まあじゃんほうかいき 5


 クロウディアからことの次第を聞き、作業を終えるやいなや慌てふためいて研究室に駆けつけたジョーとピュンマ。
 だが研究室に一歩入った途端、彼らの表情がわずかに変わった。
 たとえ平和時とはいえ、戦士としての研ぎ澄まされたカンは決して鈍ることなどない。研究室中に漂う何とも言えない不穏かつ不気味な気配が瞬時のうちに二人の全身の皮膚をちりちりと総毛だたせ、得体の知れない危険の予感が体の奥底で必死の警戒警報を鳴り響かせる。
(ピュンマ…!)
(ジョー!)
 互いに脳波通信を交わすよりも早く、さっときびすを返して全速力で逃げにかかった青少年たち。しかし、それよりも藤蔭医師の方が早かった。
「うぎゃっ!」
「げっ!」
 白い手、細くて美しいその指が、一瞬ひらひらと優美に舞ったかと見るや、二人の身体はその場に硬直し、指先一本、動かすことができなくなってしまったのである。
「ごめんなさいねぇ。ちょっと『気』をいじらせてもらっちゃった。だって私たち、貴方たちがいなくなるとすごく困っちゃうんですもの」
 その顔に浮かんでいるのはあの、菩薩か慈母を思わせる微笑。だがその裏にはどんな魔物が巣食っていることやら。ジョーとピュンマの背筋に、ひんやりと冷たい汗が流れ落ちる。もちろん、その場にいる他の人々も完全に顔色を失い、声も出ない。
 そんな中でただ一人、異常にはしゃぎまくっているのはもちろん周であった。
「ナイス、聖っ! さすがだわぁ♪ ねぇねぇ、それも藤蔭のおうちに伝わる奥義?」
「ええ。代々伝わるいくつかの呪法陣の中で一番簡単な『所作封陣』ってやつよ。呪法陣はうちの従妹が得意でね。あの子だったらもっと高度な『夢封陣』や『闇封陣』なんかもお茶の子さいさいなんだけど、残念ながら私にできるのはこれだけ。でも、この場はとりあえずそれで充分でしょ。…じゃ、周。説得は貴女に任せた。タッチ」
「OK!」
 スポーツの試合における選手交代よろしく見事なハイタッチを決め、静かに一歩引き下がった藤蔭医師と、代わりに若者二人の脇にゆっくりと歩を進めた周。そのままジョーの頬に触れんばかりのところまで近づいた艶かしい紅色の唇が、えもいわれぬほど甘い―危険な誘いをささやきかける。
「ねぇ、ジョー。ちょっと相談があるんだけど」
「な…何、周」
 周の顔に浮かぶ、先ほどの藤蔭医師にも負けず劣らずの穏やかで優しい笑みがかえって怖い。ちら、と目だけを動かしてそっとピュンマの方を見れば、見つめ返した視線が「だめだジョー! 騙されるなっ」と必死に訴えかけてくる。
「実はさっきの停電でコンピューターがトラブっちゃってね、その修復作業をしてる間、私たち六人のうち四人が暇になっちゃったの。だからゲームでもして時間をつぶそうとしたんだけど、その話が出た途端、何故かクロウディアが逃げちゃって、メンバーが足りなくなっちゃったのよね。だから貴方たちが代わりに入ってくれるとすごく嬉しいんだけどなぁ」
 ゲームの相手―正直、もっととんでもないことを言われると覚悟していたのに、意外とおとなしい申し出である。しかしそれでも油断は禁物。ただのゲームにしては研究室内の雰囲気が異常すぎるし、おまけにこんな強硬手段まで使って誘うくらいだ、万が一承知などしてしまったらきっと、ロクでもない目に遭うに違いない。
「ゲームって…何のゲーム?」
 恐る恐る尋ねてみれば、周の微笑がさらに深くなる。
「麻雀よ、まあじゃん。四人一緒に楽しめるゲームといったらまずはこれでしょう」
 他にもポーカーとかセブンブリッジとかいろいろあるじゃないかっ! と言い返したい気持ちを懸命にこらえ、ジョーはできるだけ周を刺激しないように言葉を選ぶ。
「そ…それ、すごくいい考えだね…。でもごめん、周。僕…麻雀…知らないから…」
「そんなの気にしなくて大丈夫よ。貴方たち二人が入ってくれれば人数はちょうど五人。最初は誰かとペアになって教えてもらいながら参加すればいいじゃないの。確か、貴方の方は麻雀できるはずよね、八番目」
 くるりと振り向かれ、今度はピュンマがひくっとのどを鳴らす。一体、どこからバレたのかはわからないが、この不幸な青年は確かに麻雀を知っていたのだった。ずっと前、祖国ムアンバの復興支援に来てくれた日本のNGOのメンバーの中にセミプロ級の麻雀好きが一人交じっていて―休憩時間や休日のたびに誰彼構わず相手に引きずり込み、任期終了までの間にピュンマたちのチーム全員を大の麻雀好きに仕立て上げて行ったのである。彼が帰国する際記念に置いて行った麻雀牌は、今でもピュンマたち全員の宝物であった。
 だが、ジャングルを吹き抜ける緑の匂い一杯の風の中、ジェフやリタたちとのどかに楽しんでいた麻雀と、これから行われるであろう勝負が同じものであるわけがない。何と言ってもメンツのうち二人は周と藤蔭医師である。
「あ…うん、もちろん僕は麻雀、知ってるよ。だけどまだまだほんの初心者だから…他人に教えるのはちょっと…自信がないな…」
 テレパスである周に、できないなんて嘘をついても無駄なこと、だったらせめてジョーだけでも助けてやりたいと必死にそう言いつくろったピュンマだったが…。
「あらそうなの…。じゃ、ジョーの先生は別の人に頼みましょう。みんな、いいわよね」
「ええ、もちろんよ!」
 元気よく応えた藤蔭医師の周囲で、他の連中もおずおずとうなづく。にこやかな笑顔の中で何故か異常なほどに強い光を放つ鈍色の瞳でじろりとねめつけられては、他に取るべき道はない。
 だが、それを聞いた途端、ピュンマの中で何かのタガが外れた。
「そんなっ! それじゃあんまりジョーが可哀想だよっ! たとえ誰と組もうが、初めて麻雀覚えるときの相手がこんなとんでもないメンツだなんてっ!」
「とんでもないメンツ…?」
 しまったと思った時にはもう遅い。まして今は藤蔭医師に「所作封陣」とやらをかけられている身、とっさに自分の口元を押さえることもできない。わずかに残った血の気までもが一気に失せて、黒檀色から淡灰色に変わった頬をひくひくと痙攣させるピュンマに、再び周がじわりと近づいた。
「それって、具体的には誰のことかなぁ〜。怒らないから答えてごらん、八番目」
 満面に浮かんだあの微笑はそのままながら、凛と光る双眸の中にはいつしか殺気さえもが漂っている。気のせいか、その額にはくっきりと浮かぶ青筋すら見えた気がして、ピュンマは完全なるパニック状態に陥った。
「ご…っ、ごめん周! 今のはほんのちょっと口が滑っただけだよっ! あんまりジョーが気の毒で、つい本音が…いや、違う違うっ! あれはみんな、完全な冗談なんだっ! だから…うわ、目がマジだよ周…って、やめろっ! 頼むからそれ以上近づくなああぁぁぁっ!」
「あ…周っ! ピュンマだって決して悪気があったわけじゃないからっ! だからやめてっ! 第一、僕たちは今、身動きできないんだよっ!」
 その隣から絶叫するジョーの声にも耳を貸せばこそ、じりじりとピュンマに近づく周の全身からは、いつしか黒い陽炎のような怒りのオーラがゆらゆらと立ち昇っていた。
「ひえぇぇぇっ! た、助けてくれええぇぇぇっ!」
「ピュンマあああぁぁぁーっ!」
 再び二人の口から発せられた断末魔の絶叫。その甲高い声の下をかいくぐり、確かに聞こえた低い声。
「だから、怒らないって言ってるじゃないの…。さ、その心の中身をみんな吐き出してごらん、八番目!」
 今や周が軽く手をのばせば簡単にピュンマののど元をかき切ることができるだろう。もはやこれまで、と、ピュンマが覚悟の目を閉じた瞬間。
「おい、お嬢さん。…も、いー加減にしとけや。いくら何でも身動きできない相手をそこまでビビらせるってなぁフェアじゃねぇぜ」
 極めて礼儀正しく、しかしながら確固たる力をもって周の華奢な肩を押さえつけたのは―松井警視だった。
 今の今まで、彼もまたすっかり放心状態になってその場に立ちすくんでいたのは言うまでもない。だがその理由は他の連中とはちょっと違っていて―ジョーと周が瓜二つであることとか藤蔭医師の「先祖伝来の奥義」を目の当たりにした驚きにしか過ぎなかったから―身動きできない若者二人がこのままではどうなるかわからないと判断したと同時に、持ち前の正義感がむくむくと頭をもたげ、さしもの放心状態をも吹き飛ばしてしまったのであろう。その勇気はさすが警察官、並の人間とは精神力が違う…と賞賛されるべきものである反面、この魔女二人の正体を知らぬがゆえの無鉄砲というヤツだったりもして。
「…何よ貴方」
 かすかに眉をひそめて振り向いた周は、当然のことながらかなり気分を害した様子である。しかし松井警視とてびくとも怯むものではない。
「俺か? 俺ゃこれでも警察官の端くれだよ。ついでに言えば一応…そこで身動き取れなくなってあんたに脅迫されてる二人の知り合いっつーか、友達…だったりもするな」
「ほーぉ。警察官兼、この子たちの友達、ねぇ」
 すい、と細くなった鈍色の瞳。
「だったら全くの無関係とは言わないけれど、ちょっと今は引っ込んでてくれるかなぁ? これはあくまで家庭内の問題なんだから。いい? ここにいるジョーはまぎれもない私の家族、もう一方の青少年だって家族同様の存在には間違いないわ。私はそんな『家族』をちょっとした団欒の席に誘ってるだけ。警察にだろうが自衛隊にだろうが、文句つけられる筋合いはこれっぽっちもないと思うけどな。違う?」
「確かに仰せのとおりかもしれねぇ。そこまで瓜二つの顔見せつけられちゃ、誰だってお前さんがこの…島村のボーヤの姉貴か何かだってこたぁ認めざるをえんからな。だがいくら姉貴だろうが何だろうが、得体の知れねぇ手妻使って、自分とは別個の人間の自由奪った挙句無理矢理自分の意思に従わせようとしたら立派な『強要罪』が成立するんでぇ! ましてこのボーヤは未成年だぜ? もしご希望なら俗に言う児童虐待、『児童福祉法違反』も特別付録でつけてやるが、そこまでの覚悟はあるのかね、お嬢さん」
 こちらも負けじと目を細め、ドスのたっぷり効いた声で言い返した松井警視(ちなみに大抵の児童虐待は傷害罪あるいは過失致死罪、殺人罪が適用されるんだけど、この場合のジョーはかすり傷一つ負ってないし…。となれば「児童福祉法違反」を持ち出すしかないかもしれないな〜。いやいや、苦労するねぇ、松っちゃん…(涙)←作者)。普通ならそれだけで、どんなにしたたかな犯罪者連中でも完全に震え上がってその場にひれ伏すはずだったのだが―。
「あ、それ違う」
 あろうことか目の前の若い女は、あっさりとこうのたもうただけだった。
「貴方の認識、その第一歩から間違ってるわ。私はジョーの姉なんかじゃない。余計なことだけど、従姉とかそんなんでもない。あのね、私はこの子の祖母。そ・ぼ。つまり、お祖母ちゃんってことよ。他人に偉そうに説教するなら、少なくとも正確な事実関係を把握してからにするのね、ボーヤ」
「何いぃぃぃっ!?」
 挑発的なその言い草に、ついに松井警視もキレた。それもそのはず、松井警視と周の肉体年齢ははまぎれもなく同じくらいで―しかも周はそれより遥かに若く、そう、せいぜい二十代半ばにしか見えないときている。当然、自分よりかなり年下だと思っていた女が、自分と比べても「弟」としか思えない相手の「祖母」だなどという戯言をいけしゃあしゃあと口にするのを耳にしては、平常心を保てという方が無理であろう。
「おいあんた! 強要罪と児童福祉法違反だけじゃ足りなくて、虚偽申告罪までおまけにくっつけてほしいってのか? そろそろその達者なお口を閉じねぇと、俺にだって覚悟があるぞコラァ!」
 だがもちろん、周がそんな威嚇なんぞに怯むはずもない。
「残念ながら私が言ったことは全て真実よ。嘘だと思うなら他のみんなに―いえ、当のジョーに聞いてみればいいわ」
 勝ち誇ったように宣言されて、松井警視は反射的に幼なじみ―石原医師の方を振り向く。だが彼はただ黙ってうなづいただけ。それならばとジョー―いまだ理不尽にその自由を奪われている気の毒な被害者―に視線を移せば、すっかり顔を真っ赤にした少年が消え入りそうに、こう、つぶやいて―。
「す…すみません、松井さん…。でも、周の言ってることは本当…なんです。彼女は確かに僕の母の母…祖母に間違い…ありません…!」
 一瞬、松井警視の頭の中は真っ白になった。
 そりゃ、この家の連中とつき合うからには生半可な常識その他、一切の既成概念を捨て去らなくてはならないことはよく承知している。だからこそ先ほど、クロウディアが屋根の上に突然姿を現した件だとてとりあえずは受け容れることができたのだ。しかし、だからと言ってここまで常識外れな話を無条件に信じろなんて、一応にせよ形だけにせよ、まぎれもない一般人である松井警視にとってはそう簡単にできるわけがない。
 その狼狽を見逃さず、すかさず周が言葉を継ぐ。
「あ…言い忘れてたわ。別に貴方の揚げ足取る気はないけれど、児童福祉法で言う『児童』ってのは確か十八歳未満だったんじゃなかったかな〜。憚りながらうちのマゴはこれでもしっかり十八歳越えてるし、もう一方の青少年はさらに年上の二十二歳、立派な成人だもんねー。貴方がずらずら並べ立てた罪状のうち、虚偽申告罪及び児童福祉法違反についてはこれで完全に立件不可能よ。残念でした♪」
 ひとたび見つけた弱点ならば、一点集中、とことんまでそこを攻撃するのが戦士の基本。しかし、一般人相手にそこまで徹底的に叩き潰す必要があるのか、周よ…。
 しかしこのとき彼女が相手にしていたのはそんじょそこらの一般人ではない。困ったことに、この松井警視という男とて世間様の言う「一般人」の範疇からは大いにはみ出していることだけは折り紙つきの保証つきである。
「けっ! 告発三件のうち二件がポシャったからって、それが何だってんだ! いいか、例えこの二人が十八歳以上だろうが成人だろうが、ついでに百歩譲ってあんたがこのボーヤのバァさんだろうが何だろうが、てめぇのやってることは間違いなく強要罪、それだけは間違いねぇんだよ! このまま現行犯逮捕されるのが嫌なら、とっととこの二人を自由にしろってんだ! 麻雀やりたきゃ残りの三人でサンマでも何でもやりやがれ! わかったか、この跳ねっ返り!」
 思いがけない反撃に、さすがの周も一瞬はっとした表情になる。だが、次の瞬間その顔はさらなる闘志を満面にたたえ、ほっそりとした形のよい指が、いかにも嬉しそうにその袖を捲り上げるジェスチュアまでもして―。
「は…ん。まーだぎゃぁぎゃあ喚こうっての? 国家権力盾にして、どこまで人の家庭に土足で踏み込んでくる気? あのねぇ、これでも私、あの戦争もしっかり体験してるのよ! 国家の勝手な都合に振り回されて、家族の思想やらプライバシーやらにまで踏み込んでこられるのはもうたくさん! いい? 警察だろうが自衛隊だろうが、祖母とマゴとが楽しく遊んでいるのを国家に何やかや言われる筋合いはこれっぽっちもないって、さっきから何度言わせりゃ気がすむの! 学習能力がないのはそっちの勝手だけど、これ以上余計な手間かけさせないでよね!」
「へん、よく言うぜ。それのどこが『祖母とマゴとの楽しい遊び』だってんでぇ!」
 刻一刻と増していく険悪な雰囲気、止まることを知らない毒舌の応酬の中へ。
「あらだって、祖母と孫との楽しい会話なんて、どこでもこんなもんなんじゃないの?」
 突然飛んだ声の主はもちろん藤蔭医師。さすがの二人もはっとして振り返れば、美貌の女医はどこか遠い目をして―。
「周…貴女のその台詞、うちの死んだ祖母にそっくりよ。私もあのババァには小さな頃からどれほど弄ばれ、おもちゃにされてきたか…今思い返しても懐かしさのあまりはらわたが煮えくり返るくらいだわ。もっともそれも、私には二度と帰らない遠い日々…でも周、貴女にはちゃんと立派なお孫さんがいるんだもの。私の分まで思う存分、祖母と孫との時間を大切に過ごしてね…」
 言いながら目頭を押さえる藤蔭医師に、周が弾かれたように駆け寄る。
「ごめんなさい、聖! 私、配慮が足りなかったわ。貴女に懐かしいお祖母様を思い出させて、切ない気持ちにさせる気なんかこれっぽっちもなかったのよ、許してちょうだい」
「ううん、いいのよ。私の年齢になればそれが普通だもの。大事なのは今の貴女たちの方なんだから、私のことはどうぞ、気にしないで…」
「聖…」
 それまでの剣幕はどこへやら、いつしかこちらも涙さえ浮かべ、藤蔭医師の手をしっかりと握ってしんみりと語り合い始めた周に、再び松井警視が吠えた。
「コラ! いつの間にやら問題すり替えてメロドラマやってんじゃねぇ! そんなヒマがあったらさっさと大事なマゴやら家族やらを自由にしてやれってんだよ!」
 その言葉に、再びぎらりと光った鈍色の瞳。
「ちょっと! あんたには思い出に涙ぐんでいる女性への思いやりってモンはないの!? いつまでもぎゃぁぎゃぁ喚き立ててるんじゃないわよ、この騒音ゴリラ!」
「騒音ゴリラぁ…? 言うに事欠いてよくもヌカしたな、このアマァァァァッ!」
「やかましい野獣を騒音ゴリラって言って何が悪いってのよ。…あ。でも確かにこれ、ゴリラに対しては相当失礼かも」
「何だとおおおっ!」
 一度は収まるかに見えたのに、またも始まってしまった火を噴く舌戦。もはやこの「舌先のバトル・ロワイヤル」を阻止する手立ては全て失われたかと、当事者二人と藤蔭医師をのぞく人々が覚悟の瞳を閉じたそのとき。
「も…もう…嫌だ…ぁぁぁぁっ! やめてくれえええぇっ!」
 室内を切り裂いた涙交じりの絶叫。…ジョーだった。
「ごめんなさい、周…。逃げようとした僕が悪かったよ。麻雀、喜んでつき合うからっ! いや、覚えるからっ! だからもう松井さんと喧嘩するのはやめて…お願いだ」
「ジョー…」
 その隣のピュンマが呆然とジョーを見つめる。だが、やがて彼も覚悟を決めたように。
「僕も、悪かったよ…麻雀、つき合い…ます…」
 自分の身を捨てて事態を収拾しようとする健気な少年を、たった一人でこの「とんでもないメンツ」(意外としつこいピュンマ様〜(踊)♪←作者の独り言)の中に放り込むわけには行かない。ああ、何と崇高な自己犠牲の精神、美しき友情…。
 そして確かに、二人のその一言で全ては見事に収束したのであった。
「まあ、二人ともいい子いい子。最初からそう言ってくれれば、私たちだってこんな手荒な真似はしなかったのに」
 今度こそ何の屈託もなく微笑んだ周の言葉と同時に藤蔭医師の手がまたもや優美に舞った途端―硬直していた青少年二人が音を立ててその場にすっ転んだ。逃げようとして走り出しかけたその体勢は思い切り前に傾き、通常の物理法則上、相当安定が悪かったのである。
「やれやれ。思いがけず時間を食っちゃったけど、これでようやくメンツが揃ったわね」
「そうと決まれば早速準備、準備♪」
 晴れ晴れとした表情で、室内の小さな作業机を片付け始める藤蔭医師、自宅の納戸と研究室の空間をつなぎ、麻雀牌だの点棒のセットを取り寄せる周。そしてその二人の美女の様子をただ呆然と見ているしかない男性陣。
 そんな中、松井警視だけがそっと二人の若者に近づき、ひそひそとささやいたのだった。
(…おい、お前らいいのか? 何か…あの姐ちゃんたちとの麻雀って、えらく危険な勝負になりそうじゃねぇか。ずぶのシロートと初心者にゃちょいと…荷が重すぎるような気がするんだけどな)
 しかし二人は力なく首を振って。
(いえ…いいんです。僕らのことはもう、気になさらないで下さい)
(犠牲を最小限に抑えるためには他に手もないと思うし…麻雀の勝負なら最悪の場合でも命まで失うことは…多分…ないと思いますから)
 「命を失うことは多分ない」。だがそれは、裏を返せばごくごくわずかな確率ながら、命がなくなる可能性も確かにあるということで。
(おいおいおい、ちょっと待てよ。命さえ危なくなるような麻雀って一体どんなんだ?)
 松井警視が訊き返した途端、周の厳しい声が飛んだ。
「ちょっと、そこの騒音ゴリラ! 何しつこくうちのマゴたちに入れ知恵してんのよ!」
「入れ知恵たぁ何だ! 俺ゃただこいつらを心配してるだけでぃっ!」
 言い返した松井警視の迫力に、周のなめらかな頬がまたまた朱に染まる。と―。
「まぁまぁ、せっかくゲームの準備もできたっていうのにまたここで口喧嘩してもしょうがないじゃないの。どうせならこの勝負も麻雀でつけたら? 貴方だってルールくらいは知ってるんでしょう? あ。だけど、現職警察官が麻雀…ギャンブルなんかやらかしたら懲戒免職間違いなしかしら」
 激昂した二匹の獣の間に、これでもかというくらい絶妙のタイミングで割り込んでくる藤蔭医師。しかしこの、あくまでも冷静で穏やかな仲裁者こそが誰よりも邪悪で危険な誘惑者であることは、次の松井警視の返事からも明らかであった。
「見損なうんじゃねぇ! 懲戒免職が怖くて刑事なんざやってられっか! こう見えても俺ゃ、大学四年間の学費全額、丸ごと麻雀でまかなってきたんでぃっ! このクソ生意気な姐ちゃんとの勝負、きっちりはっきりつけてやるっ!」
「まぁ嬉しい。それじゃ、貴方が今日の楽しいゲームに参加して下さったことはあくまでも極秘にしておきますわ。私ども女だって、それくらいの武士道―武士の情け―はわきまえておりますもの。ねぇ、周」
「当然!」
 間髪いれずにうなづいた周の鈍色の瞳に松井警視の視線が真っ向からぶつかり、何もないはずの空間に青白い幻の火花を散らす。
「おーし、よく言った姐ちゃん! それじゃその武士の情け、全額ハンデで請け負ってやらぁ。でもってこの借り、三倍にして返してやるからな、覚悟しとけよ!」
「望むところ!」
 かくしてとうとう松井警視さえもがゲームに参戦することになり、ジョーとピュンマの崇高な自己犠牲の精神は、丸ごと水泡に帰す羽目になったのであった。
 


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