荒療治 3


 結局、その日は患者もろくろく来ないまま、外来診療時間も終ってしまった。藤蔭医師は再び医局に戻り、たまっていた雑用や事務を片づける。それが終れば入院患者の回診、カルテの記入、今夜の当直医師への申し送りを兼ねたミーティング等々―。
 今日の仕事を全て終え、病院を出たときにはすでに時刻は午後九時近くになっていた。朝から十二時間近くの勤務、しかも昼食抜き。さすがの藤蔭医師も疲労の色を隠すことはできない。が、おかげで少々食欲らしきものが出てきたのはめでたいことである。
(今日は結構暑かったし、ご飯だけ炊いてあっさりお茶漬けか何か食べたいな…ちょっと辛めの漬け物と梅干を添えて、ビタミン補給にトマトでも切って。気分的にはドレッシングより塩胡椒よね。それも、胡椒は荒挽き黒胡椒! これで決まり!)
 …だが、そんな空想をいくらめぐらせたところで、それを実行に移すには、巻き添えとなる家族がいないことが必要条件である。そう、家に帰れば帰ったで、新たなる難問が藤蔭医師を待ち受けているのであった。
「まあ聖、おかえり! 今日もまた、随分遅かったのねぇ」
 にこにこと迎えに出てくれたのは、彼女とはこれっぽっちも血のつながらない養母である。
 昔―そう、ここに引き取られてから姉の死まで―は、どうしてもこの「母」に馴染めなかった。「大人の事情」など理解することも実感することもできない幼い子供、しかも他人の心の動きは手に取るようにわかってしまう「能力者」の身としては、表面上こそ優しくしてくれるものの、その陰に潜む自分に対する複雑な感情、どろどろと煮えたぎる女の情念ばかりがやけにくっきりと身に迫るものとして感じられて―聖母の仮面をかぶった鬼―一時は真剣に、そう思ったものだ。
 だけど。唯一の拠り所としていた姉がこの世を去り、数年後には父までもが彼岸に旅立った結果。たった二人だけで残されたこの血のつながらぬ母と子は、父の残した膨大な財産、そして「藤蔭」という昏く重い家の名前を守りながら必死に力をあわせて生き抜いてくるしかなく、気がつけば実の親子以上の絆ができていた。今、藤蔭医師が「母」と呼べる人間はこの人しかいない。
 …と、こんなふうに言えば感動的な物語の一つにもなりそうな話だが、現実は中々そうも行かなかったりする。
「このところずっと忙しいのねぇ。ねえ聖、貴女、少し顔色悪くない? 具合が悪いんだったら早く言って頂戴ね。無理してこじらせたりしたらどうしようもないのよ」
 ああ、早速のお説教。でも、こんなことで苛ついていたら、親との同居なんざできやしない。
「このところかなり暑くなってきたし、今日の晩御飯はうんとスタミナがつくものにしたのよ。たっぷり食べて、元気を取り戻してね」
 そんな養母の声を聞きながら足を踏み入れた茶の間に用意されていた「晩御飯」。
 それを見た瞬間、藤蔭医師の顔から血の気が―ついでに内臓からはせっかくわいた食欲が、一気に音を立てて引いていった。
 大皿に山盛りに用意されたサイコロステーキ。つけ合せはポテトサラダとアスパラガスのチーズ焼き。その脇にはトマトの薄切りが美しい赤い色を見せているけれど、そこにはどっぷりとマヨネーズがかけられてあって。
(ああ…さらさらお茶漬け…辛目の古漬けと梅干…トマトのぶつ切り、塩胡椒…)
 軽い眩暈すら感じつつ、ふらふらと食卓についた藤蔭医師に、たっぷりのご飯を盛った美しい薄焼きの茶碗が差し出される。
 …言うまい。この年になって、食事の全てを養母に頼っている(というか、毎晩の台所争奪戦に連敗している)人間が、献立にケチをつけるなどもってのほかなのだから。たとえ夜の八時、九時まで働いていたところで、彼女のその手がいかに多くの人々を救い、助けていたところで、そんなことは言い訳にはならない。―少なくとも、未婚のそれも女には、許されることではないのだ、この国では。
 こういうときばかりは、この家から出ることをつい真剣に考えてしまう。藤蔭医師の年収ならば、一人暮らしをするのに適したマンションの一つや二つ、現金で今すぐ買うことも不可能ではない。だが、年老いて少しずつ弱ってきたこの「母」を捨てて行くことなど、到底できる相談ではなくて。
 通勤に時間がかかるとか、兄弟姉妹がいて家が手狭だとかいう事情があればさほどの罪悪感も感じなくてすむだろう。だが、ここは立派な東京山の手、勤務先まではドアツードアで約四十分。しかも二人どころか十人でも暮らせるくらいの広さを持った「豪邸」とくれば、彼女が無理をして家を出る理由などどこを探しても見つかるわけがない。勤務先の総婦長など、年老いた両親の世話をしながら、片道二時間の通勤時間をものともせずに立派に働き続けている。そんな人間のことを思えば、ただの我儘で家を出るなどとてもできるものではなかろう。若い娘がよく口にする「人間としての自立」―一人暮らしをしたからといって必ずしも手に入るとは限らない、そんな曖昧な蜃気楼を追い求めて突っ走るには、藤蔭医師はもう「大人」になりすぎていた。
 かくて、本来ならゆっくりくつろげるはずの夕食タイムは、そのまま養母のお説教タイムへとシフトする。
「ねぇ、聖。貴女が人を助ける立派な仕事をしているのはわかってるけど、こう毎日遅くちゃ自分自身が身体を壊すわよ。貴女だって、もう若くはないんだから」
(おっしゃる通りです、お母さん…でもあたし、今いる医局の勤務医の中ではまだ、下から数えて三番目なんですけど、トシ。医者ってやつは結構オッサン、オバサンが多いもんで)
「それに、どんなに頑張ったって…貴女は怒るかもしれないけれど、やっぱり女はね…男の人には敵わないのよ」
(別に怒りません。単なる価値観の違いだと思うだけです)
「まったく、貴女の上司…保坂先生だっけ? 貴女が学生時代からお世話になっている方を悪く言いたくはないけれど、嫁入り前の娘をこんなに遅くまで働かせて、一体何を考えているんでしょうねぇ…」
(嫁入り前の「娘」って、そりゃ嫌味ですか! それに、できればその言葉、あのオッサンに直接言って下さいっ。もっとも今テキは完全にパニックってるから聞く耳持たないでしょうけれど…)
 心に思えど、反論は禁物。実の親子(も同然の二人)の衝突は、時として嫁姑のそれよりも遥かに過激で神経をすり減らすものとなる。今のこの状態では、とても戦い通せるものじゃない。だが、そんな言葉を延々と聞いていれば、ただでさえ遅い箸の運びが余計滞りがちになるのは仕方あるまい。
 が、養母はそんな小さなことにもしっかり目を光らせている。
「あら…食欲ないのね…やっぱり、具合が悪いの? それじゃお母さん、やっぱりやめようかしら、週末の旅行…」
 独り言とも思える小さなつぶやき。だが、それを聞きつけた途端、藤蔭医師の全身がびくりと大きく痙攣する。
「そんな、お母さんっ! 今さらキャンセルなんて、絶対にだめよっ! お友達の皆さんだってどんなにがっかりするか…っ」
 今週末、養母は女学校時代の友達と三泊四日の温泉旅行に行く予定を立てていた。だがこの旅行、養母以上に楽しみにしていたのは実は、藤蔭医師だったりする。全ては彼女への愛情ゆえのことだと理解してはいても、何かと口うるさいこの母親さえいなければ、仕事も論文もどんなにはかどるか。…そう、彼女が周とアルベルトの喧嘩にこれほど時間をとられてもなお、手を引かずに頑張り続けていたのは全てこの旅行の予定があったからであった。
(最悪の場合、あと一週間かかっても…例えその日まで論文が手つかずでも、まる四日自由に使える時間があれば、充分書き上げることができる…っ)
 その確信があるからこそ、しっかりそれに合わせて有給まで取ってあるのだ。なのにそんな、最後の頼みの綱とも言える旅行が取りやめにでもなってしまったら、それこそ娘にとっては死活問題である。
「あたしなら…あたしなら全然何ともないからっ! 食欲だって、ちゃんとあるし…っ! 第一、お母さんが行かなかったら村松のおば様も、山岡のおば様もどんなに残念がるか…戸倉の広子おば様なんて、この前の電話で『今から楽しみで眠れない』なんておっしゃってたのよっ。だから、大丈夫! 絶対っ!」
 必死に訴えながら、無理矢理食べ物を口に運び、死に物狂いで飲み下す。その食べっぷりを見て、ようやく養母は安心したようだった。
「そう…? それならまあ…安心だけど…」
 ほっとしたような養母の言葉にうなづいたときには、藤蔭医師の胃は金切り声で悲鳴を上げていた。今にも中身が逆流してきそうなのを必死に抑えてそれでも食後の後片付けと、一日の終わりのざっとした台所の掃除だけは何とかやり遂げて。
 一人暮らしの女がどれほど大変かは想像に余りある。働きながら家庭を持っている女の負担はそれより遥かに重かろう。だが、パラサイトシングル(正確に言えば藤蔭医師は経済的には完全に自立しているし、家にも月十万の食費・生活費を入れているが)というのも、世間やしたり顔の学者先生が思っているほどお気楽なものでは決してない。
 そんなこんなで、やっとの思いで養母が床につくまで持ちこたえ、自室に戻ってきたときの藤蔭医師は正直息も絶え絶え…今すぐその場に昏倒してもちっともおかしくはない状態であった。
 このままベッドに倒れこみ、朝まで熟睡できたらどんなにいいだろう。しかし、彼女にはまだやらなければならない仕事がある。…そう、周とアルベルトの仲直りを取り持つことは、今や藤蔭医師にとっては半ば女の意地となりつつあった。このあたり、二人のことをどうこう言うことはできないのではなかろうか。彼女自身も、見上げた意地っ張りである。
(こうなったら、何が何でも…うちのばーさんが出かけるまでには絶対、あなたたちを仲直りさせて見せるからねっ! 覚悟してなさいよ、周! それからアルベルトっ!)
 床に座り込んで結跏趺坐の姿勢を組み、呼吸を整えて精神統一にはいった藤蔭医師の顔は、さながら夜叉のそれであった…。

 一方、島村家では。
 クロウディアのプチ家出が効いたのか、あれ以来周はすっかりおとなしくなった。ごく普通に、穏やかに過ぎて行く日々。
 しかし、その口からは相変わらずアルベルトのアの字も出てこないし、毎週末には遊びに行くのが当たり前のようになっていたギルモア邸にも、このところずっと行っていない。表面上は静かに、何ごともないふうを装っているものの、その内部に限界までためこまれ、濃縮された怒りが灼熱のマグマのごとく荒れ狂っているに違いないことは容易に想像できて、クロウディアはあれからずっと、神経をぴりぴりと張りつめていたのである。
 頼みの綱の藤蔭医師にはあれから何度か周の目を盗んで電話を入れたものの、日が経つに連れて受話器の向こうの声はだんだんか細く、それでいて鬼気迫るものになってきていた。こうなるとこっちもかなり怖い。計らずして魔女…というより鬼女二人の板ばさみになる格好となってしまったクロウディアとしては生きた心地もしないまま、ただもうこの嵐が過ぎ去るのをひたすら神仏に祈り、身を縮めて待つしかなかった。
(なんか…あの忌々しいBGの研究室にいたときの方がまだマシだったような感じがするのは気の所為かなぁ…)
 今日も今日とて、居間に座り込んでいる周の傍を、息を潜めて通り過ぎる。…たかがトイレに行くだけでこんなにも気を張りつめていては、正直神経がいつまで保つかも自信がない。それでも何とか無事居間横断が成功する寸前、少女の小さな耳に、同じく小さなつぶやきが届いた。
「…ってみようかなぁ」
「周…?」
 振り向いて、恐る恐る近づいてみる。純和風の座敷に足をやや崩して座り、座卓にもたれるようにひじを突いたその人は、目の前に広げた大きな本…らしきものをぼんやりと見つめながら小さなため息をついていた。
「何て…言ったの?」
 覗きこんでみれば、周が卓上に広げていたのはごく薄いアルバムだった。開いたページには大判サイズの写真が一枚。そう、あの事件が解決してすぐ、ジョーの大学の入学式の日に撮った、全員の…記念写真。
「ギルモアんちに、行ってみようかなぁ、って。ここんとこずっとご無沙汰だったじゃない? みんな、生きてるかどうか心配になっちゃってね」
「本当!?」
 聞き返す声が弾むのを必死に抑え、クロウディアは何とか平静を装う。そんな少女を、心なしか淋しげな鈍色の瞳が物憂げに見上げる。
「第一、あれから私、ジョーに一度も会っていないんだもの。…あいつは毎日、あの子と同じ屋根の下で暮らしてるってのに。…あの子はもともと、『私の孫』よ!? あの男とやり合ったからって、私が遠慮する筋合いなんて、ないと思わない!?」
 口調こそ次第に荒くなっていったものの、その細い、白い指が無意識になでているのはさっきからずっと、同じ場所。慣れないスーツに身を包み、照れたような…だが、最高に誇らしげな笑顔を見せている栗色の髪の少年の右隣、かすかに口の端をつり上げて写っている銀色の髪の男の…その上だった。ちなみに左隣に写っているのは周自身。桜色の着物と、同じく桜色の頬。思いがけない幸福をまだ信じられないといった―それでも、こみあげてくる喜びに輝いている顔。…こんなときの写真を、こんな顔で見つめているということは。
(聖の作戦が成功したんだ!)
 たちまち、クロウディアの顔もぱっと輝く。だが、平静さだけは失わないように気をつけて。
「そうだね。じゃ、明日からちょうど連休に入るし、行ってみてもいいよ。…あたしも、ジョーに会いたいし。それに、ジェットにも、フランソワーズにも」
 注意深く、今言ってはいけない男の名前をしっかり外したあたりはさすがである。
「うん、わかった。じゃ、明日久しぶりに行ってみましょ。電話…入れとくわ」
 軽くうなづいてその場を立ち去ったクロウディアが、周の目の届かないところにきた途端に躍り上がり、自室に駆け込むやいなや藤蔭医師に電話を入れたのはいうまでもない。

 奇しくもそれは、養母の出発を明日に控えた夜。
「本当!? 本当に周が明日、ギルモア先生のうちへ行くって言ったのね!?」
 今夜こそまさに背水の陣、とばかりに悲壮なまでの覚悟で精神統一に入ろうとした寸前に鳴り出した携帯。それを受けた藤蔭医師の表情が、瞬時のうちに歓喜の色に染まる。
(…そう、そうなの! 聖、ありがとう! みんなみんな、聖のおかげよ…あたし…もう何てお礼を言ったらいいか、わかんないっ!)
「そんなに気を遣うことはないのよ、クロウディア。むしろ…思いがけず時間食っちゃって、貴女にも長いこと辛い思いをさせちゃったわ」
(そんなことない…そんなことないよぉ…)
 とうとう涙声になってしまった少女を優しくなだめ、電話を切ると同時に、張りつめていた糸がぷつりと切れた。
(やった…ついに…ついにやったわよ、あははははっ!)
 喜びと興奮のあまり高笑いをしたと思ったときにはもう、夢の中。…そう、藤蔭医師はそのままベッドに倒れこみ、そのまま深い―深い眠りの中に引きずり込まれていったのであった。

 


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