Part 2


 それからもずっと、秀之の上機嫌は続いていた。何といっても、毎朝あの慰霊碑にお参りすれば、藤蔭助手と会えるのである。動物たちへの慰霊の気持ちにはこれっぽっちも嘘偽りはなかったけれど―一緒にお参りする相手が相手だけに、心ときめく期待を持つなというのは到底無理な話だった。
 もちろん、毎日必ず会えるわけではない。それに、会えたとしても交わす言葉は挨拶と、せいぜい二言三言の他愛ない世間話。それだけのことで、あれ以来ずっと舞い上がりっぱなしというのは秀之がいかに純情で奥手な青年かという証明のようなものだったが、当の本人にはそんな自覚があるわけもない。ただもう、嬉しくて幸せなまま、毎日が夢のように過ぎ去り、気がつけばすでに前期も終わり近く、夏休みが目前に迫っていた。
 授業は次々と前期カリキュラムの終了を宣言し、あとは試験を残すのみとなっていく。そして、時間割のあちこちにぽっかりと空いた穴をどうするかといえば、やはりコズミ研に行くしかない。もっともこれは秀之に限ったことではないらしく、ここ数日コズミ研は満員御礼の状態が続いていた。
 試験間際ということで図書館にも学生たちがぎゅうぎゅうづめになっていたし、テキストやノート、参考書さえ揃っていれば例の大テーブルで勉強した方がいい、とみんな考えていたのだろう。しかし、親しい仲間が集まれば、何とはなしに雑談や噂話が始まってしまうのは世の常である。おかげで秀之は、学内の動向や学生たちの近況について、かなりの情報通になることができた。
 曰く、「今年の一般教養『法学概論』は受講者の七割が落とされるらしい」だの、「夏休み中に改築予定の医学部一号館(本来なら、そこが藤蔭助手の正式な居場所なのだ!)の工事現場に幽霊が出る」だの、「今年の陸上部は絶好調で、秋の箱根駅伝予選突破は間違いない」だの―。中には、「矢部に彼女ができた」という噂まで耳に入ってきて、そのときばかりは「あのひげ面の矢部さんが、どんな顔をして女の子とデートするんだろう」とにんまりしてしまい、村瀬や内藤にさんざんからかわれたものだったが。
 ともあれ、今日もいい一日だった―夏の太陽も地平線にその姿を隠し、夕暮れの空に星の一つも瞬きだす頃、ようやく秀之はコズミ研を後に、家路についたのだった。
 最寄り駅に出るのに一番近いのは東門だ。特に意識していなくても、足が自然にそちらの方へ向かう。陽が落ちたおかげで日中の凄まじい暑さも幾分、和らいだようである。もう、東門はすぐ目の前。秀之は、歩きながら大きく伸びをした―そのとき。
ぞくりと、全身が総毛立った。
(な…何だ?)
 風邪のひき始めにも似た、不愉快で不気味な悪寒。そればかりではない。背中の方から得体の知れない何かがざわざわと這い登ってくるような気がする。はっとして腕を見れば、真冬の寒気にでもさらされたような鳥肌。
(まさか!)
 今まで忘れていたあることを思い出して、秀之は左手に目を向けた。そこには、建築会社の名前入りシートに覆われ、解体される日を待つばかりとなった医学部一号館の、黒々と聳え立つ影。
(医学部一号館の工事現場には、幽霊が出るんだってよ)
(英文の女の子が二人、取り殺されそうになって医務室に担ぎこまれたそうだぜ)
(息も絶え絶えで、今にも死にそうだったって)
 右から左に聞き流していたあの噂話が、今になって鮮明に蘇ってくる。
(あれは、本当だったのか―?)
 逃げようと思ったが、足がすくんで動かない。いや、背中に感じていたあの不気味な気配がいつのまにか秀之の全身を押し包み、一切の動きを封じている―そんな感じだ。
(莫迦な…この現代に、幽霊だの、化け物だのが…いるなんて!)
 全身の血が足元に下がっていく不吉な音が聞こえる。頬が冷たい。動けない。手も、足も…いや、呼吸さえ。寒い。こんな、夏の夜だというのに。心臓が、爆発しそうに脈打っている。冷たい。寒い―
 恐怖だか苦痛だかわからない感覚が、精神さえも麻痺させていく。かろうじて保っていた意識が、今にも途切れそうになった瞬間。
「石原君!」
 聞き覚えのあるアルトの声に、秀之ははっと我に返った。
「藤蔭先輩…!」
「どうしたのよ、貴方。こんなところでぼーっと突っ立って」
 背後から声をかけてくれたのは、誰あろう藤蔭助手、その人だった。すでに仕事は終ったらしく、いつもの白衣ではなくて、ごく薄いターコイズグリーンのサマースーツを身につけている。初めて見る彼女の私服姿は常にも増してその美しさを際立たせ、女らしさを匂い立たせるように見えて―こんな状況にもかかわらず、秀之はうっとりと目の前の女に見とれてしまっていた。
「ちょっと…貴方、本当に大丈夫?」
 ひらひらと細い指が目の前で振られる。あの日、図書館で嗅いだ香りがほんのりと秀之の鼻腔をくすぐった。
「もしかして…例の噂、聞いたの? この工事現場に幽霊が出るって話」
 心配そうなささやきに、秀之ははっとする。学生たちばかりではなく、研究室助手―この大学の職員である彼女でさえあの話を知っているとは。
(あの噂、思ったより広がってるんだ…)
 だが、そんな秀之にはお構いなく。
「…よくないなぁ。あれを知ってるくせに、わざわざここを通るなんて。深層心理を莫迦にしたもんじゃないわよ。たとえ自覚のない恐怖や不安だって、運動機能を麻痺させるくらいは簡単にやってくれるんだから。少しでもおっかないと思ったところには近づかない方が賢明よ」
「そんなんじゃないですよ!」
 秀之は、慌てて叫んだ。もしかして藤蔭助手は、例の噂にびびった自分が、恐怖のあまり無意識に立ちすくんでしまったとでも思っているのか? 冗談じゃない。好きな女性にそんな臆病者だと思われるなんて、男として絶対に我慢できない。
「今、本当に…急に背筋がぞくっとして…身体が、動かなくなったんです。何だか、得体の知れないものに全身を押さえつけられたみたいに。ヒステリーその他の精神疾患による運動機能麻痺や、PTSDについては僕も少しは知ってます。でもあれは、絶対にそんなんじゃなかった!」
 必死の弁明を、藤蔭助手は一応神妙な顔で聞いてくれた。しかし、秀之の言葉が終ったときの彼女の返事は…。
「うん、わかった。貴方の言葉を信じるわ。…でも、それならなおさら、こんなところへ近づいちゃ駄目。だってそれだと、本当にここに、わけのわからない何かがいる、ってことでしょう? 『君子危うきに近寄らず』。不審な場所、生理的に好きになれない場所はできるだけ避けるようになさい。自分の直観力を侮ったら、いつかきっとひどい目に遭うわよ」
 そのときの彼女の顔があまりにも真剣だったのでついついうなづいてしまったものの、よく考えてみると体よくなだめられてしまっただけのような気がする。なおも反論するべきかどうか、秀之は迷った。だが、その結論が出るよりも遥かに早く。
「…わかってくれたんなら、それでいいわ。さ、こんな気味の悪いところからはさっさと引き上げましょ。当分、学校の出入りには東門以外の出入口を使うのね。じゃ、またね。私はまだちょっと、寄る所があるから」
 ほっとしたように少し、笑って。秀之の肩をぽん、と叩いて。
 藤蔭助手はくるりときびすを返すと、さっさと理学部校舎の方へと立ち去ってしまった。
 反論も、更なる弁解もできないまま取り残された秀之は、呆然とその後姿を見送るばかりである。
(もしかして僕…とんでもなくガキっぽいやつだと…思われ…た…?)
 あの朝の邂逅以来、驚異的な持続力を誇っていた上機嫌に、初めて亀裂が入った瞬間であった。

 高く舞い上がれば舞い上がるほど、墜落したときの衝撃は大きい。
(あんな…他愛もない噂話にびびるような奴だと思われたなんて…)
(とんでもないガキ…臆病者…そんなふうに、あの人に思われてしまったなんて…っ!)
 もしかしたらただの思い込みでしかなかったかもしれないのに、秀之の気分は天国から地獄の底までまっさかさまに落ち込んでしまった。
 しかも、悪いときには悪いことが重なるもので。
「おい、石原。どうしたんだよ。…何かあったら、話してみろや」
 それでも足が赴くままにコズミ研に顔を出し、例の大テーブルに陣取って機械的にテキストやノートを自分の前に広げたものの、虚ろな目で遠くを見つめ、ため息ばかりをついている秀之を心配した矢部が自ら入れた茶をその前に置き、できるだけそっと声をかけたのとほぼ同時に。
「…おい、それ本当かよ。だったら、とんでもないスクープだぜぇ」
「間違いないって。俺のクラスの奴が、本人から聞いたんだから。…あの、日高の奴がよぉ」
 何気ない、いつもの噂話。話している二人は声も潜め、他の連中の邪魔にならないようにしていたというのに、運悪く。
「マジで、精神医学の藤蔭さんに惚れてるって。試験が終わる前に、告白するつもりだとよ」
 秀之と矢部の耳に、そんな台詞がはっきりと聞こえてしまった。
「石原!」
 手に取った茶碗が、膝の上に落ちる。まだ熱い茶が、秀之のズボンにもろにかかった。
「おい、大丈夫か! ちょっと立ってみろ! さっさとズボン…畜生、こんなとこじゃ脱ぐわけにもいかねぇか…」
 膝の上の茶碗を取り上げ、テーブルの上の台布巾を引っつかんだ矢部が秀之を立ち上がらせ、あたふたとズボンにこぼれた茶を拭いてくれる。しかし、秀之はそんな矢部を焦点の合わない目でぼんやりと見下ろしただけだった。
「矢部さん…もう、いいです…ありがとうございました。…もう、大丈夫ッスから…」
「大丈夫って、お前よぉ」
「僕…今日はこれで帰ります。…本当に、ありがとうございました…」
 もう、矢部が何を言っても秀之には聞こえていないようだった。机に広げた道具を片付け、一礼してコズミ研を出て行ったその足取りは、まるで夢遊病者のようにおぼつかなく、頼りない。
「きっ…貴様らぁ〜っ! アホな噂話するんなら、時と場所を考えんかいっ!! …この…バカタレどもがあああぁっ!!」
 自分が出て行って程なく、猛獣顔負けの矢部の咆哮が響き渡り、コズミ研を危うく倒壊させそうになったことなど、秀之は知る由もなかった。

「ちわーっす」
 今日で試験も全て終わり、晴れ晴れとした顔でコズミ研を訪れた村瀬は、一歩部屋に入った途端、危うく矢部に押し潰されそうになった。
「村瀬えええぇっ! お前何だってここ三日間も顔見せなかったんだよっ! 俺が…俺がどんな思いでお前を待ってたと思ってるんだっ!」
「ちょっと、矢部さん…? どうしたんスか? 目、血走ってますよ…って、やだっ! お願いだからそんな、迫らないで下さいっ。サヤカちゃんに言いつけますよっ! ねえっ! ねえってば! きゃあああぁぁぁっ!!」
 女丈夫として名高い村瀬がこんな少女のような悲鳴を上げるなど、コズミ研の歴史に特大の赤文字で書き加えられるべき大椿事だったが、それも無理はなかろう。今の矢部は、一升酒をかっくらった上に興奮剤を注射されたヒグマそのものであった。
「莫迦野郎っ! どーして俺が、可愛いサヤカちゃん捨ててお前に迫んなきゃなんねぇんだよっ。そうじゃなくて、問題なのは石原だ、石原!」
「石原君…? そーいや、ここ一週間ほど見てませんねぇ。試験に追われてこっちに顔出す暇がないのかな? 何てったって一年生、それも天下の医学部じゃ、さぞかし履修科目も多かろう…って、え?」
 冗談に紛らわせてこの場を切り抜けようとした村瀬の言葉が途切れたのは、矢部の背後から難しい顔でこちらを見つめている葛原と内藤の姿を認めたからである。しかも彼らの後ろの執務机には、畏れ多くもコズミ教授その人までもがいかにも心配げな表情でその白髭をもてあそんでいた。
「もしかして…石原君に、何かあったんですか?」
 途端に表情を引き締めた村瀬が恐る恐る訊く。それに軽くうなづいて、矢部がついこの間の出来事を、細大漏らさず語り始めた。
「…とまあ、こんなわけでな。以来石原の奴、ぷっつりと姿を見せなくなっちまったんだよ。確かに、日高が藤蔭さんに惚れるのは日高の自由だし、告白されてどう答えるかも藤蔭さんの自由だ。でもよ、あいつだってマジで彼女に惚れてた…っつーか、憧れていたのは事実だからさぁ…お節介かも知れねーけど、何らかのフォローはしてやりてぇじゃんかよ。だけどどうフォローするかは、日高の告白の結果次第で変わってくるだろ? だがこんな恋愛沙汰に関する情報収集力なんざ、俺ら野郎どもは逆立ちしたって女の子には敵わねえ。 で、お前を待ってたんだ。何か聞いてないか? お前のクラスにもいるんだろ、ファンクラブ」
「うーん…」
 そう言われて、村瀬も先客たちに負けないくらいの渋面になり、もの思わしげに腕を組む。
「矢部さんのおっしゃることはごもっともですけど…あたしゃ、あの連中にはえらい、嫌われてますからねぇ。いくらクラスメイトとはいえ、ファンクラブの情報を流してくれるような人間は…あ。待てよ」
「心当たり、あるのかっ!?」
 今度は四人―若いの三人、老人一人―の男に詰め寄られ、村瀬は反射的にその場を飛びのいた。
「ファンクラブからの情報じゃないんで信憑性はイマイチ保障しませんけど、この間ちょっと学食で小耳に挟んだことが…」
 食いつくような表情で自分を見つめている男どもに用心深く近づくと、村瀬はひそひそと何事かを四人の耳に囁いた。話を聞いた矢部たちの顔に、何ともいえない表情が浮かぶ。
「うーん…そりゃ、喜んでいいんだか悲しんでいいんだかわからん話だが…それでも石原の奴に教えてやる価値はあるな…。お前ら、今日これから時間あるか? よし、だったら今すぐ全員で奴を探せ。コズミ先生、研究室を留守にしてしまいますが、よろしいでしょうか」
 てきぱきと下級生どもに指示を下す矢部に、コズミ教授が大きくうなづく。
「ああ。わしは構わんから今すぐ行きなさい。もし石原君がここに来たら、わしから事情を説明しておくよ」
「ありがとうございますっ!」
 男女混合、見事なハーモニーで一斉に礼を述べた矢部、村瀬、葛原、内藤の四人はそのまま弾かれたようにコズミ研を飛び出していった。

 大きなため息。紙コップの中、すっかり冷めてしまったコーヒー。どちらも、今日何回目、何杯目かだなんてわかりゃしない。秀之は学食の片隅にたった一人、所在無く腰を下ろしていた。
 「日高が藤蔭助手に告白する」―その話を聞いた瞬間から、秀之の周囲からは全ての輝きが消え、どんよりと曇ったモノトーンの世界だけになってしまった。
(男の僕から見てもあんなに格好よくて、しかも秀才でスポーツ万能の日高さんに告白されて心の動かない女なんていやしない…)
 飲みたいとも思わないコーヒーの残りを、乱暴にぐっと口に流し込む。すでに午後も遅い。煮詰まった茶色の液体は苦いばかりで、絶望と落胆の味しかしなかった。
(年齢だって、日高さんの方が藤蔭さんに近いし…僕みたいな一年坊主なんて、どうせ彼女にとってはただのガキにしか過ぎなかったんだ…)
 試験期間中だから仕方なく大学にはやってくる。しかし、今は誰とも話したくなくて、ましてコズミ研になど、どんな顔をして行ったらいいのかわからなくて。休み時間のたびに人目を避けて学内をあちこちさ迷い歩き、試験が終われば終ったで家に帰る気にもなれず、こうしてたった一人、ぼんやりと過ごしてる。
 空っぽになった紙コップが手の中でぐしゃりと潰れた。もう欲しくもないのに、足が勝手に立ち上がり、コーヒースタンドに向かって歩いていく。
 スタンドのバイト店員(もちろん彼も、この大学の学生だ)にアメリカンのブラックを頼み、ポケットの小銭を探る秀之の脇を、何人かの女子学生の集団が賑やかな声を上げながら通り過ぎて行った。
 新しいコーヒーを一口すすった途端、胃が激しい抗議の声を上げた。むせ返り、咳き込む秀之のすぐ近くに、先ほどの女子学生たちが腰を下ろす。彼女たちは何故だかえらく興奮しているように見えた。夕方近い学食には、彼ら以外の人の姿がなかったことも手伝って、周囲への気配りやマナーなど、完全に忘れているようである。
「…だからさぁ! アタマ来るってのよ、あの女!」
 一人がいかにも憤懣やるかたないという大声を上げれば、たちまち周囲から賛同の声が上がる。
「そりゃ、確かに美人だし、頭もいいかもしれないけどさ。ちょっと思い上がってんじゃない?」
 どんなにやかましい連中がやってこようが、今の秀之にはまるで関係のない話だった。遠慮会釈のない金切り声は容赦なく鼓膜に突き刺さるものの、それをうるさいと感じる神経が麻痺しているも同然だったから、気になりようもない。
 しかし―
「とにかく、絶対許せないわよっ。あの、藤蔭って女!」
(え―?)
 その名前を聞いた途端、秀之の身体に全ての感覚が蘇る。
「大体、歳考えろってのよ! いーかげんババァのくせに!」
「三十だって言ってたよね」
「そんな歳まで独身なんてさ、どーせ男に鼻もひっかけてもらえなかったに決まってるわよ」
「だから欲求不満、ってか? 当たってるー!」
 ヒステリックな笑い声が学食中に響く。理由はわからないが、どうやら彼女たちは藤蔭助手に激しい敵意を持っているようだ。その言動はみるみるうちに過激に、聞くに堪えないものになっていく。秀之の身体が、かっと熱くなった。
(何なんだ、あの子たちはっ。こんな…公共の場所で人の悪口をあんなに堂々と…)
 正直、ここがどこであろうとそんなことはどうでもよかった。彼女の―藤蔭助手を悪し様に罵るその言葉こそが、秀之を完全に逆上させたのである。
「おい、ちょっと君た…」
「ストップ! 石原! どうどう、どうどう」
 かっとなって怒鳴りつけてやろうと立ち上がりかけた秀之の口を誰かの手が塞ぎ、もう一本の腕がその身体にしっかりと巻きついていた。ぎょっとして振り返れば、いつのまにか背後から、抱きつくようにして自分を押さえ込んでいた一人の男子学生。
「気持ちはわかるが、今は黙ってろ。…とにかく、コズミ研に来い。詳しいこと話してやっからよ」
 それは内藤―コズミ研の仲間、秀之にとっては今や親友の一人と言ってもいい社会学部の二年生だった。

 どうやら、日高は藤蔭助手にふられたらしい―だが、コズミ研で矢部や村瀬から全ての話を聞いたあとも、秀之はまだ、不満げに口を尖らしていた。
「まあ、あれだけ注目されてる男だ。そいつの恋愛沙汰となりゃ、多少の波紋が起きるのは仕方ねぇよ」
「ファンクラブの女の子たちにしてみれば、日高さんが本気で好きになった相手へのやっかみも嫉みもあるだろうしな。まして自分たちのアイドルがあっさりふられて恥をかかされたとなれば、それが憎悪に変わることも充分ありうる。これは人間心理としてどうしようもないことだよ。人の噂も何とやら、って言うだろう。ここはしばらく嵐が治まるのを待つんだね。幸いもうすぐ夏休みだし、後期が始まる頃には誰も、何も言わなくなっているだろうさ」
 矢部と葛原が懸命に慰めてくれるのに、秀之はぎらぎらと灼けつくような視線を向ける。
「そうは言いますけどね、試験期間はまだ三日間もあるんですよ! その間中、あんな酷いことを言われ続けなきゃならないなんて…藤蔭さんが可哀想だ!」
「大丈夫だよ。少しでも彼女のことを知っている人間なら、そんな悪口、何とも思わないさ。俺たちだってそうだぜ。だから安心しろ、石原」
「だって、大学中の人間が彼女を知っている、ってわけじゃないでしょうっ!」
 助け舟を出した内藤も、秀之の一喝にあえなく撃沈した。と―。
「うん…君の気持ちはよくわかるよ、石原君」
 今まで黙って皆のやり取りを聞いていたコズミ教授が静かに一歩、前に出た。
「だが、な…。藤蔭君は立派な大人だ。日高君との間に何があったか、確かなことはわしらにはわからん。だが真実がどうであれ、彼女は自分の行動の全てに責任を持てる人間じゃよ。だからきっと、どんなことがあっても動じやせんじゃろう。それを部外者がとやかく言うのは却って迷惑ということもある。…いいかね、これはあくまでも藤蔭君と日高君の問題なんじゃ。そこのところを忘れてはいかんよ。…わかるね?」
 コズミ教授にそう言われては、さすがの秀之も反論のしようがない。手のひらに爪が食い込むほどきつく拳を握りしめ、まだかすかに震える唇を噛みしめつつも、黙って素直にうなづくしかなかった。
 それからニ、三十分の間、コズミ教授や仲間たちととりとめもない雑談を交わし、皆より一足先にコズミ研を引き上げた秀之は、ほぼいつもの彼に戻ったかのように見えた。
 しかし、その背後でドアが閉まり、廊下を遠ざかっていく足音がやがて聞こえなくなるのを待って、小さく肩をすくめた村瀬が、不安げな視線をコズミ教授に向ける。
「…まずいですねぇ。石原君、あれじゃまだ全然納得してないみたいですよ。どうします? コズミ先生」
 教授は小さなため息でそれに答え、かすかに首を横に振る。
「これ以上はどうしようもないのう。自分の気持ちにどう折り合いをつけるか…これはこれで、石原君自身が解決しなければならん問題じゃ。もう、わしらにできることはない。じゃが、少なくとも試験が終わるまで―すまんが君たち、学校で石原君を見つけたらそれとなく、気を配ってやってくれんか。このコズミ研の仲間のよしみで、な」
 この言葉に、その場にいた全員がしっかりとうなづいたのはいうまでもない。

(部外者がとやかく言うのは却って迷惑ということもある)
(これはあくまで藤蔭君と日高君の問題なんじゃ)
 昼間、コズミ教授に言われたことがぐるぐると頭の中を駆け巡る。…多分、それは絶対的な正論。しかし秀之にはやはり、このまま何もせずに放っておくことはできなかった。
 午後十一時半。家族が寝静まるのを待ってそっと電話の受話器を取り、手に持った紙切れを広げる。「オープンスペース『コズミ研』利用者名簿」。
ちょっとふざけたタイトルのついたそれは、コズミ研にたまっている学生たちの住所録だった。秀之がコズミ研の常連になってすぐ、緊急連絡用に、と村瀬がくれたものである。日高の名前を探し、その電話番号をプッシュする。日高はマンションで一人暮らしだと聞いているから、こんな時間に電話したところで差し支えはないだろう。
「…はい、日高です」
 電話の向こうに響くその声を聞いたとき、一瞬秀之の心臓が高鳴った。
 名前を告げても、日高には一瞬誰だかわからないようだったが、コズミ研の名前を出した途端、その口調は親しげなものに変わった。
「ああ、君かぁ! 矢部さんから聞いてるぜ。俺と同じ、医学部なんだってな」
 だが、そんなことにはお構いなしに、秀之は固い声で告げる。
「…藤蔭さんのことで、お話があるんです。今、彼女がひどいことを言われているのをご存知ですか? …貴方の、ファンクラブの人たちに」
「…何?」
 日高の声も、がらりと変わる。秀之は今日の夕方、学食であったことを話し、日高から何とかその中傷をやめさせてくれないかと必死に頼み込んだ。
「僕みたいな無関係の人間が日高さんにこんなこと言うのは筋違いだって、わかってます。でも、どうしても我慢できないんです! 藤蔭さんが、あんなひどいことを言われるなんて! 彼女は何も、悪いことしてないじゃありませんか!」
 しばらくの沈黙。秀之は辛抱強く、日高の返事を待った。だが―
「…残念だがそりゃ、お門違いだな。俺には、そんな噂を止めることはできない。悪いが、自然に収まるのを待ってくれ」
「そんな!」
 声が荒々しくなったのが自分でもわかった。上級生に対して失礼かもしれないが、今はそんなことに構っている場合ではない。
「だってもとはといえば、貴方が藤蔭さんに告白したのが原因でしょう! それをそんな、無責任な…っ!」
「だがその噂自体は、俺が流したものじゃない」
 日高の声は、あくまでも冷静だった。
「多分、誰かが見てたんだろうさ。俺が彼女に交際を申し込んで…そして、ふられるところをな。その出来事について、誰がどういう印象を持とうが、俺や彼女に対してどんな感情を抱こうが、それは俺たちには関係ない。勝手に言わせておくだけだ」
「だからそれが、無責任だって言ってるんスよ! そんなこと言えるのは、貴方が中傷されてるわけじゃないからでしょう。もし自分自身があんな悪口を言われたら、貴方だってそんなに平然とはしていられないはずだ!」
「…さあね。俺だって、陰で何を言われているかわからないぜ。七つも年上の相手にちょっかい出して、あっさりふられたバカ男とか何とか、言われてないって保証はない」
「…」
 秀之が一瞬言葉に詰まったとも気づかず、日高の憎らしいほど冷静な声は淡々と話を続ける。
「人間の行動ってやつには、いつでもそんな危険がつきまとうもんさ。正しいと思ったことでも誤解されることがある。間違ってりゃ、余計叩かれる。だが、そんなことにいちいち言い訳してどうする? 他人の目ばかり気にして、せこせこ愛想振りまくだけで人生終れってか? …俺は、てめえのやったことにあれこれ言い訳するような真似はしたかないんだよ。まして、自分をふった女のために駆けずり回って弁護してやるほど大人の男じゃない」
 そこでほんの少し、日高の声が途切れた。
「…俺だってなぁ、本気だったんだよ! 彼女に断られて心底辛かったし、これでも傷ついてるんだ! いいか。もう二度と、こんな電話かけてこないでくれ!」
 最後の最後に、喧嘩腰の絶叫が響いて、そのまま一方的に電話は切れた。

 日高の言うこと全てを、納得したわけではなかった。結局あの男は、面倒臭いことから逃げているだけのような気もする。「他人の目ばかり気にして、せこせこ愛想を振りまく」のが嫌なら、いつだか村瀬が言っていた通り、あのやかましいファンクラブにだってもっと強い態度を取ればいいではないかと思う。
 しかし、それでも。
(…俺だってなぁ、本気だったんだよ! 彼女に断られて心底辛かったし、これでも傷ついてるんだ!)
 あの言葉だけは、確かに真実の響きを持っていた。
 藤蔭助手のことを本気で守りたいのなら、あそこで引き下がるべきではなかったのかもしれない。だが、真剣に好きになった相手に拒まれて深く傷ついている人間の傷口をこれ以上広げることは、どうしても秀之にはできそうになかった。
(結局、僕が一番優柔不断…ただの八方美人なのかもしれない)
 悩むべき内容がすりかわっただけで、どん底まで落ち込んだ気分にはちっとも変わりがないままに迎えた試験最終日。
(幸いもうすぐ夏休みだし、後期が始まる頃には誰も、何も言わなくなっているだろうさ)
 今となってはあの葛原の言葉を信じるしかない。ただせめて、今日一日だけは藤蔭助手への悪口など聞かずにすむように―
 そんな、祈りにも似た秀之の願いも虚しく、その日の午後、ことは起きた。

 今回のことには何も関係がないはずだったのに、何故か敷居が高くて足を向けられなかったコズミ研。だが、明日から夏休みとなれば、挨拶の一つもしておかないわけにはいかないだろう。幾分重い足取りで理学部校舎の入り口をくぐり、階段を上る。
「おおおっ! 石原ぁ〜っ! ご無沙汰だったなぁ。大学生になって初めての試験でへたばってたのかよ、おい」
 コズミ研に入った途端、矢部が満面の笑みで迎えてくれた。
「コズミ先生! 石原ですよっ」
「おお、石原君。よう来た、よう来た。…試験はもう終わったのかね? 履修科目が多すぎて、音を上げとったんじゃないか?」
 コズミ教授もいつも通りの温和な表情で顔を出す。どうやら教授は今日もあの奥の大テーブルで学生たちと談笑していたらしい。
 奥へ入ってみれば、そこにいたのはおなじみの面々。加えて今日は経済学部の島谷、工学部の杉山も顔を見せていた。二人とも三年生で、矢部たちほどではないが秀之とはすでに顔なじみである。
「やあ、石原君、いらっしゃい」
「こっちがあいてるわよ。どうぞ」
 以前とまるで変わらない雰囲気。長いこと顔を見せなかったにもかかわらず、何のこだわりもなく接してくれる仲間たち。まして、コズミ教授や矢部や村瀬たちには秀之がここを避けていた理由もちゃんと、わかっているだろうに…。
 お決まりの他愛ない雑談に興じながら、秀之は目頭が熱くなってくるのを感じた。…やっぱり、来てよかったと思う。どんなに落ち込んでいても、滅入っていても、少なくともこの仲間たちと一緒にいるときだけは…忘れられる。
 試験が終わって誰もが気がゆるんでいたのだろうか、この日のお茶会(というか、ただのおしゃべり)はかなり遅くまで続いた。
「うわわわわっ! もうこんな時間じゃねーかっ! やべーよっ! 俺、荷造り手ぇつけてないんだ。明日、田舎に帰るってのにっ」
 お開きの合図になったのは、何かの拍子にふと時計に目をやった内藤の、裏返った声。
「そんなん、自業自得じゃんよ」
「どーせ自分ちじゃねえか。裸で帰ったって、親が何とかしてくれるさ」
 憎まれ口を叩く仲間たちも、思ったより長居をしてしまったことに気づいたのか、あたふたと帰り支度を始める。
「村瀬は今日は、サークルの打ち上げコンパだろ」
「そーなんよ。だからわざわざ出てきたんだぁ。も、試験なんかとっくに終わってるってのにさ」
「飲みすぎんなよ」
「コズミ先生、遅くまですみませんでしたー」
「おう。夏休み中に、スイカの食べすぎで腹を壊さんようにな」
 口々に勝手なことを言い合いながら、秀之たちはコズミ研を出た。コズミ教授が、ドアのところまで見送りに出てきてくれる。と―。
 何だかえらく騒がしい声が、廊下を伝わって響いてきた。みんなが、顔を見合わせる。
「おい…何だありゃ」
「上の階からみたいよ」
「どうやら、女の子の声らしいな。キンキン響いてやがる」
 誰かの言葉に、秀之の頭に嫌な予感が走った。
「上の階というと…この時間まで残っとるのは確か、保坂教授のところだけのはずじゃが…」
 コズミ教授がそうつぶやくのを聞いた途端、予感は確信にかわった。
(保坂教授…精神医学講座…)
「藤蔭さんっ!」
 叫ぶよりも早く、秀之は脱兎のごとく走り出していた。
「お、おい、石原っ」
「どこ行くんだ!」
 あっけにとられる集団の中から慌てて飛び出したのは矢部。そのあとに、村瀬、葛原、内藤が続く。気がつけばそこにいた全員が、保坂研目指して階段を駆け上っていた。

 


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