後のかおりは、舞台衣装に包まれ、可憐な少女のメイクをして…
 下手袖のかおりが言う。
「演目は、『ブルー・ヴァンパイア』。第三幕第二場。貴方が泣いてくれたあのシーンよ」
「お…おい、ちょっと待てよ! いくら何だって、いきなりそんなこと言われて、できるわけないだろう!」
 あの芝居に感動したのは事実。だが、いかにグレートといえどもたった一度、それも一ヶ月近く前に見た芝居を何の準備もなしに再現することなどできるわけがない。たった一度で全てを覚える天才的役者などTVかマンガの中だけの話だ。プロなら―いや、プロだからこそ、他人に芝居を見せられるようになるまでには綿密な準備と稽古を重ねて、役をしっかりと自分のものにしなければならないのだ。
「私の脚本は、無視して構わない」
 下手のかおりがさらに誘いかける。
「貴方の『ブルー・ヴァンパイア』が観たいの。貴方の物語を聞かせて」
「どんなアドリブにも、必ずついていく。それだけの技量を持った女優よ。松本かおりは」
 客席のかおりが渡り台詞のように言葉を継ぐ。それを聞いて、ついにグレートは覚悟を決めた。
演出家、脚本家、そして女優…三人のかおりが同時に存在するなど、現実ではあり得ない。だとしたら、これは俺の夢だ。それならば…夢ならば、心の中の真実を吐き出したところで、何の支障も、遠慮もあるまい。
「よし、わかった。お前さんたちのオファー、今度こそ受けようじゃないか」

 吸血鬼になってしまった主人公が、最愛の恋人に真実を告白する場面。
 芝居は、かおりの悲痛な叫びから始まった。
「どうして! どうしてそんなことを言うの? 貴方を失うなんて、私には死ぬより辛いことなのに…」
「僕だって、死んだほうがマシだ! でも…でも、もう君とは一緒にいられないんだよ。何故なら僕は…」
 一瞬の躊躇。言ってしまっていいのだろうか。真実を…主人公の真実ではない、グレート・ブリテンの真実を。
 だが、涙を―演技ではない、本物の涙をたたえてひたと自分を見つめているかおりの視線に気づいたとき、あえてグレートはその迷いを振り払った。
(彼女たちは言ったじゃないか。「貴方の物語を聞かせて」と―)
 腹の底に力を込める。朗々とした声が、劇場一杯に響き渡った。
「何故なら俺は、サイボーグだからだ! 身体中に無数の機械を埋め込まれた、ただのからくり人形になっちまったからだよ!」
「そんな…」
 かおりがよろめく。一杯に見開かれた目から、零れ落ちる涙の粒。
「ブラックゴーストという、悪魔のような連中にとっ捕まって、改造された。だから俺は、もう二度と大舞台には立てない。まして、君のような上り坂の女優とともに芝居をやるなんて、夢のまた夢の…そのまた夢の話だ」
「ひどい…話ね」
 かおりの声が涙でくぐもっている。しかし、それでも彼女はグレートに走り寄り、その腕を力いっぱいつかんだ。
「でも…でも私は、そんなこと構わない。サイボーグでも何でも、貴方は人間よ。それに、貴方の『芸』までもが失われたわけじゃないわ! 貴方はまだ、いくらでもお芝居ができるのよ!」
「やめろ!」
 わざと冷たく、その手を振り解くグレート。
「芸がどうこういう問題じゃない! 君は…俺がどんなふうに改造されたか、知ってるか? スイッチ一つで、何にでも変身できる身体。役者にとっちゃ、おあつらえ向きだぜ。だがな、ひとたびそれが暴走を始めたらどんなになるか…君は見たことがあるのか!」
 あの時…南極の氷原で、空にかかるオーロラの輝きに彩られた地獄の舞台で、機械を狂わせるマッドマシンを相手役に自分が演じたのは…
「身の毛もよだつ化け物だったよ。鵺もキマイラもあのときの俺に比べりゃ、可愛いペットさ。機械だけじゃない。心が狂ったって同じことだ。いつこの身体がどろどろと溶け出して、得体の知れないモンになっちまうか、わからないんだ!」
 スポットライトを避けるように、一歩、二歩…光の中で語れるようなコトじゃない。
「仲間の中には、外見が人間離れしちまったって悩んでた奴らもいたよ。だが、俺に言わせりゃ少なくとも服着てればそんなの全然わからないし、これ以上姿形が変わっちまうこともない。そうだよ…俺が、一番の化け物なのさ。自分の中に、いつ出てくるかわからない化け物を飼ってる俺が、最悪の怪物なんだ!」
 かおりはまだ、光の中に佇んでいる。青ざめた頬に、白くきらめく涙の筋。
「そのくせこの能力のおかげで俺は結構、『ズル』もできるのさ…。知ってるか? サイボーグってやつは、老化がかなり遅くなる。もちろん完全に止まるわけじゃないが、普通の人間の三倍から五倍は、確実にな。それがどういうことかわかるか? 三年から五年に一つしか、年を取らなくなるんだぜ。俺みたいに、もういい年になってから改造された奴はまだいい。ちっとやそっと年喰わなくたって、『いつまでも、お若いですね』って一言で済んじまうからな。だが、まだ二十歳前後の…育ち盛りの奴らにとって、それがどんなに残酷なことかわかるか!」
 まして、仲間の中にはまだ赤ん坊だっているんだ…。グレートは、こみ上げてくる涙を抑え、懸命に台詞を紡ぐ。
「なのに俺は…こんな能力を持っているから!」
 声が割れる。でも、おかげで涙も吹き飛んだ。
「好きな年代の自分になれる。五十代、六十代、七十代、何でもござれだ。もし、あんたと一緒に舞台に立って脚光を浴びれば、そのままごく当たり前の人間…普通に年老いていくベテラン俳優を演じることが、簡単にできるんだよ! …そんなのってあるかよ。仲間の中で一番の化け物の俺が、一番人間らしい…普通の生活に近いところにいるなんてよ」
「でも、それとこれとは…」
 かおりの声も、掠れていた。ああ、こいつ…役も何も忘れて、本気で俺のことを心配してくれている。いい女だなァ…。それに、いい女優だ。
「違うよ。確かに違う。しかし俺は、弱い人間だからな。下手に人目についてちやほやされれば、つい、欲望に負けちまう。ただの人間、普通のベテラン俳優の一生を演じたいって欲望によ。でも、そんなこと許されるわけがない。俺よりずっと若い…俺よりずっと苦しんでいる仲間たちを差し置いて一人だけ、当たり前に生きることなんて。…あんたのオファーを断った、本当の理由はこれだよ。イギリスでだって、俺は役者のくせにこそこそと人目を避けて、専ら場末の小屋やキャバレー専門だ。あんたに声をかけてもらう資格なんてもう、ないんだよ…」
「待って!」
 そのまま、手を振って。闇に紛れて消えるつもりだったグレートの背に、鋭い叫びが飛んだ。
「確かに、貴方の言う通りかもしれない…。だけど…! だけど貴方は、それでも人間なんでしょう!? 仲間のことを思い遣る、優しい心を持った、あったかい…人間なんでしょう!? それに、その仲間たちだって…能力や外見は違ってるかもしれないけど、みんな、貴方と同じなんでしょう!?」
「かおり…?」
「だったら、生きてみて下さい。人間として、イギリス仕込みのベテラン俳優として! そうすればきっと、仲間の皆さんだって気がつきます!『自分たちだって、当たり前に生きることができるんだ』って。そして、やり方は違うかもしれないけど、それぞれが普通に、人間として生きる方法を探そう、って気になりますよ!」
 かおりの足が一歩、闇に踏み込み―そして再び、グレートの腕をぐい、とつかんで光の中に引き戻した。
「お願いですから…仲間たちの、道標になって下さい。それが、年長者としての貴方の役割じゃないんですか!」
「かおり…!」
 グレートが、絶句したとき。
「そこまで!」
 客席から、凛とした声が飛んだ。
 駆け寄ってくる客席のかおり、舞台袖にいたかおり。そして、まだ自分の袖をしっかりとつかんでいる相手役のかおり。三人のかおりがめまぐるしく入れ替わる。
(ああ…何なんだ…何なんだ、これは…?)
 お願いですから、仲間たちの道標になって下さい…三つの顔を持つ一人の女に再度そう言われたとき、グレートは三度、あの眩暈に襲われた。

「…かおりはね、一途な子なんです。そりゃもう、学生時代からずっと。だから、貴方へのオファーはきっと、真剣なものに違いありません。…よろしければどうか、引き受けてやって下さいませんでしょうか。私からもお願い致します」
 気がつけば、自分に向かって深々と頭を下げている、藤蔭医師。
「あ…」
 言葉をなくしたグレートになど、お構いなしに。
「って、医者として言う言葉じゃありませんね。…すみません。出過ぎたことを申し上げました」
 清楚な花の微笑からは、えも言われぬ芳香すら立ち上る気がする。
「余計なお時間をとらせて、申し訳ありませんでした。でも、説明は以上で終わりです。どうぞ、お大事に」

 キッチンで朝食の後片づけをしていたフランソワーズの背中に、グレートは静かに声をかけた。
「フランソワーズ、すまんがこれからちょっと出かけてくる。昼飯と夕飯は多分、外で食ってくるから心配しなくていい」
「グレート?」
 フランソワーズと―手伝っていたジョーとジェットが、怪訝そうな顔で振り返る。
「いや、あのな。これからちょいと、高円寺に行ってこようかと思ってな。…知り合いの劇団がそこに稽古場持ってるんだよ。で…客演…頼まれててさ。一度は断っちまったんだが、どうしても…どうしても一緒に演ってみたい相手だったから…どうしても一度…舞台の上で真剣勝負をしてみたい女優だったから…さっき電話して…謝って…」
 柄にもなく少々照れたようなグレートの説明が終わるよりも早く、三人の顔がぱっと輝いた。
「すごい! すごいわ、グレート! じゃあ近いうちに、この日本で貴方のお芝居が見られるのね!」
「わあ…。頑張れ、グレート! 僕たちも、できる限り応援するよ!」
「舞台の上の真剣勝負…そういう戦いなら大歓迎だぜ。絶対に負けんじゃねえぞっ」
 水色、栗色、そして青。それぞれの色の瞳をきらきら輝かせて口々に叫ぶ少年少女のエールを全身に受けながら、グレートはますます照れくさそうに―しかし確固たる自信をちらりと覗かせてしっかりとうなづいた。
「…ありがとうよ、みんな。じゃ、行ってくる」
 軽く手を振り、真っ直ぐに前を向いて。ギルモア邸を出て稽古場に向かうグレートの歩みは、大劇場の舞台へと続く緋色の絨毯をしっかりと踏みしめる誇り高き名優の足取りそのものだった。

 


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