Part 3


 二段とびに階段を駆け上がり、保坂研のフロアに着いた秀之は、そこに繰り広げられている光景に目を見開いた。
 いつかと同じ、女の子たちの集団。しかも今回は、ひどく殺気立っている。
「あんたじゃ話にならないわよ!」
「さっさとあの人出してよ! いるんでしょ! あの、藤蔭って助手!」
 まなじりをつり上げてまくしたてる女子学生の集団は、この前と同じく二十人以上はいるだろう。相手をしている院生らしい若い男は、多勢に無勢、女の子たちのあまりの剣幕に押されて泣きそうな顔になっている。秀之の全身が、かっと熱くなった。
「こんなところで何を騒いでるんだ! よその研究室の迷惑になるだろうっ!」
 自分でも、驚くほどの大声。女子学生たちの視線が、いっせいに秀之に注がれる。
「何よあんた」
「関係ないでしょ」
「どうせ、他の研究室の人たちなんか帰っちゃってるわよ。こっちだってそれ考えて、この時間に来たんだから」
 攻撃の矛先を向けられて、一瞬秀之はたじろいだ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「関係なくないっ! 僕たちだって…」
「下のコズミ研でいろいろ打ち合わせしてたのよ。迷惑だわ。騒ぐんだったら、どこか他の場所でやりなさい!」
 不意に、背後から秀之を押しのけるようにして現れたのは、村瀬。仲間たちが、ようやく追いついてきたのだ。
「村瀬さん…」
 再び前に出ようとする秀之を、矢部がそっと押さえる。そして、傍らの内藤に一言二言短くささやいたかと思うと、「黙っていろ」とでも言いたげな視線で秀之を牽制し、援護するかのように村瀬の後ろに立つ。一方の内藤は葛原と連れ立ち、ようやくやってきたコズミ教授をつかまえ、何かを頼み込むように頭を下げていたが、そのまますぐに三人揃ってあたふたと階段を下りていってしまった。
「打ち合わせぇ? そんなの、夏休みの遊びの計画かなんかでしょ。こっちはもっと大事な話なんだから。引っ込んでてよっ!」
「大事な話? 大袈裟なこと言うんじゃないわよ。どうせ、日高さんがふられた腹いせに、藤蔭さんに文句たれにでもきたんでしょ。いい年こいてそんな、幼稚園児だか小学生みたいな真似するなんて、あんたたち、莫迦じゃない?」
「何ですってぇ…!」
 あわや、村瀬と激昂した女子学生の集団との全面衝突が勃発しようとした瞬間。
「あなたたち! いい加減にしなさいっ!」
 鞭のような鋭い声が、そこにいた全員を凍りつかせた。
「藤蔭…先輩」
 秀之の、呆然とした声。いつのまにか保坂研のドアの前には、白衣姿の藤蔭助手が仁王立ちに立ちはだかっていた。
「大学生にもなって、騒いでいい場所といけない場所の区別もつかないの!? 矢部君! 村瀬さん! あなたたちまで一緒になって、この有様は一体何!?」
 秀之や村瀬とは段違いの迫力。さすがの女子学生集団も、色を失って立ちすくむ。
「私に何か言いたいことがあるのなら、正々堂々と言いに来なさい! それを、こんな集団で押しかけて…。これ以上騒いだら、警備室に連絡するわよ!」
 射るような漆黒の瞳に見据えられ、女子学生集団は完全に言葉を失っていた。だが、その中でもなお、負けん気の強いのはいるらしく、一人の派手な女の子が集団の中から進み出て、何ごとかを言いつのろうとしたとき。
「だ…誰か…っ! 誰か医学部の人、いませんかっ!」
 これまでの喧騒とはまったく別の、悲鳴にも似た女子学生の叫び声。はっとしてそちらを見やれば、お下げ髪の一年生らしい少女が一人、目に涙を溜め、階段の手すりにしがみつくようにしてかたかたと震えていた。
「友達が…東門の前で急に倒れて…試験中だから医務室ももうしまってて…どこに行けばいいのか…ここなら今、医学部の人もいるんでしょうっ!? 助けて下さい!」
 藤蔭助手の顔色が変わる。
「加瀬君! 急いで、保坂先生に連絡を。この時間なら院の六番教室にいらっしゃるはずよ。もし他に医学部の先生がいらしたら、その先生にも来て頂いて! そしたら貴方はここで待機。あとで必ず連絡入れるから」
 さっきの院生らしい男に叫ぶように言い渡し、藤蔭助手は少女の許に走り寄った。その黒い瞳は、もう彼女以外の誰も見ていない。
「すぐに行きましょう。私も一応、医師免許は持ってるから。…容態は?」
 秀之の脳裏に蘇る記憶。
(東門…医学部一号館…幽霊!)
 あの夜、自分を襲った得体の知れない悪寒、そして全身麻痺。まさか、またあそこで同じことが…?
 安心したのか、泣きじゃくる少女を促して、藤蔭助手が階段を下りようとする。その背中に、負け惜しみのような、憎々しげな声が飛んだ。
「何よ、いい子ぶっちゃって。その幽霊騒ぎだって、あんたの仕業じゃないの?」
(何…?)
 秀之は、びくりと振り返った。
「知ってるのよ! あんた、霊能力者なんでしょ。化け物だの妖怪だの操って、好き勝手なことできるって噂、聞いたわよ!」
 だがそのときにはもう、藤蔭助手の姿はなく、階段を駆け下りて行く二つの足音だけが遠く響いているだけだった。
 しかし、そのかわりに。
「今言ったのは誰だ!」
 つい今しがたの藤蔭助手に勝るとも劣らない、気迫に満ちた一喝が、廊下全体をびりびりと震わせた。この…声は!
「日高さん!」
 いつのまにか、藤蔭助手と入れ違いに階段脇に姿を現した日高。その後ろには、ぜいぜいと息を切らせた内藤と葛原が今にもへたり込みそうになりながら従っている。
「俺と彼女とのことについてなら、何を言われてもいい。事実だからな。だが、化け物だの妖怪だの、そんな証明不可能な言いがかりで他人を誹謗するなど、絶対に許さん!」
 思いがけない「真打ち」登場に、女の子たちは完全に放心状態になってしまったらしい。たった今までの勢いも剣幕もどこへやら、全員が恥ずかしそうにうつむき、顔を真っ赤にして、もじもじしている。
「だって、あたしたち…日高さんのために…」
「許せなかったんです、どうしても…。日高さんにあんな恥をかかせて」
「だからあたしたちがかわりに、一言言ってやろうって…」
 聞こえてくる声も消え入りそうなくらいに弱々しく、涙さえ混じっている。
「俺のことを思ってくれるんなら、今すぐここを出て、今日は帰ってくれ。もしまたこんなことが起こったら、俺はもう君たちにはつき合えない!」
 幾分穏やかにはなったものの、相変わらず有無を言わせぬ日高の口調であった。もう女の子たちには返す言葉もなく、ただしおしおとうなだれてそれに従うばかりである。五分もしないうちに、廊下には秀之たちコズミ研の連中と、そして…日高だけになった。
「矢部さん、申し訳ありませんでした。俺の所為で…。みんなも、すまん。許してくれ」
 姿勢を正した日高が矢部に、そして秀之たちにも深々と頭を下げる。
「いや…日高の責任じゃないさ。それより、彼女たちを止めてくれて助かったよ。…葛原、内藤。やったな」
 日高の肩を軽く叩きながら階段脇を振り返った矢部に、まだ息を切らせている葛原と内藤がVサインで応えた。
「まあ、お前のおかげでこっちは片づいたんだから…あと、心配なのはさっきの子だけど…」
「ああ、もしかしてあの病人…ですか? 俺たちが駆けつけたとき、保坂教授が女の子を背負って付属病院の方へ走って行かれるのを見かけました。藤蔭さんと、もう一人別の子が付き添ってましたよ」
 日高にそう言われて、矢部がわずかに安堵の息をつく。
「そうか。それならひとまず安心だな。…だが、保坂先生大丈夫かね。女の子かつぎ込んだ途端、自分が心臓発作起こしてぶっ倒れたりして」
 その冗談に、みんながどっと笑った。
「…じゃ、俺はこれで。これからコズミ先生にもお詫びしてきます」
「何だよ日高。せっかくだから俺らと一緒に帰ればいい」
「いや…今日はちょっと、遠慮させて下さい。…後期になったら、またコズミ研に顔出しますから」
 そう言って、再度みんなに頭を下げ、日高は一足先に階段を下りて行った。見送った葛原と内藤が、ようやく呼吸も元に戻ったのか、仲間たちの方へやってくる。彼らはさっき矢部に言われて、日高を探しに行っていたのだ。五年生―大学院の修士課程一年ならば、試験が終わっても実験や実習のために大学に来ている可能性は高い。そこで二人はコズミ博士に頼んで日高のクラスのカリキュラムを調べてもらったのだ。そして、案の定予想が当たっていたと知るや全速力でそちらに駆けつけ―先に秀之を探し回ったときもそうだったが、この頃はまだ、携帯電話を持っている学生など少数派である。おそらくそのあとは、院のあちこちを走り回って日高を見つけ出してきたのだろう。
 各学部の寄せ集めということが信じられないくらい、見事なコズミ研のチームワークであった。
「何はともあれ、無事に済んでよかったよかった。さ、俺達も帰ろうぜ」
 矢部の声に、仲間たちもぞろぞろと階段を下りる。
 一階下の踊り場では、コズミ教授がみんなを待っていてくれた。
「おう、みんな…ご苦労だったの。今、日高君が来てことの顛末をみんな教えてくれたよ。大変だったじゃろう。…どうかね、もう一度わしのところで喉をしめしていかんか? お茶、け」
 最後の一言に、歓声が上がる。矢部だけが、さすが「ヌシ」だけあって心配そうにコズミ教授の顔を見た。
「先生…いいんですか?」
「ああ、構わん構わん。さほど遅くまで引き止める気はないし、いざとなりゃ、わしが全責任を負うよ」
 そして。再びコズミ研に逆戻りした秀之たちは、コズミ教授秘蔵のナポレオンと大吟醸の封を開け、即席の「前期終了お疲れコンパ」を開くことになったのであった。
 先ほどの出来事にみんな興奮しているのか、酒の回りが早い。たちまち大騒ぎが巻き起こる中、秀之は酒をつぐ振りをしてそっと、矢部の隣に腰を下ろした。
「あの…さっきはすみませんでした。僕の所為で矢部さんや村瀬さんまで藤蔭さんに叱られて…僕、あとで藤蔭さんに全部、事情を話して謝ってきますから…」
 だが矢部は、秀之の言葉を豪快に笑い飛ばした。
「そんな、気ィ遣うこたねえよ。…村瀬がお前にしようとしたことを、藤蔭さんが俺たちにしてくれただけだ」
「え?」
 秀之の頭に、クエスチョンマークが点滅する。
「女の子が集団になると怖いぜえ。お前みたいな、一目で一年坊主だってわかる奴があんな場面で偉そうに怒鳴りつけたりしたら、後期にゃ全学の女の子から総スカンくらってただろうさ。それこそ、たちまちのうちに噂が広がってよ。…だから、村瀬が代わりに喧嘩売ったんだ。あいつは元々、日高ファンクラブからは嫌われてるからな。今更どう憎まれても屁でもねえ、って思ってるんだろ。とはいえ俺もやっぱ心配だったから、いざとなったらてめえが出るつもりであいつのすぐ後ろについてたんだが…その前に藤蔭さんが出てきて、俺達もひっくるめた全員を叱りつけてくれた。あれで、彼女たちの敵意はいっせいに藤蔭さんに向いたのさ。村瀬も俺も、あの時点で同罪…っつーか、彼女たちと同列になっちまったから、これ以上風当たりが強くなることもなかろうよ。まあ、そのかわり藤蔭さんが一層敵視される、って危険性はあったわけだが…あの人はそんなこと気にするタマじゃねえ。それに、最後の最後で日高がああ言ってくれたし、多分、そんな深刻な事態にゃならねえだろう」
「あたし…ちょっと日高さん見くびってたみたいですねぇ」
 いつのまにかやってきた村瀬が、恥ずかしそうに頭をかく。
「女の子にはめちゃ甘いナンパ野郎だと思ってましたけど、いざとなったらあんなきつい言い方もできるんだ…今日はマジで、あの人見直しましたよ」
「日高さんは、我慢強いんですよ」
 酒の所為か、少々顔を赤くした葛原が、ふらつきながら割り込んできた。
「自分一人が堪えりゃいいことなら、相当な目に遭ったって音を上げやしないんです。学校生活がどんなに窮屈になろうが、いつも誰かしらに気を遣わなきゃいけなかろうが。…何しろ、あの顔と頭と運動神経れすからね。きっと、ガキの頃からずっとあんなふうらったから、そうなっちまったと思うんですけろ…」
どうやら葛原はあまり酒に強い方ではないらしい。早々とろれつは乱れ始めているし、椅子にしっかり腰掛けているはずの上半身も、大きく揺れている。
「れもねぇ! 自分の所為で他人に迷惑がかかることには、すげえ敏感なんれすよ! だけろ…何しろ、自分からは…何も言わない人らから…らから…誤解されるんら…」
「ああ…そうだよな、葛原。わかってるよ。わかってるから、お前ちょっとそこに、横になれ。もしかして、かなりイっちゃってるんじゃねえか?」
 そんなことない、と喚く葛原を無理矢理研究室のソファに横たえながら、「こいつは日高と同じ高校の出身だからよ、昔からあいつ贔屓なんだ」と矢部が笑う。その脇では、「ああ〜、葛原さん、もう潰れてやんの〜」と、こちらもかなり危なくなってきた内藤が、失礼にも指を指して高笑いしていた。
 秀之は、そんな彼らを微笑んで見守りながら、そっと研究室全体、そして大騒ぎをしている他の仲間たちをを見回す。
(みんな、大人なんだ…)
 あらためて、しみじみとそう思う。あの大騒ぎの中、どうすればいいかを素早く、的確に判断し、すぐさま実行に移した矢部。自分の代わりに、矢面に立ってくれた村瀬。矢部の短い指示を正確に読み取り、自分たちの役割を迅速に、確実に果たした葛原と内藤。島谷と杉山が、矢部の次の指示に備えてさりげなくその両脇に控えていたことも知っている。そして、そんな仲間たち全員をかばい、憎まれ役を買って出てくれた藤蔭助手。
 逃げ腰だと思っていた日高もまた、いざ自分が行動すべきときには躊躇うことなく断固とした態度でことに臨んだ。
(自分をふった女のために駆けずり回って弁護してやるほど大人の男じゃない)
 あの言葉の裏にあった真実が、今ならわかる。日高はきっと、藤蔭助手が自分と同じ「大人」であることをよく知っていたのだと。自分たちの間に起こった「事実」、それを誰にどう言われようとびくともしない強さを持った人間であることをよくわかっていたのだと。だからそれぞれに、じっと身を縮めて嵐が通り過ぎるのを待とうとしていたのだ。もしかしたら多少の本音が混じっていたのかもしれないが、もしそうだとしても、もう日高を怒る気にはなれない。日高とて、辛い思いをしたのには違いないのだから。
 あの時素直にそう言ってくれなかったのは、頭に血が昇りきっていた自分をこれ以上刺激するのを避けるためだったのだろう。
(僕は…本当にまだまだ、ガキなんだな…)
 ちょっと気恥ずかしかったが、決して悪い気分ではなかった。ガキならば、成長すればいい。このコズミ研の一員としてふさわしい人間に。不可能ではないはずだ。何しろ、自分の周囲には、こんなに立派なお手本が山のようにいるのだから。
 秀之は心から晴れ晴れとした笑い声を上げ、手にした湯呑みの中の酒を一気にあおった。

 即席コンパが終わって、コズミ教授と秀之たちが研究室をあとにしたとき、時計の針はそろそろ午後八時を過ぎていた。いつもならサークル活動帰りや夜間部の学生たちでこの時間でも賑やかなキャンパスも、夏休み前日となるとすっかりひと気は絶えている。そんな中、まだ盛り上がっている仲間たちは誰もいない構内を走り回ったり、奇声を上げたりしていたが、中には葛原のようにすっかり酔い潰れて、誰かに背負われているものもいる。
「おーい、村瀬! お前どーすんだよ、サークルの打ち上げっ」
「も、どーでもいいよぉっ! だってこんなに、気分いいんだもーン!」
「おーい、島谷君、村瀬君! そんなに走り回ったら転んで怪我するぞい!」
 苦笑交じりに注意するコズミ教授の声も半分、怒鳴り声だ。その頬がいかにもいい色に染まっているのを見ると、教授もかなり、できあがっているらしい。
そんなみんなを、やはりいい気持ちで見つめていた秀之だったが、ふと、自分の背中がやけに軽いことに気がついた。
「う…わあああぁぁぁっ!」
 突如上がった調子外れの悲鳴に、みんなが何事かと振り返る。
「わ…忘れてきたっ! 僕っ! リュック!」
 あろうことか、秀之は全財産の入ったリュックをコズミ研に忘れてきてしまったのだった。
「すっ…すみません、コズミ先生! 研究室の鍵、貸して下さいっ。必ず、責任を持って返しておきますから!」
「おう、行っといで。わしらはここで、待っておるよ」
 コズミ教授の言葉は嬉しかったが、みんなの中には葛原を背負った矢部を始め、酔い潰れた仲間を介抱しつつ歩いている者もいるし、迷惑はかけたくない。そう言うと、教授は深くうなづいて、ポケットから鍵を取り出し、秀之に渡してくれた。
「じゃあ、鍵は帰りに正門脇の守衛所に返しておくれ。なあに、あそこの親父もわしの碁仇じゃから、ちゃんと目をつぶってくれるよ。…ただ、あまり遅くならないようにするんじゃぞ」
 最後の一言を口にしたときだけ、コズミ教授の温和な瞳が、眼鏡の奥で厳しく光った。秀之はもちろん、大きな声で「はいっ」と答え、深々と頭を下げる。そして、矢部たちにも一礼し、きびすを返してまっしぐらに理学部校舎に駆け戻って行った。

 建物の中は全ての照明が消え、ぼんやりとした緑色の非常灯がともっているばかりである。勝手知ったるコズミ研、とはいえそんな暗い中ではとてもいつも通りに動けるものではない。あちこちにぶつかりながら、それでもようやく、例の大テーブル脇に散乱していた椅子の一つに、自分のリュックが置いてあるのを見つけた。
 安堵の息をついてしっかりとそれを背負った秀之は、ついでに散らかった椅子もざっと元に戻し、戸締りを確かめて再び外に出る。そして、あとはコズミ教授に言われた守衛所に鍵を返し、そのまま帰ってしまえば全てが終わる…はずだったのだが。
 外に出て、何の気なしに周囲を見回したとき、ちらりと白い影が目の端を横切るのを捉えた。
「あれ…?」
 秀之が眉をひそめたのは、それがあの東門へ向かう方角だったからである。人っ子一人いないキャンパスに、一体誰が…? それも、あんないわくつきの場所へ…
 ふらふらと引き寄せられるように、秀之はその影を追った。少し近づいてみると、錯覚かと思ったそれが、白衣を着た一人の人間であることがはっきりとわかる。
(白衣…)
 つい、藤蔭助手を思い出してしまった自分に、秀之は苦笑した。彼女が今頃、こんなところにいるわけがない。保坂教授とともにあの女の子の友達を助けて、付属病院に担ぎ込んで…そのままとっくに、家に帰っているに違いない。
 しかし―
 影がつと立ち止まったそこは、まぎれもなく東門手前、医学部一号館の取り壊し現場。しかも、その後姿はあまりにも、あの人に酷似していて―
 秀之は反射的に、手近な植え込みの陰に隠れた。何故だか、今気づかれてはいけないような気がしたのである。
 今まで東門に向けて真っ直ぐに歩いていた影が、工事現場のほうを向き直った。キャンパス内に設置されている街灯の光に、その横顔がくっきりと浮かび上がる。
(藤蔭―先輩!)
 それは、まぎれもなく藤蔭助手、その人であった。秀之ののどが、ごくりと鳴る。だが、彼女は秀之の方になど目もくれず、誰もいない暗闇に大真面目に呼びかけた。
「…せいる? てこなちゃん? 来てるんでしょ、あんたたち。隠れてないで、さっさと出てきなさい」
 一瞬、あっけに取られた秀之をさらに驚かせたのは、間髪入れずに返ってきた返事。
「はーい。…あーあ、やっぱり聖お姉ェにはわかっちゃったか」
「聖さん相手にそんなことしたって無駄だってば。だから、隠れたりしないで素直にここで待ってよ、って言ったのにぃ」
「だって、脅かしてやりたかったんだもーん」
 可愛らしい声とともにどこからともなく現れた人影。その正体に気づいたとき、秀之は危うく大声をあげそうになった。
「終業式の後だってのに、こんな時間まで待たせて悪かったね。…どうやって暇潰してたの?」
「茶ノ水の、本屋めぐりー! そのあとは、ファーストフードのはしご!」
「あの近辺の店にはみんな入ったよね。マックにファーストキッチン、ロッテリアにミスタードーナツ! お財布、すっからかんになっちゃったぁ」
 そう言って笑い転げていたのは、白いブラウスに紺のジャンパースカートの、まぎれもない女子高校生であった。
(な…何でだ? どうして藤蔭先輩が、こんな時間にこんな場所で、あんな女の子たちと…)
 女子高生は二人。幾分背の低い方が藤蔭助手を「聖お姉ェ」と呼んでいたところをみると、彼女の妹だろうか。そう思ってみれば、どことなく面差しが似ているような気がする。だが、もう一人の方は彼女を「聖さん」と呼んだし、顔立ちも全然違うような…。
(あの子たちは、先輩の何なんだ…?)
 わけがわからなくなる一方の秀之になどお構いなしに、藤蔭助手と二人の女子高生は恐れ気もなく、工事現場に踏み込んでいく。秀之は足音を忍ばせて、そっとそのあとをつけた。
 先を行く三人の声が、かすかに聞こえてくる。
「…そう言えば、お姉ェ、さすがだね。ここの動物慰霊碑、すっごくきれいだった」
「普通、あの手の場所にはあたしたち、近寄れないんですけどね…哀しくて、辛くて…気合い入れててもついつい引っ張り込まれそうになって、すごくしんどいから。でも、ここは全然、そんなことなかった」
「あたしがこの大学に入った頃はかなり乱れてたんだけどね。何てったって、十年以上かけて浄化したんだから…お姐さんの、汗と涙の結晶よ」
「だから『抑え』になってくれてたんでしょ? なのに全く、どこのバカだよ。考えなしに地面掘り起こしてとんでもないモン呼び出しちゃったのは」
「ああ…。どうやら、原因はこれみたいだよ、せいる。…ですよね、聖さん?」
「ご名答。さすが、てこなちゃんね」
 三人が立ち止まったのは、工事現場の裏手、校舎とコンクリート塀に囲まれたささやかな空地の角近くに打ち込まれた、一本の鉄骨の手前だった。垂れ下がるシートのおかげで、身を隠すのがぐんと楽になったのをいいことに、秀之はできる限りの至近距離まで彼女たちに近づいてみる。
「…ったく、しっかり結界破っちゃってるじゃん。祠さえ無事ならいいってモンじゃねーんだよ、ホントに」
 てこなと呼ばれた少女がつと屈みこむ。シートの隙間から目を凝らしてみると、鉄骨と塀とのわずかな隙間に小さな祠が祀ってあるのが見えた。だが、こんな場所にこんな祠があったなんて、聞いたこともない。
「ここの神様はどっちかっつーと『和御霊』みたいだけど…問題は、もっと深くに埋まってる方だよね、お姉ェ」
「そうなのよ。それでも、この工事が始まるまでは一応、おとなしく寝んねしててくれたんだけどさ」
 もう一人の少女の肩を軽く叩きながら、藤蔭助手がため息をつく。確か、こっちの子はせいるという名前だったような…。
「足場組むためにこんな鉄骨ぶち込むから、目ぇ覚ましちゃったんだね…。やれやれ。こりゃ、かなり古いなぁ。それに、強そうじゃない?」
「だからあんたたち呼んだんだよ。…能力は、あたしよりあんたらの方が強いからね」
 かすかに低くなった藤蔭助手の声に、せいるが一瞬、泣きそうな表情になった。
「そんなことないよ、お姉ェ…。これって、あたしたちでも一人じゃどうにもできないレベルだよぉ」
 危うく深刻になりかけた雰囲気を察してか、てこながわざとらしいほど明るい声を出す。
「大丈夫だって。一人じゃ駄目でも、今はうちら三人いるんだもん。どんな手ごわいのが出てきても一発で片づけられるさぁ」
 その言葉に微笑んだ藤蔭助手とせいる、そしててこなが互いに顔を見合わせ、小さくうなづきあった。
「さあそれじゃ、早いとこケリつけちゃおうか。高校生二人、あんまり夜遅くまでつき合わせるわけにもいかないし」
「オッケー」
「いつでもいいよっ」
「…じゃ、あたしが呼び出すから援護頼む。いざとなったら遠慮はいらないから、好きにしちまいな」
 そして藤蔭助手は、一歩足を踏み出した。その背後で、制服姿の少女たちもさりげなく身構える。シートの陰の秀之は、すでに混乱の極地に陥っていた。彼女たちの言動は、あまりにも現実離れしている。まるで、TVアニメかマンガの中の会話みたいだ。
(もしかして僕は、酔い潰れた挙句に夢でも見てるのか?)
 そっと頬をつねってみる。痛い。ではこれは、やはり現実なのだろうか…。
 だがそんな、半ばパニックに陥っている観客のことなど、三人はまるで意に介していない。
「行くよ」
 小さくつぶやくと同時に両手を真っ直ぐ前に突き出した藤蔭助手が、かっと目を見開く。
「高天の原に神留りまして、事始めたまひし神ろき・神ろみの命もちて、天の高市に八百万の神等を神集へ集へたまい、神議り議りたまひて、我が皇御孫の尊は、豊葦原の瑞穂の国を…」
 突き出した両手を祈るような形に合わせて胸元に引き戻したその唇から、低い声が流れ始めた。古代文学、あるいは民俗学の知識がある者ならそれが「遷却祟神(祟り神を遷しやる)」の祝詞であるとわかったろうが、医学部生である秀之にそんな知識を求めるなど、到底無理というものである。藤蔭助手の言葉はどう頑張っても「タカマノハラニカムヅマリマシテコトハジメタマイキカムロキ・カムロミノミコトモチテアメノタケチニヤオヨロヅノ…」というような、意味不明の音の羅列にしか聞こえない。小さい頃連れて行かれた法事の席、わけのわからないお経が終わるのを、あくびをかみ殺しながらひたすら待っていた記憶が何故か蘇ってきて、こんなときだというのにだんだん眠くなってきた。コズミ研で大いに飲んで騒いだのも悪かったのかもしれない。
 足元がいつのまにかふらつき、その場に倒れこんでしまいそうになったとき。
 不意に、地面がぐらりと揺れた。秀之ははっと気を取り直し、闇に目を凝らす。
「来た来た来たーっ!」
「お待ちしてましたっ」
 喜色満面、弾んだ声を上げる女子高生たちを尻目に、藤蔭助手の声に一層の力がこもった。
「…ふつ主の命、健雷の命二柱の神等を天降したまひて、荒ぶる神等を神攘ひ攘ひたまひ、神和し和したまひて…よしっ、出たよっ!」

 


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