君の昔を 2


「やっぱり、みなさんご覧になってたんですね、あの記事…」
 机の上でくしゃくしゃになった新聞紙に全てを察して、ジョーは観念したように目を閉じた。深呼吸。再び開いたその茶色の瞳に宿る、言いようのない哀しい影。だがそこへ、松井警視の容赦のない声が飛ぶ。
「ああ。あの新聞はしっかり拝見させていただいたぜ。…だが、どうしてそこでお前さんがそんなに動揺する? 何か理由がありそうだな。聞かせてもらおうか」
「松っちゃん、待って! 違うんだよ! 島村クンは…」
 慌てて割り込んだ石原医師を、ジョーの消え入りそうな声がさえぎった。
「いいんです、先生。いつまでも隠しているのは、僕も…辛いから。松井さんに、何もかもお話し…します」
 そして語られた、事件の全貌。…話が終り、必死に笑おうとしたその頬は、ただ小さく震えただけ。ごまかし笑いでも作り笑いでも、ほんの少し微笑むことさえできれば、今の自分の心を悟られずにすむのに。目の縁が、熱い。鼻の奥が痛い。今のジョーには、あふれ出しそうになる涙を懸命に押さえ込むだけで精一杯だった。
「島村クン…でも僕は、全然気にしてないからねっ! 君があんなこと…できる人間じゃないってことは僕だってよく知ってるから、だから…」
 そっとジョーの肩に手をかけた石原医師の目が、ちらりと松井警視を見る。
 部屋の床に直接腰を下ろし、灰皿と茶托つきの湯呑み三つを置いたお盆を囲んで車座になった三人。茶を入れてきてくれた俊之は、この話は自分が聞くべきではないと賢明にも察したらしく、そのまま階下に引き取ってしまった。
 そして。さっきから絶え間なく煙草をふかすばかりで一言も発しなかった松井警視がおもむろに顔を上げ、ため息混じりにもらした台詞。
「そうか、道理で…。初めて会ったときから、お前さんのツラぁどっかで見たことがあるような気がしてたが…まさか、あの事件の重要参考人だったとはな」
「だからそれは、誤解なんだよっ! 島村クンは犯人じゃない! 絶対に…!」
「うるせえ。ヒデ、黙れ」
 松井警視の目は鋭く、そして冷たかった。真実のみを追い求める冷酷な猟犬の眼差しには、友情すら入る余地はない。その視線が、ゆっくりとジョーに向けられる。
「単刀直入に訊く。今の話は、本当なんだな―?」
 射すくめるような瞳。だがジョーは、その視線をしっかりと受け止め、震える声で―しかしきっぱりと答えた。
「本当…です。僕は、神父様を殺したりなんか、していない―!」
「だが、そんな話誰が信じる? 世界制服を企む悪の組織だの、サイボーグだの…おまけに、状況証拠も物的証拠も、お前さんが犯人だってしっかり示してるときてらぁ」
「松っちゃん! それ、どういう意味だよっ!」
 石原医師がジョーをかばうように膝立ちで一歩前に出、松井警視に食ってかかった。松井警視が、そんな石原医師を胡散臭そうに見返す。
「…黙れ、って言ったろうが。聞こえなかったのか…?」
「ああ…! 聞こえない! たとえ松っちゃんの言葉でも、そんな理不尽な言い草、俺は絶対に聞かない! 従わない!」
「ほう…じゃ、どうするってんだ?」
「松っちゃんこそ、島村クンをどうする気なんだ!」
「…今この場でとっ捕まえて、本庁まで連行する。…それが、警察官としての義務だ、っつーたら、どーするよ?」
 石原医師は答えず、唇をかんだ。その手が、静かに盆の上の灰皿にのびる。松井警視の目が、すい、と細くなった。
「何…やらかす気だ?」
 石原医師の指が、灰皿の縁をぎゅっとつかむ。
「彼を…殺人犯になんかさせない。もし、どうしても捕まえるってんなら、たとえ松っちゃんでも…俺は、許さない―!」
 睨み合い。ジョーが慌てて、石原医師に飛びつく。
「先生っ! やめて下さいっ…そんな…僕の所為で松井さんと喧嘩なんて…お願いだから…やめてっ…!」
 だが、その手は荒々しく払いのけられた。全身の筋肉をぴりぴりと張りつめた石原医師の声が、ジョーの耳に届く。
「何も心配するな。君は無実なんだから! いざとなれば、俺がこのバカを殴り殺してでも押しとどめる! だから…その隙に君は…逃げるんだっ!」
「先生っ!」
 一触即発としか言いようのない、切羽詰った状況の中。松井警視が突然お手上げのポーズを取り、くすりと口元をほころばせた。
「あーあ。そーゆートコ、全然変わってねえんでやんの。お前ってば、小学生のときから自分より年下のガキとか小動物にゃ弱かったもんなァ。小便漏らして泣いてる一年坊主の世話とかしょっちゅうやいてたし…学校帰りに捨て犬や捨て猫見つけると必ず拾ってっちまってよぉ…よく、お袋さんに叱られてべそかいてたっけなぁ」
「松っちゃんっ!!」
 真っ赤な顔になった石原医師の指が灰皿から離れ、そのまま松井警視の横っ面を張り倒そうとする。が、あっけなくかわされ、その頬がいっそう赤くほてり―。
「それって、とんでもなく失礼だぞっ! 島村クンに、謝れよっ!」
「何で俺が謝んなきゃいけねーんだよ。俺ゃ別に、こいつがガキだとか、捨て犬だとか捨て猫だとか、一言も言ってねーぜ」
「今、言ってるじゃないかっ! ガキも、捨て犬も捨て猫もっ」
「へーえ。いつ言った? 西暦何年何月何日? 何時何分何秒?」
「こ…のっ!」
 今度こそ、手加減なしに松井警視に跳びかかろうとした石原医師を、再びジョーがしがみつくようにして止める。
「せ…先生っ! やめて…僕なら、ちっとも気にしてませんからっ!」
 はっきり言って、どっちもかなり失礼。だが、こんな場面でもなお、怒ることなく必死に二人の喧嘩を止めようとするのがジョーという人間なら、こんな場面でもなお、物騒なじゃれあいの一つもしたくなってしまうのが、石原医師と松井警視という人間なのかもしれなかった。
 ともあれ、しばらくのちにはこの図体のでかい悪ガキ二人のじゃれあいにも一段落ついて。ふと、松井警視の顔が真面目になった。
「…俺の後輩のキャリアに森村って奴がいてよ。そいつ、今M署の署長やってんだ」
「M署…」
「ああ。五年前の事件の所轄だったとこだ。覚えてるだろ?」
 ジョーは、答えない。正座をした膝の上に置かれた手が、ぶるぶるとただ、小刻みに震えているばかりである。
「そいつがな、五年前から言ってるんだよ。『あの事件の犯人が捕まった少年Aだと思う奴は大バカだ』ってな」
 ジョーと石原医師の二人が、はっと顔を上げる。
「俺が奉職したのは、正確には九年前…森村はその三年後輩だから、例の事件の時にはまだ一年目のペーペー、研修って名目で、あちこちの警察署を渡り歩いてたんだ。で、たまたまM署での研修中に、あの事件が起きた…。ただ、そこでの奴の研修期間はそのときもう数日しか残ってなくてな。本来なら捜査に加われるはずもないんだが、あいつ、学生ンときの専攻が少年法でよ―被疑者が未成年だって聞いて興味持ったんだろうな―現場のデカ長に無理言って、捜査会議にオブザーバーとしてもぐりこんだんだと。会議っつーても、そのときはすでに容疑者としてお前さんがパクられてたから、現場に残されていた証拠だの、お前さんの供述だのをあれこれ検証するってだけのもんだったそうだがね。―で、それを聞いているうちに森村は確信したんだそうだ。少年A―つまり、お前さんだな―は、絶対に犯人じゃないと」
 食い入るように話に聞き入っていた二人の顔が、ぱっと輝く。だが、松井警視の表情はいまだ厳しいままである。
「森村はすぐさま自分の意見を現場の連中に説明したが、取り上げてはもらえなかった。ま、無理もねぇがな。もともとキャリアと現場の連中―ノンキャリってぇのはえらく仲が悪いし、まして研修中のペーペーなんぞ、たたき上げのオヤジ連中から見れば世間知らずのボンボンだ。表面上はいくらキャリア様よ、警部補様よとおだて上げられていたところで、そんなヒヨッコの意見を取り上げてもらうなんざ、ゴジラが針の穴くぐるより難しい。おまけに、奴のM署での研修は半ば終ったも同然―てなわけで、残りの数日のらりくらりとはぐらかされた挙句、宅急便の手荷物よろしく、次の研修先へのしつけて送られちまったのさ。だが、奴はずっと気にしていた。何とかしてあの事件をもう一度調べたいとじっと機会をうかがっていたら、何とこの春の異動で手前ぇが当のM署の署長にご就任よ。意気揚々、赴任と同時に事件の調書調べてみれば、これがどっこい『被疑者生死不明により不起訴』ってことですでに処理済。いくら怪しかったとはいえ、まだ容疑も固まってない人間、それも未成年を護送途中で崖から落っことしたってのは現場の奴らもさすがにまずいと思ったのか、捜索もそこそこにさっさと片づけて知らんふりを決め込んでいたらしい。森村の奴、地団太踏んで悔しがってな…渋る現場の連中を署長権限でねじ伏せて、半ばごり押しで再捜査本部を設置したんだ。でもよ、そんな経緯で始まった再捜査なんざ、現場の連中が身ィ入れてやるわけねえわな。それに、何といっても五年のブランクは大きい。結局、今に至るまで新たな証拠も証人も見つからないまま、現場の突き上げ食らってかなり厳しい立場に立たされてるみたいだぜ」
「そんな…」
 石原医師が、がっくりと肩を落とす。ジョーはその隣でただ、うつむいているだけ。長い前髪の陰から、小さな水滴がぽとりと膝の上の手の甲に落ちた。松井警視がそこで初めて、気の毒げな視線をジョーに向ける。
「真相がそんな、奇妙奇天烈なものでさえなければ…今のM署には森村がいる。お前が出頭して洗いざらい説明すりゃ、濡れ衣も晴らせるだろうに…八方塞がりだな、こりゃ」
 そのまましばらくは、誰も、何も言わなかった。今日何十本めかの煙草に火をつけた松井警視の吐き出す煙だけが、この重苦しい現実そのもののように、三人の上に立ち込めていく。
「で…でも松っちゃん。その森村さんって人が、島村クンの無実を信じてる根拠ってのは何なんだい? それってそんなに…取るに足らないものなのか?」
 石原医師が、必死の面持ちで口を開いた。すがるような視線。
「取るに足らなくは…ない。だが、海千山千のデカ全員を納得させられるようなものでもねぇ。捜査担当者の考え方一つで重要視も無視もされちまうような、えらく中途半端な状況証拠なんだ…」
 松井警視が、くわえていた煙草を思い切り灰皿に押しつけた。
「まずその一つめだが…。なあ、お前さんは別に、前々から殺された神父を恨んでいたわけじゃねえんだろう?」
 突然の質問に、ジョーがびくりと身を震わせた。だが、すぐさまきっと顔を上げ、はっきりと答える。
「はい、絶対に! 神父様は、小さな頃の僕を可愛がり、大切にしてくれたたった一人の人だったんです。恨むなんて…決してしてません!」
「それだけでも充分じゃないか。そんな大切な人を、島村クンが殺すはずがないよ!」
「さっきからうるせえぞ、ヒデ。…あのな、確かにそれは事実なんだろうさ。だが、その大切なはずの相手を…この世で一番愛しているはずの親を、子を、女房を亭主を、ほんの一瞬、カッとなっただけであっさり殺しちまうことがある―そんな生き物なんだよ、人間ってなぁ。俺らはその手の事件を山ほど見てきてる。これだけじゃ、無実の証拠になんてとてもならねえやな」
 深いため息。
「だが、殺し方ってやつには大雑把ながらセオリーってモンがあってよ。…おいヒデ、お前さっき本気で、俺を殺してでもこいつを逃がそうとしたろう」
 石原医師の顔が、たちまち真っ赤になる。
「あ、あれは…ごめん。でも、松っちゃんが島村クンを捕まえる、なんて言うから…」
「いいさ。別に怒ってるわけじゃねえ。ただ、そのときお前がひっつかんだのはこの灰皿だったよな」
 盆の真ん中に鎮座ましましている、ガラス製の大きな灰皿。すでにそれは松井警視の吸殻で一杯になりつつあったが、もしもの場合には充分凶器になりそうな大きさ、そして重さがある。
「それを見てもわかるように、カッとなってつい相手を殺しちまった場合、凶器は大抵、その場にある何かなんだ。確か、あのときの殺害現場は礼拝堂だったな。なあ、これは仮定だが…もしも…もしもだよ。お前さんが衝動的にあの神父を殺そうとしたとしたら…どうやって殺す?」
 一瞬、ジョーは言葉に詰まった。そんなこと…考えたこともない。だが、自分の無実を松井警視に信じてもらうために、もし、必要だというのなら。
 しばしの沈黙のあと、掠れた声でジョーは口を開いた。
「あの…飛びかかって首を絞めるとか、殴る…とか…」
「凶器を使うとしたら? 場所は礼拝堂だ」
 松井警視の質問は、あくまで冷静で、そっけない。
「…祭壇にある燭台とか、でなければ―」
 端正な顔が、苦しげに歪む。
「イエス様の…あるいはマリア様の像…とか…」
 幼い頃から教会で育てられたジョーにとって、イエス・キリストや聖母マリアの像で人を殺すなど、考えただけで辛いことなのだろう。最後まで言い切ることができず、その栗色の頭ががっくりとうなだれた。
 だが、松井警視はどこか満足そうに大きくうなづいて。
「その通りだ。あの礼拝堂の中にも、凶器になりそうなものはちゃんとあったんだよな。なのに、どーしてわざわざナイフなんか持ってきて刺し殺す? つまりこれは、衝動殺人じゃねぇ、計画殺人なんだ。ただ、残念ながらあのとき捜査に当たった連中は、お前さん以外に神父を殺そうとしていた奴がいたとは考えず、お前さんが嘘をついていたと思っちまったんだよ。だが、そうだとするともう一つ、矛盾点が出てきてな…。あれこれ質問して悪いが、当時のお前さんって金持ちだったか?」
 今度はまた、今までの話からはとんでもなくかけ離れた質問だ。うなだれていたジョーが、きょとんとした表情で顔を上げる。
「そんな、とんでもない! あのときの僕は、高校を卒業して、自分でアパートを借りて働き出したばかりで…家賃を払い、食べていくだけで精一杯でした。余分なお金なんて、一円も…なかった…」
 石原医師が、そっとジョーの手を握った。親の家から大学に通い、学生生活を存分に満喫していた自分に比べ、この少年はなんて苦労をしてきたのだろう。…正直、もうこの話をジョーに思い出させたくはなかった。だが、今この話を止めてはいけないことは、すでに彼にもわかっている。彼はただ、ちらりと目を上げて松井警視を見ただけだった。
 その松井警視は、相変わらず淡々と話を続ける。
「実は、凶器として押収されたナイフ、な―お前さんがしっかり握りしめていたやつだが―。見かけはごく普通の、どこにでも売ってる安物そっくりだったが、調べてみたらこれがとんでもないシロモノでよ。日本はおろか、どこの国が開発したものでもない特殊な合金でできてて、硬度といい切れ味といい、当時生産されていたどんな鋭利な刃物よりも桁外れに優れていた。鑑識の連中がびっくり仰天してたぜ。こんなもなァ、マル暴や外国マフィア、いや、自衛隊かどっかの軍隊とつながりのある奴でも絶対に手に入れられねぇ。特注で作らせるにしても、費用はおそらくン百万単位でかかるとよ」
 たかがナイフとはいえ、BGの刺客が持っていた武器だ。それも当然であろう。
「だから捜査本部は余計色めき立っちまったのよ。殺された神父、あるいはお前さんが、どっかの国から入り込んできた秘密工作員か何かとつながりがあるんじゃねぇかとな。…くだらねぇ妄想だ。だが、この世界にゃ平和ボケした日本人が考えつかないようなことを平気でやらかす国もある。当時は結構そっち方面で公安もばたついてた時期だったし、どんなばかげた可能性でも見過ごすわけにゃいかねぇと…」
「本当に…ばかげてるよ。そんな話…そんなことがもしありうるんなら、BGやサイボーグの話だって、信じてもらえそうものじゃないか。…そうだよ。俺だって、奴らにさらわれそうになったことがあるんだからな!」
 今度は、松井警視も石原医師を「うるさい」とたしなめようとはしなかった。
「本当に…その通りさ…。だが、得体の知れない悪の秘密組織なんかより、正体のわかっている仮想敵国の仕業だって話の方を簡単に信じちまう…サイボーグなんて、現代科学では作り出せるはずのない存在は信じなくても、前例のある技術なら簡単に信じちまう…そういう連中ばかりなんだよ、今のこの国の中枢にいるのは」
 忌々しげに大きく咳払いをした松井警視が、茶托から湯呑みを取り上げ、ごくりと飲み干す。しゃべり続けと煙草の吸いすぎでのどでも痛くなったのだろうか。
「ま、しかし今、手前ぇの国のデキの悪さを嘆いていたところでどうしようもねえ。質問、続けるぞ。…お前さんがその、サイボーグとかにされたとき、な。もともとの体格までいじくられたりはしなかったか? 横幅じゃなくて、縦の方だ。それまでえらいチビだったのにサイボーグになったら背が伸びてたとか、逆に、見上げるようなのっぽだったのに縮んでたとかいうこたぁねえか?」
 今度はまた、先の質問以上にわけがわからない。話題が完全にテレポーテーションしている。あっけにとられたジョーが、やがて小さく噴き出した。
「あはは…いくら何でも、そんなことはありませんよ。僕に限らず、仲間全員…体のサイズは生身の頃と全然変わっていないはずです。縦も横も、改造される前と寸分違いません。体重は…埋め込まれた機械の分、多少重くなっているけど」
 と。松井警視の大きな手のひらが、ジョーの頭の上にぽん、と置かれて。その栗色の髪を、くしゃくしゃっとかき回して。
「ほんの少しとはいえ、ようやく…笑ったな。よかったぜ。泣きそうになってるガキを苛めるのは、さすがの俺様でもあんまり気分のいいものじゃねえ」
「え…? じゃ、松井さん、今のは僕を笑わせるために…?」
「ばーか。いくら何でも、そこまでのボランティア精神はねえよ。これはある意味、一番大事なことなんだ。お前の背丈があのときのままなら…日本人男性の平均的身長よりほんの少し高めだよな。逆に、あの神父はやや低め―差はおよそ、五センチ前後ってトコか…」
 一人うなづき、松井警視はつと立ち上がった。そして、本棚に歩み寄って二、三冊の本を取り出す。どれも、かなりぶ厚い医学書や辞典ばかりだ。さらに、ジョーが返しに来た本をその中に加えて、床に積み上げる。
「おい。ちょっとここに乗っかってみろ。素のままじゃ俺の方がでかいからな、上げ底だ。それとヒデ、メモ用紙あるか? 裏に糊がついてて、どこにでもぺたぺた貼っつけられるやつだとありがてえ」
 うなづいた石原医師が、机の引き出しからメモパッドを取り出して松井警視に渡す。その一枚を破り取り、松井警視は自分の左胸にぺたりと貼り付けた。一方、積み上げた本の上ではジョーが不安げに彼らを見つめている。そのすぐ脇に並び、背比べをしてみればジョーの方が松井警視よりもまさに五センチ、高くなっていた。にんまりと笑った松井警視が、今度は石原医師の机から長さ二十センチほどの定規を持ってきて、ジョーに渡す。
「いいか。お前より五センチ背が低い人間の心臓の位置ってのは大体このメモ用紙のあたりだ。真似だけでいいから、その定規をナイフだと思って、ここに突き刺してみろ」
 おずおずとジョーはうなづき、本を重ねた小さな踏み台の上でやや腰を屈め、精一杯の戦闘態勢を作って手の中の定規をゆっくりと突き出す。その先端が胸元のメモ用紙に触れた途端、松井警視の手がジョーの手首をがっちりと押さえ込んだ。
「よし、そのまま! 動かすなよ。…ふ…ふん…。やっぱりな」
 それまで黙って様子を見ていた石原医師が、小さく叫んだ。
「あ…! まさか…!」
「おう。そのまさかだ。だが、その前に最後の質問な。お前さんが倒したBGとやらの刺客…神父殺しの真犯人の背丈ってのはどれくらいだった? お前さんより、でかかったか? それとも、小っこかったか?」
 すでにジョーも松井警視の意図を察していたのだろう。すぐさま、きっぱりとした声が返ってきた。
「かなり、小柄でした。僕より少なくとも十二〜三センチは低かったはずです!」
「よし! ドンピシャリだ!」
 松井警視が盛大に手を叩き、再びどかりと床に腰を下ろした。
「松っちゃん! 松っちゃんが確かめようとしたのは、刺傷の角度だったんだな!」
 石原医師の言葉に、松井警視は大きくうなづいて。
「おうよ。自分と同じくらいの背丈の相手、その心臓を刺した場合、凶器は水平よりやや上向きの角度で突き刺さることになる。だが、犯人が被害者よりもでかい、あるいは小っこかった場合には…」
「当然、角度は変わる!」
「ああ。検死の結果、神父の心臓を一突きにした凶器の挿入角度から計算して、犯人の身長は被害者よりも八〜九センチ低かったって報告がきてるんだ。もちろん、偽装することも不可能じゃないが…もしこいつが犯人なら、それは一時の興奮による衝動殺人なんだろ? カッとなった頭で、そこまで周到に考えられる奴はほとんどいねぇよ」
「じゃあ、松っちゃんは島村クンの無実を…?」
「ああ。『以前から神父を恨んでたなんてことは決してなかった』…その言葉を信じるくらいには、俺もこの青少年を知ってるつもりだぜ」
「松井さん!」
 積み上げた本から下りたジョーが、へたへたと膝をついた。その肩を、石原医師が何度も叩き、やがてがっちりと抱きしめる。その様子を横目で見ながら、松井警視は独り言のようにつぶやいた。
「よォし…これなら一発、勝負してみる価値はありそうだな…サイコロがどっちに転ぶかはさすがの俺にもまだわからんが…松井元人、一世一代の大バクチ、張らせていただくか」
 一人うなづいたその手が、シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出す。そして、瞬時のうちに呼び出した一連の番号。
「…あ、森村か? 松井だ。久々に一杯やらねぇか。…ちょいと、話してぇことがあってよ。…ああ。今日でも明日でもいい。お前の都合がつき次第、できるだけ早く顔貸せや」
 短い会話を終え、電話を切って。
「今夜、森村と飲んで話をしてみる。…だが、この先どうなるかは保証できねえ。あまり期待しないで、待っててくれ」
 言葉とは裏腹に、二人を振り返った松井警視の顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。

 


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