まあじゃんほうかいき 1


 そこには、一種異様な雰囲気が立ち込めていた。
 ギルモア邸地下研究室―いつもならギルモア博士とイワンの二人だけで黙々と作業しているはずのその場所に、今日は何故か白衣姿の老若男女が五人も集まり、壁面に埋め込まれた巨大なコンピューターディスプレイを食い入るように見つめている。それぞれの顔に浮かんだ真剣かつ厳しい表情はまさに「鬼気迫る」という形容がぴったりで、室内の空気を痛いほどに張りつめさせていた。しかし画面は先ほどからずっと沈黙したまま、ハードディスクへのアクセスを示す砂時計アイコンが焼きついたように居座っているのみ。
 そしてさんざん待たされた挙句ようやくディスプレイに浮かび上がってきたのは、無常にも「not found」という文字だけであった。
「やはり、だめか…」
 呻くようなギルモア博士のつぶやきとともに、全員ががっくりと肩を落とす。
「こうなってしまってはもう、どうしようもないのう…」
「うむ…とにもかくにも一度、バックアップディスクから全データを本体に戻そう。取捨選択はそれからまたやり直しじゃ。…うーん、しかしこりゃ大変な作業になるぞ。とてつもない時間のロスじゃ」
「せっかく、皆が忙しい合間を縫って集まってくれたというに…何てことじゃい!」
「ギルモア先生、コズミ先生! そんな、がっかりなさらないで下さい! 大丈夫ですよ、絶対。何てったって、これだけの皆さんが勢揃いしてるんですから。ちっとやそっとのことじゃびくともしませんよ!」
「石原君の言う通りです。これくらいのアクシデントは私どもにとってもよくあること。皆で力をあわせればどうということもございませんわ。ね、周」
「確かにね、聖。それに今回はどうせ泊り込みになるって覚悟してたことだし、これくらい何だってのよ」
 口々に言い合うその五人はといえば、そう。すでに皆様ご存知のギルモア博士、コズミ博士、島村周、藤蔭聖、石原秀之の面々である。ギルモア・コズミの両博士、そして00ナンバーの連中を仲立ちにいつしか知り合った親しい師弟あるいは友人同士、しかしその全員が一堂に会することなどめったにないこの頭脳集団が何故今ここに顔を揃えているのかというと―それはつまり、次のようなわけなのであった。

 冒頭でもちらりと述べたとおり、BGからの脱出以来、メンテナンスその他、00ナンバーたちが生きていくために必要不可欠な作業は全て、ギルモア博士とイワンだけでこなしていた。だが、そのあまりの激務を見かねたコズミ博士その他のブレインたちがいつしか一人、また一人と手伝いに加わるようになって―今はもう、この五人にイワンを加えた六人の完璧なサポート体制が確立している。これは、ギルモア博士とイワンにとっては願ってもないことだったといえよう。
 しかしそんな中、今年の十月に入って間もなく研究室のメインコンピューターにディスク容量オーバーの兆しが現れた。考えてみればこの中には改造当初からのメンバーたちのデータが全て入力されているのである。いかに数百、数千ギガの大容量を誇る超大型コンピューターといえども、いつしかそのハードディスクが一杯になってしまうのは仕方のないことであろう。
 ならばどうせバックアップも取ってあることだし、一度全データを整理・点検した上で、不要なものは思い切って皆削除してしまおう―。ギルモア博士のこの提案に、残る五人が全員一致で賛成したのは言うまでもない。そこで彼らは互いの都合を調整し、十月半ばの連休を利用して、一気にその作業を終らせてしまおうとしたのである。
 なのにその前日、イワンが珍しく少し熱を出してしまったのは予定外の出来事であった。だがそれはほんの微熱で―作業当日も、念のため朝のうちは安静にしているとしても、その後の経過次第では午後からの作業には参加できるかもしれないという程度のものだったので、誰もがついつい見過ごしてしまったのだが。
 いざデータ整理にとりかかった途端、いきなり研究室が停電に見舞われてしまったとくれば、それは不吉な前兆というものだったのかもしれない。

「それにしても、外の様子はどうなっておるんじゃろうか。まだ、風は…やまんのだろうかのぅ…」
 コズミ博士がため息混じりにつぶやいたのももっともである。一応、この停電は全て風のせい―いや、停電に限らずその他モロモロ、諸般の事情も含めた全てが―。

「みんな! 外の補強はあらかた終ったよ! 今、ジョーとピュンマが最後の仕上げにはいってる。全部終ったら、報告ついでにこっちへ顔出すってさ。…あ、電気ついたんだね、よかったぁ」
「補強ついでに吹っ飛んだパネルもちぎれたケーブルも、みんなきっちり補修しといたぜ。あれだけやっときゃ、もうめったなことじゃ壊れるこっちゃねぇ。だが、ヤバイな…例の台風、どうやらこのあたりを直撃しそうだぜ」
 クロウディア―もう一人、この顔ぶれには欠かせない銀髪の美少女が元気よく飛び込んできたのはともかくとして、その後ろから、小さな白い手に引っ張られるようにしてもう一人の友達―ただし、この場にはあまりふさわしくないというか、完全に畑違いというか―である警視庁管理官、松井元人警視が気さくなTシャツGパン姿…ただしその表情ばかりはえらくいかめしい仏頂面でやってきたというのも、全てはこれ皆、風―というか、台風のせい―だったりするのであった。





 そもそも、データ整理のために集まった連中はともかく、何故松井警視までもがギルモア邸を訪れたかというと―。
 話は、少々前に遡る。
 「台風の当たり年」と言われた今年は梅雨明け前から九月末に至るまで、やたらとたくさんの台風が発生し、しかもそのうちいくつかはしっかりとこの日本列島を直撃してくれたおかげで各地に甚大な被害が出たのはまだ、人々の記憶に新しいところである。
 もっとも東京近辺に限って言えばさほどの被害も出ず、ギルモア家関係者は皆、無事この夏を乗り切ったわけなのだが。
 被害が出なかったからといって、誰もがのほほんとしていたわけではない。

 あれは、いくつめの台風がやってきたときだっただろうか。確か、時期としては八月の終りか九月の初め頃だったはずなのだけれど―。
勤務を終えて帰宅途中の松井警視が自宅マンションの最寄り駅に着いた途端、駅前の大通りを区の広報車が盛大に喚き散らしながら通り過ぎていくのに出くわした。曰く、
「関東に接近中の台風の影響でS川が増水しています! ただ今消防及び警察が警戒に当たっていますが、付近の住民の皆さんは早めに避難の準備を…」
 最後まで聞く前に松井警視がS川に向かって走り出したのは言うまでもない。
 都内の中でも「下町」と呼ばれるこのあたりは標高が低い。かつて「海抜0メートル地帯」と呼ばれただけあって、ちょっと激しい雨が降っただけでたちまち川は増水、たとえ氾濫はまぬがれても付近の町が水浸しになる恐れは充分にあるのだ。
 それに警察署員が警戒に当たっているとなれば十中八九、それは馴染みのH署の面々…自分一人、家でのんびり台風の通過を待つなど、松井警視にできるはずがなかった。
 すでにかなりの強さとなっていた風雨の中、川沿いに張られたテント―緊急対策本部に駆けつけてみれば、果たして知った顔がずらずらぞろぞろ警戒に当たっている。うち一人が目敏く松井警視を見つけ、その目を真ん丸に見開いた。
「ま、松井警視殿…! どうして、こんなところに!」
「どーしたもこーしたもねぇだろっ! てめぇが生まれ育った町が危ねぇってのに、呑気に見物こいていられっか! ましてこんな大雨大風の中、ダチが総出で警戒に当たってるってぇのによ!」
「ダチ…? そ、それはもしかして、自分たちのことでありますか!?」
「ったりめーだ! 他に誰がいる! 俺も手伝うぜ! 土嚢運びでも危険区域への伝令でも何でもやってやらぁ! 遠慮なく言いつけてくれ!」
 感極まってそのままさっと敬礼し、硬直してしまった所轄署員。それで全てが了解済みとなった。
 かくしてその嵐の夜、松井警視は全身びしょ濡れになりながら、H署員たちとともに一晩中警戒に当たったわけだが―結果、運良くS川は氾濫をまぬがれ、付近の住宅地にも何の被害もなく済んだのであった。

 後日、警察署及び消防署の徹夜の警戒に深く感謝したご近所町内会から、「せめてもの御礼」としてささやかな差し入れがあったそうで―飛び入りで応援に加わった松井警視にもその一部が「おすそわけ」として届けられた。
「警察署としては当然のことをしたまで、そんな気遣いはご無用にと随分辞退したんですけどねぇ…」
 わざわざその「おすそわけ」をマンションまで運んできてくれた若い刑事が苦笑する。
「町内会の皆さんがこれまたえらい頑固で、最後には言い負かされちまったんスよ、ウチの署長。…結局、社会科見学で署にやってくる近所の小学生たちのおやつにするってことでありがたく頂戴し、内緒の話ながら署員連中もほんの少しずつ、おこぼれを頂きました。ですが警視殿は本庁勤務でいらっしゃいますし…」
 確かに、本庁の管理官が「三時のおやつに招かれた」なんて理由でのこのこ所轄署に出向けるはずもない。
「ですのでこちらは、署長以下署員全員からのお礼としてお持ち致しました! 何卒お収め下さい!」
 最後にびしりと敬礼され、松井警視も慌てて答礼を返す。そして、丁寧に礼を言って刑事を送り出した、そこまではいい。しかし、そのあとで…。
(…町内会にせよH署の連中にせよ、そのご好意はありがてぇんだけどな…)
 玄関先にどっかりと鎮座ましましている「おすそわけ」を見つめて小さなため息をもらす。
(一人住まいの独身男がダンボール一箱分のブドウもらって、どーしろってぇんだよ…)
 見るともなしに眺めてみれば、ダンボールの横にはでかでかと「長野県産 高級葡萄」の文字。長野といえば全国有数のブドウ生産地、要するに「ブランド品」というヤツだ。
 しかし、高級品だろうがブランド品だろうが、人間一人が食べられる量には限度というものがある。おまけにブドウは傷みやすい。
 だったら実家の家族に持って行ってやろうと早速受話器を取り上げれば短縮番号のボタン一発、呼び出し音を数える間もなく電話の向こうからは聞き慣れた妹の声が響いてきた。
「お、清美か? 俺だ、元人」
(まぁ、兄さん? 久しぶりじゃない! どうしてたのよ。お仕事…忙しかったの?)
 突然の電話に驚きながらも嬉しげに話し始めた妹の声が、本題に入った途端がらりと調子を変えた。
(え…ブドウ? あ…。ごめんなさい、兄さん。気持ちはとっても嬉しいんだけど、実はうちもついこの前、修治さんのご実家から…)
 妹の夫―自分から見れば義弟に当たる修治が、生産量日本一を誇る山梨県はブドウ農家の三男坊だったことを、そのときようやく松井警視は思い出したのであった。
 そして。自分の家が駄目なら幼なじみとばかりに石原医師宅に電話をかけたものの、あいにく結果は似たり寄ったり。
(ごめん、松っちゃん…。俺んちもさぁ、この間患者さんから梨一箱(ちなみにこの場合の「箱」とはダンボールより一回り大きい木箱だったそうだ)もらっちゃって、家族四人必死でそれ食いまくってる最中なんだよ)
 さすがは実りの秋。どこの家でもそれぞれに、自然の恵みをいやというほど堪能しているらしい。
「そうか…ん。ならいいんだ。突然変な電話かけて済まねぇ。…じゃ」
 こうなったら明日から当分、朝昼晩ブドウ食って暮らすか―と覚悟を決めて電話を切ろうとした松井警視の手が、突然の石原医師の叫びにふと止まった。
(ね、松っちゃん! だったらそれ、ギルモア先生のところに持って行ってあげたら? あそこ、今ちょうどピュンマさんが帰ってきてるんだ。この次の連休にはアルベルトさんも帰ってくるらしいし…きっとみんな、すごく喜んでくれるよ!)
「そうか、あそこがあったな! 助かった…。感謝だぜ、ヒデ!」
(松っちゃん、次の非番いつ? え? 連休? だったらちょうどいいや! 俺もそのときあっちへ行くんだ。よかったら、一緒に行こうよ)
 たちまち相談はまとまり、長野県産高級ブドウの嫁入り先も無事、決定したのであった…。

 そして連休初日、連れ立ってギルモア邸へと4WDワゴンを走らせる松井警視と石原医師。後部座席にはもちろん、あのブドウがしっかりと積み込まれている。
「それにしても松っちゃんが三連休取れたなんて珍しいね。何か用事でもあるの?」
「うんにゃ、そんなもなぁねぇさ。だが先月と先々月、ちょいと難しいヤマ抱えててほとんど休みなしだったのよ。で、その分の振替がちょいとたまってたからな」
「そうか…。確かに、いくら警察官とはいえたまには連休くらい取らなくちゃね。ただでさえ、普段の松っちゃんはちょっとばかり働きすぎなんだから」
「てやんでぇ。警察官ならこれくらい普通のこったい。それよかヒデ、お前こそ連休だってのにご苦労だな。泊まりになるかもしれねぇんだって?」
「うん、何しろあそこのコンピューターは容量が多いからね。全データの点検なんて、一日じゃ到底無理だろうし…でもそのせいで車まで出してもらって、かえって悪いことしちゃったかな。誘ったのはこっちの方なのに」
「そんなの業務上の都合ってヤツなんだから気にすんな。…ま、俺も連休中だからお前につき合って泊まってもいいんだけどよ、正直いつ何が起こるかわかんねぇし…てめぇの車持ってきてりゃ、緊急時にゃいつでもとんぼ返りできるしな」
「休みの日でも油断大敵、か…。やっぱ、松っちゃんの仕事の方が大変だよ」
 苦笑した石原医師が、ふと窓の外を見る。せっかくのドライブだというのに、残念ながら天気の方はあまりいいとは言えなかった。淡灰色の空低く、やや黒味を帯びた雲がかなりの速さで流れて行く。
「よりにもよって、この時期になってまたまた台風様のご来訪とはな」
 松井警視も、ハンドルを握りながら小さく肩をすくめた。そう、十月も半ば近くになったというのに、ここ数日、またもや新しい台風が日本に接近中だったのである。
「だけど、今度のヤツはそんなに勢力が強いわけでもないらしいから…雨もそんなに降ってないみたいだしね。ただ風が相当強いのと、コースがかなり関東寄りになってるのが気になるな。一応、今日一日くらいは大丈夫だろうけど」
「ま、何かあったらそんときゃそんときさ。あんまりあれこれ心配してるとハゲるぞ、ヒデ」
 幼なじみ同士の気の置けない会話を乗せて、無事ギルモア邸に到着した4WDワゴン。だがその時には風がかなり強くなっていて、さしもの大の男二人といえどもついつい不安げに眉をひそめたのであった。
 と―。
「あ、石原先生! 松井さんもようこそ!」
 突然頭上から声をかけられて、二人は飛び上がった。慌てて声の方を見上げれば、ジョーとピュンマが屋根の上から手を振っている。
「こんなところからすみません。台風が近づいてるみたいなんで、ピュンマと二人で屋根の補強をしてたんですよ」
 それを聞いた途端、松井警視の瞳がぱっと輝いた。
「お、そうか! だったら手伝うぜ! こう見えても俺ゃ大工のせがれだ、その手の仕事ならまかせとけ!」
「そ、そんな…。悪いですよ、いくら何でも…」
 たちまちしどろもどろになるジョーとピュンマにはお構いなしに、松井警視は屋根に立てかけられていた梯子に飛びつく。
「ちょ、ちょっと松っちゃん…」
「いいからいいから。それよりお前はさっさと研究室に行ってこい。他のみんなももう来てるはずなんだろ?」
 慌てて引きとめようとした石原医師が、小さなため息をついた。長いつき合いのこととて、こうなったらもう止められないことをよく知っているのであろう。
「島村クン、ピュンマさん! いいからこのバカも仲間に入れてやって下さぁい! 大工仕事は松っちゃんの趣味みたいなモンですから!」
 言うだけ言って、石原医師は小走りに家の中へと入る。そして、迎えに出てきたフランソワーズに松井警視からのブドウを手渡し、早速白衣に着替えて研究室へと駆けつけたのであった。
 


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