君の昔を 3


 K県警M署署長、森村和也警視は、その夜の待ち合わせ場所に五分ほど早く到着していた。場所は、営団地下鉄赤坂駅。いわずと知れた繁華街だが、ここは駅ビルが丸ごとファッションブティックになっているおかげで、背広姿の男たちだけでなく華やかに着飾った女たちの姿も多い。
(ちょっと早かったかな…まあ、いいや。松井さんも時間にルーズな方じゃないから、そんなに長く待たされることもないだろう)
 案の定、数分後に人ごみから松井警視が姿を現した。が、ノーネクタイのポロシャツにカジュアルジャケット、Gパンにスニーカーといったそのいでたちに、森村署長はほんの少し、目を丸くする。
「先輩…! もしかして今日は、非番だったんですか? なのに僕を誘って下さるなんて、恐縮です」
 最敬礼する森村署長の背中を、松井警視が豪快に叩いた。
「そんな、しゃっちょこばるなよ。俺がちょいと、お前と飲みたくなっただけだ。さ、行こうぜ。場所は『夢亜』だ。マスターには、もう連絡してある」
 「夢亜」という名前を聞いて、森村署長の表情が一瞬、引き締まる。繁華街の路地裏にひっそりと開いている小さなその店は、彼らだけの秘密の隠れ家。何と言ってもマスターの口がえらく固いのがいい。元は警察関係者…どころか大学紛争華やかなりし時代にはゲバ棒振り回してさんざん警察に手を焼かせたクチらしいが、その人柄を大いに見込んだ二人は、仕事上であれプライベートであれ、他人に聞かれたくない話をするときには必ずこの店を利用しているのだ。
「まさか、先輩…?」
 訝しげな視線に、松井警視は軽くうなづいて。
「ああ。そんなトコだ。だが、とにかく店に入っちまおう。話はそれからだ」

「いらっしゃいませ」
 店に入れば、カウンターの向こうからマスターが頭を下げる。
「おう。また二人で飲みに来たぜ。いつものやつ、頼むわ」
 言いながら店の隅、カウンターの一番奥に陣取れば、さっと出されるおしぼりと突き出し。そして、ちょうど手を拭き終わったと同時に、二人のお気に入り―フォア・ローゼスとフィンランディアのグラスがそれぞれの前に音もなく置かれる。
「今夜は、例の常連さんはいねえのかい? ほれ、ムラさんとか健ちゃんとか英さんとかはよ」
 さり気なく探りを入れた松井警視に、マスターが微笑んだ。
「皆さんがおいでになるのは八時を過ぎてからですよ」
「そうか…この店の正式な開店時刻は八時だもんな…いつも、無理言ってすまねえ」
「いえ、どうぞお気遣いなく」
 実は、二人が秘密の話をする場所にこの店を選ぶ、もう一つの大きな理由がこれなのであった。前もって連絡さえしておけば、マスターはいつでも、二人だけのために開店時間を一時間、早めてくれる。
「ただ、万が一ということがありますからBGMを少し大きめにかけておきましょう。ジャズでよろしいですか?」
 こう言ってくれるのももちろん、二人の話を誰にも聞かれないようにという配慮だ。
「おう。適当にみつくろってくれ」
「先輩、そんな…つまみ頼むんじゃないんですから」
「だって俺、音楽なんてわかんねぇしよ。それともお前、他にリクエストでもあるのか」
「いえ、僕は別に…」
「だったら黙ってろ」
 たちまち漫才を始める二人を尻目に、マスターがすとその場を離れ、背後の棚の一角に備えつけられているオーディオセットを操作し始めた。流れ出す音楽を確認すると、そのまま反対側の端に引っ込み、グラスや他の食器の準備を始める。もう、二人の方はちらりとも見ない。
 そこでようやく、松井警視が森村署長に向き直った。
「今日お前を呼び出したのは他でもねぇ。例の、教会放火殺人のホンボシがわかったぜ。九分九厘、確実に信用できる筋からの情報だ」
「何ですってぇ!?」
 店中に響く大声に、森村署長が慌てて自分の口を塞ぐ。それにうなづきかける松井警視の表情は、硬い。
「ただ…ちょいと事情があって、ネタ元はたとえお前といえども教えられねえ。それに、これを公けにするのはかなり…難しいぞ。それでもよけりゃ、話してやる」
 もちろん、森村署長に異存があるわけがない。いまだ口を押さえたまま、何度も大きくうなづくのを認めた松井警視は声を落とし―慎重に言葉を選びながら、ついさっきジョーから聞いたばかりの話を語り始めた。
 初めのうちこそ目を輝かせて聞き入っていた森村署長だったが、やがてその表情は曇り始め、全ての話が終ったときには頭を抱えてカウンターの上に突っ伏してしまっていた。もちろん松井警視も、サイボーグたちの存在までは話していない。BGについても、「いまだどこの捜査網にも引っかかっていない悪質な犯罪組織」としか言わなかったし、真犯人についても、あの―0013が東京湾に現れた騒ぎの所為で命を落としたということにしておいた。BGと00ナンバーたちとの戦いは、日本の法律でどうこう裁ける筋のものではない。
しかし、それでも…。
「何てこった…。それじゃ結局、どうにもならないってことですか!? せっかくあの少年の冤罪を晴らせると思ったのに、真犯人も死亡だなんて…それも、東京湾のあの怪物騒ぎに巻き込まれちまったんじゃ、どこのどいつだったか調べることもまず無理ですよ! あのときの犠牲者のうち、身元不明の人間はまだ、三百人以上いるんですから!」
「どうやらそれも、例の『悪質な犯罪組織』の仕業らしいぜ。しかもホンボシは、その組織の一員だったらしいって情報もある」
「…それ、全然慰めになってません。あの怪物騒ぎは、問題の事件よりもさらにわけのわからないヤマとして、警察庁・公安委員会・防衛庁・外務省その他で口裏合わせて『臭いものにはフタ』、どっかのテロリストの仕業ってことで事実上、封印されちまってるじゃないですか! 先輩だって知ってるでしょうに…。あんなモンまでわざわざ蒸し返そうとしたひにゃ、少年Aの冤罪を晴らすどころか、僕たちの方が二人揃ってクビですよ!」
「…でなきゃ、関係省庁の偉いサンたちが何人か発狂するかもな」
「その冗談も、全然笑えませんッ!」
 森村署長の絶叫を最後に、二人の間に落ちたのは重苦しい沈黙。BGMにしてはややうるさいくらいのジャズが響き渡る中、時計の針と、二人の酒の量だけがどんどん進んで行って―。
 ついに八時まであと十分となったところで、松井警視が再度、口を開いた。
「なあ、森村…。もしもの話、あの怪物騒ぎは無視して教会殺人事件の真犯人としてだけ、ホンボシを告発できるかもしれねえ、っつーたら、お前、ひとくち乗るか?」
 思いがけない言葉に、森村署長がはっと顔を上げる。
「言っとくが、少々危ねぇ橋を渡ることになるぞ。ドジったら、俺たち二人は間違いなく懲戒免職、ヘタすりゃ実刑だ。ついでに、最低でもあと一人…いや、警察に一人、民間人に一人の協力者が必要だが…。そっちは心当たりがあるから、お前が乗ってくれるんなら俺が渡りをつける。どうだ?」
 森村署長は、すぐには答えなかった。何と言っても彼は(本当は松井警視もなのだが)キャリア、警察庁の超エリートである。「懲戒免職」だの「実刑」だのという物騒な単語が出てきては、躊躇うのも当然であろう。
 そして、八時五分前。
「本当に…そのネタ、信用できるんですね?」
 目の前のグラスをじっと見つめた森村署長の、独り言のようなつぶやき。
「ああ。さっき九分九厘、と言ったが、俺としては正直、百パーセント間違いねえと思ってる。あとは、お前がどれだけ俺の人を見る目を信用してくれるかどうかだ」
「まさか、そのネタ元ってのは…行方不明の『少年A』…?」
「それはバラせねえって言ったろ」
 わざと冷たく、松井警視ははねつけた。
「…こっちの質問には答えてくれないで、『俺を信じろ』ですか…」
深いため息をついた森村署長がグラスを取り上げ、一息にあおった。松井警視は、もう何も言わない。
 だが。
「わかりました。その話、乗りましょう」
 きっぱりと言い切った森村署長の目には、もう迷いはなかった。
「無実の人間…それも未成年に、殺人犯の濡れ衣を着せたままにしておくわけにはいきません。彼が今、生きていても死んでいても…真実を明らかにしてやるのが警察官の義務ですから」
 頼もしい言葉を聞いて、松井警視が、満面の笑顔になる。
「よっしゃ! それでこそ俺の見込んだ後輩だ。さ、もう一回乾杯しようぜ!」
 すかさずマスターが持ってきてくれた二つの新しいグラスが高く差し上げられ、小さくぶつかって澄んだ音を立てた。

 腹はくくった。あとは一か八か、勝負に出るだけである。そうとなればかえって気も楽になるというもの、そのあとの二人の「飲み会」はどんどん盛り上がって行った。
 すでに八時も過ぎ、この店の「常連」とやらもちらほら顔を見せ始めたが、誰も皆かなり礼儀正しいと見えて、店に入ってきたときに軽く会釈を送ってきたきり、無闇やたらに声をかけてきたりはしない。そのくせ、彼らは彼らで勝手に目一杯騒いでくれたので、もうBGMの必要もなかった。松井警視も森村署長も、だいぶいい気持ちになりかけた頃。
「ね、先輩。もしよかったら、その『警察の協力者』ってのだけ、教えて下さいよ。一体、誰に頼む気なんです? 僕も知っている人ですか?」
 ちょっとふざけて手を合わせたりしても、声のトーンが一段低くなっているのはまだ充分理性が残っている証拠。松井警視は、そんな森村署長を満足げに見やった。
「よーし、そこまで言うなら教えてやる。俺がこの前応援に行った先の女刑事に月野ってのがいたんだが…階級は確か、イタチョウ(刑事巡査部長)だったかな。そいつがよ、今回の件にはぴったりの人材なんだ。何と言っても高校時代ずっと美術部で、三年の時には畏れ多くも部長までやっていらっしゃる。あ、同人誌なんかもやってたって言ってたな」
「はぁ? 高校時代? 美術部の部長? 同人誌?」
 頭の上に巨大なクエスチョンマークを出現させた森村署長に、松井警視は悪戯っぽく笑って見せた。
「ま、そのあたりはいずれ、嫌でもわかってくらあ。それに、彼女が適任だって理由はそれだけじゃねぇ。実はそいつ、今でこそ生活安全課にいるが、その昔は少年課でな。しかも、私生活では五人のガキの肝っ玉母ちゃんだ。つまり、筋金入りの子供好きで、ガキ絡みの事件となると目の色変わっちまう女なのさ。も、執念と言うか何と言うか…ここだけの話、彼女は三年前に警視総監賞取ってるんだが、その理由が何だったと思う? レストランで拳銃振り回し、ガキ人質にして立てこもったヤク中の男をよ、たった一人、丸腰で取り押さえちまったからだぜ。もちろん、ガキは無事さ。だから、そこの署じゃいまだに、ガキが関係してる事件があると必ず月野を応援にまわすんだ。その手の事件を追ってるときの彼女ときたら、そのものずばりの鬼女、般若だからな」
「うわ…すごい人なんですねぇ…」
 森村署長はいささか度肝を抜かれたようだ。必死に微笑んだ頬のあたりに、一筋の冷汗が流れている。
「おまけに、そこには極秘の署長命令ってのがあってよ…曰く、『未成年、特に幼児が殺傷された事件の捜査に月野巡査部長が参加していたとしても、決して犯人逮捕に同行させてはならない。万が一、不幸にも彼女がそのような場に居合わせた場合、他の捜査員は全力を尽くして"犯人の"生命を死守すること』。…噂によると、先代の署長が口頭で管理職全員に申し渡した指示らしいが、あの署では今や内規同然、死んでも破っちゃいけねえ鉄の掟になってるらしいぜ。…ま、要は、いたいけなガキを傷つけたり殺したりするような奴はその場でブチ殺すってモットーを平気で実行しかねない女だってことだぁな。今回の件だってよ、いくら護送中逃亡したからとはいえ、まだ十八のガキんちょを切り立った絶壁から海に飛び込ませるまで追いつめて、そのまま生死不明で頬っかぶり、しかもそれが冤罪だったなんてバレたら、署長のお前を筆頭にM署全員、冗談抜きで血祭りに上げられるぜ」
「そっ…そんなあああっ!」
 森村署長が悲鳴を上げた。
「だって僕は…っ! 今こうして彼の無実を晴らそうと必死になっているんですよ!? それに、あの事件に関係したのは署員のうちのほんの一部です! 無関係の署員だって…いや、捜査とも関係のない事務系の人間だって、うちにはたくさんいるんですからっ!!」
 だが、松井警視は口をへの字に曲げたまま、難しい顔でちっちっちっ、と舌打ちをしながら人差し指を立て、二、三度横に振っただけだった。
「あのな…『ランボー』とか『ターミネーター』の主人公が、一々相手方の弁明聞いて情状酌量するなんて思うか? お前」
 森村署長が顔面蒼白になった。さっきとは別の意味で、この話に乗ってしまったことを深く後悔している面持ちである。そこへ、松井警視のさらなる追い討ちが飛んだ。
「もしものときにゃ、香典、五千でいいか?」
 だが、その言葉への返事はさすがに松井警視が見込んだ男に恥じないものであった(…?)。
「そんなっ! せめて、一万は下さいよっ。僕は去年結婚したばかりで…しかも、次の春には初めての子供が生まれるんですからっ!」
「おーし、よく言った! メモしておいてやろう。森村和也、二階級特進のあかつきには香典十万、カミさんと生まれてくる子供の面倒は不肖この松井元人が責任持って見ること…ってな」
 今や涙目になった森村署長の恨めしげな視線を浴びながら、松井警視はいかにも楽しそうな笑い声を上げた。

 


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