第三章 アルベルト


 自分の名前が呼ばれたとき、アルベルトはさながら戦場に赴くときのような厳しい表情で立ち上がった。
 最初から、あの女医は気に喰わなかった。ここへやってきた経緯も、隙のない身のこなしも、そして…
(人を惑わすような瞳をしていやがる)
 ノックもせずに、乱暴にドアを開ける。座っていた藤蔭医師が静かに顔を上げた。
「アルベルト・ハインリヒさんですね? どうぞ…」
 言葉が終わるのも待たず足音荒く部屋に踏み込み、あっという間に彼女のすぐ脇に立ったと同時に、そのこめかみに右手のマシンガンを突きつける。
「貴様…何者だ?」
 押し殺した声に、こちらを見上げた切れ長の瞳。
「医者ですが」
「ここへ何をしに来た?」
「健康診断の結果説明ですわ」
「嘘をつけ!」
 右手にぐい、と力を込める。五本の銃口がシニョンを乱し、ほつれた髪が白い頬にこぼれかかった。
「ただの説明に、何時間かかってる? 十時ちょい過ぎから始めて、今はもう夕方だ。なのに、終わったのはたった二人…しかも、この部屋から出てきたときの張々湖もグレートも、まるで魂が抜けたような面していやがった。貴様、あいつらに何をした!?」
「だから、結果説明だと申し上げているでしょう」
「正直に答えなければ殺す。俺の右手は、マシンガンなんだ。…聞いているだろう」
「仕方…ありませんね」
 肩をすくめて、藤蔭医師はけだるげに目を閉じる。そして、一呼吸…二呼吸。再び開いた黒い瞳が、まっすぐにアルベルトを見つめたとき。
(!)
 あろうことか、「死神」アルベルトが反射的に後じさった。
(何だ、これは…!)
 闇色の虚無。目の前の女の目は、底知れぬ深い空洞だった。恐怖も、怒りも、生への執着すら見えない、暗黒の淵。
 死を恐れぬという点では、アルベルトも同じだったかもしれない。むしろ、こんな身体になってからは、ずっとそれを求め続けてきたといってもいい。だが―
(もしこれが俺だったとしたら―)
 頭に銃弾を打ち込まれる寸前となれば、いかに自分とてかすかな恐怖は感じるだろう。その意思はどうでも、生命体の単純な条件反射として、悪あがきの一つもするかもしれない。そうでなければ人間ではない。いや、生き物ですらない。
 だが、藤蔭医師の切れ長の目にはそんな当たり前の反応さえも―何もなかった。
「それならそれで構いませんが、こんなところで人の頭を撃ち抜いたりしたら後始末が大変ですよ。この部屋の掃除はどなたがなさるんですか? 血とか脳漿のシミはなかなか落ちないんですよ」
 そのシミは、一体誰のものだと思っているのだ?
「それに、ここは今密室ですし…犯人が貴方だということはすぐにわかります。そうなったら仲間の皆さんや、ギルモア先生にもご迷惑がかかるんじゃありませんか? …殺すなら殺すで、もっと別の手段を考えたら如何です?」
 そっけない声。…この女は、自分の命さえ遥か遠くに突き放している。
(一体、こいつは何者なんだ? いや、それ以前に…本当の、人間なのか…?)
 あまりにも冷静すぎる藤蔭医師の態度にアルベルトが不気味ささえ感じ始めた、そのとき。
 ドア越しに、微かな電話の音が聞こえた。アルベルトの身体がそれとわからぬ程度に強張る。
「電話の音が気になります? もしかして貴方、誰かからの電話を待って…それとも、怯えていらっしゃるんですか?」
 何を、と言い返そうとしたアルベルトの薄氷の瞳が、藤蔭医師の闇の瞳と正面からぶつかる。
(しまった…!)
 そう思ったときには、無限の深遠に捕らえられていた。

 ドイツでのアルベルトは、とある運送会社に勤務している。そこの管理課長のワルターが泣きついてきたのはついこの間のことだった。会社で一番の古株、ゲオルク爺さんと組んで、泊りがけの出張に行ってほしいという。この爺さん、超ベテランだけあって腕は確かなものの、几帳面で謹厳実直、何事にも筋を通さなければ気が済まないというドイツ人気質を漫画にしたような性格のおかげで今まで起こしたトラブルは数知れず、しかも最近では年の所為かそれに偏屈が加わって、扱いがたいことこの上なし…と、ある意味社内でも札付きの人物であった。案の定、他の運転手どもは相方が爺さんだと聞いた途端、何やかやと理屈をつけて逃げてしまったという。
「なのに先方がこれまた変人の爺ィでさ。うちに荷物を届けるんなら、どうしてもあの爺さんでなきゃ信用できないなんてぬかすんだ。かといって、こっから五百マイルはあるあんなとこまで大型トラック転がしてたった一人で行かせるわけにもいかないし…あんたにこんな、ガキみたいな仕事を回すのはお門違いだってこたぁ、重々承知してるんだが…」
「わかったよ。俺が爺さんのお供をしよう」
 最後まで言わせず、アルベルトはワルターの肩をぽん、と叩いた。

 爺さんとの旅は、心配したほどのこともなかった。さすがの爺さんもアルベルトの運転技術と仕事ぶりには文句のつけようがなかったらしい。愛想がいいなどとはお世辞にも言えなかったものの、その表情に不快さはなかった。必要以外のことには口をきかず始終むっつりしているのも、他の連中にはどうであれアルベルトにはかえって有難いくらいである。意外と、この組み合わせは悪くなかった。
 ただ、問題なのは仕事が終わったあとだった。運転手の出張に個室を取ってくれるほど裕福な会社ではないから、泊まるのは当然相部屋となる。自分の身体を決して他人に見せられないアルベルトにとっては面倒といえば面倒なことであったが、他人と組んでの出張が初めてというわけでもない。風邪気味だからとシャワーを断り、爺さんが眠るまで着替えなければそれで済む話だ。都合がいいことに、年寄りは夜が早い。夕食後、あれこれ言い訳をするまでもなく、爺さんはさっさと自分のベッドにもぐりこんでくれた。
 やがて規則正しい寝息が聞こえてくるのを待って、アルベルトは決して音を立てないよう、注意深く着替え始めた。シャツを脱ぎ、パジャマ代わりの長袖のTシャツを手に取る。裾を広げ、いざそれを頭からかぶろうとした瞬間…!
 激しい揺れが、宿全体を襲った。
(地震か!?)
 ドイツには地震は少ないものの、日本で過ごすことも多いアルベルトはその対処の仕方も心得ている。瞬時にして、部屋中を走査する薄青い瞳。
(この部屋には火の気はない。気をつけなければならないのは…家具!)
 はっとしたそのときには、ベッドのすぐ脇にある古いワードローブが今にも爺さんの上に倒れこもうとしていた。反射的に覆い被さったアルベルトの腕が、倒れてくる家具をがっしりと受け止める。身体の下で、爺さんがはっと目を見開いた。
「爺さん、大丈夫か!」
 が。
 アルベルトを見た爺さんの目が、驚愕に見開かれた。
「うわああああああぁぁぁっ…」
 絶叫。そこで初めて、アルベルトは気づく。上半身に、何もまとっていなかったことに。
(しまった―!)
 見られたと思うより早く、アルベルトは脱いだばかりのシャツを引っつかみ、部屋を飛び出した。後から追いかけてきたのは、「ば、化け物…!」という爺さんの声。

 それから後のことはよく覚えていない。シャツの胸ポケットにキーが入っていたのを幸い、すぐさまトラックに飛び乗り、一晩中アウトバーンを走り続けた。夜明け前に会社に着き、ワルターが出勤してくるところを捕まえて、退職の意思を伝える。予定外のこんな時刻に、たった一人で帰ってきたアルベルトにいきなりそんなことを言われて目を白黒させるのをわざと無視して「日本にいる恩人が倒れた」と苦しい言い逃れをし、爺さんについては、「急に具合が悪くなったから、宿に連絡してやってくれ」とだけ告げた。それでも追いすがるワルターに日本での連絡先を聞き出され、道路に座り込んで慌しくメモを取るその様子を見届けることもなく、逃げるようにその場を立ち去り、住んでいたアパートも引き払って日本行きの飛行機に飛び乗った―

 そして。突然訪れたアルベルトに驚きながらも温かく歓迎してくれた仲間たちにも詳しい事情は何一つ話さないまま、だらだらと日本で一ヶ月近くを過ごしていたある日―

 電話が鳴ったのだ。

 貴方あてよ、とフランソワーズから手渡された受話器を耳に当てたとき、飛び込んできたのはワルターの声だった。
「ハインリヒか! 大変なときに電話してすまない。だが、ゲオルク爺さんがな…」
 かなり慌てて、しどろもどろだったワルターの話をつなぎ合わせるとこうなる。
 アルベルトが日本に発って以来、爺さんは半病人のようになってしまったという。会社側はとりあえず休職扱いにして様子を見ていたところ、いきなり爺さんが会社に訪ねてきたのだと―
「おっかなかったよ。憑かれたような目をしていやがった。…で、『アルベルトの連絡先を教えろ』って、そればかり繰り返すんで、お前の日本での住所と電話番号、教えちまったんだ。だから―」
 それ以上は、聞いていなかった。ただ、不審に思われないよう適当に話を合わせて、適当に電話を切って。以来、アルベルトは一切の電話に出ることをしなくなった。…それから何度も、切羽詰った年寄りの声で彼あてに電話が入ったことを聞かされても。

(何で出てやんないんだ。爺さん、必死だったんだぜ)
 ワルターの声が聞こえる。…うるさい。お前との電話は、とうに切っちまったろう。
(話だけでも、聞いてやっちゃどうだい)
「黙れ!」
 アルベルトは叫んだ。どうせ、爺さんのことだ。俺の身体を…化け物と呼んだこの姿を見ても、筋だけは通そうとしてるんだろう。一度でも電話に出たら最後、あれは本当にお前の身体なのか、何か事情があるんじゃないかとあれこれ詮索されるに決まってる。そんなのは願い下げだ。…あのおぞましい過去を他人に話すなんざ、死んだってできるものか。
(そうとばかりも限らないだろう。もしかしたら爺さん、他に何か、あんたに言いたいことがあるかのもしれないぜ)
「やめろおおおぉぉぉっ!」
 獣の咆哮。震える鋼鉄の指。姿のない声に向けて、アルベルトはがむしゃらに右手のマシンガンを撃ちまくった。なのに、ワルターの声はいつまでも止まず。
(何でそう悪い方へ、悪い方へと考えて自分を苦しめる? …かつて恋人を死なせてしまったことへの贖罪のつもりか? それとも、自分自身への嫌悪感の所為なのか…?)
 そればかりではない。
「うわああああぁぁぁっ!」
 あろうことか、撃った弾丸の全てが自分自身へと跳ね返ってきた。
(ほれみろ。そんなことをしても、お前さん自身が傷つくだけだ)
 全身から血を流し、がくりと膝をついたアルベルトに、ワルターの声はなおも続く。
(人間って奴はな、どんなことだってできるんだよ。…目を覆いたくなるくらい残酷なことでも、ただ頭を下げ、感動するしかない崇高な行いでも、何でもな。ついでに言えば、情けなるくらい弱いくせに、時折この宇宙でさえ受け止め、包み込むような強さを見せることもある。なあ、ハインリヒ…もう一度、人間ってやつを信じてみちゃどうだい。お前だって、立派なそのうちの一人なんだからよ…)

 はっと意識を取り戻したアルベルトがいたのは、ギルモア邸の…よく見慣れた、博士の書斎。
 目の前には藤蔭医師がいた。そして、半分開きかけたドアからおずおずと顔を覗かせていたのは、フランソワーズ。
「あの…ゲオルクさんって方からアルベルトに電話が入っているの…何だか泣いているような声で、『ハインリヒに謝らなくちゃいけない、酷いことを言った』って、そればかり繰り返して…ちょっとだけ、出てあげるわけには…いかないかしら?」
 呆然と立ちすくんだアルベルトの背中を、藤蔭医師がぽん、と叩いた。
「貴方の診断結果は至極正常、健康そのものです。多少の精神的ショックを受けたところで特に問題もないでしょう。…覚悟を決めて、出るだけ出てみたら如何ですか?」
 気がついたら、いつの間にか受話器を耳に当てていて。
 電話の向こう、涙声で許しを請う爺さんの声が聞こえた。

 結局その夜、藤蔭医師はギルモア邸に泊まることになった。丸一日をかけて、三人分しか説明が終わらなかったのだから仕方がない。
 深夜零時。遅いシャワーを浴びてガウン代わりに白衣を引っ掛けた彼女は、机に向かってメンバーのカルテを眺めていた。その一枚一枚に各人のスナップ写真がクリップで留められているのは、何しろ人数が多いから…という石原医師のささやかな心遣いである。
「やれやれ…今日はアダルト組だけだったから、少しは楽かと思ってたのに」
 カルテをめくっていた白くて長い指が、銀髪、淡青色の瞳を持つ男の写真のついた一枚で、ふと止まる。
「やっぱ、若くなればなるほど血の気が多いねぇ。ま、しゃあねーわな。三十つったら、まだまだガキだし」
 昼間とはがらりと変わった口調でつぶやき、胸ポケットから取り出した煙草の一本を口にくわえる。
「とりあえず、泊めてもらうことには成功したんだから、ま、いっか」
 白衣の襟元からはほんのりと桜色に上気した肌がのぞいて何とも艶かしい風情だが、真冬の夜を過ごすには、あまりにも寒すぎはしないだろうか。しかし本人は、そのようなことなどまるで気にかけていない様子で、再びぱらぱらと書類をめくる。
「全く、誰のおかげでこんな手間暇かけなきゃなんねぇと思ってんだよ」
 再び止まった指が、つまみ上げたカルテ。それには、栗色の髪と茶色の瞳を持った少年の写真がしっかりと留められていた。
「わかってんのか? …みんな、あんたの所為なんだからね」
 形のよい唇から吐き出された煙が写真にぶつかり、静かに部屋全体に広がっていった。

 


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