スカール様の憂鬱 〜決算編〜 5


 結局スカール様はその日一日、パピに吠えられ、怒鳴られ、威嚇されつつ黙々とハードなデスクワークをこなす羽目に陥ってしまわれたのでした。せめてもの救いはこの腹黒いワン公の悪知恵のおかげで、今月決算の直営会社全社の経営方針がしっかりと固まったことくらいでしょうか。ですが全てのお仕事を終えられ、自室に引き取られたときのスカール様は、もうそんなことなどどうでもいいくらい、へとへとに疲れきっていらっしゃったのでした。
 今にも床に倒れこんでそのまま眠ってしまいそうなご自分に懸命に活を入れ、気力の全てをふりしぼって歯を磨き、お寝間着に着替えられたスカール様。そしてようやくご自分のベッドにたどり着き、いざその中にもぐりこもうとなさったとき。
「…ん?」
 18世紀フランス宮廷にて一世を風靡した、かのロココ様式風天蓋つき豪華ベッドの隣にちょこんと置かれているドッグベッド(実はこれも某エル○スに特注して作らせた超高級品、しかも敷きつめられた極上クッションの上にはスカール様のお下がり、「とっとこハ○太郎」のタオルがシーツ代わりにしっかりとかけられていたりする)、いつもならスカール様がお休みになるときには必ず一緒にそこで丸まっているはずの小さな姿がどこにも見えません。
 スカール様のドクロ仮面が一瞬にして真っ青になられました。
「パ…パピッ! パピ坊っ! どこへ行ったあああぁぁぁっ!」
 慌てて周囲を見渡してご覧になれば、お部屋のドアの真ん前で、申し訳なさそうにしょんぼりとうずくまり、うなだれたチビ犬の姿。
 疲れも眠気も何のその、たちまちスカール様はそちらへ駆け寄っておいでになります。
「パピ坊…一体今夜はどうしたのだ。お前も今日はさぞ疲れただろうし、早く休もう。おかげで仕事が思いのほか早く片づいたから、明日は存分にお前と遊んでやることができるぞ。なのにいつまでも夜更かししてたら、朝起きられんじゃないか。さ、こっちへおいで」
 スカール様の犬バカもここまで来れば大したものでございます。昼間あれだけ吠えられ、怒鳴られ、クソミソに罵られたご記憶はすでにその聡明なおつむりの中からは消え去ってしまったとでもいうのでしょうか。…これではまるで宿敵00ナンバー中最強といわれているあの犬バカ青少年とほとんど変わりがございません。
 まぁ、どんな偉人にも必ず一つや二つの泣き所はあるもの、今ここでスカール様の犬バカぶりを非難することは決して作者の本意ではございませんので、とりあえず今のところはこれこそスカール様の隠れたお優しさ、寛大なお心の発露ということにしておきましょう。
 ですがそんな誠心誠意の慰めも、パピのデカ耳にはまるで入っていないようで。
「ご主人様…」
 ようやくスカール様を見上げたその黒い瞳には、あろうことか大粒の涙が浮かんでいたのです。
「どうしたっ! 何故泣く、パピ坊っ! も…もしかしてどこか具合でも悪いのかっ! どこだっ! 痛いのは頭か…? それとも腹か…? 正直に俺に言ってみろっ。…いや、それより獣医が先かっ!」
「違うの…ご主人様…」
 消え入りそうなその声に、スカール様は再びチビ犬に視線を戻されます。
「あんね…。ボク、今日はご主人様に滅茶苦茶失礼なことしちゃったでしょ? ごめんなさいでち。…ボク、ご主人様の会社にできるだけ利益を上げてもらいたくて…ご主人様の野望が一日も早く達成できるようになってほしくて…。でも、あんな失礼なことをやったボクなんて、きっとご主人様は嫌いになっちゃったでちよね…。だからボク、今日を限りにおいとまさせて頂きまち。…長い間、お世話になりまちた…」
 よりにもよってこのワン公の口からこんなしおらしい言葉が出てくるなどとは、さすがのスカール様にも思いもつかぬことでございました。一瞬あっけに取られたものの、その内容がじんわりと脳裏に広がっていくにつれて、スカール様のお心の中には何とも言えぬ怒りがむらむらとわきあがってきたのでございます。
「ば…っ! ばっかもおおおぉぉぉーんっ!」
 TVドラマなどでしたらここでビンタの一つも飛ぶところ。しかししょんぼりとうなだれているパピに暴力を振るうなど、スカール様にはとてもできない相談でございます(第一スカ様のビンタなんぞ喰らったら一発でこのチビ犬昇天すること間違いなしだし)。
「な…何故そんなことを言うのだ! 俺が…俺がお前にいつ出て行けと言った!? いつ、お前が嫌いだと言ったのだっ! むしろ俺はお前に感謝しているぞ。お前の助言があったからこそ、あれだけの仕事が今日一日で片付いたのではないかっ。こんな可愛いパピ坊を俺は絶対離しはせんぞっ! 『おいとま』なんて決して許さんっ! どうしても出て行くというのなら、この俺の屍を越えて行けえええぇぇっ!」
 いくら何でもそこまで言うか、とついついツッコミを入れたくなるようなこの異次元の世界…どこかで見たような気がするのは作者の錯覚でございましょうか。…いいえいいえ、違います。思い起こせば先の「確定申告編」にて、スカール様が横山くん相手に演じた目も潰れるほどに気高い「上司と部下との理想的な姿」…これぞその再来でなくて何でございましょう。いえむしろあれ以上にベタで濃ゆい、傍で見ている分には恥ずかしさのあまりトンズラこきたくなるようなこの光景こそ、人間と動物との理想的な相互理解と信頼の一形態、心と心の固い結びつきを象徴する、神々しいまでに美しい情景ではないでしょうか(…お前、そこまで言ってよく歯が浮かんな→自分)。
 さすがのパピも耐え切れなくなったのか(←だから、違うからっ)、いえいえ、感極まってそのほっそりした前脚に全身の力を込め、その愛情豊かな主人にすがりつきます。
「ご…ご主人様…っ!」
「パピ…っ! おお、パピ坊よ…っ!」
 しばし抱き合い、感動の涙を流しあった挙句、ようやくこの人騒がせな主人と犬はご機嫌よく、それぞれのベッドに入ることにしたのでございました(…あー、なんだかこっちがえれー疲れた→作者の本音)。
「…じゃ、お休みなさいでち、ご主人様。今日はホントに、いろいろごめんちゃいでした」
「んーもう、だからっ! そんなこと気にしなくていーんだってばよぉ、パピ坊っ。…それよりお前、お休みのご挨拶が違ってるでしょ。二人っきりになったときは『ご主人様』なんて呼んじゃいけないと、何度も言っただろーがっ」
「えー? …でも、恥ずかしいでちよぉ」
「そんな、今さら恥ずかしがることもあるまいに。苦しゅうない、呼んでみろ、パピ坊よ」
「うーん…」
 恥ずかしがってもじもじするチビ犬に迫るスカール様。何だかちょっとアブない雰囲気になりかけて参りましたが、先の場面で全精力を使い果たした作者には今さらこのバカ主人とバカ犬の弁護をする気力体力などこれっぽっちも残っておりません。
 そんな、状況描写を完全に放棄した作者になんぞお構いなく、パピは一生懸命声をふりしぼり、やっとの思いでスカール様に申し上げます。
「…じゃ、お休みなさいでち。…ゃん」
「ん〜? 声が小さいぞ。もそっと大きな声で言ってみろ」
「…うちゃん」
「まだ小さいなぁ」
 これも一種の恥○プレイというものでございましょうか(おいお前、言うに事欠いて一体何言い出すんだっ! 表だぞ→自分)。…なんて考える作者こそが多分一番の大バカなんでちよっ(←パピによる補足)。
 ああもう、これ以上呆けていてはあのチビ犬に作者の座さえ奪われかねないっ!
 もうこんな話は手っ取り早く片付けてしまうことに致しましょう。そう、さっきからパピが言いたくても言えなかった、嬉し恥ずかしその言葉とはずばり!
「…お父ちゃん」
 この一言だったのでございました。
 パピのこの言葉を聞くや、スカール様のお目には新たな涙が溢れ出します。
「おお…っ! おお、パピ坊! よくぞ言った! それなら勇気を出してもう一度っ」
「お父ちゃん」
「もう一度っ」
「お父ちゃんっ!」
「ふおおおおおぉぉぉ…っ! もう一度っ!」(めんどくさいので以下略)
 求めていた言葉を愛犬の口からさんざん言わせたスカール様、感極まってドッグベッドからパピを抱き上げ、思いっきり頬ずりなさいます。
「ああ…よく言ったぞ、パピ坊よ。ご褒美に明日は父ちゃんが特製の肉野菜スープを作ってやろうなぁ」
「本当? ボク、お父ちゃんのスープ大好きでち。ベーコンとキャベツとおじゃが、たくさん入れてちょうだいねっ」
「おう、それからお前の好きなニンジンも忘れずにな。どれもこれもとろとろに柔らかくなるまでしっかり煮込んでやるから、ちゃんと全部食べるんだぞ」
「お父ちゃんのスープだったらボク、いくらでも食べまちよ。だって、とってもおいちいんだもん(はあと)」
 最後にお顔をぺろん、と舐められてすっかり目じりを下げたスカール様、そこでようやく明かりを消して、今度こそ心安らかにお休みになったのでした。
 その隣のドッグベッドではパピもまた然り…のはずだったのですが、あれ?

 スカール様がお休みになったのを確かめ、むくりと身体を起こしたパピが、ドッグベッドの上にきちんとお座りをして、何やらお祈りでもするかのように目を閉じ、静かに頭を垂れております。そして、心の中でそっとこう、つぶやいたのでございました。
(ママ…おかげさまでボクは今でも幸福に暮らしてまちよ…。これもみんな、ママにいろんなことを教えてもらってたからでち。…あんがとね)
 考えてみれば、前の飼い主は最後の最後までパピのことを心配していたのでした。
(ああ…もしママがいなくなっちゃったら、パピは一体どうなっちゃうんだろうね。この国はいっちょ前に先進国ヅラこいてるくせして、動物保護にかけてはまだまだ発展途上の後進国もいいとこ、飼い主なくした犬なんて、即刻保健所行きになっちゃうよ…)
 そういってため息をついていたママの哀しそうな顔を思い出すたび、パピの目にも自然と涙が浮かんできます。しかし…
(もしもそんなことになったら、お前は自力で次の飼い主さんを探すんだよ。少なくともお前の外見だけはぬいぐるみのように可愛いから、タイミングと演出さえ間違えなければいくらでもそのへんのお人よしをひっかけることができるからね)
 あんなしみじみとした台詞のあとに平気でこんなことをほざくなど、やはりこの飼い主、只者ではなかったのでございましょう。
(…できれば、適当に悪人ぶってる奴がひっかかってくれるといいねぇ…自称悪人っていうのは、人を騙すことはあっても自分が騙されることは決してないと思っているから意外と手玉に取りやすいしさ。特に、世界征服を企んでたりするような身の程知らずの大バカなら最高なんだけど。そんな奴なら絶対裏経済にも手ェ出してるだろうから、そのあたりについてもちょっと助言してやればいっそう重宝がられて大事にされること間違いなし! そっち方面の裏ワザはママがしっかり教えてあげたし、今のお前なら一流企業の経理課長、いや、経理部長だって務まるよ。それと、もし相手がお前の知識について行けなくてヘソを曲げたりした場合の対処も忘れてないだろうね。そんな時にはとにかく泣いて謝って同情を引く、これで完璧!)
 人間性にはかなり問題のある飼い主ではありましたが、ひとりぽっちになってしまったパピが出会うであろうあらゆる困難を想定し、その対応策をきちんと教えていってくれたその気配り、行き届いた愛情だけは本物だったのでございましょう。
(…だけどこのご時世にそんなアホなこと考える誇大妄想狂がそうそういるとは思えないし、これはママの贅沢かもしれないなぁ)
 言いつつ苦笑していた懐かしいママの声がいつまでもいつまでもパピのデカ耳の奥にこだまします。しかし、その後のパピがまさにママが願った通りの飼い主―このご時世にそうそういるはずのない誇大妄想狂の大バカ―に巡り会えたというのは、いわゆる一つの奇跡というものでございましょう。…もしかしたらママは今でもパピのそばにいて、大事に大事に守っていてくれているのかもしれません。そう思うと何ともいえない敬虔な気持ちになってしまうパピなのでした。
 ですが、それはそれとして。
(ねぇママ…それにちてもボク、「世界征服を企む悪の大組織」の親玉があの程度の人間だったなんて思ってもいなかったでちよ…。世界各国に支部を持ってて傘下の企業は数千、直営企業も五百社あるなんて聞いたからちょっとは期待してたんでちけど…)
 そこでパピ、隣の超豪華ロココ調ベッドでぐっすりお休みになっているスカール様をちらりと見上げます。
(そりゃ、戦闘指揮に関してはどうだか知りまちぇんが、経営能力の方は…決算書類は穴だらけ、いざと言うときの危機管理意識まるでなし、ついでにワイロを贈るときの心得一つも知らないときちゃぁねぇ…)
 密やかなため息が、薄闇に包まれた寝室にひっそりと消えていきます。
(…でもママ。たとえバカでもこの人は心の底からボクを大事にしてくれてるでちよ。そうなりゃボクだって情が移りまち。こうなったらボクが全力でバックアップして、少なくとも裏経済の面では必ずこの人に全世界の覇権を握らせてみせますでち。ね、できまちよね、ママ…。何てったってボクは、ママが血と汗と涙で覚えた隠しワザの全てを受け継いだ、まぎれもないママの子でちものね…。ママ…ねぇママ…。聞こえてまちか?)
 そっと目を開けて薄闇を見上げたパピの目に、遠いどこかでにっこり笑ったママの顔が見えたような気が致しました。懐かしいその笑顔にパピも精一杯微笑み返し、そのままベッドの中で丸まります。
(ただ気になるのはこの人の…いえ、この組織の宿敵とやら言う「00」…ナンバーでちたっけ、ナンパでちたっけ…の存在でちね。どうやら随分昔からこことその人たちは宿命の戦いを繰り広げているらしいし…万が一こっちが負けちゃったときのことも考えておかなきゃいけないでちよね…)
 そんなことをつらつら考えているうちに、いつしかパピのお目々もゆっくりと閉じていきます。
(ま、そんなに心配することもないか…噂によるとあっちにはまだ若くて純真な、優しいお姉ちゃんもいるそうだし、このご主人様とタメ張るような超・超・超お人よしで犬バカのお兄ちゃんもいるらしいし…いざとなったら何も知らないふりしてそっちに飼ってもらえばすむことでちよね…。ただ…何だかとんでもなく知恵の回る、世界最凶の赤ちゃんとやらも…いる…そうでちが…それならそれでこちらも相手にとって不足はなし…ううん、むしろそんな赤ちゃんなら…ボクとはきっと…いい…お友達に…)
 このあたりからはもう、完全に夢の中。
 しばらくののち、お部屋の中にはスカール様とパピの健やかな寝息が静かに響いているばかりだったのです。





 で、最後に一つだけつけ加えさせて頂ければ。

「スカール様! ただ今戻りましたっ。日本国内直営企業全社、無事決算終了したでありますっ!」
「うむ、横山。ご苦労であった!」
「横山のお兄ちゃん! お帰りなさいでち!」

 無事出張から戻り、報告のため総裁執務室を訪れた横山くんが、割烹着姿で肉野菜スープをことこと煮込んでいるスカール様と、執務席にちょこんと座ってさまざまな書類を決裁しているパピの姿を見て、頭どころか全身からクエスチョンマークを盛大に飛び散らせつつその場に立ちすくんでしまったのは、それからきっかり一週間後のことだったのでございました…。

〈了〉

 


前ページへ   二次創作2に戻る   玉櫛笥に戻る