傷痕 序章


 壁の温度計が、摂氏二八℃を示していた。クーラーは正常に動いているはずなのだが、さっきからちっとも涼しくなったという感じがしない。部屋の中がこれでは、一体外の気温はどこまで上がっているのだろう…なんてことは、今は考えたくもない。
 そんなギルモア邸のリビングにたむろしているのは三人。だが、そのうち二人―ジョーとジェットはこの暑さに息も絶え絶えといった格好でソファの両端に力なく沈み込み、口を聞く気力もないようだ。ただテーブルを挟んだ反対側に置かれたもう一つのソファに腰を下ろしたアルベルトだけが、暑さなどどこ吹く風といった表情で手にした文庫本に見入っている。
「あぢぃ〜。どうして日本の夏ってこんなにあちいんだよ」
「日本は湿気が多いからね…同じ温度でも湿度の低い国に比べると余計過ごしにくいんだよ。でもジェット、君はまだ僕より涼しそうな格好してるじゃないか」
「この暑さじゃ何着てたって同じだろーが。いや、たとえ素っ裸になったって、あちいもんはあちい」
 だがジェットの場合、上半身だけに限って言えば「素っ裸」にかなり近づいているような…。今日の彼が身につけているのはランニング…というより限りなくタンクトップに近いシロモノ。だが彼は、あくまでもこれをTシャツだと言い張っている。
 ちなみにその色は鮮やかな朱赤。ジェットが選んだにしては、強烈ながら中々深みのあるいい色と仲間内でも好評の一品だが、少なくとも「涼しさ」からは遥かにかけ離れた色彩であることだけはどうしようもない事実で。
 見ているうちにちかちかしてきた目を軽くしばたいて、小さくため息をついたジョーはというと、淡いブルーの半袖Tシャツに白のコットンパンツ。色だけ見ればジェットよりはずっと涼しげで爽やかな服装だが、さすがに今日の暑さには彼も辟易したのか、その袖は肩のあたりまで思い切りまくり上げられている。
 そして、残る一人だが。
「こんな中、よくもそんなモン着てられるよな、オッサンよ」
 こちらもため息混じりにつぶやいた青い瞳が見つめているアルベルトは、夏の盛りだというのにしっかりと黒の長袖シャツを着込んでいた。もっとも素材は麻だし、夏物ということで生地もかなり薄いはずなのだが、それでもやはり、「涼しさ」とは縁もゆかりもないいでたちであることは否めない。
「俺の身体は機械部品が多いからな。じっとしている分にはさほど暑さも感じん」
「…そのわりにゃ、しっかり額には汗かいてるようだけどな」
「何…?」
「ちょっと! やめてくれよ、二人ともっ」
 険悪になりかけた雰囲気を察したジョーが慌てて止めに入る。ただでさえ茹で上がりそうなこんな中で「家庭内武力闘争」なんぞ始められたら目も当てられない。
 だが、だからこそ二人の脳内温度も沸点近くまで上がっていたのだろうか。ジョーの制止などお構いなしに、薄氷と青、二対の瞳が火花を散らさんばかりの迫力で睨み合う。
 ジョーの背筋に冷たいものが走ったが、こんなことで涼しくなったってちっとも嬉しくない。
 と、そのとき―
「あら、どうしたのみんな。よかったらおやつでもいかが? コズミ博士に頂いた桃がよく冷えてるのよ」
 屈託のない、明るい声の主はもちろんフランソワーズ。銀色のトレイの上、淡い緑の硝子の器に山盛りにされた桃が、静かにテーブルの上に置かれる。
「冷たい麦茶も入れるわね。先に食べてて」
 そう言って再びキッチンに戻る彼女が窓の傍を通り過ぎたとき、差し込む真夏の日差しに照り映えたその金髪が、ジョーの目にはさながら天使の後光と見えたのは言うまでもない。
 そして結局、アルベルトもジェットも毒気を抜かれた形になって―程なく麦茶を持って帰ってきたフランソワーズを交え、四人揃って思いがけないティータイムを一応和やかに過ごすことになったのだが―

「ああ、美味しかった。じゃ、片づけてくるわね」
 そう言って、今度こそフランソワーズがキッチンに立ち去ったあと。
「…何か、気になるな」
 ぼそりとジェットがつぶやいた。
「え…?」
 またあの続きをやらかされてはたまらない。一瞬、ジョーの顔に緊張が走る。だがジェットの声は先ほどに比べると妙におとなしく、何やら考え込んでいるようで。
「フランソワーズってさ、どうしてノースリーブとかタンクトップって着ないんだ?」
 言われてみれば確かにその通りだ。今日も今日とて、彼女が着ていたのはふんわりとした布地のブラウス。一応半袖は半袖だったものの、その長さは優にひじのあたりまであった。もっとも、かなりゆったりとした薄手の生地だったから、さほど暑いはずもないとは…思えるが。
「彼女は少し古風なところがあるからな。あまり肌を露出するような服には抵抗があるんだろう」
 そう言うアルベルトの声もとりあえずは冷静だったことに、ジョーはこっそり安堵の息をつく。
「でもよ、スカートは結構短いのも平気ではいてるぜ? この間のキュロットなんざ、ガキの半ズボン並のミニだったじゃねぇか。大体、舞台の時には腕も肩も足も丸出しのあんな衣装着て平気で踊ってるくせに、今さら露出度もへったくれもねぇだろうが」
「舞台衣装と普段着は違うよ、ジェット」
 心なしかほんのり顔を赤らめたジョーの言葉も耳に入ればこそ、ジェットはなおもぶつぶつとつぶやき続ける。
「胸元だって…さすがに今時のネェちゃんたちみたいにこれ見よがしじゃねえけど、結構涼しそうなの着てることあるのによ。何か…腕を出すことだけを変に避けてるような…嫌がってるような…」
 そこまできて、つぶやきははたと止まり―何かに気づいたようにはっと顔を上げたジェットの目は、これ以上ないというくらいに大きく見開かれていた。そして何故かアルベルトも同じく、弾かれたように文庫本から顔を上げ―
 薄氷の瞳と青い目が再び真正面からぶつかった。しかし、今度は―。
 言葉を発することも、動くこともなくしばし見つめ合った二人の間に行きかったものは何だったのだろうか。しかしやがて、かすかにうなづきかわしたかと思うやジェットがさっと立ち上がり、フランソワーズを追ってキッチンへと…消えた。
「ジェット?」
 たった一人、わけがわからないといったふうのジョーが慌ててそのあとに続こうとする。が、それを制したのはアルベルトの穏やかな声であった。
「…待て。別に大したこっちゃない。心配なんぞしないで、お前はそこで昼寝でもしてろ」
 口調こそ静かなものの、逆らうことは絶対に許さないという言葉の響き。ジョーは仕方なく浮かしかけた腰を下ろし、それでもなお、不安げにキッチンの方を見つめ続けていた。

 


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