天使の罠 1


 それは、残暑にもようやく一段落つき、秋めいてきた日の午後―。
 昼食を済ませたあとも何となくリビングにたむろして思い思いにくつろいでいたメンバーたちは、突然の叫び声に飛び上がった。
「おっ、おいこれ! もしかして、石原先生んトコじゃねえか!?」
 例によってソファにだらりと寝そべり、ぼけ〜っとTVを観ていたジェットが跳ね起き、テーブルの上にあったリモコンを引っつかんで音量を上げる。
「何だって!?」
「事件か?」
「石原先生がどうかしたのか!」
「みんな黙れ! TVの音が聞こえねぇ!」
 口々に叫んでTVの前に集まってきた仲間たちを、ジェットの一声が黙らせる。そしてみんなは、息をつめて画面を見守った。
 そこに映し出されていたのは、街中の小さな医院の入り口らしい画像と、「医院待合室で患者死亡/死因は麻薬中毒か?」のテロップ。アナウンサーが詳細を語り始める。
「…今日午前九時頃、T区××の石原医院の待合室で診察の順番を待っていた患者の一人が突然苦しみ出し、応急手当のあとT大付属病院に運ばれましたが、間もなく死亡しました。この患者は四六歳の暴力団組員の男性で、応急処置をした石原秀之医師の話によると麻薬による中毒死の疑いがあるということで、警察で詳しい事情を調べています…」
 ニュースが終った後、呆然と顔を見合わせるメンバーたち。
「石原先生の患者が麻薬で中毒死…一体、どういうことなんだ?」
「単なる偶然か、それとも…」
「もし何かの事件に石原医院が巻き込まれているとしたら…」
 リビング全体に、不安な空気が広がる。だが、今はきっと警察やマスコミが押しかけてとんでもない騒動になっているだろうし、自分たちがいきなり派手に動いて人目についたりしたら事態を余計混乱させかねない。
 そこで、その場はとにかく石原医師に見舞いのメールだけ送り、その夜、いくらか落ち着いた頃を見計らってあらためて、電話を入れてみたならば。
(本当に、すみませんでした。皆さんにまで余計なご心配をかけちゃって…)
 意外に、石原医師は元気そうだった。
(おかげさまで、うちは何の関係もないって警察にもわかってもらえたようです。死因はやっぱり麻薬による中毒死だったんですが、司法解剖の結果、麻薬を摂取したのは昨夜未明、午前一時から二時の間…うちに来るずっと前だったことが判明して…亡くなられた方はうちのかかりつけの患者さんでしたし、多分…具合が悪くなってやって来たものの、診察する前に運悪く…あんなことになってしまったんだろうと…)
 スピーカーモードにした電話機から流れる石原医師の声に、集まっていた全員の口から安堵のため息がもれる。しかし。
(暴力団関係者とはいえ、男気のある…いい人だったんです。助けて上げられなくて…すごく残念で…悲しいです)
 石原医師のこの沈痛な言葉にだけは、誰も、何も応えられなくて。電話を切ったあとも、石原医院の無事を祝う言葉は誰からも聞こえてこなかった。
「…少なくとも、BG絡みでは…ないってことか」
「ああ。奴らが絡んでいたらそんな、被害者が病院へ行くのをみすみす見逃すはずがないよ」
「闇から闇…それが奴らの常套手段だからな」
「BG以外にも、コワイ連中はたくさんいるちゅうことネ。悲しいアル」
「石原先生…辛そうだったわ」
「『医者にとっちゃ患者は皆平等』なんてこと、言ってたしな…自分とこが無関係だからって、それだけで喜ぶような人じゃねぇし」
 ともあれ、これがよくある暴力団同士の麻薬トラブルだとしたら自分たちの出る幕ではない。石原医院が事件に巻き込まれていなかったことだけでもよしとして、後は日本の警察に任せるしかなかった。

 ところが。それから一週間後、今度は石原医師の方から電話がかかってきたのである。
(例の…うちの患者さんが亡くなった件でご相談したいことがあるんです。手の空いている方だけで結構ですから、すぐ来ていただくわけにはいきませんか?)
 応対していたジョーが二つ返事で承諾したのは言うまでもない。その日は留守の仲間たちも多く、すぐに出られるのはジョーとアルベルト、そしてたまたま店が休みでのんびり骨休めをしていたグレートと張々湖。フランソワーズとイワンは万が一のための連絡役としてギルモア邸に残り、結局四人だけですぐさま石原医院に駆けつけたわけだが。
「すっ…すみません! 今すぐ行きますから、ひとまずそこの応接に…宮本さん、案内してあげて下さい!」
 石原医院の混雑ぶりは並大抵ではなかった。聞いた話によると、ここは石原医師とその両親が医者として、弟が事務関係の責任者として家族ぐるみで経営しているほんの小さな医院だそうだが、これほどまでに込み合っているということは、よっぽど地域の人たちから頼られているのだろう。
 中年の看護婦に応接室まで案内してもらい、四人はソファに座り込んで無言のまま顔を見合わせる。
(今になって、僕たちに来てくれなんて…一体、何があったんだろう?)
 と、そこへ―何やらぎゃあぎゃあと喚き合う二つの声が聞こえてきた。
「おいヒデ! お前、正気かよ! 何だって、民間人なんか巻き込むんだ!」
「そんなこと言ったって、松っちゃんたちだって酷い目に遭ったじゃないか! 一歩間違えば、死ぬところだったんだぞっ!」
 最後の怒鳴り声に、ドアが勢いよく開くやかましい音がかぶさった。そして―
「あ…あ…ふみまへん…お待はへひまひた…」
 そこには石原医師ともう一人、やけに体格のいい強面の男が取っ組み合っているような格好で―互いの口に指を突っ込んで思いっきり横に引っ張り合いながら―立っていた。四人の目が点になる。
「ガキのケンカかよ…」
 音を失った室内に、アルベルトのつぶやきだけがやけに大きく響いた。

「本当に、お見苦しいところをお見せしてすみませんでしたっ! 実は彼、僕の幼なじみで松井元人って言います。職業は刑事。今回の事件を担当してるんです」
「はぁ…」
 そう言って頭を下げられても、あの「ガキのケンカ」を目撃してしまったあとでどう対応しろというのか。しかも石原医師と並んで座ったその松井とかいう刑事は、いかにも不貞腐れたガキ大将然として、唇を尖らせたままそっぽを向いているばかりである。
「あの件については、当初警察も暴力団同士の麻薬トラブル、もしくは亡くなった崎田銀蔵さん自身の過失と見ていたようなんですけど、実はここで、全く新たな線が浮かんできまして…」
「おいヒデ! てめえどこまでこの民間人の皆様に話す気なんだっ。いくら関係者で、しかも幼なじみとはいえ、お前に捜査状況漏らしたってだけで、俺ゃ立派な懲戒免職モンなんだぞ!」
「だからぁ! この人たちはただの民間人じゃないんだよっ! さっき、あれだけ説明しただろうがっ!」
「あんな話、信用できるか! 『超人的な秘密能力を持った正義の味方』だぁ? お前、勉強しすぎて頭イカれちまったんじゃねぇのか」
「俺の頭はどこもかしこも正常だよっ! 松っちゃんこそ、頭が固すぎるんだっ」
「何だとぉっ!」
 今度は口ゲンカ…何だか泣きたくなってきて、救いを求めるように仲間たちを見やったジョーの目に映ったものは。
 げっそり、うんざりした表情でため息をついている中年コンビ(失礼!)と、眉間に思い切り立てじわを寄せたアルベルト。これはまずい。果てしなくまずい。
「あ、あのー…それで結局僕たちって…このままここにいていいんでしょうか…?」
 涙目とともに決死の思いで話(っつーか、ケンカ…?)に割り込んだ少年に、ぎゃあぎゃあうるさく言い合っていた大の男二人は、ぴたりと口をつぐんだ。

 そのあとも、しばらくの間はすったもんだが続いたものの。ついに業を煮やしたアルベルトが傍らに置いてあったボールペンを左手のナイフですっぱりと叩き切り、グレートが一瞬にして自分そっくりに化けるのを目の当たりにしては、松井刑事も度肝を抜かれてしまったらしい。しかも、震えるその手が取り出した煙草の先に、張々湖の口からほとばしった熱線が狙いも見事に火をつけてやったとくれば、もう決定である。最後にジョーがはにかみながら、「あの…僕の能力は、今ここでお見せするにはちょっと、危険すぎて…」と言ったときには、いかに屈強な強面男とはいえ、壊れた人形のようにがくがくと勢いよくうなづき続けるしかなかったようだ。
 ただこの場合、危険なのはジョーの着ている服とジョー自身だけだったりする。普通の服で加速装置を使ったらあっという間に燃え尽きてしまうのはお約束。刑事の前でそんなことをしでかしたら一発で逮捕されてしまうこと間違いなしだが、そこまで言う必要はない。
 さらには「捜査状況漏洩とサイボーグたちの存在についてはお互い決して口外しない」という約束を取り交わし、ようやく事件の詳細が松井刑事の口から語られ始めたのであった。
「今回のような状況だと、原因は本人の過失って場合が一番多いんだ。つまり、間違えて致死量のヤクを注射しちまったとか、飲んじまったってやつだな。マル暴同士のトラブルってこともなくはないが、数としてはずっと少ない。目障りな相手を消しちまうんなら、拳銃かナイフを使った方がよっぽど手っ取り早かろ? 偽装その他の理由があればともかく、単純なトラブルの末のコロシにあんな回りくどい手を使う暴力団はいねえよ。…だが、ガイシャ―いや、被害者の崎田銀蔵に限って、ヤクなんかに手を出すはずがねぇんだ」
「しかし、その人は暴力団の組員だったんでしょう? いや、もちろん我輩には職業によって人間を差別するつもりなど毛頭ありませんが…少なくとも、一般の人間よりはそういったモノに馴染みのある環境にいたことだけは確かだったのではありませんかな」
 グレートの流暢な日本語に松井刑事は目を丸くしたが、すぐにまた話を続ける。
「いや、確かにそれはその通りなんだが、崎田がいた暴力団ってなあ『光順会』っていって、ちょっくら特殊なトコでね。…端的に言っちまえば、昔ながらの任侠を重んじるヤクザなんだよ。『弱きを助け、強気をくじく』『シロートさんには決して手は出さない』―昨今じゃマル暴どころか当のシロートまでもがきれいさっぱり忘れちまったような信念をことさら大事にしてる、それこそ博物館かどっかに飾ってやりてえような連中なんだ。まあ、それでも暴力団には違いないからいろいろとやらかしてはいるんだが、麻薬だけには絶対手を出さない。身体に彫り物入れようが、指の一、二本なくそうが、春を売ろうが一度改心して死ぬ気で頑張れば、人間必ず立ち直ることができる。だが、クスリだけは…一度ばら撒いたらシロートクロート関係なしにどんどこ広がっていく上、後戻りもきかねぇ。ごく軽度の中毒者でさえ、完全に立ち直るのはかなり難しい。まして、行くとこまで行き着いて廃人にでもなっちまったひにゃ、取り返しがつかねぇ…ってのが奴らの理屈でな。『光順会』にとっちゃ、クスリはヘタすりゃコロシよりも重大なご法度なんだ。しかも崎田はそこの若頭…言ってみりゃナンバー2だな。そんな男が組の法度破ってヤクに手を出すとはちょっと、考えられなくてよ」
「この町内に限って言えば、『光順会』は暴力団って言うよりも町の用心棒みたいな存在なんです。崎田さんだって、近所のお年寄りや子供たちにはとても慕われていました。あの人が麻薬に手を出すなんて、絶対にそんなことありませんよ!」
「おい、あんまり褒めるなよ。マル暴はマル暴だって、さっき言ったろ。あいつらだって一皮むきゃいろいろやってんだからな。事情と本人の覚悟次第じゃ未成年でも平気でフーゾクで働かせるし、表家業の建築の現場じゃ不法滞在の外国人雇いまくりだ。しかもそいつらのために健康保険証は偽造するわ、所得税逃れの裏帳簿は作るわ…叩けばいくらだってほこりが出てくるんだぞ!」
 石原医師をぎろりと睨みつけ、松井刑事は盛大な舌打ちをもらす。
「ま、そんな連中だから他の暴力団連中もあんまり関わりあいになりたくないんだろうさ。もともと零細組織だから縄張りもせいぜいこの町内くらいだし、その狭い地域に無理してちょっかい出して、あとで面倒抱えるよりは他の場所でやりたい放題やった方が効率的だろ? …てなわけで、『光順会』とヤク絡みで揉め事起こすような奴らもまた、いない。…と言っても、そんなのは由緒正しい同業者どもだけだがな。新興の―それも、裏家業の事情も仁義もわきまえない奴らなら、そんなちっぽけなヤクザ、気にもしねぇやな」
「新興勢力…?」
 ジョーのつぶやきに、またまた煙草を取り出した松井刑事がうんざりとした表情で肩をすくめ―くわえた煙草を思い切り、噛み潰した。
「―学生だよ」
 思いがけないその言葉に、四人は顔を見合わせる。
「最近の学生の中にゃ、とんでもねぇのがいるんだ。ガキの頃から甘やかされて育ってきた所為か、自由と自分勝手とを完全にはき違えたような奴らがな。このところ、あっちゃこっちゃで学生どもが事件起こしているようだが…よりにもよって、今度はヤクの売買に手ェ出す奴らが出てきやがった」
「何でもここ数ヶ月、若者の間にものすごい勢いで広がっている麻薬があるそうなんです。『エンジェルキッス』って名前で、一見、駄菓子屋で売っているキャンディみたいな感じの…しかもその売人も運び屋も、全員学生だって話で…」
「実は、崎田が死んだ原因ってのがその『エンジェルキッス』だったんだよ」
 話は、いよいよ核心に入ってきたようだ。四人の目つきも鋭くなる。
「『エンジェルキッス』が売られているのは、若い連中に人気のある繁華街ばかりで、こんな下町で見つかったなんて話は聞いたこともない。だが、それとは別に、このすぐ近所でとんでもないものが見つかってたんだ」
「とんでもないもの…何ですか、それは」
「隠し倉庫だよ。こっからちょいと行った先のS川、あそこの河口付近にゃ三角州やら中州やらがごろごろしてる。そのうちでっかいやつにはいろんな施設が建っているが、地図にも載っていない小さなやつはそのほとんどがほったらかしだ。だが、中には川を行きかう船舶にもしものことがあった場合に備えて、ほんのささやかな緊急用品―ま、せいぜいロープとか浮き輪とか、ごくわずかな燃料程度だが―を常備した小さな物置を置いて、いざというときの避難所になってるのがあるのさ。奴ら、そんな物置の一つを利用して、『エンジェルキッス』の倉庫に使ってやがったんだ。だが、倉庫が見つかったからといって、販売ルートや受け渡し場所なんかはわからねえままでよ」
 忌々しそうな松井刑事を、石原医師がちらりと横目で見た。
「そんなこと言ってるけど、とうに目星はついてるんだろ。昨日の囮捜査で、見事玉砕してここに運ばれてきたのは誰だったかなー」
「ヒデ! てめぇ、しまいにゃシメるぞっ」
「そんなに元気になったのもついさっきじゃないか。今朝まではまぁ、蒼い顔して今にも死にそうな声出してたくせに」
「何だとぉっ!」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。じゃ、貴方は今、ここの患者ってわけですか? もしかして、どこかお怪我でも…? そんな、興奮したらまずいんじゃ…」
 またしても険悪になってきた雰囲気を、アルベルトが懸命になだめる。しかし、松井刑事はいっそうの仏頂面になって、吐き捨てるようにこう言っただけだった。
「へん。そりゃ一応は公傷扱いになってるけどな、俺はどこにも怪我なんざしちゃいねぇ。…俺がこのバカヒデの厄介になるはめになったのは、それ以前の問題よ」

 


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