傷痕 1


 洗い物をしていたフランソワーズが、人の気配を感じてふと顔を上げる。振り返れば、そこに立っていたのは長身細身の、燃えるような赤い髪をした青年。
「あらジェット。麦茶のおかわり? やだ、ちょっと片づけるの早かったかしら」
 だが、その言葉への応えはなく。
「…フランソワーズ、袖口にゴミがついてるぜ。…触ってもいいか?」
「まあ、ありがとう」
 そのまま動きを止めたフランソワーズの右腕を、ジェットがさっとつかんだ。悲鳴を上げる間もなく、ふんわりとした袖が勢いよく、肩のあたりまでまくり上げられる。
「な…何、ジェット! どうしたのよ、いきなり!」
「大きな声を出すな! …お前だって、ジョーには知られたくないんだろう。…その…傷のこと」
 はっと息を呑んだフランソワーズに苦痛を与えないよう気をつけながら、ジェットがほんの少し、つかんだ柔らかい腕を捻る。果たして、真っ白な二の腕の中ほどのやや内側にうっすらと、しかしはっきりと残っている―一筋の傷痕。
「やっぱり…。どうしてわざわざ残しておくんだよ、こんなもの!」
「離して!」
 その華奢な身体からは想像もできないくらいの力で、フランソワーズはジェットの腕を振りほどいた。そのまま、悲しげな瞳で睨みあう二人の脳裏によみがえってきたのは、多分…同じ、思い出。

 そう…「第一世代」と呼ばれる彼らがたった四人、生き延びるためだけに必死になっていた―あの頃の記憶。

(私は…泣いてばかりいた。懐かしい、幸福な日常から突然引き離され、どことも知らない場所に連れてこられて、自分の身体を―人ならざるものに造りかえられてしまったことをただ、嘆き…哀しんで…)

(お前は…泣いてばかりいた。失ったもの、もう二度と取り戻せない過去への想いに押し潰されそうになって…突然放り込まれたあの過酷な現実の重さに耐え切れなくて…)

(でも、いつしか私は気づいた。泣いてばかりではどうにもならないということに。この理不尽な暴力、人を人とも思わない絶対的な悪に立ち向かうにはまず、今日を―そして明日を―生き抜かなければならないということに)

(そうだ、お前は気づいた。そして、生き抜くために―再び、あの日々をその手に取り戻すために、「戦士」としての道を、選んだ―)





 それは、今や日課となった戦闘訓練。001―あの小さな赤ん坊が「夜の時間」に入ってしまったために、たった三人きりで立ち向かわなくてはならなくなった、生きのびるための試練―。
 その日の訓練場所に選ばれたのは荒涼とした石ころだらけの平原であった。身を隠すものは何もなく、彼らの姿は敵に丸見えだったが、その反面、敵もまた彼らに気づかれずに近づくことはできないということ。だとしたら、五分五分だ。
 訓練開始とともに押し寄せてきた戦闘用ロボット、そして無人戦闘機の集団は彼らを射程距離に捉える暇もないままに次々と004のミサイル、そして002のスーパーガンの餌食となっていった。そして、刻々と変わる状況を瞬時に把握し、二人に的確な指示を出していたのは003。…そう、そこにいたのはもう泣き虫の少女ではない。涙を忘れ、哀しみを封じ込め―かわりに燃え上がる闘志と命への限りない執念を胸に抱いた、一人前の戦士であった。
 序盤戦は彼らの圧倒的優勢のままに終った。だが、BGの戦闘訓練がそんなに甘いものであるわけがない。やがて、地平線の彼方からゆるゆると―しかし確かにこちらへ近づいてきた、見上げるほど巨大な黒い影。
「きゃあああぁぁぁっ!」
 003の悲鳴が響く。一見したところでは、馬鹿でかい台座に乗っかった、ずんぐりとしたいびつな球形―おまけに大した攻撃能力も持っていない、どでかいでくの坊とばかり思えたその影が目の前に迫ってきたかと思うや、突然の激しい頭痛に襲われたのだ。
「003、どうしたっ!」
「い…痛い! 頭が…目が…耳が…! 聞こえない! 見えない…! 何…も…」
「妨害電波か!」
 舌打ちをしながら003を後ろにかばい、ミサイル発射の態勢をとった004。さながら放たれた一本の矢のように一気に空に駆け上った002。
(おう、来…ぜぇ。…の後ろにゃ、新手の敵…が…じゃ…うじゃ…)
 上空からの脳波通信も、激しいノイズのおかげでほとんど聞き取ることができない。
「とにかく、あいつをぶっ壊さなけりゃどうにもならんということらしいな」
 不敵につぶやいた004が、膝に仕込まれたミサイルを一発ぶちこむ。それは見事に命中したものの、火炎と煙が収まったあとも、その本体には傷一つついてはいなかった。
「畜生…やっぱりもうちっと近づかなきゃ駄目…か…」
 吐き捨てるような言葉とともに、004は背後の003を振り返る。薄氷の視線を受け止めた空色の瞳が、確かな決意を秘めてはっきりとうなづいた。
「お前さんはそこでじっとしてろ! 決して、動くんじゃないぞ!」
 言い捨てて、飛び出して行く004。残された003はそのまま地面に伏せ、息を殺して戦況を見守る。
 このデカブツには大した武器は搭載されていないかわりに、恐ろしく頑丈に作られているらしい。上空の002、地上の004の容赦ない攻撃にもちっともこたえた様子は見せず、そのくせろくな反撃もしてこないまま、ただずんぐりとその場にたたずんでいる。
 当初の衝撃が収まるに連れて、003は少しずつ落ち着きを取り戻していった。その探知能力は相変わらず封じられたままだったが、通常の―生身の人間レベルの視力及び聴力には特に問題もないらしい。じっと地面に身を伏せたまま、冷静に先ほどのことを思い出してみる。
(あいつが私たちに近づいてきて、探査モードが使えなくなったときの距離はおよそ…五〇〇メートル。ということは、あいつからそれ以上離れれば、もしかして…?)
 唇をかんで、再び戦場に目を戻す。002と004は果敢にデカブツへの攻撃を続けていたが、それにくっついてきた新手のロボット兵団に遮られ、思うような成果を上げることができない。そればかりか、空からは鳥形の戦闘用飛行ロボットが絶え間なく吐き出す爆弾の雨というおまけつきだ。このままでは―やられる!
 003は一人小さくうなづくと、そろそろと移動を開始した。
 銃を構え、周囲に気を配り―たった一人になってしまった今、敵に気づかれることはそのまま死を意味する。もっとも、BGが素直に自分を死なせてくれたりするはずもないが、おそらく大破は免れまい。大小さまざまの岩に覆いつくされた乾いた大地の上、003は匍匐前進で少しずつその身体をあの忌々しいデカブツから引き離す。予測は、間違ってはいなかったようだ。離れて行くにつれ、耐え難かった頭痛の波がゆっくりと引いていく。だが、そこで安心するわけにはいかない。少しでも早く妨害電波の影響圏から離れ、彼女本来の探知能力が使えるようにしなくては、あの二人が保たない。
 焦る心を必死に抑え、それでも目指す道のりの半分ほどまできたとき、003は思い切って両手足を伸ばし、四つんばいの姿勢まで身体を起こしてみた。そのまましばらく様子を伺う。敵からの攻撃は…なし。
(これなら行ける!)
 そう思うよりも早く、彼女はぱっと立ち上がり、全速力で走り出していた。
(…今回の訓練目的は白兵戦。ということは、あいつらの射程距離もせいぜい二〇〇から三〇〇メートルといったところ…)
 おそらく今の自分の位置は、その射程距離ぎりぎりの地点であるはずだ。ここまでくれば、たとえ一人でも―敵を倒すことは無理かもしれないが、攻撃を避けながら一気に電波の影響圏外へ逃げ切ることは決して不可能ではない。
 だがそこに、思いがけない陥穽があった。
 ガコン、と重い金属質の音が背後で響いたような気がしてはっと振り向けば、背後のあの黒い巨体、いびつな球形をしたその本体の中ほどにいつの間にか開いた穴から巨大な砲身がのび、真っ直ぐに自分に焦点を合わせているのが見えた。
 とっさに横に飛びのく003。だがそのときには発射された弾頭がほぼ正確に、彼女が今までいた位置で炸裂し―
 悲鳴すら上げる間もなく、003はそこから遥か離れた岩肌に凄まじい勢いで叩きつけられていた。
(003!)
(大丈夫か!)
 仲間の脳波通信に、薄れかけていた意識が戻ってくる。全身がひどく痛むが、起き上がれないほどではない。しかし003はすぐには動かず、気を失ったふりを装ってその目だけをうっすらと開け、静かに耳を澄ます。
(やった! 見える…わ! 聞こえるわ!)
 今の爆風が、彼女を妨害電波の影響圏外へ弾き飛ばしてくれたのだ。今やはっきりと目を見開いて遠い彼方のデカブツを凝視した空色の瞳に、その内部構造がはっきりと見えた。
(003っ!)
 顔を上げれば、まっしぐらにこちらへ飛んでくる002の姿。しかし003は、絶叫にも似た脳波通信で仲間の飛翔を遮った。
(駄目、来ないで! それよりも004を左後方三六度二一分、一〇〇メートルの位置へ! 私とあいつを結ぶ直線上よ!)
(バカ! そんなことより、お前の方が先だ!)
(あいつを倒すにはそれしかないの! 私がもう一度囮になるから、あの砲身がまた姿を見せたらそこにミサイルを撃ち込んで! 砲身の伸縮と射出口の開閉システムは連動しているから、砲身を破壊すれば射出口の動きも止まるはず。そうすれば、内部を直接攻撃できるわ!)
(そんなことできるわけねぇだろうっ!)
(やらなきゃ、三人とも共倒れよっ!)
 いつしか怒鳴り合いと化した二人の通信に、静かに割って入ってきたのは…004。
(002。ここは003の指示に従え)
(何だと! あんた、彼女を殺す気か!?)
(死ぬと決まったわけじゃない。俺を目標地点まで運んだらお前は全速力で、彼女が爆撃を受ける前に助け出すんだ。…ぎりぎりの綱渡りだが、俺たち三人ならできない相談じゃない)
 おそらく、こうしている間にも彼らは敵の攻撃にさらされ、炎と爆風の真っ只中で懸命に応戦しているのだろう。それを思うと003の胸は不安と焦燥に焼き尽くされんばかりだった。迷っている暇なんか、ない―! 彼女は再び叫びだしそうになった。
 しかし、その一瞬前に。
(002。お前が彼女を心配する気持ちはわかる。だがそれは、彼女に対して失礼というものだ。彼女は003―。俺たちと同じ、立派な戦士なんだぞ!)
(004―!)
 戦いを厭う彼女にとって、「戦士」という呼び名などおぞましい以外の何ものでもなかったはず。なのに、そのときは何故かそれが嬉しくて、誇らしかった。…さすがの002も、そこまで言われては反論するわけにはいかず―
(…わかった。だがな、004! 絶対に、砲撃なんざさせるんじゃねぇぞ! 彼女にもしものことがあったら、俺がてめぇを…殺してやる!)
 吐き捨てるような言葉を最後に通信は途切れた。そして、上空からふっ…とかき消えるように見えなくなった002の姿。
(加速装置を使ったのね…)
 すかさず彼女も身を起こし、再び走り出す。だが今度はわざとスピードを抑え、左右に蛇行して相手の注意を誘う。目論見は見事に当たり、そびえ立つ巨体から再びあの砲身が姿を現した。
(来る!)
 003がぴたりと動きを止めて身構えたのとほぼ同時に、砲身と彼女とを結ぶ直線上に、004の姿が忽然と現れた。。その銀髪をさっとかすめて空を切る音。いったん上空に離脱した002が、今度こそ全速力で003のもとへと宙を翔ける。
 そのあとは、全て一瞬のことだった。
 004のミサイルが火を噴き、狙い違わず砲身を爆破する。続けて二発、三発目…開きっぱなしになった射出口から直接内部にミサイルを叩き込まれてはいかに頑丈なデカブツといえどもどうしようもない。禍々しい巨大な球体は、大爆発を起こして四散した。
 そのときにはもう、002ののばした手、その指の一本一本がはっきりと識別できるほどに近づいてきていて―。
 なのに。
「ああっ! 002! 後ろっ!」
 あろうことか、上空を飛びまわっていた鳥形ロボットの一機がぴったりと002に追随し、彼のすぐ後ろにまで迫っていたのだ。003の悲鳴にはっと背後を振り返った002の顔も、驚愕の表情に凍りつく。だが彼は、進路を変えて回避することも、体勢を立て直して迎撃することもなく、そのまま真っ直ぐに彼女めがけて突っ込んできた。
「002、危な…」
 叫んだときにはもう、002の手が彼女の手を、いや全身をしっかりと抱きしめ、急角度で再び天空へと翔け戻っていくところだった。
(助かった…)
 安堵のあまり、002の胸にしがみつく003。刹那、視界を真っ白に覆い尽くした閃光、鼓膜を粉砕するかと思えた爆発音。
 気がついたのは、遥かなる天空の彼方。自分を抱きしめていた腕はいつのまにか離れていたが、それでも左手だけは002の片手にしっかりと握り締められていて。
(…ちょいと、でかすぎる花火だったな。だが、あいつらの旋回性はこの俺様に比べりゃ子供だましもいいとこだ。あの角度で突っ込みゃ、何もしなくたって地面にぶつかって大爆発よ…って、おい! 003!)
 そのとき初めて、003は爆発した鳥形ロボットの破片が自分の右腕に深々と食い込んでいることを知ったのだった。





「サイボーグになって、一つだけよかったと思うことがある…。それは、どんなに深い傷を負っても、手当てさえ間に合えば…命さえ助かれば、傷痕一つ残さずにきれいさっぱり新品の身体…元通りの姿かたちに戻れるってことだ。ヨミでの戦いのあとの俺とジョーがいい例だろ? あんときの俺たちは、全身が焼け爛れて、身体の中の機械がむき出しになって…ひでぇ状態だったって聞いたよ。生身だったら命が助かっただけでめっけもん、もしかしたらいまだに、手も足も動かねぇ、ケロイドやひきつれだらけの…人間とは思えねぇほどずたずたになった身体のままでベッドに縛りつけられていたかもしれん。だけど、今の俺たちはどこから見ても健康体で、ぴんぴんしてる。火傷の痕なんざどこにもねぇ! サイボーグなら、それが可能なんだよ! …望んでもいねぇのに無理矢理こんな身体にされちまったんだ…一つくらいラッキーに思えることがあったっていいじゃねぇか。なのにお前はどうして…どうしてそんな傷痕をわざわざ残して…おくんだよ…」
「ジェット…」
 がっくりとうつむき、片手で顔を覆ったジェットの、その指の間からかすかに染み出し、光るもの。フランソワーズの白い手が、静かにその上に―ジェットの右手に重なる。
「これはね…私にとっては記念なの…。泣いてばかりで、運命を嘆いてばかりで何一つしようとしなかった弱虫の自分を捨てて、貴方たちと同じ―自らの手で未来を切り開き、強大な悪から無辜の人々を守れる『戦士』になれた…記念」
「お前は、そんなもんにならなくたっていい!」
 涙に掠れた声とともに、ジェットの両手がフランソワーズの両腕をがっちりと握りしめ、そのまま固く―か細い少女の身体を抱きしめた。
「お前は…今のままでいいんだよ…。ころころとよく笑って、花が咲いたといっちゃ喜び、俺たちがバカやるたびにかんかんに怒る、普通の娘のままでいればいい。…いや、いてほしい。そのためなら、何でもするから…お前のことは、俺たちが…いや俺が、命にかえても守るから…」
 首筋に落ちる熱い滴り、いまだ震えているむき出しの肩。フランソワーズはそっと目を閉じた。
(ああ…あのときと…同じね。私をあの荒地から助け出し、空の高みへと連れて行ってくれたたくましい腕、温かい胸…何もかも…あのときの…まんまだわ…)
 それでもやがて、彼女は己の「守り人」の身体を静かに自分から引き離す。
「フランソワーズ…?」
「…ありがとう、ジェット。だけど、私は『003』なのよ…。その事実はもう、永遠に変えることができない。でもその事実がある限り、私は貴方たちの…仲間で…いられるわ」
 そのときのジェットの表情を、何と言えばいいのだろう。驚愕と悲哀、そしてほんのわずかな歓喜。それらの全てがかわるがわる、あるいはないまぜになってこの陽気なアメリカンの顔をさまざまに彩り―しばらくののち、彼はくるりと後ろを向いてしまった。
「あーあ、これだからフランス女ってのはよぉ。気は強いわ可愛げはねぇわ、やってられねーや」
 鼻をすすりながらの、精一杯の憎まれ口と…そして、最後に。
「…さっきの『サイボーグの利点』ってやつを俺が喜んだのは、元はといえばお前のためだったんだぜ…。女にとって、傷痕ってやつがどんなに重いものか…俺の頭でもそれくらいはわかるからな…」
「ジェット…」
 だが、フランソワーズがのばした手はふわりと軽やかにかわされて。
「…ま、いーや。お前が気にしてないんだったら別に、俺が心配する必要もねーもんな。なあおい、そんなら今度、目一杯きわどいキャミソールの一つも着てみろよ。そうすりゃ俺たちも眼の保養ができるってもんだ」
「ん…もう、ジェット!」
 フランソワーズがこぶしを振り上げたときには、ジェットは高らかに笑いながらキッチンを飛び出していた。相変わらずの逃げ足の速さにあっけに取られたフランソワーズだったが、やがてそのこぶしもゆっくりと下がる。
(…ありがとう。…そして、ごめんなさいね、ジェット…)










(私、貴方に、嘘を一つ、ついた―)

 


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