Part 1


 えもいわれぬ芳香が、すぐ近くを通り過ぎて行った。
 秀之は、レポート用紙からふと顔を上げる。
 こんな場所―大学図書館の閲覧室なんかには似つかわしくない、甘い香り。
 周囲には、難しい顔でレポートや難解な学術書とにらめっこをしている学生ばかり。もちろんその中には女子学生も交じっているが、みんな、化粧っ気のない地味な格好をして、とてもあんな香りを漂わせているような雰囲気ではない。
 と―。
 自分の席から見て真正面の一番奥。壁一面に並んだ本棚の前に佇む白衣の後姿が目に入った。
 ほっそりと、華奢な長身。背の半ばまで伸びたつややかな黒髪をうなじの辺りで束ね、同じ黒の、ふんわりとしたシフォンのリボンを結んだ―多分、女性。
(あの人だ)
 顔すらもわからないうちに、心の中にひらめいた確信。
(どんな人なんだろう)
 それは多分、ほんの小さな好奇心。普通なら、一瞬の後には泡のように消えていくだけの、ごくささいな心の揺らめきのはずだった。
 なのに、再びレポートに取りかかっても、どうにも身が入らない。気がつけば、本棚の前の後姿だけをぼんやりと見つめている。
(ちらりとでもいいからこっちを振り返ってくれないかな)
 いつのまにかシャーペンを放り出した右手の人差し指が、苛々とレポート用紙を叩いていた。だが、いつまで経っても黒いリボンは一向に振り向く気配すら見せない。
(でもなあ…いくら何でもわざわざ顔を覗き込みになんか行けないしなぁ)
 それはあまりにも失礼…いや、それ以前に変質者と間違われても仕方ない行為だ。秀之は思案にくれて自分の下唇を思い切り引っ張った。
(そうだ!)
 再度のひらめき。
(僕もあそこで本を探すふりをすればいいんだ。…莫迦だな。どうしてそんな簡単なことに気づかなかったんだろう)
 思いついたと同時に勢いよく立ち上がり、狭苦しい机と椅子の間をすり抜けて彼女のもとへ行こうとした途端。
派手な音を立てて、机に積み上げていた本が崩れ落ちてきた。気が急いていた所為か、立ち上がった拍子にひじだかどこかがぶつかってしまったらしい。
「す、すみません…」
 たちまち周囲から向けられる不審と非難の混じったいくつもの眼差しにひたすら頭を下げながら、慌てて散らばった本を元に戻す。
 そして、ようやく片づけ終って再び例の本棚へと視線をやれば。
(あ…)
 すでにもう、白衣の後姿は本棚の前から消え失せてしまっていた。

 理学部二号館、生物学第五研究室。そこが、レポートの提出先だった。だが、時刻はすでに午後五時半過ぎ。あれから彼女のことがどうしても気になって、あとほんの二、三行を残すだけとなっていたレポートを仕上げるのに、二時間近くもかかってしまった。秀之は、恐る恐る扉をノックする。
「はい。何でしょう」
 ぬっと顔を突き出したのは、ひげ面の大男。秀之よりは最低でも五、六歳は年上に見える。…院生だろうか?
「あの、すみません。コズミ先生の生物学のレポートを…」
 半ば迫力負けしながらも必死にそれだけ言った。途端、ひげ面がにっこりと笑顔になる。
「ああ、電車の事故で提出延期になったやつね。…コズミせんせーい! レポートですよー」
 背後に向かって大声で叫んだひげ面の向こうで、「ほーい」というのんびりとした返事が聞こえる。そして、一礼して部屋の中に引っ込んだひげ面と入れ替わりに秀之の前に現れたのは…
「おお、ご苦労さん。こんな時間まで、ずいぶんと頑張ったものじゃのう。…よかったらちょっと茶でも飲んでいかんかね」
 またも、ひげ面…とはいえ今度はそのひげも髪も真っ白の、小柄で人懐こそうな顔をした好々爺であった。そして、その手には何故か、饅頭。この老人こそがこの研究室の主、コズミ教授その人なのである。
「遠慮なんかせんで、さあ、入りんさい、入りんさい」
「は、はあ…」
 どうにも断れない雰囲気に、秀之は研究室のドアをくぐった。
(しかし、いいのかなぁ)
 秀之とて、この老人の授業を受講しているのだから、一応「教え子」ではある。しかし、収容人員百人の大教室で、マイク片手に行われる講義をただ聴いているだけの自分が、馴れ馴れしくお茶なんかご馳走になっていいものだろうか。しかし、コズミ教授はまるっきり、気にしていない様子である。
「あ、あの、先生! その前に、レポートと…これ、電車の遅延証明書です」
 手にした饅頭にかぶりつき、一層幸せそうな笑みを浮かべたコズミ教授に、秀之はレポートを差し出した。元はといえば、これのためにやってきたのである。
 先週、通学途中で電車が車両故障を起こし、秀之はコズミ教授の授業に出そびれてしまった。が、あとになってみればそれは秀之に限ったことではなく―受講者の半分以上と、何よりもコズミ教授自身がそのおかげで授業に間に合わず、結局その日は休講。そして、提出予定だったレポートの締切が、翌週まで延びたというわけだ。それならもう少し手を入れようと、午後一から図書館に陣取ってあれこれ手直しをしていた途中のあの出来事については…今は考えないでおこう。
「…ほう!」
 差し出したレポートを受け取ったコズミ教授がいきなり大きな声を上げたので、秀之はびくりと縮こまった。
「おお、驚かせてすまん。しかし、真面目な子だねぇ。レポートに遅延証明書をつけて持ってきたのは君が初めてだよ。…石原…秀之君だね。ふんふん、医学部か」
「はっ…はい! 一年です!」
 直立不動でそう答えた秀之にコズミ教授は大きくうなづきかけ、研究室の奥を指し示す。おっかなびっくりで奥に入ってみると、先ほどのひげ面を始めとした学生たちの一団が、大きなテーブルを囲んであれこれ雑談に興じているところだった。テーブルの上にはポットと急須、伏せられたいくつかの湯呑みと大きな菓子箱。傍らに放り投げられている包み紙には、「伊香保名物 温泉饅頭」の文字がでかでかと印刷されている。
「おう、いらっしゃい。うちはセルフサービスだからな、好きに茶ぁ入れて、飲んでくれ。饅頭もまだあるぞ、ほれ」
 ひげ面が、親しげに声をかけてくれる。しかし、並んでいる椅子のどれにも、すでに誰かのものらしい荷物が置かれていた。なおもその場に立ち竦んだままの秀之に、ひげ面がさらに言葉をかける。
「そこが空いてるぜ。座ってた奴、今しがた帰ったからな」
「はあ…」
 気の抜けた返事とともに教えられた場所に行くと、確かに椅子の上には何も置かれていなかった。ただ、すぐ目の前のテーブルには。
「あ、あの…でもここに、誰かの本が…」
「ああ、そりゃ忘れもんだ。悪い。ちょっと取ってくれ」
 言われて本を取り上げれば、書かれている題名は「少年法の理論と実践」。秀之は、ぽかんと口を開けた。
「どうした?」
「あの、これ…『少年法』って…ここ、確か理学部の研究室ですよね?」
 こんな本は、どう見ても法学部の学生の持ち物だ。が、ひげ面はあくまでけろりとしている。
「あ、いーんだいーんだ、それで。さっき帰ったの、法学部の三年だから」
「はあ?」
 ますますわけがわからなくなった秀之に、部屋のあちこちから声が飛ぶ。
「いーのよぉ、学部なんか気にしないで」
「コズミ研は全学部、全学科オールOKなんだよ」
「何てったって、先生の『生物学』はパンキョーだしな」
「そうそう。あたしだって、文学部だもーん」
「俺は経済」
「俺は哲学」
「あたしは工学」
「僕は史学だよん」
「でも、一番の『ヌシ』は矢部さんよね。教育学部の院生のくせにさ、学部ン時からもう三年来、ここでトグロ巻いてるんだから。よっ、『牢名主』!」
「別にいーじゃねーかよ。学部差別、反対だぁ!」
 それぞれの学部を誇らしげに言い合った学生たちの最後をあのひげ面が締めくくり、あとは大笑いの渦。秀之は、頭がくらくらしてきた。
(そりゃ、確かにパンキョー―一般教養科目だったらどの学部の学生でも受けられるけどさ…)
 どうやらコズミ研究室はかなり開けた、というよりいー加減なところらしい。こういう雰囲気も嫌いではないが、あまり長居はしないほうがよさそうだ…
 そんな秀之の胸中になどおかまいなしに、学生たちは次から次へとさまざまな話題を持ち出し、好き勝手なことを言い合ったり、笑い合ったりしている。しかも途中からコズミ教授もその輪に加わり、場の雰囲気はいよいよ盛り上がるばかりであった。
 初めてやってきた自分に気を遣ってか、ひげ面―矢部が時々さりげなく話を振ってきたり、意見を求めてきたりするのには一応丁寧に答えながら、秀之はひたすら、席を立つタイミングを計り続けていた。
 そしてようやく、この場を辞去しても失礼ではない程度の時間が経った頃。
「あの、すみませんが僕はこれで…」
「コズミ先生? 保坂先生から書類をことづかって参りました。…いらっしゃらないんですか?」
 おずおずと口を開いた秀之の声にかぶさって、心地よいアルトの声が響いた。
「おお、藤蔭君! すまんかったすまんかった。お茶会がすっかり盛り上がってしまってのう」
「…相変わらずですね、コズミ研は」
 立ち上がったコズミ教授がドアの方へ行きかけるよりも一瞬早く、研究室と奥とを隔てる衝立の陰からひょい、と顔をのぞかせた女性。
(あ―!)
 危うく叫びだしそうになり、秀之はその場に棒立ちになった。
「どうじゃね、仮住まいのほうは。保坂研の連中、狭くて文句を言うとるんじゃないのかな?」
「校舎の建て替えでは仕方がありませんよ。夏休みが終れば、新築の研究室に移れるんだから、ってみんな何とか我慢してます。それよりこちら…来週の教授会についての案内だそうですわ。あと、この間拝借していたご本と…」
 白衣に包まれたほっそりと華奢な長身、長い黒髪、シフォンのリボン…それは間違いなく、先ほど図書館で見かけたあの人物だった。
「最後に、これは『果たし状』。先生、少しはお手柔らかにお願い致しますね。保坂先生、先週一杯ご機嫌斜めで大変だったんですから」
「ほっほっほっ。わしのようなヘボ碁打ちに負けるなんざ、保坂君がヘボ以下の証拠じゃよ。ふむふむ、今度は麻雀か。よかろう。返り討ちにしてくれる、と伝えておくれ」
 コズミ教授と楽しそうに笑い合うその姿に呆然と見とれていた秀之の腕を、矢部がちょんちょん、とつつく。
「おい、お前どうしたんだよ、いきなり」
「あ…すみません」
 我に返ってへたへたと再び椅子に腰を下ろすと、矢部がそのひげ面をぬっと近づけ、秀之の耳にささやきかける。
「もしかして、藤蔭さんに惚れたか? 一年坊主。だけどあの人は手ごわいぞぉ。下手に手を出して泣きを見ても俺ゃ、知らんからな」
 だが、その言葉は秀之の脳には届いていない。
「あの人…藤蔭さんていうんですか…」
 ぼんやりとつぶやいた秀之の隣で、矢部が肩をすくめた。
「ああ。藤蔭聖。俺の前の、この研究室のヌシよ。もっとも今じゃ、精神医学講座の保坂教授んとこの助手だけどな。今度、医学部一号館が建て替えられるそうで、今、保坂研はこの上の階に間借りしてるんだ。だからちょくちょく顔を合わせることもあるだろうが…多分彼女、お前より一回りは年上だぜ…って、聞いちゃいねーな…まあいいや。とりあえず、俺はちゃんと忠告したぜ。それだけは、忘れんなよ」
 続いて、いかにも「やれやれ」といった感じの大袈裟なため息。だが、そんな忠告やため息など、これっぽっちも秀之の耳に入っているわけがなかった。

 そして、翌日から秀之はコズミ研の常連となった。目あてはもちろん、藤蔭助手。
 精神医学講座の助手なのだから、そっちに入り浸れば話はもっと手っ取り早かったのだろうが、あいにくそことは何の接点もない。保坂教授も一般教養の「精神分析学」という講義を持ってはいたのだが、秀之はその科目を履修してはいなかった。そろそろ五月も終わろうという今となっては、履修科目の変更もできやしない。いっそ、モグリで授業を聴きに行こうかとも思ったが、間の悪いことにその時間には必修科目である「医学倫理概論」が入っていた。これを落としたら、進級できない。となればあとは、かつて彼女がヌシだったというコズミ研に望みを託すしかないわけで…
 そんな、下心ありありのこの新顔を、コズミ研のみんなは快く迎えてくれた。もっとも、そんなことは誰も知らないのだから当然といえば当然のことではあったのだが。
 ただ一人、感づいているとすればあのひげ面―矢部だけだが、矢部はそんなことはとうに忘れたような顔をしていた。それが秀之には何よりありがたかったのは言うまでもない。
 それに、最初のうちこそ「いー加減」に見えたものの、いざ仲間になってみれば、コズミ研はかなり居心地のいい場所だった。あらゆる学部の学生が自由に出入りし、好き勝手に話したり、暇を潰したりしている。コズミ教授もしょっちゅうそんな学生たちの中に交じって気さくに語り合ったり、笑ったり、時にはむきになって議論を交わしたり…中学や高校とは違う、本当の意味での「大学」というのはこういうところなのだと秀之は初めてわかったような気がした。
 毎日通っていれば、当然知り合いも増える。中でも秀之がもっとも仲良くなったのは、矢部を筆頭に文学部の村瀬、法学部の葛原、社会学部の内藤、その他の面々だった。みんな秀之より年上だったが、ここにいるときには同じ、対等な友人として扱ってくれる。下手なサークルなんかより、ずっと楽しいし、有意義だ…いつのまにか秀之は真剣にそう思うようになっていた。
 ただ、残念ながら藤蔭助手は、あの日以来一度も顔を見せてはくれなかったのだけれども。

「…にしても、どうしてここには文系の皆さんしか来ないんですかねぇ」
 半月ほどあと、すでにかなりみんなと打ち解けた秀之は、お茶請けに手を伸ばしながらぼそりとつぶやいた。今日用意されていたのはせんべいである。ぽりぽり、といううまそうな音が、部屋のあちこちから聞こえてきていた。
「えー、そんなことないよぉ。理系の子だって結構来てるし。…物理の桜井君でしょ、工学の杉山さんでしょ、化学の井上君…君と同じ、医学部の人もいるよ。それにコズミ先生、理学部の院生の指導もしてるから、そっちの人たちが顔出すこともある」
 テーブルにひじをつき、少々行儀の悪い格好であられをほおばりながら、村瀬が言った。ここに来ている女子学生のまとめ役、口うるさいが面倒見のいい、「肝っ玉母さん」という言葉がぴったりな三年生である。
「ま、コズミ先生は院のほうにもゼミ教室持ってるからな。それに、授業のとり方次第ですれ違いになっちまう奴らも結構いるし、それでなくても理系は実験だレポートだって、何かと忙しいんだよ」
 これは内藤。ちょっとお調子者だが気配りにも長けている、ムードメイカーの二年生。
「石原君だって、専門に進んでごらん。目が回るほど忙しくなって、そうそうここにも顔出せなくなっちゃうかもしれないぞ」
「おいおい、あまり一年生を脅かすなよ」
 矢部にたしなめられた葛原は、裏表のない物言いが身上の三年生。ただ、遠慮会釈がなさ過ぎて、ときおりこういう「指導」が入ることもある。だが、その言葉には決して悪気がないことは秀之も承知しているから気にはならない。
「へえ…医学部? 知らなかったなぁ。何て人なんです?」
「うん、日高ってンだ。五年生…修士の一年だな。これがかなりの美形でさ、しかも成績優秀、スポーツ万能…俺たちなんか束になってもかなわないスーパーマンだぜ」
「ただ、それはそれで苦労があるみたいよ。ま、半分は自業自得だけどさ。…性格自体は、さっぱりしていて決してやな奴じゃないんだけど」
 内藤と村瀬が、意味ありげに視線を交し合う。矢部と葛原は、二人の言葉に無言のままうなづいているばかりである。もちろん、秀之にはそれが何を意味しているのかわからなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ―「医学部」という言葉が出たのはチャンスだ。必死に頭を働かせ、乏しい演技力を駆使してできるだけさりげなく、言葉を継ぐ。
「そうなんだ…でも医学部っていえば僕も一人、知ってますよ。この前―僕が初めてお邪魔したときに顔を出した藤蔭さん…彼女も確か、医学部ですよね。精神医学講座の助手なんでしょ?」
 矢部が、唇の端をかすかにつり上げて秀之を見た。どうやらこの男には、秀之の魂胆など見え見えのようである。しかし、他の連中はそんなことなど知る由もない。
「ああ…そう言えばそうね。でもあたしたち、藤蔭先輩についてはあんまりよく知らないのよ。だって、あたしが入学したときにはもう、あの人保坂先生んとこ行っちゃってたんだもん」
「そうそう。この研究室のヌシも、もう矢部さんになってたしな」
「こん中で藤蔭先輩と一緒だったのは矢部さんくらいなもんじゃないの?」
 みんなの視線が何となく矢部に集まる。もちろん秀之も、すがるような目つきでそのひげ面を必死に見つめていた。しかし―
「まあ、確かに俺んときにゃ、藤蔭さんはまだここのヌシだったさ。でももうしっかり医師免許は取ってるわ、博士課程は終ってるわで何つーか…『就職活動中』でよ。結局、あんまり親しくなれねえうちに精神医学に行っちまったんだ。何せ俺ゃ、『生物学』取ったのが学部三年のときだったからなー。まあ、とにかくすげー才媛で、美人で、そのくせかなりくだけてて、ちょっぴりワルっぽいところもあってよ。当時タマってた男子学生のマドンナだったってことくらいしか知らねえのさ。…あんまり役に立てなくて悪いな、石原」
 お茶っ葉を入れ替える振りをしていつのまにかすぐ後ろにやってきた矢部の最後の言葉は秀之にしか聞こえないくらいの小声であった。その心遣いは大層嬉しかったものの、今日もとうとう、藤蔭助手との距離はこれっぽっちも縮まらなかったことに、秀之はがっくりと肩を落とす。すぐ上の階にいるはずなのに、憧れの女(ひと)の許へたどり着くまでの道は、どうやらかなり遠く、険しいらしい…。

ところがそれからいくらも経たないうちに、秀之は思いがけないところで藤蔭助手と二人きりで話をする機会に恵まれたのである。
 それは、とある日の早朝。今日は一限から五限までびっしり授業が入っている上に、一限は実験及びレポートつきときている。その上実験の準備当番にまで選ばれてしまった(じゃんけんで負けた)のだから、最悪だ。秀之は、お世辞にもご機嫌とはいえない表情で大学の門をくぐり、それでも早足で実験室へと向かっていた。
「…あれ?」
 目の端を、何かがよぎったような気がする。きらきらと七色に輝きながら宙を漂う、えらく綺麗な光の玉のようなもの。…シャボン玉?
 だが、振り向いたときにはそんなものは影も形もない。見間違いだったか、と再び歩き出そうとしたとき、左手脇の植え込みの向こうに、人の気配がした。
(この向こうって、何か、あったっけ…?)
 背伸びをして覗き込んでみた刹那、心臓が一気にその鼓動を早めた。
(藤蔭さん…!)
 何とそこには藤蔭助手が、何やら一心に祈りでも捧げているふうにしゃがみこみ、手を合わせていたのである。しかも、たった一人で。
もう、準備当番なんてどうでもいい。罰当番なら卒業までやったって構わない。…気がついたとき、秀之は藤蔭助手のすぐ後ろに佇んでいた。
(ここは…)
 藤蔭助手が祈りを捧げていたのは、何かの石碑か、塚のような大きな石の前だった。
(実験動物の、慰霊碑…)
 人間の、あるいは同じ動物の命を救う医学、獣医学の研究のために犠牲になった小さな命。哀しいことではあるが、医学を志すものはこの現実を避けて通ることはできない。しかしながら、獣医学・医学・理学合同で行われる年一回の慰霊祭以外には、この慰霊碑に参るものなどほとんどいない、というのが現実であった。
「あら…?」
 背後の気配に気づいたのか、藤蔭助手が振り返る。日本人形のようなやや古風な美貌の中で、真っ黒な瞳が一直線に自分を見つめている。秀之の頬が、真っ赤になった。
「貴方は確か、この前コズミ先生のところにいた…」
「はいっ! 石原秀之、医学部一年ですっ!」
 大声を張り上げる秀之に、藤蔭助手の口元がほんの少し、ほころんだ。
「そう…貴方、医学部だったの」
 少し哀しげなその表情に一瞬たじろいだものの、秀之はありったけの勇気をかき集めて彼女に話しかける。ここで何も言えないようじゃ、男じゃない。
「あの、藤蔭…先輩。こんな朝早くから、一体何を…?」
「お参りよ」
 少し沈んだ、アルトの声。
「私たちが医者になるために犠牲になった小さな子たちへのお参り。みんなきっと、怖くて苦しくて、哀しかったに違いないわ。『殺さないで』『もっと生きたい』って、必死に叫んでいたことでしょう。もちろんそれが、たくさんの人の、そして動物の命を救うためだってことはわかってるけど…だからといって一年に一度だけ、神妙な顔で慰霊祭に出ればいいってものだとは思わない。それでこうして、毎朝お参りしてるのよ。…ただの、自己満足の感傷かもしれないけどね」
 寂しげに笑って、再びしゃがみこんだ藤蔭助手。秀之はぐっと拳を握りしめ、唇をかんで…次の瞬間、藤蔭助手に並んで慰霊碑の前にしゃがみこみ、手を合わせた。
「石原君…?」
 藤蔭助手が、はっとした表情になるのには構わず、心を込めて祈りを捧げ、そして、深々と一礼したあとで。
「先輩のおっしゃること、僕も賛成です。僕はまだ一年だから、そんな、動物を犠牲にするような実験も実習もしたことないけど…。いずれきっと、やらざるを得なくなる…本当は、そんなことしたくないけど…そうしなければ医者にはなれない…。哀しいことだけど、それが今はどうしようもない現実なら…僕も、せめて先輩みたいにこれから毎日、お参りします。自己満足でも何でも、そういう気持ち、忘れないで…いたいです」
 自分でも何を言っているのかわからないくらい、しどろもどろでつっかえながらの言葉ではあったが。
「ありがとう…貴方は優しい人ね」
 藤蔭助手の満面の笑みは、今この世界を照らしている朝日の輝きよりも美しかった。そして―
「あ! シャボン玉!」
「え…?」
 藤蔭助手の微笑みに誘われたように、先ほどのシャボン玉が無数に現れ、雲一つない青空に向かってふんわりと昇って行く幻を見たような気がした。しかし、声を上げた瞬間それは跡形もなく消え失せ―
「なあに? シャボン玉って」
 不思議そうに、自分を見つめる藤蔭助手。秀之の頭はもう、爆発寸前だった。
「あの…今、ちらっと見えたような…気がしたんです…何だかシャボン玉みたいな、綺麗な…淡い光の玉が空に昇って行くのが…でも、すぐに消えちゃって…さっきもそうだったんだ…見つめようとすると、すぐ消えちまう…何なんだよ、あれ…」
 彼女はきっと、何て莫迦なことを言う奴だと思っているだろう。
(せっかく、会えたのに…せっかく、二人きりでこんなに真面目に話せたのに…)
 あまりの恥ずかしさにうつむいてしまった秀之は、とうとう気づかなかった。彼の言葉を聞いた藤蔭助手が、ほんのわずか、その漆黒の瞳を驚いたように見開いたのを。覚えていたのはただ、彼女が最後にこう言ったことだけ。
「それはきっと、ただの見間違いよ。ここは木漏れ日がとても綺麗だけど、時々まぶしすぎて、目が眩んじゃうことがあるのよね。よくあることよ。気にしないで」

 このちょっとした寄り道のおかげで、実験室にたどり着いたのは一限開始ぎりぎりの時刻だった。当然、当番仲間からはさんざん文句を言われたけど―罰として、実験の後片づけは全部一人でやらなければならなかったけど―秀之は今朝の幸運に、完全に舞い上がっていた。みんなに謝るときだけはかろうじて神妙な表情を浮かべていたものの、あとはどんなに厳しいことを言われても、片付けを押しつけられても、へらへらとだらしなくゆるんでいく顔を自分でもどうにもできない。最後にはとうとう、怒っていた仲間たちが「おい、お前…大丈夫か?」と心配そうな顔で額に手を当ててきたくらいである。
 二限以降、びっしり詰まった授業も何の苦にもならなかったのは言うまでもない。幸福一杯のまま一日を終え、夕暮れのキャンパスをコズミ研に向かう。毎日一回あそこに顔を出すのも、秀之にとっては半ば習慣になっていた。
 が…
 鼻歌交じりで階段を上り、コズミ研に通じる廊下に出た瞬間、秀之は目を見開き、昔懐かしい刑事ドラマの台詞そのままの叫び声を上げていた。
「何じゃあああぁぁ、こりゃああぁぁ!?」
 さしもの上機嫌も一瞬で吹っ飛ぶほどの驚愕。こんな…こんなことがあるわけがない。
 コズミ研の前の廊下が、女子学生で一杯になっているなんて…っ!
「石原君、こっちこっち!」
 異次元にでも迷い込んだかと思った刹那、ぐい、とひじを引っ張ってくれたのは村瀬だった。廊下の陰に引きずりこまれた秀之は、馴染みの顔にようやく息をつく。
「村瀬先輩…一体、何なんですか、あれ」
 こんな廊下の片隅にまで、研究室の前を埋め尽くした女の子たちのさえずり声が聞こえてくる。大雑把に言っても二十人はくだらないだろう。村瀬が、いかにもうんざり、といったふうに顔をしかめた。
「この間、ちらっと話に出たでしょう。医学部のスーパーマン。どうやら、彼のお出ましみたいよ」
「ああ、あの…確か、日高さんとかいう…?」
 秀之がそう言ったのとほぼ同時に、コズミ研のドアが開いた。
「きゃああああっ! 日高さぁん!」
「お待ちしてましたぁっ!」
 たちまち湧き上がる黄色い声に迎えられて出てきたのは、すらりとした長身の男と、何故か矢部だった。
「何だよ、みんな…待ち合わせは確か六時だろう? まだ、三十分もあるじゃないか」
「だってぇ、あたしたち少しでも早く日高さんに会いたかったんですもーん」
「もう授業は終わりなんでしょう? だったら先に行っちゃいましょうよ、コンパ。他の連中だって、どうせ後から追いかけてくるんですからぁ」
 男―日高の困ったような声さえ、あっという間に甲高い嬌声にかき消される。
 …なるほど、いい男だ。と秀之は思った。どちらかといえば優男風の端正な顔立ちと、ほっそりとした体つき。だがそれがなよなよと頼りない細さではなく、余分な贅肉を全てそぎ落とした、スポーツマン特有の引き締まった体格であることは服の上からでも容易に見て取れる。「外柔内剛」というやつなのかもしれない。
「ああ、わかったわかった。みんなの言うとおりにするよ。だから、ここは早く出よう。廊下で騒いだら、迷惑になる」
「ええーっ、あたしたち、おとなしくしてましたよぉ」
「そうよそうよ。日高さんの意地悪」
「そんなこと言うんなら、もう、泣いちゃうからぁ」
 きゃあきゃあ声を張り上げる彼女たちに日高はほんのわずか肩をすくめ、矢部に軽く一礼するとその華やかでやかましい集団を追い立てるようにして階段の―秀之と村瀬が隠れている方へ歩き出した。
「よ、村瀬。いつも悪いな、うるさくて」
 二人の前を通り過ぎるとき、村瀬に気づいたらしい日高がそう声をかけていく。途端、女の子たちの嫉妬と敵意に満ちた視線が村瀬に集中した。
「どー致しまして。気にしてないっスよ」
 しかし村瀬は平然とした表情で軽く受け流す。程なく、日高と女子学生の集団は階段を下りていき、後には呆然とした表情の秀之とうんざり顔の村瀬、そしてコズミ研のドアの前で眼を点にした矢部だけが残されていた。

「…ったく、あの切れ者がどーして女にはああ甘いかねぇ」
 やっとの思いでコズミ研奥、いつもの大テーブルに陣取った三人の中で、一番先に口を開いたのは村瀬。秀之と矢部は、半ば放心状態で彼女の演説を拝聴していた。
「そりゃ、取り巻きでも追っかけでもグルーピーでも、引き連れるのはあの人の自由よ。だけど、あんなに好き放題させてたひにゃ、いつか絶対自分だってえらい目に遭うに決まってるじゃん。それがどーして、わかんないのかっつーのよ。あの秀才にっっっ!」
「ひえぇっ!」
 村瀬の手がテーブルを思い切りひっぱたき、ばかでかい音を響かせたと同時に、三人の背後で世にも情けない悲鳴が聞こえた。びくりとしてそちらを見れば、コズミ教授が眼鏡の奥の目をぱちくりさせて仕切りの衝立にしがみついている。
「一体…どうしたんじゃ、村瀬君? 今日はまた、えらく荒れとるのぉ」
「先生!」
「すっ、すみません! 先生を驚かすつもりなんて、なかったんですけど…」
「いや、そんなことはいいからいいから。まずは事情を話してくれんかね?」
 そして。すっかりしゅんとなった村瀬がみんなに入れてくれたお茶と、コズミ教授が買い置いてくれたドラヤキを前に、あの大騒ぎの真相がようやく順序立てて語られることになったのであった。
「…だから、日高も悪気はなかったんですよ。たまたま五限が休講になったから、久しぶりに先生のお顔が見たいって。でも先生、この時間は院生の指導にいらっしゃるでしょう。で、お帰りを待っているうちにいつのまにかあんなになっちゃって。最初来たときには確かに、あいつ一人だったんですけどねぇ」
「何で、日高さんがここにいるのがわかったんだろう?」
「日高さんには全学規模のファンクラブがあるのよ。噂では、代わる代わる『日高ウォッチャー』ってのをやってるらしいの。要するに、監視当番ね」
「うわ、すげぇ…」
「日高も災難だぜ。あんなんじゃ、学校にいる間中気の休まる暇がありゃしない」
「だからぁ! はっきり自分で言えばいいのよ、『迷惑だ』って。なのにあの人、女の子にはめちゃ甘いから…あんなんじゃ、自分だっていつか絶対困るわよ。そう…例えば、恋人だって作れないじゃない。あんなお荷物がいつもくっついていたらさ」
「あ…む…それは確かにそうじゃろうが…男としてはの、やはり自分を慕ってくれる女性にはあまり強いことは言えんもんじゃよ。のう、矢部君、石原君」
「はあ…それは確かに、その通りですが…」
 照れたように頭をかく矢部の隣で、秀之も一応はうなづいた。が、本当のことを言えば日高のことなどどうだっていい。「もてすぎるのも、大変なんだな」と思ったのがせいぜいだった。
(僕はやっぱり、藤蔭さんがいいや。大人だし、落ち着いてるし、それに…優しいし)
 先ほどの驚愕がさめるにつれて、再び心の中に蘇る幸福感。またまたしまりのない笑顔になった秀之を、仏頂面の村瀬が口を尖らせて睨んでいた。

 


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