荒療治 2


「藤蔭先生?」
 不意に背後から声をかけられ、藤蔭医師の追憶が中断する。はっとして振り向けば、彼女と同じ白衣をまとった長身の男がにっこりと笑いかけていた。
「ああ…日高先生。ごめんなさいね、ちょっとぼんやりしていて」
「いえ、とんでもない。こちらこそ、考え事の邪魔をしてしまったんじゃありませんか?」
 そう言って彼女と並んで歩き出したのは同じくこの病院に勤務する内科医、日高医師。藤蔭医師にとっては学生時代の後輩ということもあり、もっとも親しくしている同僚の一人である。日高医師は軽く周囲を見回し、人気がないのを確かめてからそっと藤蔭医師の耳に口を寄せた。
「ところで藤蔭さん。今日の夜、お時間ありますか? この間石原から電話がありましてね。ここんとこご無沙汰だったからまたみんなで飲もう、って話になったんですよ。彼と、うちの女房と僕と…で、是非藤蔭さんも誘おうって言ってたんですけど」
「まあ、素敵ね。私も是非、行きたいわ。でもちょっと今、論文が…」
 心底残念そうな口調でそう言ったものの、藤蔭医師が反応していたのは「飲み会」とは全然別の言葉であった。
(『彼と、うちの女房と僕と』…女房…妻!…そうだ! こいつは既婚者だった!)
 長身細身、しかも優しげな甘い美貌で学生時代から女性には絶大な人気を誇る日高医師だったが、どっこいすでに所帯持ちである。それを悲しみ嘆く女性看護士や女性患者は病院内にあふれているが、藤蔭医師にとってはそれこそが渡りに船というもの。何ていいときに、何ていい人が現れてくれたんだろう。この世にはやはり、神も仏もあるのかもしれない。
「ねえ、日高君! 失礼だけど貴方、夫婦喧嘩したときどうやって仲直りしてる?」
「はぁ!?」
 唐突な質問に、日高医師は目を白黒させた。それでも、自分を見つめる藤蔭医師の必死な眼の色に気づき、ふと立ち止まって真面目な顔で考え込む。
「うーん…うちの場合、ほとんどが自然消滅ですからねぇ…。僕も女房も、いつまでも根に持ってぐちぐち嫌味言い続けたりするの苦手ですから、例えりゃ台風みたいなもんで…。クッションだの枕だの雑巾だのが飛び交うこともありますが、大抵一晩寝たらお互い、喧嘩のことなんかころっと忘れてる」
 多分、日高医師は―見栄もてらいもなく正直に真実を述べてくれたのだろう。だが、藤蔭医師はその返事を聞いた途端、がっくりと肩を落とした。
(そういや、そうだったわね…。考えてみれば、ここの夫婦ってあの二人とは全然違ってたんだっけ)
日高医師という人間は、意志の強さと根気強さこそ人並はずれている反面、かなり我慢強い性格の持ち主でもある。だから、よっぽどのことがない限り他人(例えそれが配偶者であっても)と派手に争ったりはしないし、その妻であるゆかり(旧姓村瀬)の方も、言いたいことはぽんぽん口に出すものの、さっぱりと竹を割ったような気性が気持ちいいと評判の女性であった。要するに、わずかな火種ですぐ暴発、しかも強情さと頑固さ、そして持久力にかけては他の追随を許さないような「あの」カップルと比較した場合、夫は起爆力に欠け、妻は持久力に関してイマイチだということ。だからこそ円満に行っているのかもしれないが、今回の件に関してはまるっきり参考にならない。
 やはりこの世には、神も仏もいなかった…。一瞬輝いた希望の光もあえなく消え去り、藤蔭医師は再び絶望の淵に叩き込まれたのであった。
「藤蔭さん…?」
 虚脱状態に陥った自分を気遣い、心配そうに顔をのぞきこんできた日高医師に、それでも持てる力の全てをふりしぼって、弱々しいながらもわずかに微笑んでみせる。
「ああ…おかしなこと訊いてごめんなさいね、日高君。どうか、気にしないで。…それから、奥様や石原君にもよろしく。あと二週間で私も身体が空くから、そのときは今回のお詫びにみんなを招待するわ。だから今日は…本当に、ごめんなさい」
「いえ、そんなのは全然構いませんが…」
 努めて明るく言ったつもりなのに、日高医師は余計不安をかき立てられてしまったようだ。
「一体どうしたんですか、藤蔭さん…? 何かあったんだったら言って下さいよ。僕たち…女房も石原も含めて、いつでもお役に立ちますから。同じコズミ研の仲間じゃありませんか!」
 日高医師の言葉は心底、ありがたかった。だが今、藤蔭医師の精神状態は普通ではない。こんなふうに、気兼ねなく話し合える本当の「仲間」だからこそ、いつまでも一緒にいたらとんでもない八つ当たりをしそうで、それが…怖い。
「ありがとう。もしあたし一人で手に追えなくなったら必ず相談するわ。だからとにかく今日は…ごめんなさいね」
 言葉こそ穏やかだったものの、そのときの藤蔭医師の目の光に、日高医師はぞっとした。彼とて、この女医とのつき合いの長さでは、保坂教授に勝るとも劣らない人間である。「今、これ以上深入りするのは危険極まりない」―大脳の中心部深奥、遥かなる太古から受け継がれた原始の動物的直感の狂ったような叫びが、耳の奥でかすかに聞こえたような気がした。
「…わかりました。じゃあ、僕はここで。ちょっと、電話をかけていきますから」
 たまたますぐそこに公衆電話ブースがあったのは、日高医師にとって願ってもない幸運だったろう。事実彼は、このときほど偶然というものに感謝したことはなかったとしみじみ妻に告白したのだが、それはまたのちの話である。
 最後に軽く会釈を交わし、心もちふらついた足取りで立ち去る藤蔭医師を見送った日高医師は、そのままブースの一つに入り、受話器を取り上げた。
「…あ、石原? 俺。うーん…藤蔭さん、かなりきちまってるみたいだぜ。…うん…うん…。確かに、お前の気持ちもわかるけどさぁ、とにかく今ヘタに関わるのはやめた方がいい。マジで、命の保証ができんからな。…ああ。だから今夜は、とりあえず俺たち三人で今後の対応を検討しよう。…ん。わかった。じゃ、あとで。待ち合わせ時刻は夜七時だから、遅れんなよ!」

 この病院内で一番馴染み深い場所、自分の日々の仕事場である心療内科医局にたどり着くまでの道のりが、サハラ砂漠横断よりも過酷であったような気がするのは錯覚だろうか。デスクに腰を下ろすやいなや、脱力して椅子の背にぐったりともたれかかった藤蔭医師のほっそりとした手首から、ウォッチ・アラームの音が響く。
「あ…もうこんな時間か…」
 午前中は保坂教授に呼ばれていたので外来診療を午後からにしていたことに今さらながら気づき、藤蔭医師はろくろく休む暇もなく立ち上がった。どうやら今日も、昼食は抜きになるらしい。まあ、食欲などというものとはここ数日とんとご無沙汰だから、別に気にするほどのことではないが。
 外来診療に使っているのは心療内科の第二診察室。午後の診療は一時から四時までだから、少なくともあと三時間、ここに腰を落ち着けることだけはできそうだ。
 だが、こういう日に限って患者の数が少ない。たった一人、診療室のデスクにぼーっと座っているだけでは、嫌でもまた「あのこと」を思い出してしまう。
(もしかして今日って、厄日…?)
 つぶやきつつ、自分で自分を笑う。「厄日」など、今日に限ったこっちゃない。そう、この二週間、藤蔭医師にとっては毎日が「超」のつく厄日だったのだから。

 アルベルトへのアプローチが完全に不可能だと悟った時点で、攻撃目標(?)は周に変更せざるをえなかった。だが、周がアルベルト以上に厄介な標的であったことは言うまでもなかろう。何と言っても、彼女は「能力者」なのだ。いつもは派手なサイコキネシスの陰に隠れて目立たないが、テレパシー能力もしっかりとある。もちろん、イワンとのあの件は周も熟知しているから、無闇に自分に対してテレパシーなんぞは使わないだろうが…そこはそれ、相手が相手だ。保証はできない。それを別にしても親しい友人同士、ちょっとでも不自然な仕草、あるいは言動に気づかれたらたちまちのうちに真相を見透かされ、ことを余計こじらせてしまうだろう。一歩間違えばその場で超能力大戦勃発ということにもなりかねない。
 となればさすがの藤蔭医師も、周との直接対決は躊躇せざるを得ず…とりあえずは電話で様子をうかがうことにしたのだった。それに、電話の声とて生身の周の一部分と言えば言える。本人と直接対峙した場合とは比べものにならないが、それでも大まかな『気』の状態を探り出すことは決して不可能ではなかった。
 が…。
 いざ周に電話をかけて五分もしないうちに、藤蔭医師は受話器を放り捨てたくなってしまった。…だめだ。こっちにも、『気』の乱れなんぞまるっきり感じられない。正直、電話を通してここまではっきりと正常な状態であるとわかるなんてことは珍しい。
 だが、それは。裏を返せば周の精神パワー―言葉を変えれば感情のたかぶり―が頂点に達している、さらにぶっちゃけて言えば頭に血が昇りきっている状態そのものだということである。おそらく、こんな状態の人間には何を言っても無駄であろう。しかも、その『気』自体は極めて正常とくれば。
(こっちはこっちで、強情と頑固が服着て歩いてるような、大変なオンナってことよね…)
 よりにもよって、どうしてこんな男と女がくっついたんだか。そして、どうして自分がそんな連中の友達なんぞをやってるんだか。
 できることなら、このまま知らんふりで逃げ出してしまいたかった。だが、あの夜のクロウディアの泣き顔や、しゃくりあげながら必死に訴えてきたあの声を思い出すと、そんなことは人として絶対に許されないと思う。
(ここはやっぱり、何とかしてやらなくちゃいけないな…)
 その決心が、藤蔭医師にとっては地獄への入り口となってしまったのであった。

 直接『気』をいじくったところでどうしようもないとすれば、あとはからめ手で攻めるしかない。かつてジョーのカウンセリングをしたときに使った裏ワザ―もう一度、あれに全てを賭けてみよう。
 周とアルベルトの夢を操り、二人の過去を追体験させる。自分たち二人がこうなるまでに、どのような過去を、そして困難を乗り越えてきたか。ともに生きることを決意してからの日々が、どれほど幸せに満ちたものであったか。それをもう一度骨の髄まで叩き込んでやれば、二人とも今自分たちのやっていることがどんなに馬鹿げたことか気づくはずだ。
 ただし前回同様、それらの夢の記憶は決して残しておいてはならない。さすがの藤蔭医師でも一度にに二人というのはとてもできない相談だったから、彼らには一晩ごと、かわりばんこにその「夢」を見せることになる。だが、たとえ一晩おきとはいえこのような作為見え見えの「夢」がたて続けに訪れたりしたら、あの二人のことだ、裏で糸を引いているのが自分だと、たちまち見破ってしまうだろう。そうなったら万事休すだ。行き着く果ては超能力大戦か、でなけりゃ強力な戦闘用サイボーグとの死亡お遊戯…。
(冗談じゃない。いくら何でも、こんなバカなことで命を落とすなんざ願い下げだわ)
 記憶を残しておいた場合に比べて時間がかかることは否めないが、この年齢で天国行きになるよりは遥かにマシ。覚悟を決めた藤蔭医師は、その夜から早速作戦を開始したのだが…
 どうやら、アルベルトと周の強情さと頑固さというやつは人類のレベルを遥かに超えているらしい。それから二週間たった今でも、状況はこれっぽっちも変わっていなかった。
 夢を操る―。一口に言ってしまえば簡単だが、実際に行うとなるとこれは、とんでもない難事業であった。まず精神を集中させて幽体離脱し、いわば「魂」のみ(というのも厳密には語弊があるが)を相手のところまで飛ばしてその精神に同調し、現在の状態を確かめる。そして、少しずつ、少しずつ潜在意識の中に入り込み、心の奥底に眠る過去の記憶を表面まで引っ張り出してやるのだ。一歩間違えば脳に負担をかけて相手の精神を崩壊させかねない。それはさながら、千分の一ミリの狂いが命取りになる、熟練した匠の技にも似た繊細かつ気骨の折れる作業であった。しかも、ようやく目指す記憶を引っ張り出した時点で相手がノンレム睡眠になど入っていたら、それをレム睡眠に変更してやらなくてはならないというおまけつきである。ちなみにそれも、一瞬たりとも気を抜けない真剣勝負であるという点においては先の作業と同様だった。
 人が一晩に夢を見ている時間はわずか数分とも十数分とも言われているが、それを操るために費やさなければならない時間は数時間、時にはまる一晩にも及ぶ。施術者の負担は並大抵のものではない。しかもそれが毎晩続くのである。
 当然のことながら、論文などに関わってるヒマはないし、執筆も進むわけがない。で、その結果あのようなことになったというわけで。
 藤蔭医師の論文執筆を中断させ、保坂教授をパニックに陥れた原因は、まぎれもなくアルベルトと周の大喧嘩、そのものだったのである。

 


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