傷痕 2


 自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろしてぼんやりとしていたフランソワーズの耳に、控えめなノックの音が聞こえた。
「誰…?」
「…俺だ。ちょっといいか」
「アルベルト…!」
 慌ててドアを開ければ、そこに立っていたのは銀と青と―そして今日は黒をまとった「死神」。
 礼儀正しくドアは細めに開けたままにし、部屋を横切って窓際の小さなテーブルセットの椅子に座ったアルベルトの口の端が、かすかにつり上った。皮肉―ではない、小さなものを思い遣るような優しい微笑。
「あの鳥頭が珍しくしょげ返っていたぞ。今頃は自分の部屋でふて寝というところかな。…ま、そのおかげで俺は読書の邪魔をされずにすんで助かったが」
「…そう」
 たったそれだけの応えのあとには、沈黙。しかし、やがて。
「お前さんまでそんなに落ち込むことはなかろう。あいつがどう思おうと、お前さんが気にしていないのなら何も問題はないんだ。本人が何とも思っていないことを勝手に心配して勝手に滅入っちまうのはあのバカのバカたる所以だし、お前さんまでそのことで落ち込む必要は何一つないんだぜ」
 いつものことながら、アルベルトのジェットに対する評価には情け容赦がない。だが、人間仲よくなればなるほど相手のことを言いたい放題言うものだ。
多分、この二人もその口なのだろう。…フランソワーズはほんの少し、笑った。
「そうね。貴方の言う通りだわ、アルベルト。でも私、そのことを気にしているわけじゃないのよ」
「ほう…。他にもまだ、何か引っかかることがあったのか」
 独り言のような気のないつぶやきとともに、アルベルトは視線を窓の外に移す。だが、そちらの方がフランソワーズにとってはありがたかった。これでアルベルトにまで心配顔をされて根掘り葉掘り訊ねられたなら、彼女はきっと泣き出してしまっていただろう。
 だから―話してみる気になった。
「この傷痕のことは本当に―本当に私、何とも思ってないの。でも、さっきジェットにね…嘘を…一つ…ついちゃったから…」
 アルベルトはまだ外を見ているままだったが、その眉がぴくりと跳ね上がる。それは彼女の言葉にしっかりと耳を傾けている証拠。フランソワーズもまた、独り言のように―彼の方は見ないまま、話し続ける。
「この傷のこと、『記念』だって言ったの。私が泣き虫の、ただの女の子から貴方たちと同じ『戦士』になれた記念だって。だから、残しておきたかったって。でも、本当は違うのよ」
 そこで、少し間をおいて。呼吸と心を落ち着けて。
「これは、記念じゃなくて自戒―自分の実力を過大評価しすぎて、思い上がった莫迦な真似をしないようにっていう、戒めのしるしなのよ―」





(…ちょいと、でかすぎる花火だったな。だが、あいつらの旋回性はこの俺様に比べりゃ子供だましもいいとこだ。あの角度で突っ込みゃ、何もしなくたって地面にぶつかって大爆発よ…って、おい! 003!)
 彼女の腕に深々と刺さった鉄の破片に悲鳴を上げた002。だが、003は―目を大きく見開いたまま、声を上げることすらできなかった。
 何故なら。

 いまだに自分の手をしっかりと握りしめ、空の高みでしっかりと支えてくれているその人には―右腕が、なかったから―

 そればかりではない。防護服の右半身から背中一面が焼け焦げ、ぼろぼろに破れたその隙間から、003とは比べ物にならないほどたくさんの裂傷を、創傷を、そして火傷を負った皮膚がはっきりと見えた。
 あの鳥型ロボットが地面に墜落して自滅することはおそらく002には最初からわかっていたのだろう。だからこそ、逃げることも迎撃することもなくそのまま突っ込んできて、手と手が触れた瞬間、加速装置をフルに使って目にもとまらぬ速さで自分を抱きあげ、そのあとの爆発から守れるよう身体をひねり、体勢を整えてから再び空へと駆け上ったのだ。そしておそらくあの爆風を、炎を、飛散する鉄の破片をその一身に受けて―かばってくれたに違いない。
 その事実に気づいたとき、003の全身から、あらゆる感覚が消えた。覚えているのは切れ切れに目の前を通り過ぎていった無音の映像。
 真っ青な顔で地上に舞い戻った002。
 002ほどではないが、それでもあちこち傷だらけになって―すすけた顔のまま、走り寄ってきた004。
 三人を「回収」し、BGの基地へと連れ帰る輸送車。
 担架に乗せられて基地内の「メディカルルーム」―いや、修理工場へと運ばれていく廊下の、白い壁、白い天井。
 だがその記憶すら、どれも望遠鏡を逆さに見ているみたいで、白くぼやけたフィルター越しの映画のようで。…今思えば、まるで遠い夢か、一瞬の幻程度の印象しかない。
 はっきりと覚えているのは自分の頭の中で、いや、体中のあちこちでぐるぐるを渦を巻き、反響し合って心をびりびりと震わせていた自分自身の言葉だけ。

(私の―所為だ―)

(私があんな、勝手な行動を取ったから―002があんな大怪我をしてしまった)

(004に「動くな」と言われていたのに)

(002一人だけだったら、たとえあの爆発に巻き込まれていても無事に上空へと逃げられていたはずなのに)

(全ては私の―私の所為だ! 私の―思い上がりの―!)



(おい、大丈夫か! しっかりしろ!)



 ああ…覚えていることが、もう一つあったわ―。フランソワーズは静かに目を閉じ、そっと記憶をたどる。

 担架に乗せられ、処置室へ入るやいなや、003は担架からベッドに移された。特殊鋼のはさみで防護服が切り開かれ、肩から腕がむき出しになる。かすかな、ちくりとした痛み。…注射?
「今、麻酔をうったからな。即効性だからすぐに痛みは消える。…そうしたら、破片を抜いて手当てをするから」
 初めて見る、まだ若い科学者の顔。大きな鼻と、ぼさぼさの髪がユニークな、おそらくまだ彼女とさほど変わらぬ年齢の青年。
「大丈夫だよ。傷はさほど深くない。これくらいなら、痕一つ残さずきれいに治る。だから…心配しないで」
 科学者はできる限り優しく―003を安心させるためにそう言ってくれたに違いない。だが、その言葉を聞いた途端、003はベッドの上で跳ね上がった。
「だめ! この傷は消さないで! くっきりと―いつまでも痕が残るようにして!」
「おい君! だめだ、そんな急に動いちゃ!」
 あたふたと自分を押しとどめる科学者の手を跳ね飛ばし、003はいつまでも―傷を残してくれと―叫び続けた。
 制止の手を払いのけ、治療さえも拒んで―狂ったように暴れ、喚き続ける003にうんざりしたのか、部屋の一方からリーダーらしい年配の科学者の声が飛ぶ。
「おい、ギルモア! さっさと003を眠らせろ! やかましくて作業ができん!」
「は…はぁ」
 困ったような顔で若い科学者―ギルモアというのか―は声の主と003とを見比べていたが、やがて暴れ続ける003の傷口からの出血がひどくなったことに気づくと唇をかみ―思い切ったように傍らのトレイから取り上げた無痛注射器を003の首筋に当てた。

(今考えてみれば、あれが私とギルモア博士との、初めての出会いだったんだわ…)

 目が覚めたときはベッドの上。防護服はいつのまにか治療用の簡易ガウンに着替えさせられ、身体の損傷はどこもかしこもすっかり元通りに「治療」されていた。だが、何よりも先にめくり上げてみた袖、その布地の下から現れたなめらかな右の二の腕には―
 鮮やかな、一本の筋。まだ触れれば血が出そうなほど生々しい、くっきりとした―傷痕。

(あの頃、訓練で傷ついた私たちの治療―いえ、修理には「原状回復」というのが最優先事項だったはず。こんな、傷痕一つとはいえ私の腕に残したりしたら…)
 きっと、あの若い科学者は上役連中にこっぴどく叱責されたに違いない。下手をすれば、職務怠慢で処分されたことだってありうる。…それとも、周囲の目をかすめてこっそりと、処分覚悟で私の希望を聞き届けてくれたのかしら。
 後年、BG脱出の話が持ち込まれたとき、科学者側の協力者がギルモア博士だと聞いた彼女は一も二もなく計画に賛成した。それは、こんな境遇への我慢が限界に達していたこともあったが、もしかしたらこのときのことをまだ、覚えていた所為ではないかと思う。
 だが、どれもこれもすでに遠い昔のことになってしまった。

 たった一つ、この傷痕だけを除いて―





「あのとき、貴方に『絶対に動くな』って言われていたのに私が一人であの場から離れようとしたのはね…」
 アルベルトはまだ窓の外を見ている。フランソワーズの位置からは、彼の横顔しか見えない。
「あの何日か前の戦闘訓練、ジャングルの中で一昼夜ぶっ通しで行われたゲリラ戦のときに、仕掛けられていた罠を私が見つけたことがあったでしょう?」
「覚えてるさ。たった一箇所、ジャングルが途切れて赤土がむき出しになった崖の下を通りかかったときだな」
 あとを続けた横顔の、抑揚のない口調。
「だけどその崖は崩れていて、私たちの道を塞いでいた」
「その前日まで大雨が続いていたこともあって、俺と002はそれを自然の、雨による土砂崩れだと判断した。乗り越えることも何とか可能に思えたし、警戒一つすることなくそのまま進もうと―」
「でも、それはBGの罠だった。あの土砂の下には大量の火薬が隠されていた上、表面のあちこちには小石に偽装された起爆装置が隙間もないほどびっしりとばら撒かれていたのよね」
「それに気づいたお前さんが慌てて止めてくれなかったら、俺もあいつも今頃はきれいにばらばらだったよ。あのとき、俺たちが命拾いしたのはお前さんのおかげだ。今でも―感謝してる」
 最後の言葉にだけはかすかな、しみじみとした感慨めいたものが漂っていた。だが、フランソワーズはかえって悲しげにうなだれる。
「あのときも―貴方たちはそう言ってくれたわ。『あんたのおかげで助かった、あんたはもう立派な、頼もしい俺たちの仲間だ』って。…嬉しかった。これでやっと、私も貴方たちと同等に―守ってもらうばかりじゃない、守ってあげることもできるようになったって、自信がついて。でもそれは、とんでもない思い上がりだったのよ」
「そんなことはない。俺たちはあれから何度もお前さんに助けられた。四人だけでいたときも、九人になってからもだ。お前さんは、俺たちと同等だよ。それは、まぎれもない事実だ」
 だが、フランソワーズは力なく首を横に振る。
「ううん…それでも私たちにははっきりとした『適性』というものがあるわ。特に私は諜報活動に特化しすぎているんですもの。いくら同等でも、貴方たちを守ることができても、戦闘能力まで肩を並べたような気になって、一人でも何とかできると貴方の言いつけを破った、それは間違いなく私の驕りよ。それを忘れないために、私はこの傷痕を残しておきたかったの」
 全てを吐き出して、フランソワーズは幾分ほっとしたような表情になった。だが、それとは対照的に、アルベルトの眉間にはうっすらとたてじわが現れて…
「成程な。話はよくわかった。あいつの怪我の所為でその傷痕を残しておいたなんて知ったら、あの鳥頭、どこまで落ち込むかわからん。それを避けたかったから、無闇にその話題が出ないよう、傷痕自体も隠し続けた…」
 フランソワーズがこっくりとうなづく。
「…そうよ。だってこれは私だけの問題ですもの。みんなにわざわざ見せびらかすことじゃないわ」
「フ…ン」
 すい、と細くなった薄氷の瞳。
「それならそれでいいが、嘘の理由はともかく、その傷を隠し続けていた理由までそれで説明するには少々苦しいように思えるがな。もしかして、本当の理由は…ジョー、か?」
 はっとしたフランソワーズに言葉をさしはさむ暇も与えず、アルベルトの話はなおも続く。わずかに曇った瞳。沈痛な声音。
「あいつはあの鳥頭以上に繊細な甘ちゃんだ。理由はどうあれ、お前さんの身体に戦闘でついた傷が残ってるなんて知ったらどんなに嘆き哀しむか。その傷を隠し続けている本当の理由は、あいつにそんな思いをさせたくないからじゃないのか?」
 だが、何故かフランソワーズはきょとんとした表情になった。
「あら…でもジョーは知ってるわよ、この傷のこと」
「何…?」
 アルベルトがぽかんと口を開けた。この金色の髪の少女を相手にしているときでなければ絶対に見せない、あっけに取られた表情。フランソワーズが悪戯っぽく笑う。
「去年の公演のときに、ばれちゃった。ほら、みんなが忙しくて、どうしても来られなくて…結局ジョーが、九人分の花束を抱えて代表で観に来てくれたとき。…いつもはファンデーションで隠していたんだけど、あのときは終幕間際に少し激しい、しかも長時間のソロを踊ったから汗で流れちゃったのね。楽屋に戻って、ファンデーションを塗りなおす暇もなく、あの人、駆けつけてくるんだもの。それも、『歩く花束』そのものの格好でよ」
 くすくす笑いが、いっそう華やかになる。
「しまった、と思ったんだけど、とっさにごまかしちゃったわ。これはまだ学校にも行っていない頃、兄さんと木登りして遊んでて、枝から落ちたんだって。私は諜報活動用に改造されたから、いつまたパリに潜伏しなくちゃいけなくなるかもわからない。万が一、昔の知り合いに会ったときに備えて、BGも生身の頃の傷だのアザだの、寸分違わず残しておいてくれたんじゃないの? って。…確かに、ちょっぴり哀しい顔はさせちゃったけど、彼…すぐに笑ってくれた。『君って、意外とおてんばだったんだね』って」
 辛い過去の告白がいつのまにかとりとめのないおしゃべりに変わる。そのまま、なおも話し続けようとした薔薇色の唇が、不意にふさがれた。骨ばって大きな、そのくせ男にしては繊細すぎるアルベルトの―真っ直ぐに立てた、左の人差し指で。
「そうやって、あちらこちらで嘘ばかりついてまわっているのか。…随分と、性悪になったもんだ」
 いつの間にか窓際のテーブルから離れ、フランソワーズのすぐ目の前に立ったアルベルトの顔つきが、険しくなる。だが、そんなことで怯むフランソワーズではない。唇を塞いだ指は、手首ごと至極礼儀正しく―しかし、容赦なく引きはがされた。
「…ええ。『お兄様』に毎日鍛えて頂いたおかげよ」
「どういう意味だ」
「ふふ…」
「…何だか無性に煙草が吸いたくなった。…戻る」
 そのままきっぱりと背を向け、ドアの方へと立ち去るアルベルトを、フランソワーズはなおも茶目っ気たっぷりの表情で見送っていたのだが。
「…性悪な女ってのは、哀しいもんだぞ」
「え…」
 銀と青、そして黒に彩られた男が去り際に残した、聞こえるか聞こえないかのつぶやき。
「性悪になら、いくらでもなるがいい。だが…決して『哀しい女』にはなるな。…これは、命令だ」
 そして、静かに閉じられたドア。たった一人、取り残されたフランソワーズ。
「アルベルト…」
 いくら名前を呼んでも、それ以上の応えはない。フランソワーズはベッドから立ち上がり、そのまま―再び腰を下ろすことも、アルベルトの後を追うこともできないまま、いつまでもずっと―その場に立ちすくんでいた。

 


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